2025年5月14日(水)
連休が明けて、一週間が経った。
日付だけ見れば、たいした時間ではない。
けれど、生活の中ではそれなりに変化が出る。
朝、和葉は以前より少し早く起きるようになった。
弁当の支度を手伝い、御子神さんの水を替え、制服に着替える。
それから鞄の中身を確認して、玄関で靴を履く。
そこまでは、今までと大きく変わらない。
変わったのは、その動きに迷いが少なくなったことだ。
「今日は放課後、図書室に寄ってきます」
「ああ」
「歩ちゃんと朱鷺子と、中間考査の範囲を確認するので」
「帰りは?」
「七時前には戻ります。遅くなりそうなら連絡します」
前なら、そこでこちらの顔色を窺うような間があった。
行ってもいいですか。
迷惑じゃないですか。
夕飯の支度、遅くなりませんか。
そういう確認が、言葉の前にあった。
今も遠慮が消えたわけではない。
けれど、順番が少し違う。
自分の予定を先に組んで、そのうえでこちらに伝えている。
それは、望んでいた変化だった。
問題は、その変化にこちらが追いついているかどうかだ。
「分かった。気をつけて帰ってこい」
「はい。行ってきます」
「ああ。行ってらっしゃい」
玄関の扉が閉まる。
御子神さんが、廊下の方を一度だけ見た。
それから何事もなかったように、窓際へ戻っていく。
「お前も慣れたな」
返事の代わりに、しっぽが揺れた。
家の中が静かになる。
俺は仕事机に向かい、ノートパソコンを開いた。
いつも通りの一日が始まった。
***
和葉が帰ってきたのは、六時半を少し回った頃だった。
「ただいま帰りました」
「ああ、おかえり」
玄関で靴を脱いだ和葉は、御子神さんへ手を伸ばす。
御子神さんは一応匂いを確認してから、尻尾を立てて和葉の足元を回った。
「今日は図書室、混んでました」
「テスト前だからか」
「はい。みんな考えることは同じみたいです」
そう言って、和葉は鞄を置き、手を洗いに行く。
夕飯は、作っておいた肉じゃがと味噌汁にした。
和葉は帰ってきてから、冷蔵庫に入れていた小鉢を一つ出してくれた。
ほうれん草のおひたし。
昨日のうちに茹でて、だしに浸しておいたものだ。
「これ、今日出してもいいですか」
「ああ。ちょうどいいな」
「味、馴染んでると思います」
「よく覚えてたな」
「見えたので」
「俺より把握してるんじゃないか」
「たぶん、少しだけ」
「否定しないのか」
「しません」
その返事に、少しだけ笑ってしまう。
食後、洗い物を終えると、和葉はこたつ机の上にプリントを広げた。
中間考査の範囲表。
学校の時間割。
喫茶店のシフトを書いたメモ。
それから、見覚えのある手帳。
以前、俺が和葉に渡したものだった。
渡したときより、表紙の端が少しだけ柔らかくなっている。
ちゃんと使っているのだと、今さらのように分かった。
「ずいぶんあるな」
「はい。少し整理しようと思って」
和葉はシャープペンシルを持って、手帳を開いた。
俺は湯呑みを持ったまま、その向かいに座る。
中間考査は、五月二十日から二十二日まで。
三日間の日程が、科目ごとに書き込まれている。
英語、数学、現代文、化学基礎、世界史。
見ただけで、学生には戻りたくないと思う並びだった。
「範囲、広いな」
「はい。連休を挟んだから、少し多いみたいです」
「大丈夫か」
「大丈夫にします」
即答だった。
不安がないわけではないのだろう。
けれど、それを置いたまま予定を立てている。
「バイトは?」
「今週は土曜日に一回だけです。来週は中間考査の週なので、終わるまではお休みをもらいました」
「自分で相談したのか」
「はい。昨日のうちに」
和葉はわずかに背筋を伸ばした。
「奥さんが、テスト前はちゃんと勉強しなさいって言ってくれました。終わったらまたよろしくね、って」
「そうか」
「はい」
開かれた手帳を見る。
バイトの横には、土曜の一枠だけ丸がついている。
図書室の予定は、今日と金曜。
その下には、家でやる科目が小さく書き込まれていた。
詰め込みすぎているようにも見える。
だが、よく見ると、ところどころに余白がある。
「無理に詰めてるわけじゃないんだな」
「はい。詰めすぎないようにしました」
「誰かに言われたのか」
「少しだけ、朱鷺子に」
「現実的だな」
「はい。でも、最後に決めたのは私です」
そう言って、和葉は手帳の余白に小さく線を引いた。
最後に決めたのは私。
その言い方が、少し耳に残った。
前なら、和葉はよく「迷惑をかけないようにします」と言っていた。
今でも、その気持ちはあるのだろう。
けれど今は、迷惑を避けるためだけに予定を削っているわけではない。
必要なものを残し、減らすものを決め、空ける場所も自分で作っている。
その中に、こちらの都合も入っていた。
顔色を窺っているのとは、少し違う。
和葉が、自分の生活の中に俺を置こうとしている。
そう気づくまでに、少し時間がかかった。
「いつきさん」
「ん」
「それで、テストが終わったら」
「ああ」
和葉はシャープペンシルを置いた。
手帳の二十三日以降には、まだ何も書かれていない。
「私から、いつきさんを誘ってもいいですか」
手が止まった。
「……俺を?」
「はい」
「どこか行きたいところがあるのか」
「まだ決めてません」
「決めてないのか」
「決めるところから、私がやりたいので」
そう言われると、返す言葉が少し遅れた。
行き先は決まっていない。
なのに、誘うことだけは決めている。
順番としては妙だ。
けれど、和葉にとってはたぶん、その順番が大事なのだろう。
「……テストが終わってからだな」
「はい」
「それまでに、俺も仕事の予定を見ておく」
「いいんですか」
「だめとは言ってないだろ」
「はい」
「行き先は、それまでに考えろ」
「私が決めていいんですか」
「決めるところからやりたいんだろ」
和葉は目を伏せた。
それから、小さく頷く。
「はい」
安心したようにも見えた。
でも、それだけではなかった。
「あと」
「まだあるのか」
「あります」
和葉は、膝の上で指を軽く握った。
「できれば、デートとして誘いたいです」
今度こそ、湯呑みを置く手が止まった。
「……デート」
「はい」
「学校で何か言われたか」
「歩ちゃんと朱鷺子に、古本屋はデートだって言われました」
「だろうな」
あの二人なら言う。
そこは想像に難くない。
「最初は違うって言ったんです」
「ああ」
「でも、考えたら、私が行きたい場所を選んで、いつきさんを誘ったので」
和葉は一度、手帳に目を落とした。
それから、こちらを見る。
「好きな人と一緒にお出かけしたら、それはもうデートです」
「……」
「いつきさんにとっては、まだ違うかもしれませんけど」
そう付け足すあたりが、和葉らしかった。
踏み込んでくる。
けれど、こちらの立場も見ている。
だから余計に困る。
「呼び方が変わっても、やることは普通に出かけるだけだろ」
「情緒がないです」
「否定はしない」
「してください」
「無理だ」
「そういうところです」
「……そういうところは、たぶん苦手なんだ」
そう言うと、和葉は少しだけ目を丸くした。
責めるつもりではなかったのかもしれない。
「でも、私にとっては違います」
「何がだ」
「同じ場所に行くとしても、一人で行くのと、歩ちゃんたちと行くのと、いつきさんと行くのは違います」
「……」
「私は、いつきさんと行くから、楽しみにしたいんです」
そう言われると、すぐには返せなかった。
俺は、学生のうちは急がないと言った。
その考えは今も変わっていない。
和葉には受験がある。進路もある。生活も、まだ途中だ。
だから、線は越えない。
それは正しい。
少なくとも、今は。
けれど、今は、という言葉には期限がある。
卒業したあとまで、同じ言い方を続けることはできない。
和葉はもう、ただこちらの言葉を待っているだけではない。
拾って、考えて、自分の言葉で返してくる。
子ども扱いだけでは済まない。
そう思うことは、もう珍しくなくなっていた。
だからといって、急に何かを変えられるわけでもない。
ただ、変えないでいることと、考えないでいることは違う。
そこだけは、間違えない方がいい。
「……否定はしない。けど、今は同じようには呼べない」
「つまり、将来的には変わる可能性があると」
「そこまで言ってない」
「違いますか?」
「……言い方を間違えた」
「きっと、間違いじゃないです」
「そう返されると困る」
「困りますか」
「困る」
「でも」
和葉はそこで一度、言葉を切った。
「いつか、そう思ってもらえたらうれしいです」
まっすぐな声だった。
追い詰めるでもなく、引き下がるでもない。
ただ、そこに置かれた言葉だった。
「……そうか」
「はい」
和葉は小さく頷いた。
その返事は、思ったより静かだった。
嬉しそうではある。
けれど、浮かれているだけでもなかった。
「けど、テストが終わってからです」
「そこに戻るのか」
「戻ります。今やることをやらないと、ちゃんと楽しめないので」
「その予定をか」
「デートです」
「……言い切るな」
「言い切ります」
和葉は少しだけ嬉しそうに笑った。
まっすぐに言われるたび、こちらの逃げ道が少しずつ狭くなる。
ただ、不思議と嫌ではなかった。
「いつきさんも、少しだけ考えてくれますか?」
「何をだ」
「行き先です」
「お前が決めるんじゃなかったのか」
「決めるのは私です。でも、いつきさんが嫌じゃない場所にしたいので」
「そういう確認はするんだな」
「します」
和葉は、当たり前みたいに頷いた。
「私だけが楽しい場所だと、デートにならない気がします」
その言い方に、軽く受け流す言葉を探し損ねた。
「……分かった。考えておく」
「はい」
「俺は仕事の予定を見る。お前はまず試験だ」
「分かってます」
「本当か」
「はい。デートがかかっているので」
「勉強の動機としてどうなんだ、それは」
「将来のためでもあります」
「取ってつけたな」
「少しだけ」
和葉はそう言って、手帳に目を戻した。
五月二十三日。
その横に、小さく丸がつけられる。
まだ行き先はない。
時間も決まっていない。
けれど、そこだけはもう、何もない日ではなくなっていた。
御子神さんが机の端に前足をかける。
手帳を踏みそうになったので、俺は慌てて少しずらした。
「御子神さん、そこはだめです」
和葉がそっと御子神さんを抱き上げる。
御子神さんは不満そうに一声鳴いてから、和葉の膝の上に収まった。
「精査しているのかもしれません」
「何のだ」
「予定の」
「猫に決裁権を渡すな」
「でも、この家では強いです」
「否定できないな」
和葉が笑う。
その膝の上で、御子神さんが丸くなる。
机の上には、中間考査の範囲表と、開かれた手帳が並んでいた。
さっきつけられた丸の中に、俺の予定まで少しだけ混ざり始めている。
そう思ってしまった時点で、たぶんもう、ただの丸ではなかった。




