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「出発は二日後の早朝だ。向こうには五日ほど滞在する予定だから、急を要するものは明日中に片付けておくようにな。お休み、ナリア。」
ルミゴンが部屋から出て行ってすぐ、ナリアは早々にベッドに潜り込んだ。今にも胸が張り裂けてしまいそうなほど心臓が脈打ち、耳の奥を鳴らしている。
身を捩り、クッションに顔を埋めて目を閉じても、ルミゴンの言葉が意識を手放させてはくれなかった。
----『ナリアの婚約者はアセロ・ルシージアだと聞いて、その場に崩れたそうだ。』
ギュッと目を瞑り、クッションを抱きかかえて大きく息を吸った。
他の男と婚約したと信じただろうか。自分に愛想を尽かして他の男のものになったと思っただろうか。すでに他の男に心を寄せていると思っただろうか。ただの噂、ただの誤解なのに。
息が詰まる。
リベリオがアセロとの噂を真に受けて絶望する姿を想像するだけで、鳩尾の奥に怒りが込み上げた。婚約も何も、愛してさえいない。知人以上の情など無いに等しい。それなのに、誰が何の為にそんな噂を流したのか。
根も葉もない噂に愛しい男が絶望に震え、傷付いた。何とか真実を伝えて自分の愛を信じて欲しい、と思ったところでナリアはハッと瞳を開けた。
----だから、どうしてリブに信じて欲しくないと望んでしまうの!どうして私を信じて欲しいと望んでしまうのよ!!たとえアセロ様とのことが誤解だったとしても、もうリブには…
ふと、最後に見たあの宿屋でのリベリオの顔が思い浮かび、ナリアは上体を起こした。今の今まで自分が見たものだけに囚われ、リベリオが何を見たのかについては考えていなかった。
----あの時、確かにリブは私を見て驚いた顔をしていた。あれがもし…、もし私にあの人といるところを見られたからじゃなくて、私がアセロ様と一緒にいるところを見たからだとしたら…。
----『ナリー!乗るな!誤解だ!!ちゃんと説明するから!!』
----『ナリー!待ってくれ!!誤解だってば!!ナリー!!』
馬車に乗り込んだ時、視界の端に映っていた今にも泣き出しそうな表情。必死に馬車の扉を叩くリベリオの顔が脳裏に浮かぶ。
----私は本当に誤解していただけなのだろうか。ううん、そもそも誤解かどうか一度も話し合おうとすらしなかった。ただ傷付くのが怖くて彼に背を向けて逃げ続けただけだ…。
再びクッションに顔を埋め、背を丸めて身を強張らせた。今ここにいる自分は、全てを一人で選び決めた結果だ。そこにリベリオの気持ちや意見など在りはしない。ただ自分の気持ちだけに目を向け、何も告げずに一方的に関係を断ち切った。
----『何も言われないまま、話し合う事すらできないまま、わけがわからないまま背を向けられる事が一番辛いんだ。』
ルミゴンの言葉に胸が締め付けられる。会おうともせず、話し合おうともせず、リベリオの気持ちを最後まで信じることができなかった。彼はいつも真っ直ぐに見つめてくれたのに。
幻滅しただろうか。嫌われただろうか。自分はまだ何を期待しているのか。自分の不名誉な噂を消す為に毎日走り回ってくれたのに。自分に会う為にここまで来てくれたのに。自分は彼の為に何をしただろうか。彼に何をしてしまったのか。
まだ間に合うだろうか。まだ自分を愛してくれているだろうか。たとえもう嫌われていても、また振り向いてくれるだろうか。今度は、自分が会いに行ってもいいのだろうか。
----今更私に、彼の愛を受ける資格があるの…?
もう涙を止めることはできなかった。
*
朝早くに出立し、アンバルシアに着いたのは夕方になる頃だった。陽が落ちるのが早くなるこの時期の移動には陽の高い時期の移動よりも神経を使う。休憩時間を短縮し、なんとか陽が落ち切る前には領地に入れた。
ルミゴンとナリアを乗せた馬車がアンバルシア城門に入ると、執事のロモンと侍女長のマシスタが出迎えに出ていた。ルミゴンが先に降りてナリアの手を引き、その後ろにサフィが続いた。
「お帰りなさいませ、旦那様。ご無事のご帰還、何よりでございます。」
「お帰りなさいませ。」
「あぁ、今戻った。紹介しよう、娘のナリアだ。ナリア、執事のロモンと侍女長のマシスタだ。」
ルミゴンが手を差し出すようにして紹介する。ロモンはルミゴンと変わらない歳だが、顔に刻まれた皺と垂れた目元、グレーヘアが印象的な紳士だった。マシスタはちょうど四十になる年だが、家政を任されるだけあって穏やかな立ち居振る舞いの中にも威厳を見せていた。
「初めまして、ナリア・グラナードと申します。どうぞ、宜しくお願い致します。」
「初めまして、執事のロモンと申します。なるほど…確かにお母上様によく似ておいでです。」
「母をご存知なのですか?」
「はい。昔、何度か旦那様の供としてエスタリカ侯爵家に参りましたので。あの時は本当にお世話になりました。」
「昔話はいい。」
懐かしいものを見る眼差しで語るロモンに、ルミゴンはピシャリと言い放った。やや被せ気味だったことに、ナリアは首を傾げる。
「あらあら、フフ…。初めまして、ナリア様。私は侍女長のマシスタと申します。旦那様から貴女様のお世話をするよう申し付けられておりますので、何なりとお申し付けくださいませ。旦那様、先にお部屋にご案内してもよろしいでしょうか?」
「そうだな。ナリア、夕食の前に部屋に案内してもらいなさい。後程皆に紹介するから、それまでは休んでいるといい。」
「はい、わかりました。お義父様は…」
「私は一旦執務室へ行く。後で食堂で会おう。」
ルミゴンはナリアの肩にポンと手を置いて微笑むと、ロモンを連れて薄暗い通路に向かって歩いて行った。その後ろ姿を眺めていると、子供の様に狼狽えることは無いがやはり心細くなる。サフィを連れてきて正解だった。
マシスタがその様子を見てニコリと微笑むと、小さな灯りを持って先に歩いた。
「ではナリア様、早速お部屋にご案内致しますね。」
「はい、よろしくお願いします。マシスタさん、こちらは私の侍女のサフィと申します。」
「サフィと申します。どうぞよろしくお願い致します。」
階段を上がりながら、ナリアは視線だけを動かして城内を見渡した。陽もすっかり落ち、火が灯されている辺り以外は薄暗くて見えづらい。それでも皆が自分の事を探るような目でじっと見ているのは分かった。
息子しかいない城主が嫁ではなく突然『娘』を連れてくるのだから仕方が無いとは思いつつも、ナリアは無意識にそれらの視線に居心地の悪さを感じた。大勢の人から視線を浴びることには、嫌な思い出しかない。
自然と俯くようになり、部屋の前でマシスタに声をかけられるまでずっと下ばかり見ていた。
「ナリア様、こちらが…ナリア様?どうなさいました?」
「あ、いいえ何も。大丈夫です。」
マシスタが扉を開けると、そこは別世界のような空間になっていた。攻め込む敵との攻防戦に特化した造りになっている城塞の中とは思えないような、明るく華やかな部屋がナリアを迎える。
壁も明るい色で塗り固められ、白や金を基調とした花柄の調度品が品良く配置されていた。
「まぁ、これは…。」
「なんて素敵なお部屋なんでしょう!ね、ナリアお嬢様!」
「ええ、本当に。義父からは滞在すのは城塞だから女性好みではないかもしれない、と言われておりましたので…。」
部屋に入り、辺りを見渡す。ベッドシーツも膝掛もレースを贅沢にあしらった上級品で、窓に掛けられたカーテン一枚にも細かい刺繍が施されていた。
ナリアとサフィが呆気に取られて立ち尽くしている後ろで、マシスタは静かに扉を閉めた。
「旦那様から、ナリア様が少しでも城での生活を快適に過ごせるようにと申し付けられておりましたので。お気に召しましたでしょうか?」
「はい、とても。素敵なお部屋をご用意いただき、ありがとうございます。」
ナリアがニコリと微笑んでお礼を言うと、マシスタは目を丸くした。
「ナリア様はお話しに伺っていました通り、本当に謙虚な方ですのね。」
「え?いえ、そのような事は…。」
「そうなのです!ナリアお嬢様は幼い頃から本当に謙虚なお方でして。私としましては貴族令嬢らしくもっと前に出ていただきたいぐらいなのです!」
サフィが拳を握り締めて食いつくように捲くし立てると、ナリアは慌てて手を振った。
「サフィったら、そんなはしたない事を言うものではないわ。」
「いいえ!お嬢様はもっと自信をお持ちになって下さい!女性の身でありながら旦那様のお仕事のお手伝いをされているなんて、それだけでもご立派な事だと思います。私、ナリアお嬢様の侍女であることを心から誇りに思っているのですよ!」
サフィがナリアの手を取り、前のめりで迫る。その様子をマシスタがクスクスと笑って眺めながら、「そうでしたわ」と言って顔を上げた。
「ナリア様。王都にある旦那様のお屋敷で働いている、アセロ・ルシージアという者をご存知でしょうか。」
ナリアの心臓がドクリと跳ねる。まさかこの場所でアセロの名前を聞くとは思っていなかったせいか、不自然な間が空いてしまった。それでもなんとか平常心を取り戻してマシスタに向き直る。
「えぇ、知っています。アセロ様にはお仕事に関するたくさんの事を教えていただいていますので。彼にはとても助けられています。」
「まぁ、そうでしたの。」
なぜか嬉しそうに笑うマシスタに合わせるように、必死で笑顔を貼りつけた。アセロとの婚約の噂が、アンバルシアにまで広がっているかもしれない。その真偽を探られるかもしれないという警戒心が、ナリアの表情をさらに強張らせた。
何とかやり過ごそうと頬が引き攣りそうになるまでニコニコと笑っているナリアの横で、サフィは頬に手を当て溜息交じりに零した。
「でもそのせいなのか、アセロ様との変な噂が屋敷中に広がって大変なのです。お嬢様も私も、つい最近まで存じてなかったものですから、本当に驚きました。ね、お嬢様。」
「サフィ!」
「変な噂?どんな噂ですか?」
マシスタの表情が一変する。ナリアは咄嗟にサフィの発言を制しようと振り向いたが、サフィは全く気が付かない。サフィの視線はすでにマシスタにしか向けられていなかった。
「はい。アセロ様とナリアお嬢様が、婚約を結ばれているという噂が広まっているのです。」
「なんですって!?それは本当ですか!?」
マシスタの表情がみるみる険しくなっていく。流石にサフィも、いつの間にか異様な空気が漂っている事に気が付き息を呑んだが、すでに遅かった。ナリアがチラとマシスタの顔を見ると、先ほどまでの穏やかな表情は姿を消していた。
「ナリア様、それは本当ですか?いつ誰がそのような噂を!!」
「さ、さぁ。私もつい二日前に義父から聞いたばかりですので…。」
「本当に根も葉もない噂ですよ。そもそもお嬢様は、以前アセロ様に求婚されてお断りされたのですものね?ね?」
「サフィ!!」
サフィが動揺して口を滑らせる。慌てて振り向き『もうやめて!』という視線を投げるが、やはり遅かった。もう一度、今度は恐る恐るマシスタの方に視線を戻す。すでにその瞳は憤怒の色に染まり、髪が天に向かって伸びているようにさえ見えた。
「求婚をした…?アセロが、ナリア様に…?」
「あの、マシスタさん?一体どうなさったの…」
「アセロは、私の腹違いの弟なのです!!」
「「は??」」
メラメラと怒りに燃えるマシスタの前で、ナリアとサフィは肩を寄せ合って震えだした。幸い、ナリアとアセロの噂はアンバルシアには届いていない。だが、それよりもとんでもない事になってしまったのではないかという不安が、二人の背中に嫌な汗を流した。
「兄と私の母が亡くなり、父の後妻として嫁いで来たのがアセロの母です。私とアセロの間にはもう一人弟がおりまして、アセロは末弟にあたります。私とは随分歳が離れておりますので、弟というよりは息子のような感じなのですが…。」
ナリアとサフィは目を丸くして顔を合わせた。こんな偶然があるものなのか、と少しおとぎ話のようでウキウキしていると、そんな感想を吹き飛ばすほどの怒りが部屋の空気を支配した。
「まさかあの子がそんな恥知らずな真似をするだなんて!ナリア様のみならず、サフィもその噂を知らなかったのよね?でしたら、ほぼ間違いなくあの子自身が流したものに間違いありませんわ!!」
「え?いえ、そんな!何もそこまで疑わなくてもよろしいのでは…。」
「いいえ!!」
「ひゃあっ!」
マシスタの恐ろしいまでの気迫にナリアが思わず仰け反ると、サフィは胸の前で手を合わせ、固唾を飲んで成り行きに身を任せることにした。
マシスタは荒げた呼吸を整えるように深呼吸を繰り返した後、ナリアに向かって深々と頭を下げた。
「どちらにせよ、本人に問いただす必要があるようです。ナリア様、私の愚弟が大変なご迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。もしお望みでしたら弟を屋敷から追い出して下さっても構いません。父には私から伝えておきますので。」
「とんでもない!マシスタさん、お顔を上げて下さい。確かに私も驚きましたが、アセロ様はとても真面目なお方です。決していい加減なお気持ちで求婚して下さったわけではありませんわ。」
「ナリア様…。」
「それに、私はきちんとお断り申し上げましたし、それについては先日義父にも伝えてあります。ですから、どこかから出た噂もその内に収まるでしょうから、お気になさらないで下さい。」
サフィがハラハラしながら二人の状況を見守っている。サフィの様子を横目に、ナリアは落ち着いた声で話した。
「ナリア様…本当にありがとうございます。では、アセロには私から少し話をする程度に留めさせていただきますわ。」
マシスタは気を取り直して部屋の中にあるものを説明した後、「夕食の前にお声をかけさせていただきます」と言って、静かに部屋を後にした。残された二人に妙な沈黙が訪れる。
「マシスタ様、少し話をすると仰ってましたね…。」
「えぇ、そうね…。こんなに恐ろしい少しは初めてだわ…。」
二人はマシスタが出て行った扉の方を呆然と眺めながら、ポツリと呟き合った。




