29
リベリオが出て行った後、ルミオは溜息交じり零れたお茶を片付けていた。先ほどまでのピリピリとした雰囲気から一変して、水を打ったような静けさが団長室に残されたルミオとキュリオの間に落ちる。
互いに沈黙を保ったまま、倒れたカップをトレイに乗せて黙々とテーブルを拭く。布を変えて床を拭いていると、キュリオはその動作を目で追いながらお茶を啜り、静かに声をかけた。
「ルミオ殿も大変ですね。」
ルミオの手がピタリと止まる。一呼吸置いて再び手を動かし始め、声を潜ませた。
「…二人きりなんだ、普通に話せよ。」
無表情のまま『面倒臭い』とハッキリと声に表すルミオに、キュリオはニッコリと微笑んだ。相変わらずの屈託のない笑顔に、ルミオは更に溜息を深くする。
「フフ、良いじゃないか。僕は結構気に入ってるんだけどな。」
「あのな…本当に勘弁してくれよ。お前がここに来る度に肝が冷えるんだよ、こっちは。」
「何で?僕たちが従兄弟同士だと知られたら困るのか?」
ルミオがキュリオをジロリと睨む。キュリオが思わず吹き出すと、ルミオは咄嗟に身を仰け反らせ、身体を払いながら再び声を潜ませた。
「あのな、俺は副団長を監視・報告する為にここに来たんだ。お前の父親に命令されてな!お前の親戚だなんて事を知られたら元も子も無いだろう!」
チッ、と舌打ちをして立ち上がり、汚れた布を桶の中に放り投げた。この布のように面倒な任務も放り出せればと考えるが、背後で目を光らせている男の命令には逆らえない。
「全く…さっさとくっつけさせる為にあれこれと手を回してるっていうのに、何でこんな事になるんだよ。もういっそ副団長じゃなくてもいいんじゃないか?」
ブツブツと文句を零しながらカップを乗せたトレイをテーブルの端に置き、キュリオのカップを覗き込む。空っぽになっているのを確認してトレイに乗せていると、キュリオはキョトンとした顔でその動きを目で追った。
「え?でもルー君、リベリオさんの事結構好きなんだろ?叔母上がそう言ってたけど。」
「…何の事だ?それから『ルー君』はやめろっていつも言ってるだろ。」
「大体いくら父上に命令されたからって、いつも必要以上の事はしないじゃないか。ルー君が自らあれこれと手を回すのは、それだけ彼の事を慕ってるってことだろ?」
「無視するな。…まぁ、いい人ではあるからな。なんだかんだ言って、放っておけないっていうのは確かだ。」
「相当気に入ってるじゃないか。ルー君にそんな事を言わせるなんてね。他人に一切の興味を持たない男なのに。」
「根っからの天然タラシ人間なんだよ、うちの副団長は!そのくせいつも詰めが甘いから、その尻ぬぐいでこっちはいつも振り回されてるんだ!」
ルミオはハァッと大きく息を吐いてソファに座ると、グッタリと手足を前に投げ出した。その様子をクスクスと笑いながら眺め、一息ついてから真剣な顔で向き直った。
「さっきの続きだけど、今回はそれだけじゃ無いんだよ。この養子縁組のせいで、ちょっとややこしくなってね。」
「はぁ?まだあるのか?そもそも養子縁組の話を聞いただけで卒倒しそうだったんだ。もうこれ以上はやめてくれよ。」
キュリオが身を乗り出し、ルミオに耳打ちしようとした瞬間、扉が音を立てて大きく開いた。二人が飛び跳ねるように立ち上がって振り向くと、険しい表情をしたニックスが辺りを見回している。口から心臓が飛び出ないよう咄嗟に口元を押さえた手を離し、ルミオは声を上げた。
「だ、団長!お疲れ様です!!」
「あぁ、ルミオここにいたのか。おぉ、これはキュリオ殿も。しばらくぶりですね、ゆっくりしていって下さい。ルミオ、リベリオはどこへ行った?」
「えっ、副団長ですか?えーと…、今ちょっと外出中でして。先ほど出られたばかりで、慌てておいででしたので、いつお戻りになるかはわかりません。」
ルミオが棒読みではぐらかす。後ろで肩を震わせているキュリオに強烈な殺意を感じながら、ルミオはニックスのいつもと違う様子に眉根を寄せた。
「団長、何かございましたか?」
「いや…ちょっとな。これから各団の団長と副団長が集まって会議があるんだが…まぁ、いないならいいんだ。」
ルミオは一瞬で固まり、顔を青くしながら頭を下げた。朝から何度も予定を確認していたはずなのに、キュリオが現れて以来全てが頭の中から飛んでいる。
「そうでした!申し訳ございません、私も失念しておりました!副団長がご不在でもよろしいのですか?」
「お前がそんなヘマをするとは珍しいな。とにかく今日は俺一人でいいから、もしリベリオが戻ってもわざわざ出席しなくていいと伝えておいてくれ。」
「あ、はい。ですが…。」
ルミオが探るように言葉で追う。いつもなら、たとえ急用で出ていても『途中からでも良いから出席するように』と言い残すはずだ。
ルミオの物言いたげな視線に気が付くと、ニックスはフ、と微笑んだ。
「どうしたんだ?そうだ、俺は今日はもうここへは戻らないから、最後に鍵を掛けておいてくれ。」
「…承知致しました。いってらっしゃいませ。」
ニックスはそう言い残すと、踵を返して外へ出た。
*
ニックスが出て行ってしばらくしてから、「それじゃあ僕も帰るよ」と言ってキュリオが部屋を後にした。
団長室に一人残ったルミオが、頭を抱えてソファに座り込む。キュリオに耳打ちされた内容に愕然としながら、次から次へと沸き起こる問題に頭がおかしくなりそうだった。
----もおぉぉぉ!何でこんなややこしい事になるんだよ!そもそも副団長が下らない嘘なんか吐くからこんな事になるんじゃないか!さっさと謝ってとっとと契っちまえば良かったのに!!
ルミオが頭を抱えたまま苦悩に悶絶していると、突然扉が開いた。ニックスの時とは違い、開き方がどこか重々しい。ギイィィッと開く扉の影から現れた男の姿に、ルミオは腰が抜けそうになった。
「ふ、副団長!?」
----もう嫌だこの人!!
「…キュリオはどうした?」
「へ?キュリオ殿ですか?彼なら先ほど帰られましたよ。」
「…そうか…。」
リベリオが短い返事をして、先ほどまでキュリオが座っていた場所に座り込む。馬を飛ばして降りたままの状態でここまで来たのか、頭も服もぐちゃぐちゃに乱れたままになっていた。
「あの、副団長。グラナード侯爵様のお屋敷まで行かれたのですよね。その…いかがでしたか?」
ルミオが恐る恐る声をかける。項垂れたまま微動だにしないリベリオの様子に、ルミオは『一人にしてあげよう』という建前の親切で、さっさと部屋から出ようと立ち上がった。
「屋敷の門番に取り次ぐように言ったんだ…。」
「はい?」
ルミオがもう一度座り直すと、リベリオは項垂れたまま消え入りそうな声で続けた。
「俺は婚約者だから、彼女に会わせてくれと言ったんだ。そしたら…ナリーには他に婚約者がいると言われた…。」
「あ、もしかしてアセロ・ルシージアの事ですか?彼は婚約者じゃないそうですよ。」
サラリとしたルミオの声がリベリオの耳を貫く。リベリオは目を見開き、勢いよく頭を上げてルミオとの距離を詰めた。口をパクパクさせるが、言葉がなかなか出てこない。ルミオは身体を引いて距離を保つと、ニコリと微笑んだ。
「先ほどキュリオ殿から伺ったのです。彼はやはりナリア嬢に近付いたそうですが、なかなか相手にされず、ならばと周りから固める事にしたそうですよ。婚約者だと噂を流したのも、彼本人なのだそうです。」
「何だそれは!あの野郎、コソコソしやがって…どこまで汚ねぇ根性してやがんだ!!」
「まぁ事実はさておき、それも一つの方法ではありますからね。このまま周りから固めていってナリア嬢が断れないようにするつもりかもしれませんし。」
「ナリーが断れないだと?フンッ、奴は何もわかっちゃいない。」
「今のは私の憶測ですよ。どちらにせよ、ナリア嬢は今誰とも婚約する気が無いのは確かだそうです。」
「はぁ、ったく何でだよ。何でそこまで…。俺はそこまで酷い事をしたのか?」
生き返ったリベリオが頭をガシガシと掻きながら「女って本当にわかんねぇ」と悪態を吐くと、ルミオの頭の奥で何かが切れる音がした。ゆらりとソファに座り直し、極寒の眼差しでリベリオを見据える。
ルミオの温度の無い声が、容赦なくリベリオを貫いた。
「…副団長、何を仰っているのです?何でじゃないでしょう。そもそも貴方がナリア嬢に不誠実な態度を取り続けたから、こうなったのでしょう!」
「は?急にどうし…へ?」
リベリオが顔を上げると、こちらを睨み据えるルミオの姿があった。先ほどまでの柔らかい表情から一変し、憤怒の炎を背負って両手の拳をわなわなと震わせている。
ルミオはずっと抑えていた感情を放出するように一気に捲くし立てた。
「どうしてナリア嬢が貴方との縁談をやめたか、本当にわからないのですか!?」
「わ、わかってるよ!俺とルマリナの事を誤解しているからだろう!?だから…」
「説明しようとした?すでに遅いのです!私が思うに、彼女は婚約を結ぶ前から相当悩んだはずです。たくさん悩んだ末に、貴方の側にいることを選んだ。それなのに、貴方にはずっと他の女の影がチラついているのですよ!?」
「だから、それは誤解だと…。」
ルミオは興奮を抑えるように深呼吸を繰り返すと、真っ直ぐにリベリオを見つめた。
「副団長、もしナリア嬢の側に貴方の知らない…いや、貴方が疑っている他の男がいたらどうしますか?それどころか、ナリア嬢の方からその男の元へ通っていたら?」
「何言ってる!そんなもん許すわけ…」
「では、その相手がかつてナリア嬢と身体の関係を持っていた男だったら?男は結婚しているし、互いに気持ちは無いと、もうそういう関係では無いと口で言えば、二人が会う事を許しますか?」
「…。」
「ましてや男が困っているからと言って、貴方に嘘を吐いてまで助けに行き、男を慰める為に抱き締めていたら、貴方はどう思うんだ!!彼女の様に何も言わないまま見て見ぬ振りができるのか!!」
ルミオの言葉がリベリオの胸を抉る。声を荒げて喚くルミオの姿にナリアの俯く背中が映り、リベリオは息苦しさに自らの胸倉を掴んだ。
----ナリーに男の影だと?そんなものがあったら俺は…どう思うか…
アセロがナリアに少し近寄っただけで、腸が煮えくり返る程の嫉妬を覚えた。
アセロがナリアの手の甲に軽くキスをしただけで、八つ裂きにしてやりたい衝動に駆られた。
二人が街に出かけているのを見ただけで、怒りで我を忘れそうになった。
----もし男の影があったら。俺はきっと彼女を問い詰め、我を忘れて力任せに無理矢理…
ナリアに対する自分の非情な行いが、一気に脳裏を駆け巡る。とめどなく溢れる後悔に吐き気を覚え、ハッと我に返った。
----まさか…俺は知らないうちに彼女を試していたのか…?
彼女ならどんな俺も受け入れてくれる、と。
なぜなら彼女は俺に惚れているのだから、と。
だから俺から離れる事は決して無い、と。
俺と結婚する為に、結局は我慢して飲み込むのだろう、と。
リベリオは愕然として、無意識に震えている両手を見つめた。ナリアへの罪悪感からではない。男として愛する者を守っていたつもりが、その実、まるで幼子の様にナリアからの愛に甘えていたことに、堪らない高揚感を覚えた。
----試していた?俺が?女の気持ちを…俺への気持ちを確かめるなんて、そんな事今まで一度も…
興奮で胸が高鳴る。自分がここまで執着する女がこの世にいる事に今更気が付き、頬を緩ませ苦笑した。
「俺にはナリーしかいない…。」
「えぇ、そうです。」
「ナリーがたとえ俺と結婚するつもりが無かろうと、そんなもの俺の知ったことではない。」
「そう、その通りです。副団長、もう一声!」
「俺は、俺の為に彼女が必要なんだ。彼女を再び手に入れる為なら、全てを捨てても構わない!!」
リベリオが立ち上がり、決意したように拳を握り締める。その立ち姿に向かってルミオはすかさず言質を取った。手をパチパチと叩き、目元をそっと指で拭った。
「副団長、よくぞご決心下さいました。今のお言葉に嘘偽りはございませんね?」
「え、あれ?何だ急に…つーか何笑ってんだよ、気持ち悪ぃな。」
「失礼な。それより、近々副団長のご実家から呼び出しがあるはずです。きっとアセロ・ルシージアの問題など一瞬で吹き飛びますよ。」
ニッコリと微笑むルミオの瞳が妖しく光る。「覚悟しておけ」と言わんばかりに予言めいた事を口にするルミオを、リベリオは訝しげに見返した。
「は?何だよそれ。言う事まで気持ち悪くなってるぞ、お前。」
「クッ…本当に言いたい放題ですね…。まぁ、私に言えることは一つだけです。」
「何だ?さっきから何の話をしてるんだ?あと俺、お前の上司だよな?」
「今この時は飲み込んで下さい。」
「えぇー…。はぁ、もういいよ。で、何だ?」
リベリオが溜息を吐きつつ座り直すと、ルミオは胸に手を当てた。
「ナリア嬢は副団長からの求婚を待っているはずです。ですから何が起ころうと、決して諦めないで下さいね。」




