第34話
会議室の空気は、どこか乾いていた。
壁際に立てかけられたホワイトボード。
机の上に並ぶ資料。
投影された渋谷の地図と、数枚の店舗写真。
薬銃課の係長が前に立ち、淡々と説明を続けている。
「――対象はクラブ『LUXE』を含む三店舗です。今回、我々が押さえるのは売人および店側の流通責任者。客の逮捕は二の次、まずは流れを止めます」
分厚い資料をめくる。
店内見取り図からはじまり、抑えるべき出入口、逃げ道になりそうなバックヤード、そこから通じる非常階段から屋上への動線。
(……逃げ道は多いな)
「刑事一課からは潜入支援と逃走経路封鎖をお願いします」
薬銃課の係長がこちらを見る。
「小澤警部、潜入班でよろしいですね」
「ああ」
短く返す。
「開始は二十時。合図が出るまでは絶対に動かないでください。分かっているとは思いますが、現場判断で先走られると、全部が崩れます」
(……釘を刺されたな)
もっとも、言いたいことは分かる。
薬物絡みの摘発は、売人一人取り逃がすだけで意味が薄くなる。
諸々の確認をして会議が終わる。
配布された資料を閉じ席を立つ。
鴨志田が隣で小さく息を吐いた。
「クラブっすか……似合わないっすね、警部」
「お前もだ」
「俺はまだ若いんでギリいけますよ」
「その軽口、本番でも続ける気か?」
「やめときます」
だが、顔は少し楽しそうだった。
(……全く)
夜――渋谷。
スクランブル交差点の光が、やけに眩しい。
人の波。音。熱気。
巨大なモニターから流れる映像と音楽。
昼間よりも、人が多い気がする。
(……落ち着かんな)
クラブ『LUXE』は、表通りから少し外れた場所にあった。
派手すぎない外観。
だが、入口に立つ男たちの視線は鋭い。
看板は控えめだか怪しく光る。
知っている人間だけが入る類の店だ。
イヤホンの奥で小さく無線が鳴る。
『潜入班、位置につけ』
「了解」
短く返し、スマホをしまう。
今夜の服装は、いつものスーツではない。
黒のシャツにジャケット。
鴨志田と並んで歩けば、ぎりぎり“仕事帰りの客”に見える……はずだ。
「じゃ、行きますか」
「ああ」
入口にて年齢確認をされ、扉が開けられる。
瞬間、重低音が腹に響いた。
店内は暗い。
青と赤の照明が交互に瞬き、空間を切り刻んでいる。
酒の匂い。
甘い香水。
煙草と、もっと別の何かが混じったような匂い。
(……ひどい空気だ)
フロアには人が密集している。
笑っている者。
踊っている者。
だが、そのどれもが少しだけ空虚に見えた。
(目が死んでる)
全員ではない。
だが、一部に、明らかに様子のおかしい連中がいる。
焦点の合わない目。
不自然に高揚した笑み。
同じ動きの繰り返し。
「警部」
鴨志田が小さく声を落とす。
「あっち、見ました?」
カウンター脇。
男が一人、客に何かを手渡している。
小袋。
一瞬だけ見えた。
(……売ってるな)
だが、まだ動けない。
今ここで現物を押さえても、騒ぎになり末端一人で終わる。
狙うべきは、その先だ。
ひとまず鴨志田と別れ、カウンターに座る。
ドリンクの注文のため店員が来たが、酒は頼まない。
適当にソーダを注文する。
飲み物が来るまでの間に店内を観察する。
スタッフの動き。
客の流れ。
裏に消える人間。
戻ってくる人間。
(バックヤード……あそこか)
そのときだった。
「見ない顔だな」
男の声。
気配を感じ横を見る。
男が立っていた。
黒いスーツに黒いシャツ。
年齢は三十代前半ほど。
髭はなく、整った顔立ちだが、笑っていない。
目だけが妙に冷たい。
(……なんだ?)
シルクハットは被っていない。
だが、写真で見た“黒い男”と空気が似ている。
「後輩に誘われて来たんだ。初めてでね」
男が薄く笑う。
「そうか。ここは紹介がないと来ない客が多い。新顔は久しぶりだな」
「そうなのか。なら、これからよろしく」
「そうだな」
一拍。
「それで?お兄さんは、何か探してるの?」
(……見すぎていたか)
「こういう場所には来ないからな。物珍しくて」
「なるほど。確かにお兄さんみたいな人はそうそう来る場所じゃないかもな」
男の視線が、わずかに鋭くなる。
(……疑ってるな)
こちらを値踏みしている。
ただの客ではないと、すでに気づいている顔だ。
ここは話題を逸らしたい。
「そういうお兄さんこそ、こんな所で何してるんだ?そんなに俺と歳も変わらないだろ?」
ソーダを一口飲む。
「このクラブのオーナーとか、かな?」
男が肩をすくめる。
「いや、オーナーじゃないよ。常連さ。ただ、ここのオーナーとは旧知の仲でね。色々やらせてもらってるのさ」
「そうか。宛が外れたな」
「おや?オーナーに用事かい?残念ながらオーナーはフロアに中々姿は見せないよ。仕事が忙しいんだろうね」
その言い方が、妙に引っかかった。
(……仕事、ね)
「それは残念。後輩に聞いてここに来たけど、お目当ての話ができないんじゃ……」
曖昧に、含みを持たせ、でも確証を得るために聞く。
男は表情を変えない。
笑みだけを深くする。
「そっちが目的か。なら、安心しなよ。それならいい人を紹介できるかも、しれない」
「それはありがたいな。口利きしてくれるか?」
「まぁ待て。お目当てを聞いてからじゃなきゃな。違う物を欲していたら、お門違いだからな」
「そうだな。後輩からは、気分よくなれる物があるって聞いてね。ストレス解消にいいかもって」
ピクリと男の眉が反応した。
今まで鉄仮面だった男が、初めて明確に反応した。
「……誰が言いふらしてんだか。でも、それなら色々種類があるけど、どれのことだろうね」
「……種類があるのか。なら、最近流行りのヤツとかは?」
男の視線が鋭くなる。
しまった、と思うより先に、男が小さく笑った。
「なるほど」
低い声。
「アレが欲しいんだ。酔狂な人だね」
(……何を知っている)
「……アレは貴重なんだ。お兄さんは、その資格があるのかな?」
「資格なんて必要なのか……金か?」
問い返す。
男は答えない。
ただ、こちらをまっすぐ見る。
「いや、そんな俗なものじゃない。もっと曖昧なものさ。境遇への不満やら悲しみ、そういった感情だな」
「……なるほど」
「お兄さんはまだ、堕ちきれてないように見える。それでも欲するのかい?」
空気が変わる。
重低音の中なのに、その一角だけが妙に静かに感じた。
無線が震える。
『全班、準備。五分後突入』
タイミングが悪い。
だが、逆に言えばもう時間がない。
「……なんだか空気が騒がしいね。お兄さんとはまた会える気がするよ」
男が少しだけ身をかがめる。
「これは、ほんのプレゼント。またね、お兄さん」
上着のポケットに何かを入れられ、肩をぽんっと叩かれる。
次の瞬間。
『突入、突入、突入!』
一斉に音が弾ける。
入口が開き、捜査員がなだれ込む。
怒号。悲鳴。混乱。
客が立ち上がり、押し合い、逃げ惑う。
「警察だ! 動くな!」
鴨志田が立ち上がる。
「警部!」
振り向く。
その一瞬。
男が、いない。
(……どこだ)
さっきまで目の前にいたはずだ。
なのに、視界のどこにもいない。
「くそっ……!」
フロアを見渡す。
いない。
(……裏か)
「鴨志田!ここ任せた!」
「了解!」
人混みを押し分ける。
バックヤードへ。
スタッフルームから狭い通路へ。
段ボールが邪魔な非常灯だけが頼りの細い通路を進む。
開きっぱなしの防火扉。
(……こっちだな)
非常階段を駆け上がる。
一段飛ばし。
屋上に出る重いドアを蹴り開ける。
夜風が一気に吹きつける。
渋谷のネオンが遠くに広がっていた。
そして――いた。
屋上の端に黒い男。
振り返るでもなく、街を見下ろしている。
「あら、追ってきたか」
「……どこにいく?」
声をかける。
男がようやくこちらを向く。
小さく笑う。
「今日はここまで、店仕舞いだ。お兄さん、まさか警察だったとはね」
「……逃げ場はないぞ」
一歩、距離を詰める。
「お前は、誰だ?」
男は少しだけ首を傾げた。
「そうだな……"案内人"といったところかな」
「……は?」
「さて、ここでお喋りしてる時間もない。名残惜しいけど、さよならだ」
男は視線を逸らさない。
「そうそう。近寄らない方がいいよ」
一瞬、思考が止まる。
「……何を、する気だ?」
男の周りが歪む。
一般常識ではありえない現象。
(……異世界の住人、か?)
「……逃がすと思うか?」
「追ってこれないよ。大人しくしててほしいね」
拳に力が入る、
男の輪郭が、ぶれた。
「待て!」
咄嗟に踏み込む。
だが遅かった。
夜風が吹き、瞬間、視界が歪む。
そこには、もう誰もいなかった。
「……消えた」
屋上に残るのは、夜の風と、街の光だけ。
(……くそっ)
無線が鳴る。
『警部! そっちはどうですか!?』
「逃げられた」
短く返す。
『マジっすか……!』
屋上の縁から街を見下ろす。
渋谷。無数の光。無数の人間。
「……戻る」
無線を切る。
振り返る。
夜は、まだ終わらない。




