第107話
部屋の空気が一瞬で張り詰めた。
黒い亀裂の中から現れた男は、乱れ一つない黒いスーツを身に纏い、その場に立っているだけで異様な存在感を放っている。
男は村長が消えた場所へ一度だけ視線を向け、小さく息を吐いた。
「……おや、ダメですね。約束を破っては」
その声に感情はない。
怒っている訳でも、悲しんでいる訳でもない。
まるで予定通りに物事が進まなかったことを確認しただけのような口調だった。
戦闘態勢を保ったまま、黒服に向けて一歩だけ前へ出る。
「……お前が、あの黒いスーツの男か」
男は静かにこちらを見る。
「ゼロさん、ですね?我々はそう呼ばれているようですね」
「……村長に何をした」
「約束を破ったら、それに見合う罰は受けるべきでしょう?」
「……約束、か。人の命を奪っておいて」
「ま、私が直接手を下した訳ではないですよ。運悪く命を落としたに過ぎません。私は上からの命令で彼の様子を見に来ただけ。彼は村を守りたかった。我々はその願いを叶えました」
「……屁理屈だな」
思わず眉をひそめる。
あれが願いを叶えた結果だと言うのか。
村人の死人をアンデッドに変え、生きているように見せかける。
そんなものは救いでも何でもない。
自然と握った拳に力が入る。
「……あなたは、そう思わないようですね。甘いお方のようだ」
黒服は俺の表情を見ただけで答えを察したように頷いた。
黒服は下を向いて、足元を確認しながら話を続ける。
「聞いていた通り、優しい。優しすぎる。この世界は弱肉強食。理不尽が罷り通る世界ですよ?」
「……ふざけるな」
俺がそう呟いた瞬間だった。
黒服の姿が消えた。
「ご主人様!」
エレナの叫び声と同時に、右側から強烈な蹴りが飛んでくる。
足元を確認していた時から怪しいと思っていたので、対処は容易い。
スピードは速いしキレもあるが、見えていればなんてことはない。
俺は左腕を上げ、その蹴りを受け止めた。
鈍い衝撃が腕を伝い、そのまま床を数歩滑る。
「……なるほど」
黒服は軽く着地し、少しだけ首を傾げた。
「実力はおありのようだ。口だけの奴も多い中で、あなたはきちんと貫ける強さもある」
俺は何も答えない。
完全に敵だ。
もう話し合う相手ではない。
「エレナ!」
「はい!」
アステリア全員が一斉に武器を構える。
ミアが前へ。
リリアが左右へ散り、フィアは弓を引く。
セラは剣を抜き、ルナは既に詠唱へ入っていた。
黒服はそれを見ても微動だにしない。
「では、こちらも少しだけ」
男が右手を軽く振る。
足元に黒い魔法陣が浮かび上がり、漆黒の槍が数本出現した。
「行きます」
放たれた複数の槍は一直線にこちらへ向かう。
俺が動くより早く、ルナが詠唱を完成させた。
「……無駄」
青白い魔法陣が幾重にも重なり、黒い槍と正面からぶつかる。
激しい衝撃音。
魔力同士が弾け飛び、部屋中へ風圧が吹き荒れた。
数秒後、黒い槍は全て砕け散る。
「……なるほど」
黒服が初めて僅かに興味を示した。
「お仲間も十分力を持っているのですね。他の方々も一切動じていない。戦い慣れていますね」
エレナがミア、リリア、セラにアイコンタクトで指示を出している。
すぐにでも応戦できるように。
ルナは杖を握り締めたまま睨み返す。
「……負けない」
黒服は小さく頷く。
「なかなかどうして。まだ、この世界を救おうともがくのですね」
その言葉を聞いた瞬間、俺は違和感を覚えた。
誰に対しての言葉なのか。
(……前に変な場所に飛ばされた時に言っていた善神のことか?)
先程言っていた言葉の端々からも世界に対していい感情を持っているとは思えない。
とすれば、この黒服は悪神側ということ。
(……しかも、我々か。組織であるのは明白だな)
黒服は数回の応酬でこちらの実力を図ったようにも思える。
まるで何かを確認しに来たような――
「ご主人様」
エレナが小声で話しかけてくる。
「こちらの実力を全て見せる訳にはいきません。不用意には攻めないでください」
「……分かっている」
俺も同じことを考えていた。
それに加えて今の黒服は、あまりにも隙だらけだ。
特に構えすらとらず、目の前に立ち、一見、無防備に見える。
だが――
(……さっきの無詠唱といい、蹴りの動作といい、即応できる実力者なんだろうな)
お互いに相手を倒しきれるほどの実力差はないと感じる。
すなわち、相手はこっちの行動を誘っている。
そういう確信だけがあった。
部屋には誰も動かない時間が流れる。
数秒、いや、十秒ほどだっただろうか。
黒服が静かに息を吐いた。
「……まあ、今回は十分でしょう」
男は踵を返す。
ここで素直に逃がすわけにもいかない。
瞬時に魔法創造で【拳銃】を作り出し、いつでも発砲できるように準備する。
「目的は果たしました」
「……待て」
呼び止めるが、黒服は振り返らない。
「お前たちの目的は何だ」
数秒の沈黙後、やがて男は僅かに口元を緩めた。
「目的、ですか。それを聞いてどうするのです?」
「……答えろ」
「それを今お話ししても、意味はありません。聞いたところで止めることすらできません。あなたの考えとは平行線ですから」
「……逃げるのか?」
「逃げる?」
黒服は小さく笑った。
「違いますよ。また、お会いしますから」
その一言で十分だった。
俺は懐から拳銃を抜き、迷うことなく引き金を引く。
乾いた銃声が部屋へ響く。
放たれた弾丸は一直線に黒服へ向かう。
しかし、男の目の前で、見えない壁へ当たったかのように止まり、そのまま床へ転がった。
「……拳銃。現代の武器ですね。流石は異世界人。これならシャードッシを倒したことも納得できます」
黒服は床へ落ちた弾丸を一瞥する。
その声に驚きはない。
まるで最初から知っていたようだった。
「とりあえず、今は時ではありません。今よりも強くなっていただきませんと」
「……何?」
「我々も、あなた方も」
男は静かにそう告げる。
「いずれ、その時が来ます」
空間が再び歪み始める。
「待て!」
黒服に向け、再度発砲するも弾丸は当たらず、そのまま壁に当たる。
俺が一歩踏み出した時には、黒服の姿は黒い亀裂と共に消えていた。
部屋には静寂だけが残る。
誰も動かなかった。
「……逃がした、か」
俺は拳銃を下ろし、小さく息を吐く。
「あの人……」
ルナがぽつりと呟く。
「……強かった」
「……あれが全力ではないだろう。我々も言っていたことも気になる。組織的な何か、があるのかもな」
俺は床に落ちた弾丸を拾い上げる。
変形した弾頭。
見えない何かに防がれたことだけは間違いない。
それが意味することは、奴は魔法で対処したということだろうか。
そして、もう一つ。
(……無詠唱魔法が使える、か。相当上位の魔法使いだな。俺たちを殺す気なら、もっと方法はいくらでもあった)
あいつは戦いに来たんじゃない。
それこそ本人が言っていたように村長を見に来たことで間違いないだろう。
そして、たまたま居た俺たちと遭遇したから、その実力を確かめた。
そんな印象だけが残る。
「ご主人様」
エレナが静かに声を掛ける。
「これからどうされますか」
俺は窓の外を見る。
ここで立ち止まっている時間はない。
ここで時間を使っても事態は一向に好転しない。
「……予定通りだ」
俺は振り返る。
「サウスノーランドへ向かう」
全員が静かに頷いた。
新たな戦いは、もう始まっている。




