18
リベリオが馬車から飛び出した後、静かな車内に一人残されたナリアは外の様子をカーテンの隙間からそっと眺めていた。多くの人が眉間に皺を寄せながら指をさし、口元に手を当てて囁き合っている。
未だに頭に焼き付いて離れない、自分を見る人々の囁き声と見定めるような視線。その光景が重なり、ナリアは咄嗟に身を固くして俯いた。
----大丈夫。ここでじっとしていたらリブが戻ってきてくれるもの。何も心配すること無いわ。
打ち付ける心臓の音を紛らわせるように、ナリアは小さく深呼吸を繰り返した。少しずつ落ち着きを取り戻し、座席にもたれる。その時、窓の外から女たちの声が聞こえた。
「まぁ!怪我人が出てるそうよ!」
「さっきあっちにいる人たちが大きな音がしたって言ってたから、それかしら?」
「男の人だって!踏み込んだ時に怪我をしたそうよ!」
----怪我人…男の人!?まさか!!
ナリアは顔を上げ、窓の外を見渡す。リベリオの姿を探そうにも暗いうえに人が多くて何も見えない。焦りと不安から、再び心臓が早鐘を打ちだした。
----どうしよう…もしリブに何かあったら…。
目を瞑り、祈るように手を握り締めた途端、右手にあるものに気付きハッとした。
----やっぱり、黙って待ってられない。リブと約束したけど…無事かどうか確認したらすぐに戻ればいいわ!
ナリアはゴクリと唾を飲み込むと、後ろに置いてある外套を見やった。そのまま外套を手に取り頭から全身を覆うと、窓の外を確認しつつ扉を開けて飛び出した。
そのまま御者のいる方へ回り、声を潜ませて早口で捲し立てた。
「ごめんなさい、すぐに戻りますから!」
「なっ!?ちょ、ちょっとお待ちください!!なんて事を!!」
「ごめんなさいっ!!」
御者の悲鳴を背中に受けながら、ナリアは言い逃げるように踵を返して走り出した。外套のフードを深く被り、外れないようにフードと襟を強く押さえる。人だかりをかき分け、人々の視線の向く方へと進み続けて、ようやく通りが見えてきた。
抜け出る直前に背を伸ばして顔を上げる。前にいる人たちの頭の隙間にリベリオの後ろ姿があった。
----リブ!良かった、無事だったのね…!
ナリアは安堵の息を吐き、咄嗟に声をかけようとした。
「リ…」
「ルマリナ!!」
「リブ!!」
----え…?
ナリアの声をかき消すように響くリベリオの声。その声に反応した一人の女が、涙を流しながらリベリオに走り寄り胸に飛び込んでいる。その震える肩を優しく抱き締めるリベリオの姿に、ナリアは息が止まり愕然とした。
----何、あれ…。あ、あの人、まさか…!!
ナリアはリベリオの腕の中にいる女の顔に思い至ると、驚愕に目を見開いた。忘れもしない、リベリオの隣で旅芸人の一座の演目を見ていた、ライトブラウンの髪の美しい女。
----あの人、あの時の…。どうしてここに…。これ、何なの…?
リベリオが女の身体を支え、何かを囁きながら顔を覗き込む。口元の血を指で拭い取り、それを舐めとる光景を目の当たりにして、ナリアは頭を殴られたような衝撃を受けた。
足が震え、眩暈が起こる。リベリオが近くにいた自警団員に向かって何かを叫びながら、女を抱き寄せて宿屋の中へと入っていった。その後ろ姿を呆然と眺めながら、ナリアは身を返してふらつく足で馬車へと向かった。
*
「なんて無茶をするんですか!!何かあってからじゃ遅いのですよ!!」
馬車に戻るなり、心配で気が狂いそうになっていた御者が悲愴な表情で捲し立てた。ナリアの姿を認めた途端に走り寄り、すぐに周りから隠すように馬車へと連れて行き、中へと押し込んだ。
「ごめんなさい…。この事は、黙っていてもらえますか…。」
「もちろんです!こんな事が旦那様に知られたら、とんでもない目に遭いますよ!!」
扉を閉め、鍵を掛ける。外套を外して膝に掛けると、ナリアは呆然としたまま座席にもたれた。身体中の力が入らず、両手がだらりと落ちる。
----どうしてあの人がいるの…。
その時、ナリアはハッとして息を呑んだ。リベリオの叫んだ言葉が、ナリアの胸を容赦なく抉る。
----『ルマリナ!!』
----ルマリナ。あの時途中で言うのをやめたのは、彼女の名前…!?
頭の中が真っ白になり、呼吸が浅くなる。ドクドクと脈打つ心臓が胸を締め付け、ナリアはその痛みに顔を顰めた。手足が冷たくなるのを感じて外套を肩まで被せると、流そうとした記憶が次々と蘇った。
----『心に決めていた女性がいたそうなの。でもその女性はすでにご結婚なさっていて、叶わない恋だと仰っていたそうよ。』
----『それじゃあ独身を貫いてらっしゃるのは、そのお相手の方が忘れられないからかしら…。』
----ううん、違うわ。あれは私の事だと仰っていたもの。私が結婚したと思い込んで…。
----『結婚しないのかを聞いたそうなのだけれど、するとしても相手は誰でも良いっていう風だったみたい』
----そんなわけないじゃない。リブはそんないい加減な人じゃ無いわ。
----『同情などでお姉様に求婚してはいけないのではなくて!?』
----まさか。男性はただの同情心だけで求婚まではしないって、リドット先生が仰っていたもの。
----『だから、それはルマ…!』
----ルマ、何?あの時、何を言おうとしたの…?
収まる事のない胸の鼓動に吐き気を感じ始め、顔を埋める。気が付けば緊張で身体中が固く強張っていた。
その時、突然扉が開く音がして、ナリアは大きく肩を震わせた。息を詰め、扉に視線を移すと、額に大量の汗を流しながら息を切らせて車内を覗き込むリベリオの瞳と目が合った。
「ナリー!遅くなってすまない!大丈夫か!?」
リベリオの後ろにいる御者が、青い顔をしてナリアに視線を送っている。その視線に気が付くと、ナリアは精一杯の笑顔を浮かべて声を振り絞った。
「え、えぇ…大丈夫…です。リブは、大丈夫でしたか…?」
ナリアの返事に安堵の息を吐くと、リベリオは御者に指示を出して馬車に乗り込んだ。布を取り出し、額の汗を拭って大きく息を吐く。
「俺か?俺なら何ともない。俺が着いた頃にはもう自警団が踏み込んで捕らえた後だったからな。団員が一人怪我をしていたが、大したことはないらしい。」
「そ…うでしたか。それは…良かったです…。」
ナリアが俯き外套を握り締めると、それを見たリベリオは身を屈めてナリアの顔を覗き込んだ。
「ナリー、どうした?寒いのか?」
「い、いいえ、その…。あ、はい、そうなんです。少し、肌寒く感じたので…。」
「フフ、どっちなんだよ。それならもっとちゃんと被っとけ。」
リベリオがナリアの外套に手をかけ、肩に掛け直す。その横顔を見つめながら、ナリアは先ほどの光景が蘇った。
----どうしよう…聞いたら答えてくれるかしら…。でも、ここを離れていたことをリブが知ったら、御者の方が…。ううん、リブを信じるって決めたじゃない。大丈夫、リブは私に『愛してる』って言ってくれたわ!
外套を握る手が震える。
リベリオが身体を起こして座り直すと、馬車がゆっくりと走り出した。
「ねぇ、リブ…。」
「うん?どうした?」
「あの…先ほどの騒ぎの事ですけれど、窓の外から宿屋が襲われていると…聞こえてきました。」
「…あぁ、そうだ。広場にある大きな宿屋なんだが、ガラの悪い連中に目を付けられて荒らされ続けているんだ。自警団だけじゃ手に負えなくてな。以前、騎士団にも出動要請が入ったんだよ。」
----ダメ。聞いてはいけない。リブを信じるなら、このまま何も聞かずにここで止めないと…!
「用心棒を雇う余裕は無いらしく、だからといってこのままじゃ街の治安が悪くなる。そこで俺の部下たちが勤務時間外に交代であの宿に泊まっているんだが、今日は担当の者が残業で遅くなったらしく、タイミングが悪かったんだ。」
ナリアはハッとして、震える唇をキュッと噛みしめ静かに口を開いた。
「そうなのですか…リブの部下の方が…。では、リブはその宿屋に行ったことはあるのですか?その…お知り合いがいるとか。」
ナリアは祈るような思いでゆっくりとリベリオの顔を見上げた。そしてその表情を見た途端、絶望の影がよぎった。
----この顔は…!
かつてナリアが婚約をすると伝えた時の、息を詰めたような表情。湖の側でも見た、リベリオが動揺を隠す時の無意識の表情に、ナリアは目の前が霞みだした。
----ううん、大丈夫。リブはちゃんと話してくれるわ。助けただけだって。彼女を抱き締めたのは、落ち着かせる為だって。
僅かな沈黙の後、リベリオはフ、と笑ってナリアを見つめた。
「いや。一度警備の為に泊まった事はあるが、それだけだ。知り合いなんかいないよ。」
*
うんざりするような暑い日が続く、八の月も半ばに差し掛かる頃。第五騎士団の団長室で、リベリオは机に向かったまま眉間に皺を寄せていた。今目を通している書類は、机に向かって最初に手に取ったもののままになっている。すでに陽は高く上がり、昼になりつつあった。
「副団長。副団長!」
「うわっ!何だよ急に!!」
突然耳元に響く大声にリベリオが跳ね上がると、ルミオは身体を起こして半目で見下ろした。
「何だよじゃないですよ。全然進んでおられないじゃないですか。もうお昼ですよ!」
「うわ、もうそんな時間か!まずい…全然終わってねぇ…。」
「副団長が仕事に手が付かないなんて珍しいですね。何かお悩み事ですか?」
ルミオが涼しい顔で追加の書類を机に並べる。その無慈悲な行動を呆然と眺めながら、リベリオは椅子にもたれて天井を睨んだ。
「ナリーが会ってくれない…。」
「はい?」
「だから!この半月程、またナリーが俺と会ってくれないんだよ!」
ルミオがポカンと口を開けると、リベリオは勢いよく起き上がり机を叩きつけた。
「何度デートに誘っても、今度は『お会いできません』の一点張りだ!何だよそれ!都合が悪くすらないじゃねーか!前より酷くなってるって、何だよこれ!?」
叩きつけた拳をブルブルと震わせながら、リベリオはぶつけようのない苛立ちに顔を顰めた。その様子を見下ろしながら、ルミオが表情を変えずに口を開いた。
「最後にお会いしたのはいつなのですか?」
「先月の末だ。ナリーの誕生日の日にデートして、その時に婚約指輪を渡した。」
「それでしたら喜びこそすれ、副団長を避けることは無いと思うのですが。他にお心当たりは無いのですか?」
「無い。俺がナリーを愛している事は、これでもかという程本人に伝えているつもりだ。」
「はぁ、そうですか。でもその日以来お会いされてないのですよね?では、その日に何かあった可能性があるのではないですか?」
リベリオは口元に手を当てて、唯一思い当たる出来事に顔を顰めてポツリと呟いた。
「あの日…デートの帰り道に、あの宿屋に向かって行く自警団に出くわしたんだよ。」
「あぁ、そういえば先月ありましたね。近くにおられたのですか?」
「あぁ。その時馬車に乗ってたから、咄嗟に…御者に宿屋へ向かうように言ったんだ。」
「は!?その時、ナリア嬢はおられなかったのですか!?」
「…いた。御者に命じた直後に、隣にいる事に気が付いたんだ…。」
ルミオが唖然としてリベリオを見つめると、その視線に気付き目を逸らした。
「うっかりしてた…。だが、外は暗くて危険だからと言って馬車の中で待たせたんだよ。野次馬も多かったし、馬車からは見えない程には離れていたから大丈夫だと思ったんだが…。」
「えと…。別に、外から見てただけなんですよね?要請があったわけじゃ無いのですから…。」
「…。」
「何をなさったのですか!?」
ルミオが目を剥いて詰め寄ると、リベリオはバツの悪さを隠すように両手で顔を覆い、くぐもった声を出した。
「宿屋の側まで行って…助けに向かおうとしたところで…。抱き締めた…。」
「はい?何ですって?」
「だから、泣きながら飛び込んできた彼女を、抱き締めたんだよ!でもそれだけだ。避けようがなかったんだよ。」
リベリオの告白に絶句しているルミオを横目に、リベリオは勢いに任せて続けた。
「宿屋に着いたら、ちょうどルマリナが怪我をして運び出されるところだったんだ。口元から血を流していた。女の顔なのに…!だから、思わず名前を呼んだんだよ。そしたらそういう事になったんだ。」
「いや、だからってですね…。」
「どうしようも無いだろう!?彼女は殴られたせいで動転して、フラフラだったんだ。とにかく落ち着かせなきゃいけなかった。だから自警団の連中にさっさと連行するように言って、彼女を宿屋の中に連れて入った。使用人の娘が彼女の手当てを始めたところにその夜の担当の者が来たから、後は任せて急いで馬車に戻ったんだよ!」
「クソッ」と言って項垂れるリベリオを無視して、ルミオは考え込むように口元に手を当てた。
「ご主人はどうされたのです?」
「旦那もいたさ。酷く殴られたみたいで、床に座り込んでた。彼女を先に外に連れ出すように言ったのも旦那だ。とりあえず起こして、彼も手当てをするように頼んだんだ。」
「馬車に戻られた時、ナリア嬢はどうなさってましたか?」
「別に変わった様子は無かった。ただ、寒かったようで外套を被っていたぐらいだ。」
「外套を?確かあの日の夜は、記憶に残る程暑い夜だったはずです。ましてや、馬車は扉を…もちろん窓も締め切っていたのですよね?風が通らない車内は、寒いどころかむしろ非常に暑かったのでは?」
ルミオの言葉にリベリオは頭の中が真っ白になり、目を見開いた。宿屋から走って馬車に向かった時、馬車に着く頃にはあまりの暑さに大量の汗をかいていたことを思い出す。
息苦しさに耐えるように拳を握り締め、車内での会話を思い返した。
----そうだ。ナリーに寒いのかって聞いたら、アイツ、最初は『いいえ』って答えた。その後すぐに、今度は『肌寒い』と…。
頭の奥で警鐘が鳴り始め、嫌な予感が脳裏をよぎる。外套を持っていたのが、外に出る為だったとしたら。
----もし…あれをナリーが見てたとしたら…。
リベリオはハッとして、ナリアの言葉を思い出した。身体中の血の気が引き、背筋が凍る。
----『リブはその宿屋に行ったことはあるのですか?その…お知り合いがいるとか。』
リベリオは目の前が真っ暗になり、机に崩れ落ちた。




