25
「何だと?今、何と言った?」
「ですから、養子縁組のお話を受けようと思っております。」
見つめ合う二人の隙間を冷たい風が通り抜ける。眉根を寄せて理解ができないといった顔をすると、ナリアは顔を背けて目を伏せた。
「何を考えてるんだ?相手は元婚約者の父親だろう。言い出した方もどうかと思うが、それを受けようだなどと…。」
「わかっております。ですがこれは、そういったものでは無いのです。」
「じゃあ何だ!何を言われた!?」
ナリアの含んだ言い方に、こめかみの奥が熱くなる。早計な自分を窘めるような物言いをされたと感じる程に、苛立つ感情を抑えられなくなっていた。
「それは…。グラナード侯爵様は、私に事業の手伝いをしてほしいと仰いました。父の手伝いをしていた時の事を褒めて下さって、それを自領でも発揮してほしいと。その為には、私を娘にした方が周りも受け入れやすいだろうと…。」
「何だそれは!?お前は俺と結婚するんだろう?ついこの前、兄に引き継いだと言ったばかりじゃないか!何でそんな話になるんだ!!」
リベリオの激高にナリアは一瞬肩を竦めた。それでも唇をギュッと結び、ドクドクと音を立てる心臓に耐えるように声を振り絞った。
「最後までお聞きください。グラナード侯爵様は、養子縁組をした後も私たちの縁談を進めても良いと仰って下さいました。ですからっ…」
「はぁ…何を言ってるんだ。お前まさか、俺と結婚した後も働くとでも言うつもりか?それとも結婚までの短い期間だけなのか?それこそ養子縁組なんて必要無いだろう。」
「それは…。それを今日、相談しようと思っていたのです。私はリブと結婚した後も、仕事を続けたいと思っています。」
リベリオは愕然としてナリアを見下ろした。崖の上から突き落とされたような感覚に襲われ、頭の奥では消し去ったはずの記憶が駆け巡る。自分を見下ろす冷たい針のような双眸が、暗闇からこちらを睨んでいた。
----『……を……たらどうだ。しかし勘違いするな、アレが…だ。』
----『いつまで…でいるつもりだ!この………さらしが!』
----『今のお前など、……わせられん。……てのプラ…は無いのか!』
リベリオは浅い呼吸を繰り返し、息苦しさを飲み込むように両手で顔を覆った。
「何でだよ…。俺はお前や子供数人…養うぐらいの蓄えはある。何でお前が働かなくちゃならないんだ…。俺はそんなに頼りないのか…?」
「そうではありません!私が仕事をしたいのです。初めてなのです、ダンス以外に夢中になれたのは。父の仕事を手伝っていた時も、本当に楽しくてやりがいがあって。兄に仕事を引き継ぐ時、本当は辛かった。もうできないのだと思うと…」
「仕事を辞めるぐらいなら、俺との婚姻を諦めた方がマシだったか?」
リベリオの温度の無い声がナリアの耳朶に触れる。ナリアはハッと顔を上げ、目を見開いてリベリオを見上げた。表情を硬く強張らせ、虚ろな瞳をナリアに向けている。スッと視線を外し、項垂れるように地面に視線を落とした。
「リブ?何を…」
「仕事を辞めたくなかったのだろう?俺との婚約のせいで辞めなきゃいけなかったんだろうが。」
「違います!それは…確かに、仕事を辞めたのは婚約がきっかけです。ですがそれは、そうするものだと思っていたからであって…」
「今は違うと?いいか、俺は結婚した後はお前には家に居てもらいたい。俺は次男だからそれ程受け継ぐ財産は無いが、それでも家庭を守るだけの力はあるつもりだ。俺は騎士という仕事をしている以上、いつどうなるかわからない。だからこそ、お前には家を守っていて欲しいんだよ!」
ナリアの両肩を掴み、奥歯を噛み締める。胸の苦痛に顔を歪めるリベリオの表情を、ナリアは呆然と見つめるしかなかった。
「…分かりました。私が今申し上げた事は、お忘れ下さい。」
「ナリー、それじゃあ…!」
「はい。養子縁組のお話は、お断りしておきます。」
リベリオがナリアを抱き締める。その腕の中で、ナリアは強く目を瞑った。
*
陽が落ち暗くなりかけた頃、リベリオはナリアを屋敷まで送り届けた。重い空気の中ゆっくりと食事を楽しむ気にもなれず、軽い夕食を食べた後すぐに馬車に戻り今に至る。
「それじゃあナリー、今日はありがとう。お前に貰ったペンナイフ、大切に使わせてもらうよ。」
「えぇ、私も楽しかったです。お気をつけてお帰り下さい。」
リベリオが身を屈め、ナリアにお休みのキスをする。
「んんっ!?」
ナリアの喉が鳴る。いつもの軽いキスだけでは止められず、口の中を蹂躙するような深いキスをしていた。
「はぁ、な、何を…。」
「悪い、止められなかった。…それじゃあ今度こそ帰るよ。お休み、ナリー。」
「え、えぇ。お休みなさい、リブ。」
僅かに視線を絡め合わせ、リベリオは馬車へと向かった。その時、玄関の影から聞き覚えのある声が聞こえ、二人は声の方へと振り向いた。
「ナリア嬢?今お戻りになられたのですか?」
「アセロ様!?いらしてたのですか!?」
「なんでお前がここにいるんだ!?」
「私は本日はこちらに泊まらせていただいているのです。玄関が騒がしいので何事かと見に来ただけですよ。」
「そうでしたか。ご心配をおかけいたしました。」
ナリアが頭を下げると、アセロはリベリオに鋭い視線を向けた。
「いくら婚約者とはいえ、婚姻前の女性を陽が落ちるまで連れ回すのは感心しませんね。」
「何だと?お前には関係の無いことだろうが。」
「えぇ、そうです。私が申し上げているのは、あくまで一般論ですよ。何かあった時、世間から白い目で見られるのは女性であるナリア嬢です。男性の貴方にはわからないかもしれませんが。」
「俺は彼女の婚約者なのだから責任は取る。部外者に小言を言われる謂れは無い。」
「責任を取ると仰るならば、ナリア嬢の立場をきちんとお考え下さいと申し上げているのです。」
「何ぃ!?」
「お止め下さい!!」
ナリアの声が響く。側で狼狽える侍女に中に入るように伝えると、二人の男に振り返り、ニコリと微笑んだ。
「アセロ様。今日、私がリベリオ様と出かけることは、私の両親も認めている事です。それにリベリオ様はデート中とても紳士的でしたし、常識の範囲内で私を自宅へ送り届けて下さいました。誰かに後ろ指をさされるような事はしておりませんわ。」
「…そうですか。それでしたらよろしいのです。」
「リベリオ様。アセロ様は我が家のお客様です。父に代わり、心からお詫び申し上げます。」
「いや、何もお前が謝る事ないだろう。…わかったよ、俺も悪かったから。」
リベリオがナリアの肩に手を添え、ナリアから見えないようにアセロを睨みつける。互いに火花を散らす中、ナリアは身体を起こしてアセロに向き直り、先に中へ入るよう扉へと手を向けた。
「私もそろそろ自室へ戻りますね。リブは明日もお仕事でしょう?早く休んで下さいね。」
「あぁ。わかった、そうするよ。」
リベリオがナリアの頬にキスをして馬車に乗り込む。走り去る馬車を横目に、ナリアは中へと入っていった。
*
アマティスタ子爵邸の玄関から門へと向かう間、リベリオは抑えた苛立ちに顔を顰めた。アセロの挑発的な態度と見下すような視線が瞼に焼き付いて離れない。
----クソッ!あの野郎、何のつもりだ!!
門を出て帰路を走る窓の外を見れば、まだ陽が落ちたばかりで人の往来がある。予想もしなかったナリアとの衝突と疼いた古傷の痛みによって溜まった澱が、一層沈鬱な気分させた。
----はぁ…ダメだ、このまま帰ってもイライラするだけだ。どこかで発散しねぇと…。
リベリオはハッとした。こんな気分の時に、当然のように向かっていた場所が脳裏をよぎる。ナリアへの気持ちを自覚して以来、決して足を踏み入れることはなかった男の楽園。
頬杖をつくように口元に手を当てて目を瞑る。暴発しそうな欲求を堪える様に腹の底に力を込めるが、それを抑え込むには心に傷を負い過ぎた。
リベリオが薄く目を開け、御者に声をかける。消えそうな声で指示を出すと、馬車は宿屋へと向かった。
*
自室へ戻り、サフィに手伝ってもらいながら着替えを済ませると、ナリアはベッドに腰を掛けた。俯き、右手に馴染んだ指輪に触れる。もう何度溜息を吐いては触れてきたかわからない。
----やっぱり聞けなかった。あんなにきちんと向き合うって、ハッキリさせるって決心したのに…。
どれ程時間が経っても薄れる事のないあの夜の光景。リベリオが躊躇いなく抱き寄せた女の存在が、今でもナリアの胸に深く突き刺さっていた。
ベッドに仰向けに倒れ、暗い天井を見つめる。結婚と仕事。初めて自分の気持ちと向き合い、一番伝えたい人にその思いを伝えようとした。それなのに…
----『仕事を辞めるぐらいなら、俺との婚姻を諦めた方がマシだったか?』
すぐに答えられなかった自分の本心。一瞬の躊躇いが誤解を生んだかもしれないという罪悪感が、ナリアの心を沈ませた。手を額に乗せて、目を瞑る。
----『そなたの才能を女だというだけで埋もれさせるにはあまりに惜しい。』
----『俺は結婚した後はお前には家に居てもらいたい。』
ルミゴンが差し出す、女の自分には二度と現れないであろう道筋と、リベリオの当然とも言える結婚観。両者の決定的な溝を目の当たりにして、ナリアは胸が締め付けられた。
----どちらも選ぶのは我儘なのだろうか。結婚しても仕事を続ける事が、それ程悪い事なのだろうか。
ナリアはふと、目を開けた。
----平民ではそれが普通じゃないの。彼女たちにできて、どうして私にはできないの…?
身体を捩りクッションにもたれる。ベッドに身体を沈めるように、ナリアは目を閉じた。
*
翌朝、ナリアが中庭を歩いていると前方から歩み寄る人影が視界に入った。陽の光を受けた黒髪を美しく輝かせ、眩しそうに目を細めていた。
「おはようございます、ナリア嬢。お散歩ですか?」
「アセロ様、おはようございます。えぇ、少し外の空気を吸いたくて。」
アセロが「ご一緒しても?」と仕草で伝えると、ナリアは小さく頷き再び歩き始めた。朝の澄んだ空気が草の香りを漂わせる。心のモヤモヤを吹き払うように胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐いた。
「リベリオ殿には、お話しになられたのですか?」
ナリアの背中に向けて、アセロが静かに声をかける。ナリアはピクリと肩を震わせて、フ、と小さく笑った。
「えぇ。…ですが、リベリオ様は私には家庭に入ってもらいたいと仰っておりました。ならば、それに従おうかと思っています。」
「なっ…!それじゃあ、せっかくのチャンスを諦めると言うのですか?彼のその一言で!?」
「仕方がありません。そうすることでしか彼といられないのなら、私に選択の余地はありませんわ。」
ナリアの言葉に、アセロは眉間に皺を寄せ頭を振った。到底理解できないといった表情でナリアの横顔を見つめると、その沈んだ表情にハッとした。
「…本当は、諦めたくなかったのではないですか?」
「え?」
「本当は、グラナード侯爵様の申し出を受けたかったのではないですか、と申し上げているのです。貴女が彼を心から愛しているのはわかります。彼の気持ちを理解しようと、自分の心を抑えようとなさっているのもわかるのです。しかし!」
「…。」
「彼は、貴女の気持ちを理解しようとなさいましたか?」
「…!」
「最後まで貴女の話に耳を傾け、貴女の気持ちを理解し、その上でご自分の望みを仰られたのでしょうか。」
「それは…。」
ナリアが俯き、視線を彷徨わせる。その様子にアセロは顔を顰めたまま息を吐くと、気分を変える為に話題を変えた。
「申し訳ありません、また出過ぎた真似をいたしました。…そうだ!ナリア嬢、今日お時間はありますか?」
「え?あ、はい。特に用事はありませんが…。」
ナリアがアセロの意図を窺うように見上げると、アセロはニコリと微笑んで胸に手を当てた。
「実は、もうすぐ私の姪の誕生日なのですが、プレゼントを選ぶのを手伝っていただけませんか?」
「まぁ、姪御さんの?私でよろしいのですか?」
「えぇ、もちろんです。もうすぐ7歳になるのですが…。毎年ねだられるのですが、年々難しくなってしまって。」
アセロが頭をもたげるように溜息を吐くと、ナリアは目を丸くした。
「フフ、そうかもしれませんわね。幼子からレディに変わり始める時期ですから。」
「そうなのです。毎年渡すとき冷や冷やするのですよ。そして思うのです。どうしてこんなに恐ろしい思いをしながらプレゼントを渡すんだ!って。彼女がニコッと微笑むまでが私の役目なのですよ?国家資格の取得試験を受ける方がよっぽどマシです!」
アセロがげんなりした顔で言う姿に思わず吹き出すと、ナリアはひとしきり笑って呼吸を整えた。
「でしたら、私もお手伝いさせていただきますわ。」
「良かった!でしたら後程、玄関で待ち合わせいたしましょう。馬車を手配しておきます。」
「ありがとうございます。では、すぐに用意して参りますね。」
*
店が立ち並ぶ街の一角で、アセロとナリアは並んで歩いていた。人形屋や小物店、雑貨屋、装飾品店と順番に見て回る。
「昨年は何を差し上げたのですか?」
「何だったかな…。あ、そうだ。確か猫をモチーフにしたペンダントでした。白を基調にしたもので、すごく喜んでくれましたよ。」
「そうなのですか。では、やはり装飾品の方が良いかもしれませんね。髪飾りとかはどうですか?」
「髪飾りか…。そういえば最近髪をよく結い上げていると聞きました。良いですね、そうします!」
角を曲がってまっすぐ歩き、露店が立ち並ぶ広場から道を挟んだ場所にある装飾品店に入る。中をぐるりと見て回ると、小振りの髪飾りを並べたコーナーがあった。
ナリアが腰を屈めて選んでいると、アセロが横から覗き込んだ。
「何か良さそうなものはありましたか?」
「はい。この小さなお花の形のものと、こちらのお花と蝶々の形をしたものが可愛らしくて良いのではと思うのですが、姪御さんはどういったものがお好みですか?」
「うーん、好みですか…。しょっちゅう変わるので、私にもよくわかりません。ですが、ナリア嬢が選んで下さったのなら間違いないでしょう。どちらが良いと思いますか?」
アセロがフワリと微笑むと、ナリアの胸が小さく揺れた。咄嗟に顔を背けて視線を髪飾りに移し、花と蝶々の髪飾りを指さした。
「あ…では、こちらの髪飾りはいかがです?蝶々が愛らしくて、こちらのお花だけのものよりも小さな女の子には良いかもしれません。」
「わかりました。ではそちらにしますね。会計をしますので、ナリア嬢は店の入り口でお待ちいただけますか?」
「わかりました。」
ナリアが人の往来を眺めながら入り口で待っていると、アセロが小さな袋を差し出した。袋には小さなリボンがかかっている。
「これは?」
「これは今日付き合っていただいたお礼です。お陰様で無事に用意することができました。」
アセロが美しくラッピングされた袋を見せて微笑むと、ナリアは渡された袋から中のものを取り出した。
「これ、先ほどの髪飾りですね。お花の形をした方の。」
「えぇ。これも可愛らしいので、つい買ってしまいました。よろしければお使い下さい。」
「まぁ、そんな…。フフ、ありがとうございます。大切に使わせていただきますね。」
「それじゃあ、そろそろ馬車に戻りましょうか…おや?あちらにいらっしゃるのはリベリオ殿ですか?」
「え?」
アセロの声に、ナリアが咄嗟に振り返る。よく見ればそこは、あの日の宿屋での騒動があった場所だった。
ナリアの心臓が早鐘を打つ。アセロの言葉とまだ昇華していない感情が胸を抉り、目の前の景色に足が竦んだ。
----あの時は暗くてよくわからなかったけれど…。そうだわ、確かあの建物はあの人のいる…え?
ナリアのいる場所から広場を挟んだ真正面に、その宿屋の扉がある。その視線の先には、開いた扉から出ようとするリベリオの姿があった。後ろから声をかけられ振り向いている。建物の中から出ないように立っている女の姿に、ナリアは目を見開き息を呑んだ。
----あ…あの人…。そんな…。
リベリオがナリアに背を向ける形で二人が会話をしている。その姿を見て、ナリアはハッとした。
----あれ、昨日と同じ服!?そんな…それじゃあ…。
「あれ…昨日と同じ格好をなさってますね。あの後、昨夜はあちらに泊まられたのでしょうか。」
アセロの言葉にナリアは眩暈がした。言葉に出されると頭で考えるよりも衝撃が大きい。グラグラする頭を支えながら、ナリアは二人を凝視した。
女が最後に何かを告げている。すると、リベリオは両手で包み込むように女を優しく抱き締め、頬にキスをした。
「なっ…!?何やってんだアイツ!!」
アセロが咄嗟にナリアを見る。手に持っていたバッグと髪飾りを地面に落としてふらつくと、アセロが慌てて身体を支えた。
「ナリア嬢!!」
「ナリー!?」
振り向いたリベリオが、目を見開いて固まったままナリアを眺めている。その姿がみるみる滲みだし、喉から嗚咽が零れ落ちた。
「ナリー!待ってくれ!!違うんだ!!」
ナリアは馬車に向かって走り出した。




