2025年5月7日(水)
連休明けの朝は、少しだけ鞄が重かった。
教科書やノートのせいだけではない。
昨日、何度か迷った末に、私は『ホビットの冒険』を鞄に入れた。
学校で読む時間があるかは分からない。
そもそも、持っていくには少し重い。
でも、置いていく気にはならなかった。
「持っていくのか」
玄関で靴を履いていると、いつきさんがそう聞いた。
「はい。少しだけ、学校でも読みたいので」
「重いぞ」
「分かってます」
「ならいい」
それだけ言って、いつきさんは何も止めなかった。
鞄を肩にかける。
確かに、いつもより少しだけ重い。
でも、その重さが嫌ではなかった。
「行ってきます」
「ああ。行ってらっしゃい」
いつも通りの声に背中を押されて、私は玄関の扉を開けた。
***
学校は、連休前より少しだけ騒がしかった。
教室に入ると、あちこちで「どこ行った?」とか「ほぼ寝てた」とか、連休の話が飛び交っている。
自分の席に鞄を置くと、すぐに歩ちゃんが寄ってきた。
「和葉、おはよー。連休どうだった?」
「おはよう。えっと……古本屋さんに行った」
「古本屋?」
歩ちゃんが目を丸くする。
その横から、朱鷺子も静かに顔を出した。
「誰と?」
「いつきさんと」
「はい、デート」
「違うよ」
反射で否定していた。
歩ちゃんはにやにやしている。
朱鷺子は笑ってはいないけれど、少しだけ興味深そうにこちらを見ていた。
「いやいや、連休中に二人で古本屋でしょ? どう考えてもデートじゃん」
「本を見に行っただけだし」
「それをデートと言うのでは?」
「朱鷺子まで」
私は鞄を開けて、教科書を机に入れる。
そのとき、本の角が少し見えたらしく、歩ちゃんがすぐに反応した。
「あ、それ? 買ったやつ?」
「うん」
「見せて見せて」
私は少し迷ってから、『ホビットの冒険』を取り出した。
歩ちゃんは表紙を見て、首を傾げる。
「ホビット……?」
「指輪物語の前のお話、なんだって」
「あー、なんか映画のやつ?」
「たぶん」
「そう。ビルボの方」
朱鷺子が、表紙を見ながら静かに言った。
「知ってるの?」
「映画は見た。あと、ゲームでもその辺りのファンタジーはよく元ネタになるから」
「ゲーム?」
「エルフとかドワーフとか、あの辺りのイメージを作った大元みたいなところがある」
朱鷺子はそう言って、表紙から目を離した。
「今どきの高校生が連休明けに持ってくる本としては、なかなか渋いね」
「……そうなんだ」
言われてみると、少し恥ずかしくなった。
でも、嫌ではなかった。
「弓削さんが選んだの?」
「ううん。私が選んだ」
そこは、ちゃんと言えた。
「いつきさんは、他の本も見てくれてたけど……最後にこれにしたのは、私」
歩ちゃんが、にまっと笑う。
「つまり、和葉が行きたい場所を選んで、弓削さんを誘って、自分で本を選んだわけだ」
「うん」
「やっぱデートじゃん」
「だから、違……」
言いかけて、止まった。
違う、と言うのは簡単だった。
いつきさんとは、まだそういう関係ではない。
それは分かっている。
でも。
私が行きたい場所を選んだ。
いつきさんを誘った。
一緒に歩いて、本を選んで、帰ってからその本を本棚に入れてもらった。
それを、何でもないと言い切るのは、少し違う気がした。
「……違うって言おうと思ったけど」
「お?」
歩ちゃんが身を乗り出す。
「私が行きたい場所を選んで、いつきさんを誘ったから……少しだけ、そうだったのかもしれない」
言った瞬間、顔が熱くなった。
歩ちゃんが両手で口元を押さえる。
「おおー」
「和葉が認めた」
朱鷺子まで、少し驚いたように言った。
「全部じゃないよ。まだ、そういう関係じゃないのは分かってる。でも……私にとっては、少しだけ」
言葉にすると、余計に恥ずかしい。
けれど、不思議と取り消したいとは思わなかった。
歩ちゃんはうんうんと何度も頷いた。
「いいじゃん。じゃあ、これからも誘えば」
「え?」
「弓削さんを」
思わず、瞬きをする。
「でも、いつきさんもお仕事があるし」
「在宅なんでしょ?」
「うん。家で仕事してることが多いけど」
「だったら、予定は調整しやすい方じゃない? もちろん仕事の邪魔は駄目だけど」
朱鷺子が現実的な顔で言う。
「それに弓削さん、放っておいたら必要な用事以外、家にいそう」
「……それは、そうかも」
「買い物と、銭湯と、御子神さん関係くらい?」
「あと本屋さん」
「うわ、生活が静か」
歩ちゃんが笑う。
私はつられて少し笑ったけれど、否定はできなかった。
いつきさんは、家で仕事をして、料理をして、御子神さんの世話をして。
必要なことはきちんとするけれど、自分からあちこち出かける人ではない気がする。
「だからさ、和葉が誘えばいいんだよ」
「私が?」
「そう。前は弓削さんが和葉を外に連れ出してくれたんでしょ」
その言葉に、少し息が止まった。
銭湯へ。
病院へ。
児童相談所へ。
施設から外へ。
家へ。
学校へ。
いつきさんは、いつも私の前を少しだけ歩いてくれた。
無理に引っ張るのではなく、私が歩ける速さで。
「今度は、和葉が誘ってもいいんじゃない?」
歩ちゃんの声は軽かった。
でも、言っていることは軽くなかった。
私は手元の本に視線を落とす。
昨日、いつきさんは言っていた。
歩く速さで読むくらいがちょうどいい、と。
たぶん、人との距離も同じなのだと思う。
急がなくていい。
でも、立ち止まったままでもない。
「……考えてみる」
「考えるじゃなくて、誘う」
「歩ちゃん」
「いや、ここは大事。和葉は考えると遠慮するから」
何も言い返せなかった。
朱鷺子が、横から静かに頷く。
「でも、予定はちゃんと見た方がいいよ。中間考査も近いし」
「うん。それは分かってる」
「バイトは?」
「今週は一回だけ。テスト前は少し減らしてもらうつもり」
「ちゃんとしてる」
歩ちゃんが感心したように言った。
「前は、ちゃんとしなきゃって感じだったけどね」
「え?」
「今は、自分で予定組んでる感じする」
その言葉に、少しだけ胸のあたりがくすぐったくなる。
ちゃんとしなきゃ。
迷惑をかけないようにしなきゃ。
前は、たぶんそればかりだった。
でも今は、それだけではない。
勉強も、バイトも、家のことも。
そして、いつきさんを誘うことも。
自分で考えて、自分で選びたい。
「じゃあ、テストが終わったら考える」
「だから誘う」
「……誘う、ことを考える」
「一歩後退した」
歩ちゃんが大げさに肩を落としたので、私は思わず笑ってしまった。
朱鷺子も、少しだけ口元を緩めていた。
***
昼休み、私は鞄から『ホビットの冒険』を取り出した。
読むつもりだったというより、少しだけ開いてみたくなった。
歩ちゃんは購買で買ったパンを食べながら、こちらを覗き込む。
「読める?」
「まだ、ゆっくり」
「ゆっくりでいいんじゃない?」
「うん」
私はページに指を添えた。
「歩く速さで読むくらいが、ちょうどいいって」
「それ、弓削さん?」
朱鷺子がすぐに聞いてきた。
「うん」
「それっぽい」
「分かるの?」
「なんとなく。弓削さん、ゲームとか本の進め方にも、そういうこと言いそう」
「朱鷺子、いつきさんと話が合いそうだね」
何気なくそう言うと、朱鷺子は一瞬だけこちらを見た。
そして、少しだけ真面目な顔で言う。
「たぶん、趣味の話なら合うと思う」
「うん」
「でも、私は弓削さんと古本屋デートする予定はないから安心して」
「えっ」
「そこは驚くところ?」
朱鷺子が首を傾げる。
歩ちゃんが横で吹き出した。
「朱鷺子、たまに切れ味あるよね」
「余計な誤解は早めに潰した方がいいから」
「誤解なんてしてないよ」
慌てて言うと、朱鷺子は少しだけ目を細めた。
「ならいいけど」
その声音は、からかっているというより、ちゃんと私のことを見てくれている感じがした。
私は本の表紙に指を置いたまま、小さく息を吐く。
「でも、朱鷺子が知ってるの、少し安心した」
「どうして?」
「分からないところ、聞けるかもしれないから」
「映画とゲーム知識でよければ」
「うん」
「ただ、原作は原作で違うと思うから、弓削さんにも聞けばいいよ」
そう言われて、少しだけ頷いた。
いつきさんに聞く。
朱鷺子にも聞く。
そうやって、知らないものを少しずつ知っていく。
それはたぶん、悪くない。
歩ちゃんは「いいなあ」と言いながら、机に頬杖をつく。
「和葉、なんか楽しそう」
「そうかな」
「うん。前より、話す内容が増えた感じ」
その言葉に、私は本のページから目を上げた。
話す内容。
いつきさんに助けてもらったこと。
昔、怖かったこと。
つらかったこと。
そういう話ばかりではなくなっている。
古本屋に行ったこと。
本を選んだこと。
昔の話を少し聞いたこと。
私の昔の話も、少し聞いてもらったこと。
そういう、普通の話が増えている。
「……うん」
私は小さく頷いた。
「話したいこと、増えたかも」
「いいじゃん」
「うん」
窓の外では、連休明けの校庭が少しだけ眩しかった。
鞄の横に置いた一冊の本は、朝より少しだけ軽くなった気がした。




