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2025年5月22日(木)

 最後の答案用紙が回収されると、教室の空気が一気にゆるんだ。


 机に突っ伏す音がする。

 誰かが小さく「終わった」と言った。

 それにつられるように、あちこちでため息と笑い声が混ざる。


 私もシャープペンシルを筆箱に戻してから、そっと息を吐いた。


 終わった。


 三日間の中間考査が、ようやく終わった。


 全部できた、とは言えない。

 現代文は思っていたより書けたけれど、数学は最後の問題に自信がない。

 英語も、迷ったところがいくつかある。


 それでも、何もできなかったわけではない。


 手帳に書いた通りに勉強して、バイトも減らしてもらって、図書室にも通って。

 やると決めたことは、ちゃんとやった。


 そう思えるだけで、少しだけ背筋が伸びた。


「終わったー……」


 歩ちゃんが、隣の席で机に頬をつけた。


「世界史、私の知らない国が多すぎる」


「授業でやった国よ」


 朱鷺子が鞄に教科書をしまいながら、静かに言う。


「知ってる国と、覚えてる国は違うんだよ」


「それはそう」


 朱鷺子があっさり頷いたので、歩ちゃんは少しだけ顔を上げた。


「そこは否定してよ」


「否定できる材料がない」


「ひどい」


 二人のやり取りに、思わず笑ってしまう。


 テストのあとの教室は、少しだけ特別だった。

 終わったばかりの疲れと、もう今日は勉強しなくてもいいという空気が混ざっている。


「和葉はどうだった?」


 歩ちゃんに聞かれて、私は少し考えた。


「全部できたわけじゃないけど……やれるだけは、やったと思う」


「おお」


 歩ちゃんが目を丸くした。


「なんか、すごいちゃんとしてる」


「ちゃんと、してたかな」


「してたしてた。図書室でも真面目だったし」


「真面目すぎて、途中で休憩を忘れかけてたけどね」


 朱鷺子が付け足す。


「あれは、朱鷺子が止めてくれたから」


「予定を詰めすぎないって言ったの、和葉でしょ」


「うん」


 そうだった。


 詰め込みすぎない。

 やることを決めて、休むところも残す。


 手帳に書いた予定を見ながら、何度も確認した。


 頑張るのと、無理をするのは違う。

 その違いを、少しずつ覚えている気がする。


「で、結局言ったの?」


 歩ちゃんが、机に頬をつけたまま聞いてきた。


「何を?」


「弓削さんを誘う話」


 私は少しだけ指先に力を入れた。


「……言ったよ」


「おお」


 歩ちゃんが顔を上げる。

 朱鷺子も、教科書をしまう手を少しだけ止めた。


「どうだった?」


「テストが終わってからなら、って」


「ちゃんと通ってる」


「あと……できれば、デートとして誘いたいって言った」


「言ったんだ」


 朱鷺子が少しだけ目を丸くした。


「うん」


 言ってから、顔が熱くなる。


 でも、もう「違う」とは言わなかった。


 私が誘う。

 好きな人と一緒に出かける。

 それなら、私にとってはデートでいい。


 いつきさんが同じように呼ぶかは、まだ別の話だとしても。


「和葉、進んだねえ」


 歩ちゃんがしみじみと言った。


「からかわないで」


「からかってないよ。今のは普通に感心」


「行き先は決めたの?」


 朱鷺子が聞く。


「まだ。今日帰ったら、いつきさんと相談する」


「和葉が誘うんじゃないの?」


 歩ちゃんが首を傾げる。


「誘うのは私。でも、私だけが楽しい場所だと違う気がするから」


「おお……」


 歩ちゃんが、なぜか両手を合わせた。


「考え方がちゃんとしてる」


「大げさだよ」


「いや、でも大事だと思う」


 朱鷺子が静かに頷いた。


「相手が嫌じゃない場所を考えるのは大事」


「うん」


「候補はあるの?」


「中央図書館」


 言うと、朱鷺子が「ああ」と頷いた。


「駅の向こうの?」


「うん。行ったことがなくて」


「広いよ。映画とか雑誌もあるし、閲覧席も多い」


「知ってるの?」


「前に一回行った。ゲームに出てくる元ネタを調べに」


「元ネタ?」


 歩ちゃんが首を傾げる。


「エルフとかドワーフとか、神話とか歴史とか。そういうの、ゲームだとよく混ざってるから」


「朱鷺子っぽい」


「浅く広くだけどね」


 私は、鞄の中の手帳を思い出した。


 明日のところには、まだ小さな丸しかない。

 でも、その中に入れたい場所は、もう少しずつ決まりかけていた。


「それと、近くに気になるカフェがあって」


「カフェ」


 歩ちゃんが、そこで少しだけにやっとした。


「それはもう、かなりそれっぽいね」


「テスト終わったから、少し甘いものも食べたいなって」


「正直でよろしい」


「でも、混んでたらやめるし、無理には入らないよ」


「そのへん考えるの、和葉らしいね」


 朱鷺子が言った。


「中央図書館とカフェなら、弓削さんも嫌じゃなさそう」


「うん」


 嫌じゃなさそう。


 それは、今回の大事な条件だった。


 私が行きたい場所。

 いつきさんが嫌じゃない場所。

 それから、できれば、二人で初めて行く場所。


 昨日まで何度も考えて、そこに落ち着いた。


「明日、ちゃんと楽しんできなよ」


 歩ちゃんが、にっと笑って言った。


「……うん」


「お」


「何?」


「今、普通に頷いた」


「だって、楽しみにしてるのは本当だから」


 そう言うと、歩ちゃんは少しだけ目を丸くした。


「いいねえ」


 朱鷺子は、駅の方を見てから静かに言う。


「行き先は、今日ちゃんと決めなよ」


「うん」


「あと、テスト終わったからって夜更かししない」


「分かってる」


「ならよし」


 朱鷺子が先生みたいに頷いたので、歩ちゃんが笑った。


 その笑い声を聞きながら、私は机の中を確認して、鞄を持った。


 テストは終わった。


 次は、丸の中身を決める番だった。


 ***


 校門を出て、途中まで三人で歩いた。


 歩ちゃんは途中の交差点で別れた。

 朱鷺子は少し先の駅へ向かう。


「じゃあ、また明日」


「うん。また明日」


「浮かれて忘れ物しないように」


「しないよ」


「ならいい」


 朱鷺子は短くそう言って、駅の方へ歩いていった。


 私は手を振ってから、一人で帰り道を歩き始める。


 鞄は、テスト前より少し軽い。

 教科書の量は変わらないのに、気持ちだけが違った。


 終わったからだと思う。


 でも、それだけではない。


 鞄の中には、手帳が入っている。

 いつきさんがくれた手帳。


 そこには、テストの予定も、バイトの予定も、図書室の予定も書いてある。

 そして明日のところに、小さな丸がある。


 ただの丸。


 でも、もう私の中では、ただの印ではなくなっていた。


 何を書くか。

 どこへ行くか。

 何をするか。


 それを、私が決める。


 もちろん、勝手に全部を決めたいわけではない。

 いつきさんの仕事の予定もある。

 疲れているかもしれない。

 行きたくない場所だってあるかもしれない。


 だから、ちゃんと聞く。


 でも、聞く前に引っ込めるのは、たぶん違う。


 古本屋に行きたいと言ったときも、少し緊張した。

 それでも、言ってよかった。


 昨日まで知らなかった場所に入って、私は自分で本を選んだ。

 その本は、今、いつきさんの本棚に置かれている。


 明日は、どこへ行くのだろう。


 そう考えるだけで、胸の奥が少し落ち着かなくなる。


 浮かれている、のだと思う。


 でも、ただ浮かれているだけではない。


 今やることをやった。

 だから、楽しみにしてもいい。


 そう思えることが、うれしかった。


 ***


「ただいま帰りました」


 玄関を開けると、御子神さんが廊下の途中まで迎えに来ていた。


 いつきさんは、台所の方から顔を出す。


「おかえり」


「はい。ただいまです」


「終わったか」


「終わりました」


 その一言を口にしたら、体の力が少し抜けた。


 いつきさんは、ほんの少しだけ目を細めた。


「お疲れ」


「……はい」


 短い言葉だった。


 でも、それだけで十分だった。


 私は靴を脱いで、鞄を置き、御子神さんの前にしゃがむ。

 御子神さんは私の手の匂いを確認してから、軽く額を押しつけてきた。


「御子神さんも、お疲れって言ってくれてますか」


「たぶん、腹が減ったと言ってる」


「現実的です」


「猫だからな」


 いつきさんの返事に、少し笑ってしまう。


 手を洗って戻ると、台所からだしの匂いがした。

 今日はうどんらしい。


「今日は軽めでいいだろ」


「はい。助かります」


「頭使った後は、あまり重いものは入らないからな」


「いつきさんも、そうでしたか?」


「学生の頃の記憶はあまり信用できない」


「そんなに昔ですか」


「お前が思ってるよりは昔だ」


 そう言われて、また少し笑う。


 夕飯は、あたたかいうどんと、昨日の残りの煮物だった。

 いつもより少し早く食べ終わって、食器を片づける。


 そのあと、私は鞄から手帳を取り出した。


 こたつ机の上に、中間考査の範囲表も置く。

 もう終わったプリントなのに、すぐしまう気にはならなかった。


「自己採点はしないのか」


 いつきさんが聞く。


「明日にします」


「珍しいな」


「今日は、終わったことにします」


「いい判断だ」


「朱鷺子にも、ちゃんと休みなさいって言われました」


「現実的だな」


「はい」


 手帳を開く。


 昨日つけた丸は、五月二十三日の欄でそのまま残っていた。


 私はシャープペンシルを持ったまま、少しだけ息を吸った。


「いつきさん」


「ん」


「明日の行き先なんですけど」


「ああ」


「中央図書館に行きたいです」


「中央図書館?」


「はい。駅の向こうの、市立の大きいところです」


「あそこか」


「行ったことありますか」


「何度か。昔な」


「なら、嫌じゃないですか」


「嫌ではない」


 その答えに、少し安心する。


「学校の図書室で足りないのか」


「足ります。でも、違う場所に行ってみたいんです」


「違う場所」


「はい。いつきさんの行きつけでも、私の学校でもない場所がいいと思って」


 言ってから、少しだけ照れた。


 でも、これはちゃんと伝えたかった。


「二人で初めて行く場所にしたくて」


 いつきさんは、すぐには返事をしなかった。


 困らせただろうかと思ったけれど、怒っている感じではなかった。


「……そういう選び方もあるのか」


「あります」


「そうか」


「はい」


 私は手帳の丸の横に、小さく「中央図書館」と書き込んだ。


 書いた瞬間、そこが本当に予定になった気がした。


「それと」


「まだあるのか」


「あります」


「言い切ったな」


「テストが終わったので、少し甘いものも食べたいです」


「正直だな」


「はい」


 私は手帳の端に、小さく「カフェ」と書く。

 中央図書館の下に、少しだけ控えめに。


「図書館の近くに、気になるカフェがあるみたいで」


「そこも予定に入れるのか」


「できれば」


「わかった」


「いいんですか」


「嫌ではない」


 嫌ではない。


 それだけで、少し胸の奥が軽くなる。


「喫茶店なら、バイト先で足りてるんじゃないか」


「違います」


「違うのか」


「働くのと、座るのは違います」


 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。


 でも、これは変なことではないと思う。


 働く場所。

 役に立つ場所。

 頑張る場所。


 それも大事だ。


 でも、ただ座って、お茶を飲む場所があってもいい。


 いつきさんと一緒なら、なおさら。


「お客さんとして、いつきさんと座ってみたいです」


 言い終えてから、手元のシャープペンシルを少し握る。


 いつきさんは、手帳を見たまま少しだけ黙った。


「……なるほどな」


「はい」


「じゃあ、明日は中央図書館と、カフェ」


「はい」


「帰りは遅くならないようにする」


「はい」


「返事だけはいいな」


「ちゃんと聞いてます」


「ならいい」


 いつきさんは、それ以上は止めなかった。


 私は手帳を見下ろす。


 五月二十三日。

 中央図書館。

 カフェ。


 まだ、そこにデートとは書いていない。


 書いたら、きっと恥ずかしい。

 それに、いつきさんはまだ同じようには呼べないと言っていた。


 でも、私の中では、もう決まっている。


 これは、私が誘った予定だ。


 好きな人と、楽しみにして出かける予定。


 だから、明日は。


 私にとっては、ちゃんとデートだった。


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