15
七の月になり、夕暮れ時まで昼間の暑さを残しだした頃。リベリオはアマティスタ家の玄関の前で、ナリアが出てくるのを待っていた。
仕事を早めに切り上げて一度実家に戻り、身を清めてからデート用に身支度を整える。サラリと靡く髪と仕立ての良い襟元からは、柑橘系の爽やかな香りが漂っていた。
「リブ、お待たせしました。」
「ナリー!あぁ、今夜は一段と綺麗だ。」
豊かなダークブラウンの髪を高く結い上げて露わにした、首から肩に続く細い線。背後の襟部分は深くカットされ、肩から流れるレース袖からは細い腕が透けて見える。
身体の曲線に沿った光沢のあるカメリア色のドレスに身を包み、ナリアは恥ずかしそうに微笑んだ。
「はぁ…本当に綺麗だ。お前、本当に庭で飛び跳ねてたあの少女か?」
「もうっ!あの時の事は忘れて下さいと、何度も申し上げましたのに!」
ナリアが頬を赤く染めて声を上げると、リベリオはククッと笑いながら腰を屈め、ナリアの耳元に口を寄せた。
「お前との思い出を、忘れるわけがないだろう?」
起き上がりざまに耳に軽くキスをする。顔を真っ赤にして唖然としているナリアには気にも留めず、そのまま手を引いて馬車に乗せた。
「ひ、人様の前で何てことをするのですか!」
「何がだよ。ちょっと耳に触れただけじゃないか。うん?お前もしかして…キスもしたこと無いのか?」
「え!?いえ、その…どうだっていいじゃないですか、そんな事!」
リベリオがナリアの隣に座ると扉が閉まり、馬車が動き出す。リベリオはナリアの横顔をまじまじと眺めながら、静かに口を開いた。
「お前、本当にキスもしたこと無いのか?」
「ですから、どうしてそのような恥ずかしい事を…。」
「俺は真面目に聞いているのだが?」
ナリアはリベリオをチラと見る。自分を真剣に見つめる瞳と目が合うと、パッと逸らして窓の外を見た。
「…ありません。」
「本当に?今まで一度も…キュリオともしたこと無いのか?」
「ですから、ありませんってば!もうこのお話はおやめ下さい!」
「ナリー、こっちを向いてくれ。」
「嫌です。」
「今はハッキリ言う所じゃない。いいから、こちらを向けと言っている。俺を見ろ。」
「…。」
僅かな沈黙の後、ナリアが小さく息を吐いてゆっくりと振り向く。ナリアがリベリオの顔を認めるよりも早く、リベリオはナリアの頬に手を添えて引き寄せ、キスをした。
「!?」
ナリアは目を見開いて、目の前にあるリベリオの閉じた瞳を凝視する。そっと触れるような柔らかい感触に頭が真っ白になっていると、唇に濡れた感触が走り咄嗟に目を瞑って身を強張らせた。
「ナリー…少し口を開けてくれ。」
リベリオの懇願するような甘い囁きに、震えながら唇を緩める。その隙間を埋めるように、リベリオはゆっくりと自分の舌を沈めた。
口の中を優しく撫でられ、蕩けるような感覚に身体の力が抜けだすと、リベリオはナリアの身体を支えながらゆっくりと離れた。
「大丈夫か?」
「ハァ…。な、何を急に…こんな…。」
リベリオがナリアの顔を覗き込む。頬を火照らせ、潤んだ瞳で見上げるナリアの表情に、リベリオは心臓が跳ね上がった。頬に触れ、吸い込まれるように再び顔を寄せると、車輪の弾んだ音にハッと我に返った。
----まずい、離れないと。このままじゃ外に出られなくなる…。
ナリアの身体を起こして自分も座り直す。深呼吸をして視線だけをナリアに向けた。
「ナリーがあまりにも可愛い事を言うから、我慢できなかった。嫌だったか?」
「…嫌じゃないです。」
頬を染めたまま目を伏せる。ナリアの長い睫毛と呼吸で上下する胸元を目の当たりにして、リベリオは飛びそうになる理性を必死に繋ぎ止めた。
広場から少し離れた停車所に馬車を停め、ナリアの手を腕に回して会場へと向かうと、すでに多くの見物人が押し寄せていた。
「ナリー、俺たちはあちらから入る。俺の腕にしっかり掴まって、足元に気を付けろよ。」
「はい、わかりました。」
リベリオが会場の受付でチケットを渡すと、案内人が「こちらへどうぞ」と声をかけてきた。有料席の周りには腰までの囲い布が張られ、押し倒されないように警備員がずらりと並んでいる。舞台のすぐ近くからは見えないが、立ち見客からも見えるように配慮してあるため、無理矢理押し入ろうとする者はいなかった。
「ナリー、こちらに座れ。」
リベリオに促されて席に着くと、ナリアは目の前の席に座る男女を見てハッとした。ナリアの前には小柄な女が座り、リベリオの前には大柄な男が座っている。長身のリベリオよりも丈も幅もある為、リベリオですら舞台の全てが見えるか怪しい。
----私に見える方を譲ってくれたんだ。
リベリオのさり気ない気配りに胸が高鳴る。ナリアが下から見上げるようにリベリオを見ると、その視線に気付いたリベリオがニコリと微笑み、口をパクパクさせて「なんだ?」と聞いた。
その時、進行役の男が舞台に現れ一礼すると、簡単な手品を披露した。
それを合図に開演を告げる音楽が鳴り響く。
ナリアは舞台に集中する事で、笑顔の破壊力に卒倒しそうになるのを何とか堪えた。
*
「すごく素敵でしたね!!」
演目が終わり、会場から出る。大勢の人が行き交う広場を歩きながら、ナリアは興奮気味に目を輝かせていた。
「透き通るような歌声も素晴らしかったのですが、演劇もまた素晴らしかったわ!ラブストーリーなのにユーモアもあって、何度も笑うのに最後は感動するなんて。あぁでも、やっぱりダンスが一番ね。今日は軽やかなステップがメインだったから、あれなら私にも踊れるかも。昔、リブと踊ったものと似ていました。」
早口で捲し立てるように話していると、リベリオが微笑みながら自分を見つめる視線と目が合った。途端に恥ずかしさが込み上がり、目を逸らす。
「す、すみません。その、つい興奮してしまって…。」
「何を謝る事があるんだ?俺としてはそうなる事を期待して誘ったのだから、嬉しいぐらいだ。」
リベリオの言葉に、ナリアはドキリと胸が鳴った。「行こうか」と言うリベリオの優しい声が耳に心地良い。差し出された大きな手にそっと掴まり、促されるままに歩き出した。
----まただわ。また、私に気を使って下さって…
「ナリア嬢!」
観劇の余韻に浸る人々が騒めき合う中、背後から声をかけられ振り返ると、ナリアは久しぶりの再会に目を見張った。
「まぁ、キュリオ様にリーシャさん!お久しぶりですね。お元気でしたか?」
「ナリアさん、お久しぶりです。私たちは元気にしています。ナリアさんもお元気そうで良かったわ。」
「ナリア嬢、久しぶりだね。先ほど君たちの姿を見かけたから追いかけてきたんだよ。リベリオ殿、お久しぶりです。妻のリーシャです。」
「リベリオ・デガートです。わざわざお声がけいただきありがとうございます。貴殿も観に来られていたのですか?」
----あら?お二人ともお知り合いだったの?
キュリオとリベリオ、リーシャが軽い挨拶を交わす。その様子をキョトンとした顔で眺めるナリアを横目に、キュリオはニコリと微笑んだ。
「はい。実は今回の催しは父の今後の事業の一環でして、私は視察がてら観に来ていたのです。でも…」
そのままチラとナリアに視線を移し、肩を竦めた。
「君たち二人が来るとわかっていたら特別席を用意したのに、残念だ。」
「特別席?そんな場所があるのですか?」
「あぁ。あちらの宿の最上階を借りてるんだよ。あの窓にあるバルコニーに席を作って、舞台を真正面から見下ろせるようにしてあるんだ。」
キュリオが指し示す方向に視線を移すと、大きな窓が目に入った。そのバルコニーの豪華な雰囲気から、一目で料金の高さがわかる。
----ルミオが言っていたバックにいる有力な貴族ってのは、グラナード侯爵だったのか!
気付かれないよう眉間に皺を寄せているリベリオとは対照的に、ナリアは満面の笑みで振り向いた。
「素晴らしいお席ですね!」
ナリアの一言が、リベリオのプライドにグサリと刺さる。胸の痛みに堪えていると、「ですが…」とナリアは続けた。
「私は舞台のすぐ側で観るのが好きなのです。役者の方々の表情や姿勢、手の細やかな動きまでじっくりと観ることができるのですもの。そんな私の気持ちを察して下さったリベリオ様のお心遣いに、本当に感謝しておりますの。」
----ナリー!!
リベリオを見つめながら優しく微笑むナリアの言葉に、リベリオは胸に熱いものが込み上げた。自分を選び、立ててくれたナリアの気配りが舞い上がりそうな程こそばゆくて心地良い。
二人だけの世界で見つめ合っていると、キュリオがコホンと咳払いをした。
「あー…なんだかお邪魔みたいだから、私たちはこれで失礼するよ。そうだリベリオ殿、よろしければ今度は二人でお会いしましょう。」
キュリオの誘いに、リベリオがピクリと反応する。僅かに視線を交わすと、すぐにナリアに振り向いた。
「ナリア嬢も、リーシャとまた会ってくれるかな。」
「もちろんですわ。私でよろしければ、いつでもお伺いさせていただきます。」
「まぁ、嬉しいわ!楽しみにしておりますね!」
「それじゃあ、行こうか」とキュリオがリーシャの手を取って歩き出す。その後ろ姿を見送っていると、リベリオがポツリと呟いた。
「お前、あの二人と普通に仲が良いんだな。」
「えぇ、お仕事でも長くお付き合いさせて頂いておりましたもの。殆どお会いする機会はありませんが、仲良いですよ。」
「ふーん、まぁいいか。その辺の事は後で聞くとして、とりあえずレストランに向かおう。予約してあるんだ。」
「はい。とてもお腹すきました!」
リベリオはククッと笑ってナリアの手を取り、手の甲にキスをして歩き出した。
*
レストランで食事を終えて、馬車の停車所へと歩く。食事をしながら演目の感想を言い合っては、劇中の可笑しかった場面を思い返し笑いあった。
「はぁ、もう一日が終わってしまったな。」
「本当に。とても楽しかったです。」
ナリアがフフ、と笑って言うと、リベリオは足を止めてナリアに向き直った。
「ナリー、この前湖に出かけた時のことだが…。」
「はい。」
「本当に、誤解なんだ。俺はこれまでお前以外に惚れた女なんていなかったし、初恋だったのも本当だ。その…順番がごちゃごちゃになってしまって、俺自身どう伝えれば良いのかわからないのだが…。」
リベリオの声がしぼんでいくように段々と小さくなっていく。肩を落とし、いつも自信に満ちた態度で堂々と振る舞っていたリベリオからは想像できない姿に、ナリアは呆気に取られた。
リベリオが項垂れたまま視線を彷徨わせていると、ナリアは小さく息を吐いてリベリオを見上げた。
「わかりました。もう、忘れます。」
「え?」
「そもそも、リブはずっと女性にモテ続けていたのですもの。過去の事を言い出したらキリがありません。」
「うっ…いやまぁ、そうかもしれないが…。」
「ですから、これからの事に目を向けましょう。リブはその…私の事を好きですか?」
ナリアが少し照れながら言う。その表情にグッとくる感情を抑えながら、リベリオは真剣な眼差しで頷いた。
「もちろんだ。俺はお前の事を愛している。」
「あ、愛っ…!?どうしてそう恥ずかしい事をハッキリと仰るのですか!とにかく、私もリブの事が、す、好きです。ですから…ひゃあっ!!」
「好きです」のところでプツリと何かが断ち切れ、リベリオはナリアをギュッと抱き締めた。夜風に当たっていたからか、ナリアの肩が冷たくなっている。
外套を外してナリアの肩に掛けると、そっと瞳を閉じた。
*
二人を乗せた馬車がアマティスタ家の玄関に近付くと、出た時には無かった豪奢な馬車が停まっていた。
御者が先客の邪魔にならないよう反対側に馬車を停める。ナリアはその馬車の持ち主に気付き、リベリオと視線を合わせた。
「あれは…。グラナード侯爵様が来られているのかしら。」
「何でまた、こんな夜遅くに来るんだ?」




