21
宿屋の騒動からの帰り道。馬車に揺られながら、ナリアは心の無いまま窓の外を眺めていた。すっかり夜も更け、辺りは殆ど何も見えない。窓から入り込む風が涼しくて、それだけが唯一の慰めのように感じた。
この時ほど、暗くて互いの表情が見えない事を望んだことはなかった。
「ナリー?どうした?」
「…いいえ、なんでもありません。少し…眠たくなってきただけです…。」
リベリオの大きな手が、ナリアの頭を優しく撫でる。本当ならその甘いくすぐったさが嬉しくて笑顔になれるはずなのに、今はただ胸が痛んだ。
----この手で、さっきあの人の頬を撫でた…。抱きしめて、血を拭きとって、それを…。
無意識に頭を外し、壁にもたれる。咄嗟に「眠くなった」と言った自分の言葉に縋るように、ナリアは身を離し目を閉じた。
「ナリー、起きろ。着いたぞ。」
リベリオがナリアの肩に手を添えて、耳元で囁きながら優しく揺すった。息を殺し、薄目を開けて時間が過ぎるのを待っていたせいか、揺すられてすぐに身体を起こして身を捩る。
「あ…はい。ありがとうございます。」
御者が扉を開けて、心配そうにナリアの様子を窺っている。その視線を避けるように俯くと、リベリオが先に降り立ち手を差し出した。
「ほら、暗いから足元に気を付けろよ。」
「…!」
「どうした?何で固まってるんだ?」
ナリアはハッとして躊躇いがちにリベリオの指先に自分の指を添えた。できるだけ寄りかからないよう、扉にも手を添える。
「ほら、ちゃんと掴め。危ないだろう。」
リベリオがナリアの手をグッと包み込む。その瞬間、ナリアの背筋に寒気が走った。
「…ナリー?どうした?」
「え?あ…いえ、なんでもありません。少し、よろけてしまって…。」
気が付けば、ナリアはリベリオの手を振り払い背を向けていた。無意識の嫌悪感と理不尽な罪悪感。吐きたくも無い嘘を言わなければならない自分に、胸が押し潰されそうになる。
リベリオはナリアの表情が見えるように顔を近付けた。
「ナリー、どうかしたのか?」
「…。」
俯いて押し黙るナリアの肩に手を添えると、矛先を御者に切り替え視線を移す。御者はビクリと肩を震わせたが、外の暗さと黒っぽい服が幸いした。
「おい、俺がいない間に何かあったのか?」
「え!?いいえ、何も変わった事はございませんでした。お嬢様もとても落ち着いてらして…。」
「ふむ…そうか。それならいいが…ナリー、何かあったらすぐに言うんだぞ。わかったな?」
「はい…わかりました。」
ナリアが俯いたまま返事をする。リベリオは肩に手を添えたまま玄関に向かうと、迎えに出ていた侍女が頭を下げたまま待機していた。
「それじゃあまた連絡するよ。おやすみ、ナリー…?」
リベリオがナリアの頬に手を添えて身を屈めると、ナリアは咄嗟に顔を背けて顔を顰めた。
----さっき、あの人の血を舐めていたじゃない!その口でキスしようなんて…!!
頭の奥で何かが弾けたと同時に、外套を掴む手をギュッと握り締める。込み上げる怒りと悲しみが爆発しそうになり、ナリアは侍女に扉を開けるように言った。
「おい、ナリー!どうした?やっぱり何かあったのか?」
「いいえ?何も。おやすみなさい、リブ。」
*
リベリオとのデートから十日後、書斎で引継ぎの資料を作っているナリアの元へ、手紙が届いた。
----リブからだわ。これで三通目…四通目だったかしら。
封を開け、中を見る。
----またデートのお誘いだわ。
リベリオらしい、情熱的な文章。ただ違うのは、徐々に焦りが滲み出ているぐらいだろう。ナリアはそこに書かれた一文を見つけると、眉根を寄せた。
『ナリー、どうして返事をくれないんだ?』
----何が『どうして返事をくれないんだ?』よ!嘘ばかり吐く貴方に、する返事なんか無いわよ!!
手紙を畳み、引き出しにしまう。高ぶった感情を抑えようと、椅子にもたれて大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き切った。
----どうして嘘を吐いたのかしら。ただの友人というわけでもなさそうだった。それもそうよね、数年前に見かけた時にはすでに親密そうだったもの。それじゃあ…恋人だった?でも、リブにはきっとたくさん恋人はいただろうし…
少しずつ慣れてきた胸の痛みに苦笑する。それどころか、日を追うごとにあれ程苦しかった気持ちが凪いでいくのが不思議だった。
ナリアはカップに手を伸ばすと、お茶を啜り、息を吐いて目を閉じた。
----やっぱり、心にいるのはあの人だったのよね。リブからしてみれば、平民の女性との結婚は難しいもの。だから叶わない恋を忘れたくても忘れられなくて…。相手が他の男性と結婚しても、それでも助けてあげたかったのよね…。
----リブには以前、『心に他の女性がいても構いません』と言った。その時の気持ちに嘘は無かった。だって、それでも側にいたいと望んでしまったから!
----でも、もうできない。やっぱり心に嘘は吐けないってわかったもの。リブの優しさに触れて、温かい腕に抱かれて、溶けるようなキスをされて…。私への愛情はあるのかもしれない。でもその愛情が、リブにとってあの人を忘れるための『手段』なのだったら…。
----ううん、違うわ。人の心の中なんて誰にもわからないもの。ただ私が…私の心が、リブの愛はそうなのだと決めてしまった。
----私を見つめる瞳に、私は映っていないのだと。私を抱き締める腕に感じるのは、私の温もりではないのだと。頬に触れてキスをするのは、私の唇ではないのだと。婚約指輪をはめた指は、私の指ではないのだと。
----こんな気持ちになるなんて、思いもしなかった。最初のまま…気持ちに蓋をしたままだったなら、こんな思いはしなかったかもしれない。…ううん、そもそも受けてはいけなかったのよ。私なんかが彼の妻になんて望んだから罰が下ったんだ。この手紙だって、本当は…。
身体を起こし、羽ペンを持つ。書きかけだった書類を読み返していると、扉をノックする音がした。
「ナリー、ちょっといいかしら。」
「お母様。はい、どうしましたか?」
ナリアが羽ペンを置いてソファに移動すると、エドラもソファに座った。
「二日後、あなた何か予定はあるかしら。」
「いいえ、ありませんよ。」
「あら…最近リブ様とはお出かけしてないの?」
「え?あ…はい、少しやらなければならない事がありますので。」
ナリアが目を伏せて苦笑すると、エドラは真っ直ぐに見つめた。
「ナリー、何かあったのでしょう?」
「いいえ、何も…。」
「嘘仰い。ここ最近のあなたを見ていればわかるわよ。何があったの?…またリブ様かしら?」
「…。う…。」
「まぁ…ナリー。どうしたの?やっぱり何かあったのね?」
ナリアの両頬に大粒の涙が零れ落ちる。エドラは隣に寄り添うと、ハンカチをそっと当てた。
「どうしたのよ。私にも話せない事なの?」
「お母様…!!」
ナリアはエドラの胸に飛び込み泣き続けた。ナリアの背中を優しく撫で、ポンポンと叩く。
ナリアはしばらく泣き続けた後ゆっくりと身体を起こし、震える声でポツポツと話し出した。
*
ナリアがエドラに全てを話し終えると、二人の間に沈黙が流れた。右手で光るルビーが、今は滲んで見える。
エドラは小さく頷くと、ナリアに向き直った。
「ねぇ、ナリー。あなた、また何も言わずに我慢したの?」
「…。」
「リブ様が馬車に戻って来られた時に『あの女の人は誰なの』って、どうして聞かなかったの?」
「だって…もしそんな事を言ったら御者の方にも迷惑がかかると思って…。それに、怖くて聞けなかったのです。知り合いがいるのかどうかを聞いただけで、あれ程動揺されたのですもの。もし…もし、本当にリブの大事な人だったら…。」
涙が再び溢れだす。すでに涙で湿りきっていたハンカチは、もう役に立ちそうになかった。
「それでも、知り合いなどいないと…リブは言いました。私に知られたくない相手だという事です。もしあれが、他の女性だったなら?きっと、たとえ昔の恋人だったとしても教えてくれたと思うのです。」
「…。」
「そんな事を考えだしたら、止まらなくなってしまって…。もう、このまま続けていく自信がありません。」
「それは、婚約を解消するという事なの?ナリー、あなた本当はそんな事望んでないでしょう?」
「わからないのです。この十日ほどの間、リブと会わないようにしていました。最初はあの日の事が辛くて苦しかったのに、段々…会わない方が心が穏やかでいられるのです。やはり、私は結婚には向かないのかもしれません。それにリブなら、私なんかよりもっと相応しい女性を見つけられます。」
ナリアが涙を拭きながら苦笑すると、エドラは溜息を吐いてナリアの手に自分の手を重ねた。
「ねぇ、ナリー。あなた今、私が何を考えているかわかるかしら?」
「え?いいえ。」
「私があなたに何か聞こうとしているかどうかは、わかる?」
「…いいえ。」
「そうよね。相手の考えている事も、自分が考えている事も、言葉にしないと伝わらないわ。もちろん、『互いに言わなくてもわかる関係』というのは素敵な事よ。けれど、私だってクレトンにきちんと言葉で『愛してる』って言ってもらわないと、未だに不安になるのよ?」
「お母様が!?」
「当然でしょう。私は彼の事が大好きで、周りの反対を押し切ってまで結婚したのだもの。自分の気持ちに自信はあっても、相手からの気持ちは態度だけじゃ不安になるものよ。もちろん、言葉だけでもね。どちらもあって、やっと安心できるの。ふふ、我儘よね。でもそれが愛でしょう?互いにそうやって育んでいくものが愛なのよ。」
「確かに、嘘を吐いたのはいけないわ。ナリーがもう彼を信じられなくなるのも、仕方が無いことだと思うの。もちろん、婚約を解消するのだって一つの結論だと思うわ。それでも、その前にやらなくちゃいけない事があるでしょう?」
「リブと、向かい合うという事ですよね。」
「そうよ。彼がどうして嘘を吐いたのか。どうして隠そうとしたのか。婚約を解消しても良いとまで思っているのなら、それを聞いてからでも遅くないのではないかしら。」
「…。」
「いいこと、ナリー?誰にだって、心の中に不安はあるの。リブ様がこれまで何の不安も挫折も無い人生だったなんて、私には思えないわ。だから、むしろ聞いておあげなさい。夫の弱い部分を受け止めるのも、妻の役目よ。」
ナリアが黙ったまま小さく頷くと、エドラは「そうそう」と話しを切り替えた。
「そうだったわ。ナリー、二日後にグラナード侯爵様がこちらに来られるのよ。その時に、あなたにお話しがあるの。」
「グラナード侯爵様が?私にお話しって…一体何でしょうか。」
「直接お話しになるそうだから、私からは何も言わないでおくわね。ただ、まだ決まったわけじゃない、とだけ言っておくわ。」
「決まってない?」
「えぇ。あなたの気持ち次第だという事よ。」
*
鈍色の厚い雲が広がる空の下、一台の馬車がアマティスタ子爵邸の前に停まっていた。クレトンが先に立ち、ルミゴンと従者を案内して入ってくると、エドラとナリアは立ち上がってドレスの裾を持った。
「グラナード侯爵様、ようこそお越し下さいました。」
「あぁ、エドラ夫人。ナリア嬢も、先日ぶりだな。」
「はい。いつもお心遣いありがとうございます。」
「では、グラナード侯爵様、こちらへどうぞ。」
クレトンが上座へと案内する間に、侍女がお茶の用意を運んできた。全員が着席すると、エドラがルミゴンの言葉を拾って口を開いた。
「失礼ですが、ナリアとどこかでお会いになられたのですか?」
「あぁ、いや。先日こちらに来た際に、偶然玄関の前で会ったのだ。確か、婚約者のリベリオ・デガートも一緒だったな。彼は元気か?」
ナリアがピクリと反応する。返事を言い淀むナリアに、エドラはニコリと微笑んだ。。
「そうなの?」
「はい。リベリオ様とお出かけした日の帰りに、送って下さった時にお会いしたのです。」
「まぁ、そうだったの。ふふ、それはとても驚いたでしょうね。」
「いや、彼はそれ程驚いてはおらなんだぞ。むしろ挑戦的で真っ直ぐにこちらを見ておったからな。なかなか肝の据わった男だ。さて…」
ルミゴンは従者に指示を出すと、ナリアに向き直った。
「ナリア嬢。今日こちらに来たのは他でもない。私とそなたの養子縁組についての話だ。」
広間に静寂が訪れる。水を打ったような静けさの中、ナリアの驚愕の声だけが響き渡った。
「はい?えぇっ!?」
「これを見てもらいたい。」
ナリアの声など聞こえないかのように、涼しい顔のまま従者から二枚の紙を受け取り、ナリアの前に並べた。
「まず、こちらが我々の養子縁組の願書。そしてこちらが…」
ふと、目を見開いたまま固まっているナリアを正面から見据える。俯く表情にかつてのエドラの姿が重なり、無意識に目を細めた。
「これが、私が治める領地の一つ『アンバルシア』の領主権一部代行委任状だ。」




