28
アセロを見送った後、ナリアは自室に戻って身支度を整えると、足の向くままに椅子に座りこんだ。つい先ほど見た光景が未だに信じられず、心と頭の中が付いていかない。
----どうして?どうしてあの場所にいたの?どうして…
昨日、デートをしていた時に着ていた服のままだった。その紛れもない事実が、ナリアと別れた直後にあの宿屋へ向かったことを物語っていた。
ナリアは込み上げる悲しみと怒りに目の奥がジンとし始め、目を瞑った。
----あの人に祝ってもらいたかったのかしら。本当は、あの人と過ごしたかったのかもしれない。でも、婚約者がいるから…
ナリアはハッとして顔を上げた。突如思い浮かんだ嫌な想像に両手が震える。その手を口元に寄せると、指先の冷たさに唇がヒヤリとした。
----もしかして…先に私と会う事で、帰りに宿屋に立ち寄ったという事にしたかったの?まさか…そうまでして、あの人に…
必死の抵抗も空しく、涙が次々と溢れ出す。他の女を優しく抱き締め、頬にキスをするリベリオの後ろ姿が頭から離れず、ナリアの中で最後の欠片が弾けた。
----もういいわ。もうたくさんよ。やっぱり、歩み寄ろうなんて無理な話だった!
ナリアは顔を上げ、涙で濡らした頬をそのままに右手を睨みつける。赤く輝くそれを乱暴に掴んで指から引き抜くと、壁に叩きつけようとした。
「う…うぅ…。うえぇ…」
手の平に残る指輪を見つめる。とめどなく零れ落ちる雫がかからないよう、ぎゅっと握り締めた。
----さようなら、リブ…
*
アマティスタ家の屋敷の居間で、ナリアは両親と向かい合って座っていた。エドラがチラとナリアの右手を見る。そのまま視線をナリアの目元に移せば、目を伏せ大きく息を吐いた。
サフィがお茶の用意をしてから出て行くと、ナリアは背を伸ばして静かに口を開いた。
「お父様、お母様、お忙しいところ申し訳ありません。」
「いや、それは構わないが…。どうかしたのか、ナリー。何か…あったのか?」
クレトンが言葉を濁す。見るからに泣きはらした後のような娘の表情に、クレトンはエドラと視線を交わした。
「先日の…グラナード侯爵様のお申し出ですが、謹んでお受けしようと思います。」
「ナリー、それは侯爵様の娘になるという事か?」
「はい。女の私がどこまでお役に立てるかわかりません。ですが、それをご承知の上で申し出て下さったのであれば、私はお力になりたいのです。」
クレトンがテーブルに置かれたカップを見つめながら、ナリアの言葉を噛みしめる。小さく頷き、視線でエドラに意見を促すと、エドラは努めて優しい声を出した。
「ナリー、あなたの気持ちはわかったわ。それで、リブ様は何て仰ったの?昨日お会いしたのでしょう?あなたがこう結論を出したという事は、賛成して下さったのよね?」
「…いいえ、リブは反対しました。彼は私に仕事はせずに家庭に入って欲しいと仰いました。」
「あら…じゃあ、なぜグラナード侯爵様のお申し出を受けようとするの?まさか、あなたのその右手が答えなのかしら?」
クレトンが反射的にナリアの右手を見た。いつの間にか無くなっている婚約指輪に気が付くと、目を見開いてナリアを見た。そしてナリアとエドラの顔を交互に見ながら女同士の会話に口を挟んではいけないと思い至り、口を噤んだ。
「ねぇ、ナリー。グラナード侯爵様は、養子縁組をした後も縁談を進めて良いと仰っていたでしょう?彼にはその事を話したの?」
「もちろんお話ししました。ですが…そういう事では無いのです。」
「じゃあ、どういう事なの?彼は他に何を反対したの?」
「他に…。いいえ、他に反対されたのではなく、他に好きなお方がおられるのです。」
ナリアの言葉に、クレトンとエドラが固まった。水を打ったような静けさの中、クレトンの顔がみるみる赤くなっていく。わなわなと唇を震わせ始めたところで、クレトンを横目にエドラが先に口を開いた。
「ナリー、それは婚約の前に言っていた『忘れられない人がいる』という女性の事?でも、相手の方はもうご結婚なさっているのでしょう?それに、昔の話じゃないの。」
「そんな話、私は聞いていないぞ!本当なのか、ナリー!?」
「確かに、それは昔のお話です。ですが、今でもそのお方に会いに行かれています。…今日も…いえ、昨夜からその方の所へいらっしゃいました。」
「何だとぉっ!?何だそれは!!そもそもこの縁談は奴からの申し出だろう!!なのに奴は婚約者がいながら、人妻に会いに行ってるというのか!!お前は知っていたのか、エドラ!!」
クレトンが顔を真っ赤にして唾を飛ばす。出会ってから今まで、これ程激高したクレトンの姿を見た事が無い。
エドラが青い顔をして俯くと、ナリアが大きな声で制した。
「お待ち下さい!お母様は何もご存知無いのです!私が…私がずっと傷付くのが怖くて、彼に何も言えないままでいたから、こうなってしまったのです。今日、街で彼がその人と一緒にいるところを見てしまった時も…怖くて逃げたのです。」
「ナリー、お前…。」
「でも、もう…。うぅ…う、うぅぅー…うっうっ…。」
エドラがナリアの隣に寄り添い抱き締める。娘の頭を抱きかかえながら、エドラは背中をそっと撫でた。
*
十一の月に入った頃、団長室にいるリベリオの元に一通の手紙が届いた。封を見れば、デガート家の印が押されている。リベリオが溜息を吐きなから手紙をプラプラと振って放り投げると、ルミオが呆れたように声をかけた。
「今回もナリア嬢からでは無かったのですね。」
「はぁ…。あぁ、そうだよ。悪かったな!」
「えっ、八つ当たりですか!?酷いですね、これでも心配しているというのに。」
「やかましい!もう放っとけ!」
リベリオは机の上に置いてあるペンナイフを見た。あの日から何度も手紙を送り、きちんと会って説明したいと伝えても返事が無い。それどころか、最近では玄関で突き返されたと言って、リベリオの元へ返ってくるようになった。
家としてはデガート家の方が上だが、リベリオは単に伯爵家の息子だというだけで、爵位を持つクレトンの方が身分は上である。そんな相手に、直接家まで押しかけるような無礼な真似はできなかった。
----なぜだ。なぜ何も連絡が無いんだ!?ちゃんと説明するって言ってるだろう!あの日だって、そう言いながら追いかけたのに、話も聞かずに逃げたのはナリーの方じゃないか!!
リベリオがイライラしながら羽ペンを持ち書類にサインをしていると、扉をノックする音がした。ルミオが素早く向かい、扉を開ける。訪問者の顔を見た瞬間、扉を開けた姿のまま固まった。
「こんにちは、キュリオ・グラナードです!突然訪ねてしまい申し訳ありません。リベリオさんは…あぁ、リベリオさん!良かった、いらっしゃったのですね!」
ルミオがギギギとリベリオに振り向くと、それを視界の端に置いて立ち上がった。キュリオがリベリオに駆け寄ると、ルミオは扉を閉めて後ろに控え、再び耳を大きくさせた。
「キュリオ?どうしたんだ、そんなに慌てて。何かあったのか?」
「何かも何もありませんよ!ナリア嬢との婚約が白紙に戻ったというのは本当ですか!?」
キュリオの言葉が室内に響き渡る。キュリオの肩越しにルミオが口に手を当てて驚愕しているのを認めると同時に、リベリオは声を上擦らせた。
「何だと!?何だそれは!そんな話、俺は聞いてないぞ!!」
「私も今朝父から聞いたばかりなのです!先日、ナリア嬢が父と養子縁組をして正式に娘になったのはご存知ですよね?」
「はあぁぁ!?何だと!?ちょっと待て!いつの間にそんな事になったんだ!?順番に説明してくれ!!」
リベリオの反応にキュリオが困惑している隙に、ルミオは隣の部屋にいる部下に急いでお茶を用意するよう指示を出した。団長室に戻り、キュリオにソファに座るように促すと、リベリオも移動した。
「私も後から聞いた話なので詳しくは知らないのですが、アマティスタ家から養子縁組の返事が来たのは九の月の末頃だったそうです。」
「九の月の末!?」
「はい。ナリア嬢本人の意思で養子縁組のお話しを謹んでお受けします、という内容でした。実際にその手紙を読みましたので、間違いありません。」
「それじゃあ、アイツが自ら望んで承諾したという事か?それで、何で俺との婚約が白紙になるんだ。ナリーの話じゃ、養子縁組をした後も縁談を進めて良いんじゃなかったのか?」
リベリオが詰め寄ると、キュリオは目を伏せ口を噤んだ。リベリオの脳裏に不安がよぎる。この先に進めば今度こそ立ち直れなくなりそうな予感に、リベリオは息を呑んだ。
後ろに控えるルミオに視線を送る。ルミオは「腹を括れ」と言わんばかりに静かに頷いた。
「で、なんで白紙になった?」
「…そもそも、お二人の婚約はデガート伯爵家とアマティスタ子爵家が結んだものです。ですからナリア嬢がグラナード侯爵家の娘になるなら、一旦白紙に戻してもう一度結び直す必要があります。」
「なるほど…、それはそうだろうな。なら、もう一度婚約し直せば良いだけだろう。」
「それが…。ナリア嬢が、『縁談を進めるつもりは無い』と言っているのです。」
キュリオの言葉に、リベリオは頭が真っ白になった。呼吸が止まり、身体中の感覚が無になっていく。焦点が合わないままキュリオの輪郭を呆然と眺めていると、扉をノックする音がした。
ルミオが慌てて応対に出る。運ばれてきたお茶を扉の前で受け取ると、すぐに下がらせた。
「…副団長、とりあえず一口お飲み下さい。キュリオ殿も、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
キュリオがカップに口を付けながら、チラとリベリオを見る。呆然としたまま微動だにしないリベリオの姿に、胸がグッと詰まった。
「何だって…?ナリーが…そう、言ったのか…?」
「…父もナリア嬢の言葉に耳を疑ったようですが、深くは聞かなかったと申しておりました。縁談を進めないと言ったナリア嬢の表情が、その…何と言いますか、何も感じていないような、何も映していないような、そんな表情だったそうです。」
「どうして…、どうしてだ?俺との結婚をやめるって…そんな、アイツに限ってそんな事あるわけ無いだろう!!嘘を吐くな!!」
リベリオがテーブルを叩きつける。その衝撃でカップが倒れ、零れたお茶が床に滴り落ちた。それでもなお叩き続けるリベリオの表情は、怒りのような哀しみのような、鬼気迫る形相をしていた。
「アイツが!ナリーが!俺との縁談を捨てるだと!?そんな馬鹿な話があってたまるか!!」
「副団長!落ち着いて下さい!!キュリオ殿、間違いないのですね!?ナリア嬢が本当に、そう仰ったのですね!?」
「は、はい。ただ、ナリア嬢はこうも言っていました。『私は今後、誰とも婚約も結婚もいたしません。それを、この養子縁組の条件とさせて下さい』と。」
「な…そんな…。ちょっ、副団長!?どちらに行かれるのです!?」
リベリオは立ち上がり、外套を羽織った。机に向かい、ペンナイフをバッグにしまう。振り返りざまにルミオを見据えると、扉に向かいながら声をかけた。
「ルミオ、悪いが後は頼む。」
「ですから、どちらに…」
リベリオは扉に手をかけると、外を向いたまま言い残した。
「決まってんだろう。グラナード侯爵邸だ!」
*
リベリオは馬に跨り、城門を駆け出た。すっかり冷たくなった風が興奮して熱くなった身体にはちょうど良い。
上流階級者が住む地域の中でも、特別な区域がある。国を動かすほどの有力者たちの住む区域にまで馬を走らせると、一際広大な土地が広がる門の前で止まった。
----ここがグラナード侯爵邸か。なんてバカでかい土地だよ!俺の実家でも相当だと思っていたが、桁が違う…
「止まれ!!何者だ!!」
「止まれ!止まれ!」
リベリオが門の前で遥か遠くにある建物を睨みつけていると、門番に立っていた二人の男がリベリオの前に立ちはだかった。
「俺は王宮第五騎士団副団長のリベリオ・デガートだ。至急、ナリア・グラナード令嬢に面会を願いたい。」
「何!?ナリア様に何用だ!!」
「俺は彼女の婚約者だ。リベリオ・デガートが会いに来たと伝えてくれ。」
リベリオの言葉に、男たちがポカンとした顔で互いの顔を見つめ合う。片方が思わず吹き出すと、もう片方も大きな声で笑いだした。
「…おい、何が可笑しい?」
「ハハハ!聞いたか?こ、婚約者だってよ!」
「あぁ、確かに聞いた!まさかこんな堂々と嘘を吐く奴がいるとはな!はっはっはっ!」
男たちの言葉に、今までずっと抑えていた怒りが爆発する。リベリオは馬から降りて剣の柄に手をかけると、全力の殺気を瞳に込めて睨み据えた。
襟元に刺繍された王宮騎士団副団長の紋章が目に入る。それを背負う男の気迫に圧され、男たちの笑い声がピタリと止まった。
「…おい、もう一度だけ言うぞ。ナリア嬢に取り次ぐんだ。俺の名前を言えばすぐにわかる。」
「婚約者が来たと?何を言っている!お前はナリア嬢の婚約者では無いだろう!!」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だ!これ以上虚偽を申せば、誰であれ引っ立てるぞ!!」
「虚偽だと!?…ちょっと待て。では、ナリア嬢には今、婚約者がいるのか?」
リベリオの頭の奥で警鐘が鳴る。ドクドクと脈打つ心臓の痛みを堪える様に顔を顰めた。
「そうだ!わかったら、とっとと帰れ!これ以上の狼藉は許さん!」
「…誰だ?その婚約者の名前を教えてくれ。そうしたら大人しく帰ろう。誰だ!!」
リベリオが怒声を上げる。男たちは顔を見合わせ、これ以上の面倒事は御免だというように小さく頷き合った。
「…アセロ・ルシージア様だ。」




