12
強い風が水面を揺らして吹き抜ける。ナリアが頬を染めて戸惑う姿にクスリと笑って、リベリオは湖に視線を戻した。
「子供だと思っていたお前が、たった二年で大人になって現れた時は正直驚いた。今は更に綺麗になって、本当に俺でいいのかって思うぐらいだ。」
「いえ、その…。」
俯くナリアを横目に、リベリオはずっと心の中に刺さっていた楔に手をかけた。
「…一つ、聞いても良いか?」
「何でしょうか。」
「お前さ、あの時…最後に会ったあの夜会の日だ。お前、キュリオ・グラナードと婚約をすると言っていただろう?」
「はい。」
「あの時、『正式に婚約する前に来た』と言っていたよな?」
「…はい。」
ナリアの心臓がドクドクと早鐘を打つ。必死で忘れようとしたあの時の胸の痛み。それを抉られているような感覚に小さく肩が震えた。
----何?何を言われるの?まさか『あの時、俺の事好きだったのか』とか…
「悪かった。」
「はい?」
ナリアはパッと顔を上げてリベリオを見た。全く予想していなかった言葉な上に、何に対して謝っているのかがわからない。湖を睨むように見つめるリベリオの横顔をまじまじと眺めていると、リベリオはバツの悪そうな顔でボソボソと話し出した。
「だから、悪かったよ。俺があの時、お前を引き止められたら良かったんだ。」
「あの、リベリオ様?一体何を…。」
リベリオは顔を覗き込もうとするナリアの視線を遮るように、咄嗟に片手で顔を覆った。男として情けない事を口にする時に、じっと見られるのだけは避けたい。
「だからっ!当時の俺には、お前を引き止められるだけの甲斐性が無かったんだよ!」
「はい?」
「キュリオの父親のルミゴン・グラナードは国一番の実業家だ。その跡取り息子と、伯爵家の次男で、しかも平騎士の俺とじゃあ比べるまでもないだろうが。しかも歳だって離れているんだ。」
「…。」
「お前の幸せを考えたら、俺なんかより奴と結婚した方が良いと思ったんだよ。」
そう言うと、リベリオは項垂れるように顔を背けた。髪から覗く耳が真っ赤に染まっている。
----リブ様、それって…もしかして…
「そうだよ!俺は奴に嫉妬したんだ!お前が綺麗になって現れて、ただでさえ動揺したっていうのに、婚約するだと!?」
----あっ、しまった声に出てたのね!?
ナリアが慌てて口を押えると、リベリオは顔を上げてナリアの手を取り、その手を見つめた。
「今思えば…あの時お前が俺を呼び、振り向いた時にすでに恋に堕ちてたんだよ。なのに速攻で失恋だ。初恋だったんだぞ、チクショウ…。」
「は、初恋っ!?」
ナリアが思わず裏声を出して仰け反ると、リベリオはジロリと睨み据えた。
「なんだよ。俺が恋しちゃおかしいっていうのか?」
「え?いえ、そうではなく、初恋…ですか?あの日に?リベリオ様が?」
「あのなぁ、確かに俺はいろいろ経験しているが、恋はしたこと無かったんだよ。むしろそんな面倒なもん、何で好きこのんでするんだって思ってたぐらいだ。」
ナリアが呆然とリベリオの顔を見つめていると、リベリオは「ハァ」と大きく溜息を吐いた。
「とにかく、俺のくだらないプライドで結果的にお前を傷付けてしまったのなら、悪かった。」
「あの…先ほどから一体何のお話を…?」
「うん?だってお前、あの時俺に引き止めてほしかったんだろ?」
二人の間に沈黙が落ちる。リベリオが曇りの無い目で真っ直ぐに見つめて言うと、ナリアは頭の中が真っ白になり、みるみる顔が真っ赤になった。
「はい!?何ですか急に!」
「違うのか?俺の勘違いだったか?」
リベリオが手を握ったまま顔を覗き込む。間近に迫る美しく整った顔と碧い瞳にナリアは顔から火が出そうになり、逃げるように背中を反り曲げた。が、その分リベリオも追いかける。
「いえ、そういうわけでも…。いやっ、えと、ですからあれはですね…。」
「なんだよ、ハッキリ言えよ。俺だって正直に話しただろうが。」
「近い!近いです!ちょっと離れて下さい!!」
リベリオが身体の位置を戻すと、ナリアはバクバクと鳴り響く胸を押さえながら、急いで呼吸を整えた。何が起こっているのかわからない。
----リブ様が、私に恋をしていた?何を言っているのよ、だって…
----『なんでも、心に決めていた女性がいたそうなの。でもその女性はすでにご結婚なさっていて、叶わない恋だと仰っていたそうよ。』
ハッとして目を見開く。
----そうよ…。そんなわけないじゃない!
ナリアは唇をキュッと噛むと、リベリオに背を向けるようにして座り直し、小さな声で呟いた。
「はい。確かにあの時、リベリオ様にキュリオ様と婚約することを打ち明けたのは、引き止めてほしいという気持ちを…伝える為でした。」
ナリアは未だ鳴り響く心臓に耐えるように、声を絞り出した。せめて声が震えだす前に言い切らなければという焦りがナリアを早口にさせる。
「でも、その後すぐに自分の気持ちは勘違いだと気付き、恥じ入りました。それに、あの時リベリオ様が笑顔で送り出されたのは当然です。リベリオ様にとって私は、ただ一度偶然会っただけの子供に過ぎなかったのですもの。それは私にとっても同じです。初めて大人の男性とお話をして、舞い上がっていただけなのです。本当に、自分でも情けない程に子供でした。」
「…。」
「ですからリベリオ様がお謝りになる必要は無いのです。私の為に…、私を傷付けない為にそんな風に仰っていただけただけで十分です。」
「ナリア、違う!俺は本当に…」
「リベリオ様。貴方様のお心に、他の女性がいることはわかっております。たとえ生涯、その方を忘れられなくとも…。私では役不足かもしれませんが、自分の立場を弁える程には大人になったつもりです。」
「ナリア?お前、何言って…」
「私の噂をご存知の上で求婚をして下さったこと、心から感謝しております。」
「ナリア!!」
リベリオがナリアの両肩を掴み眉根を寄せて詰め寄ると、ナリアはリベリオの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ですからご安心下さい。貴族間の婚姻に心が必要無いことは重々承知しております。リベリオ様のお邪魔になるような事はいたしません。」
*
ベンチに座ったまま、ナリアとリベリオは向かい合っていた。草花を撫でる風の音が聞こえる中、互いの視線だけが絡み合う。
リベリオが両肩を掴んだまま見つめていると、ナリアは視線から逃げるように身を捩り、リベリオの手から離れた。
「…そろそろ、参りましょうか。」
ナリアがそう言って立ち上がろうとした時、リベリオはナリアの腕を掴んで押し止めた。リベリオの鋭い視線がナリアを射抜く。咎めるような瞳で見つめられ、ナリアは小さく肩を震わせた。
「待て。このまま終わらすわけにはいかない。」
「リベリオ様?何を…」
「ナリア、ちゃんとこちらを向くんだ。俺の心に他の女がいるだと?何の話だ。誰に聞いた?」
「…。」
「言うんだ。誰に聞いた?」
リベリオが真剣な眼差しで詰め寄ると、ナリアは目を伏せ震える声で話した。
「リベリオ様が戦地からお帰りになられている途中、そのお話を聞いたという方からです。私がその方から直接お聞きしたわけではありませんが、その方と私の義弟が知り合いで…。義弟の妻である私の妹から聞きました。」
「何だと?戦地から帰る途中?」
リベリオは口元に手を当てて帰路での出来事を思い返した。ある者は目の前で戦友を失い、ある者は身体の一部を失って、皆が皆、心身共にボロボロになっていた帰り路。上からの命令を伝達する以外会話らしい会話などない程に疲れ切っていた日々の中での、ある野営地での出来事を思い出した。
あと二日ほどで国境に入れるところまで来た日の夜、いつもより強い酒に口を付けてしまった。普段ならそんな失態はしないが、疲れていた事もありアルコールの強さを感じるのが鈍くなっていた。
----そうだ。そういえばその夜、皆で飲んでた時に俺の結婚話になったんだ。どうせ誰にもわからないだろうと思って…咄嗟にナリアの事を言ったんだ!
リベリオがハッとして息を呑むと、目の前で不安げに視線を彷徨わせるナリアの顔を見つめた。途端に胸に熱いものが込み上げ、抱き締めたい衝動に駆られる。
リベリオの表情が変わった事に気が付くと、ナリアは眉尻を下げて自分の軽率な発言を後悔した。
「申し訳ありません。私には関係の無いお話ですのに、リベリオ様のお心に踏み込むような事をしてしまいました。」
「違う!違うんだ!誤解だ!それは、ナリアの事を言ったんだよ!」
「ですから、先ほどからどうしてそのような嘘を吐くのですか?私は結婚しておりません!」
「は?」
「…妹の話には続きがあります。『その女性はすでにご結婚なさっていて、叶わない恋だと仰っていた』と。」
「いや、だから!それはお前がキュリオと結婚していると思い込んでいたからで…!とにかく、嘘じゃない!」
リベリオが思わず声を荒げると、ナリアは顔を背けたまま口を開いた。
「リベリオ様は以前、街に旅芸人の一座の演目を見に出かけたと仰っていたことを、覚えておいででしょうか。」
「旅芸人の一座?あぁ、確かお前にダンスを教えてもらった翌年のやつだよな。見に行ったのはそれだけだったから覚えている。それがどうかしたのか?」
「私…その時リベリオ様をお見かけしたのです。とても綺麗な女性と仲睦まじくて…。本当は、その女性のことなのではないですか?」
「は?何だそれは…、!!」
リベリオは再びハッとしたと同時に、今度は冷や汗が流れた。一緒に見に行った相手に思い至ると、ナリアが『仲睦まじく見えた』のも頷ける。
----ルマリナか!
娼婦と客という割り切った関係ではあったが、その頃はまだ知り合ったばかりで歳も近く、気が合う者同士として気軽に出かけていた。
旅芸人の一座を見に行こうと言い出したのも、ルマリナからだった。
----あれを見られたのか!
咄嗟にバツの悪い顔を隠すように手で顔を覆うと、指の隙間からナリアの様子を覗き見る。視線を逸らし、頬を染めて口を尖らせるナリアの表情に、リベリオは思わず目を見張った。
----これって、もしかして…。ヤキモチか!?
リベリオは高鳴る胸を押さえきれずに、頬に触れようと手を伸ばした。
「ナリ…」
「…先ほどハッキリ言えと仰いましたよね。では申し上げます。最後に夜会でお会いした日に、私に恋をしたと仰いましたが…」
「あぁ、言った。」
「それも嘘ですよね。」
リベリオの手がピタリと止まる。ナリアの冷めた表情に、リベリオは眉根を寄せた。
「…どういう事だ?さっきから聞いていれば、なぜお前は俺の気持ちを否定ばかりするんだ。」
「…。」
「他に好きな女がいるだの、婚姻に心は必要無いだの、俺の邪魔はしないだの!いい加減にしろ!!」
リベリオは伸ばした手を引っ込めてきつく握り締めると、声を荒げて続けた。
「お前が…自分の気持ちを勘違いだったと否定するのはまだわかる。お前にはお前の、考えや気持ちがあるのだろう。しかし、俺の気持ちを否定するのは違うだろう!俺がお前に恋をしたのが嘘だと!?なぜそんな事まで言われなきゃならないんだ!!」
リベリオは拳をわなわなと震わせ、ナリアを睨みつけた。持っていき場のない怒りと苛立ちに呼吸が荒くなる。僅かな沈黙の中、今すぐナリアをきつく抱き締めたい衝動に歯を食いしばって耐えていると、ナリアが静かに口を開いた。
「本当に私に…好意を抱いて下さっていたのですか?」
「だから、さっきからそう言っている!」
「そうですか。では今年の…年が明ける前、リベリオ様は部下の方とお酒を飲みに行かれていませんでしたか?」
「何だ急に。部下と酒なんて…、…行った。なぜお前が知っているんだ?」
リベリオは目を丸くした。ルミオからナリアについての情報を聞き出す代わりに酒を飲みに連れて行った事を思い出す。そして同時に、その時交わした会話の内容も思い出し、リベリオは全身から血の気が引いた。
「あの日、偶然義弟もその店にいたのです。そして、お二人の会話を聞いていました。リベリオ様から婚約を申し込むお手紙を受け取った後、妹が教えてくれたのです。」
「いやっ、だから、あれはだな…!」
「思い出していただけたようで、よろしゅうございました。では、私がわざわざ申し上げなくてもよろしいですよね。」
「待ってくれ、だからあの時はまだ…。」
「『まだ』、何ですか?『まだ恋はしていなかった』?」
「いや、だから…。そう!あの後すぐに気付いたんだよ!お前と再会した時にはすでに恋に堕ちてたんだって。自覚が無かっただけで!」
「すぐに、ですか?どうやって気付いたのです?あの夜から三年間、一度もお会いしておりませんのに。」
「だから、それはルマ…!」
「ルマ?」
リベリオは咄嗟に手で口を覆った。ルミオと別れた後、ナリアの代わりにルマリナを散々抱いた直後に彼女から悟らされたなど、惚れた相手には口が裂けても言えない。
リベリオが妙な汗を流しながら押し黙っていると、ナリアはバッと立ち上がり表情のない顔をリベリオに向けた。
「ですから、婚姻に心は必要無いと申し上げたのです。こんな嘘を吐くくらいなら…。」
「ナリア、ちょっと待て!嘘じゃ…」
「尋問のような失礼な真似をしてしまい、申し訳ございませんでした。今日はもう帰ります。」




