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2025年5月6日(火)

 連休の最後の夜は、思っていたより静かだった。


 夕飯を食べ終えて、洗い物をして、明日の学校の準備をする。

 それだけなら、いつもとあまり変わらない。


 けれど、机の端には昨日買った本が置いてある。


 『ホビットの冒険』。


 古本屋さんの袋から出したときより、少しだけこの部屋に馴染んで見えた。

 夕飯の前に、ほんの数ページだけ読んだ。


 すぐに全部が分かるわけではなかった。

 言葉の運び方も、学校で読む教科書とも、今どきの小説とも違う。


 でも、ページをめくるたびに、知らない場所へ少しずつ歩いていく感じがした。


「読み進められそうか?」


 食器を拭きながら、いつきさんが聞いてきた。


「はい。まだ、ゆっくりですけど」


「最初はそれでいい。急いで読む本でもないしな」


「そうなんですか?」


「ああ。ああいうのは、歩く速さで読むくらいがちょうどいい」


 歩く速さ。


 その言い方が、少しいつきさんらしいと思った。


「じゃあ、少しずつ読みます」


「そうしろ。途中で飽きたら、別の本にしてもいい」


「飽きません」


「まだ分からんだろ」


「昨日、自分で選んだので」


 そう言うと、いつきさんは少しだけ目を細めた。


「なら、最後まで付き合ってやれ」


「はい」


 本に付き合う、という言い方が少しおかしくて、でも嫌ではなかった。


 自分で選んだものに、ちゃんと向き合う。


 それはたぶん、本だけの話ではない気がした。


 ***


 お風呂は、いつきさんが先に入った。


 私はそのあいだに、明日の制服と鞄を確認した。

 教科書、筆箱、ノート。

 連休前に出された課題も、ちゃんと入っている。


 何度も確認するほどのことではないのに、気になってもう一度鞄を開ける。


 明日から、また学校が始まる。


 少し前なら、それだけで落ち着かなかったと思う。

 でも今は、怖いだけではなかった。


 歩ちゃんと朱鷺子に、昨日の古本屋の話をしたい。

 買った本のことも、いつきさんと一緒に本を選んだことも、全部はうまく言えないかもしれないけど、少しだけ話してみたい。


 あの古本屋さんは、たぶん、遠い場所にあるわけではない。


 私の実家からも、学校からも、まったく関係のない場所ではなかったのだと思う。

 ただ、私が知らなかっただけだ。


 近くにあっても、行かなかった場所。

 見えていても、入らなかった場所。


 昨日は、そこへいつきさんと入った。


 それが、少し不思議だった。


 ***


 お風呂場の扉が開く音がした。


 私は顔を上げて、台所へ向かう。

 冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いだ。


 前にも、こういうことをしたことがある。

 あの頃は、役に立たなきゃ、という気持ちが強かった。


 今も、役に立ちたい気持ちはある。


 でも、それだけではない。


 いつきさんが戻ってきたとき、ちゃんとそこにいたかった。


「上がったぞ」


 髪をタオルで拭きながら、いつきさんが部屋に戻ってくる。


「麦茶、置いてあります」


「助かる」


 いつきさんはコップを手に取り、一口飲んだ。

 それから、首を少し回す。


 その動きが、なんとなく気になった。


「肩、凝ってます?」


「凝ってない日があると思うか」


「じゃあ、揉みます」


「なんでそうなる」


 思ったよりすぐに返されたので、私は少しだけ姿勢を正した。


「いつきさんは楽になります」


「たぶんな」


「私は、近くにいられます」


「……」


「なので、どちらにも悪い話ではありません」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


 でも、間違ったことは言っていないと思う。


 いつきさんはしばらく黙ってから、タオルを肩にかけたまま息を吐いた。


「言い方が妙に交渉っぽいな」


「交渉ですか?」


「少なくとも、ただの善意ではないだろ」


「善意もあります」


「“も”って言ったな」


 しまった、と思った。


 でも、いつきさんはそれ以上追及せず、こたつ机の前に座った。


「五分だけな」


「十」


「五」


「七分」


「刻むな」


「じゃあ、七分弱で」


「それはほぼ七分だろ」


「はい」


「返事だけはいいな」


 少し笑ってしまった。


 私はいつきさんの後ろに回った。


 肩に手を置く。

 風呂上がりだからか、パーカー越しでも少し体温が高い気がした。


 近い。


 でも、近づきすぎてはいけない距離でもある。


 だから私は、肩だけをゆっくり押した。


「痛くないですか」


「大丈夫だ」


「ちゃんと言ってくださいね」


「言ってる」


 いつきさんの声は、いつもより少し低かった。

 疲れているのか、眠いのか、それとも困っているのか。


 たぶん、全部だと思う。


「昨日の古本屋さん」


「ああ」


「よく行くんですか」


「たまにな。こっちに来てから、なんとなく寄るようになった」


「なんとなく、ですか」


「最初は仕事帰りに見つけただけだ。気づいたら、たまに寄る店になってた」


「そういう場所があるの、少し羨ましいです」


「大げさだな。ただの古本屋だぞ」


「でも、近くにあったのに、私は知らなかった場所なので」


 そう言うと、いつきさんは少しだけ黙った。


「近い場所でも、行かないところはあるだろ」


「はい。だから、昨日は少し不思議でした」


「何がだ」


「知らない場所なのに、遠い場所じゃない感じがして」


 肩に置いた手に、少しだけ力を込める。


「あそこは、いつきさんが私と出会う前から知っていた場所なんですよね」


「まあ、そうだな」


「そういう場所に連れて行ってもらえたのが、うれしかったです」


 言ってから、少しだけ照れた。


 いつきさんは振り返らなかった。

 でも、声だけが少し柔らかくなる。


「そうか」


「はい」


「本屋に寄る癖自体は、昔からあった」


「地元にいた頃も?」


「ああ。駅前に小さい本屋があってな。高校の頃は、帰りに寄ることが多かった」


「高校生のいつきさんが、本屋さんに」


「想像するな」


「少しだけしました」


「やめろ」


 そう言われても、少しだけ想像してしまう。


 今より若くて、今より少し無愛想で、でも本棚の前ではたぶん真剣な顔をしているいつきさん。


「その頃から、本が好きだったんですか」


「まあな。家にいるより、本屋にいる方が落ち着く時期はあった」


「家にいるより?」


「大した話じゃない。静かな場所が好きだっただけだ」


 それ以上は言わなかった。


 私は少しだけ手を止めそうになって、またゆっくり肩を押す。


 いつきさんが話したくないことを、無理に聞きたいわけではない。

 でも、聞かせてもらえた言葉は、ちゃんと受け取りたかった。


「小鳥遊さんは、地元の後輩なんですよね」


「ああ。高校のひとつ下」


「昔から、今みたいな感じだったんですか」


「今よりはもう少し真面目だった」


「今も真面目だと思います」


「真面目すぎて面倒な方向に育った」


 その言い方が少しおかしくて、私は小さく笑った。


「各務さんは?」


「彼方さんか?」


「はい」


「彼方さんは、こっちに来てからだ。大学の頃か、その少しあとか……そこは曖昧だな」


「曖昧なんですか」


「十年以上前だぞ。全部覚えてる方が怖い」


 それはそうかもしれない。


 私がまだ知らない、いつきさんの時間。


 高校生だった頃。

 地元を出た頃。

 こっちに来て、今の人たちと知り合った頃。


 私が出会うよりずっと前から、いつきさんはちゃんと生きていた。


 当たり前なのに、少し不思議だった。


 ただ、座ったままだと、肩甲骨のあたりまでは少し押しにくい。


「いつきさん、少しだけうつ伏せになってもらってもいいですか」


「本格的だな」


「肩甲骨のあたりも押した方がよさそうなので」


「どこで覚えた」


「動画で見ました」


「動画知識かよ」


「ちゃんと、専門の人が解説しているものです」


「そうか……」


 いつきさんは少し迷ったあと、布団の方を見た。


「じゃあ、少しだけな」


「はい」


 私は布団を少し整えた。

 いつきさんがうつ伏せになる。


 こうして見ると、いつもより背中が広く見えた。

 仕事をしているときも、ご飯を作っているときも、隣を歩いているときも、いつきさんの背中を見ることはある。


 でも、こういうふうに近くで見ると、少し違って見えた。


「痛かったら言ってください」


「ああ」


 私は肩甲骨のあたりに手を置く。

 少しずつ力を込めると、いつきさんの肩がわずかに沈んだ。


「そこは効く」


「ほんとですか」


「ああ。普通に上手い」


 褒められた。


 それだけで、うれしくなる。


 もう少し力を入れようとして、私は自然にいつきさんの腰のあたりをまたぐように座った。

 マッサージの動画でも、そうしている人がいた気がしたからだ。


「……おい」


「はい?」


「今、何をしてる」


「押してます」


「いや、そこじゃない」


「重いですか?」


「そこでもない」


 いつきさんの声が、ほんの少し低くなった。


 怒っている、というより。

 困っている。

 それに、少しだけ慌てている。


「だめですか」


「だめというか」


「はい」


「心臓に悪い」


 その言い方が、思っていたより真面目で、私は一瞬だけ手を止めた。


 見えないけれど、たぶん少し照れている。


 そう思ったら、頬のあたりが少し熱くなった。


「……じゃあ、座らないようにします」


「そうしてくれ」


 私は少し腰を浮かせて、膝立ちになる。

 体重はかけない。

 背中に触れるのは、肩に置いた両手だけ。


「これならいいですか」


「……さっきよりはな」


「近いですか」


「近い」


「でも、さっきよりは?」


「さっきよりは」


 少しだけ笑って、肩甲骨のあたりをゆっくり押した。


「痛かったら言ってください」


「近かったら?」


「それも言ってください」


「今だ」


「少しだけ我慢してください」


「お前な」


 文句を言いながらも、その声はさっきより少し柔らかかった。


「そこまででいい。明日、お前も学校だろ」


 しばらくして、いつきさんが言った。


「はい」


 私は背中の上から降りて、横に座り直した。


「……助かった。肩、少し楽になった」


 その一言だけで、体の奥がふわっと軽くなる。


「なら、よかったです」


「毎日はやらなくていいからな」


「じゃあ、ときどき」


「聞いてたか?」


「聞いてました」


 いつきさんは何か言いたそうにしたけれど、結局あきらめたように麦茶を飲んだ。


 ***


 灯りを落として、布団に入る。


 連休の最後の夜だからか、部屋の中はいつもより静かに感じた。

 御子神さんはキャットタワーの上で丸くなっている。

 暗がりの中で、しっぽだけが少し動いた。


 隣の布団から、いつきさんの気配がする。


 私はしばらく天井を見ていた。


 聞きたいことは、まだあった。

 でも聞いていいのか分からない。


 肩を揉んでいるときなら聞けたことも、布団に入ってからだと、少しだけ重さが変わる。


 それでも。


「いつきさん」


「ん」


「好きな人、とかも、いたんですか」


 言ってから、布団の中で指先に力が入った。


 変な聞き方だったかもしれない。

 聞かなければよかったかもしれない。


 少しの沈黙があった。


「いたことはある」


 いつきさんの声は、思ったより普通だった。


 普通だったから、余計に私の中だけが静かに揺れた。


「そう、なんですね」


「地元にいた頃の話だ」


「その人とは……」


「俺がこっちに出る前に別れた。揉めたわけじゃない」


「はい」


「縁がなかったんだろうな」


 その言葉は、思っていたより静かだった。


 冷たいわけではない。

 でも、熱が残っているわけでもない。


 時間がたくさん経ったあとにしか出てこない言い方なのだと思った。


「今は、連絡を?」


「取ってない。もう十年以上前だぞ」


「そうですか」


 それ以上、聞くことはなかった。


 ほっとしたのか、少し寂しいのか、自分でもよく分からない。


 ただ、私の知らないいつきさんが、ちゃんといたんだと思った。


 誰かを好きだったいつきさん。

 誰かとちゃんと向き合って、ちゃんと終わらせたいつきさん。


 少しだけ引っかかる。

 でも、嫌な話ではなかった。


 その人のことを、雑に扱っていない言い方だったから。


「私の知らないいつきさんが、たくさんいるんですね」


「そりゃ、俺も生まれたときからここにいたわけじゃない」


「それは、そうですけど」


 いつきさんらしい返しに、少しだけ力が抜けた。


 私は布団を握り直す。


「私も」


「あ?」


「私も、知ってほしいことがあります」


 言ってから、少し迷った。


 母のことを話すと、どうしても悲しい話になる。

 でも、悲しいことだけが、私の過去ではない。


 お母さんと二人で暮らしていた頃。

 決して楽ではなかったけれど、ちゃんとあたたかい日もあった。


「小さい頃、お母さんと図書館に行ってました」


「図書館か」


「はい。本を買う余裕はあまりなかったから、借りることの方が多くて」


 天井を見たまま、ゆっくり言葉を探す。


「でも、選んでいいよって言われるのが、すごく嬉しかったんです。たくさん並んでる中から、自分で一冊選ぶのが」


「そうか」


「昨日、古本屋さんで本を選んだとき、少し思い出しました」


 言葉にすると、指先のあたりが少しあたたかくなった。


「お母さん、私が迷ってると、急かさずに待っててくれて。結局いつも、予定より長くなってました」


「誰かさんみたいだな」


「私ですか?」


「他にいるか」


 小さく笑った。


 暗い部屋の中だと、笑った顔は見えない。

 でも、声だけで少し安心した。


「その頃の私は、今よりもう少し、わがままだったと思います」


「今もわりとそうだろ」


「えっ」


「肩揉ませろとか言うし」


「あれは、いつきさんのためでもあります」


「ずいぶん都合よくまとめたな」


 言い返せなくて、私は布団を少しだけ引き上げた。


「でも、お母さんには、もっと普通に甘えてました」


「うん」


「髪も、よく結んでもらってました。この髪型も、お母さんがしてくれたのが最初で」


「お下げか」


「はい。最初は自分で全然うまくできなくて。片方だけ短くなったり、変なところで膨らんだりして」


「それは見てみたかったな」


「見せません」


「もう見られないだろ」


「だからです」


 そう言ってから、少しだけ目の奥が熱くなった。


 もう見られない。

 もう戻れない。


 でも、それを口にしても、前みたいに息が苦しくなるだけではなかった。


 今は、その話を聞いてくれる人が隣にいる。


「私、逃げた日のこととか、義父のこととか、そういう話ばかりしてきた気がします」


「無理に話す必要はない」


「はい。でも、そうじゃないことも、知ってほしいです」


 隣の布団が、わずかに動いた。


「お母さんと図書館に行ったこととか。髪を結んでもらったこととか。お弁当が、いつも少しだけ可愛かったこととか」


「ああ」


「私にも、ちゃんと普通の日があったんだって」


 そこまで言って、声が少し小さくなった。


 でも、消えなかった。


「知っててほしいです」


 少しの沈黙。


 窓の外を車が通る音がした。

 遠くで、誰かの足音が階段を下りていく。


 そのあと、いつきさんが静かに言った。


「覚えとく」


 たったそれだけだった。


 でも、それでよかった。


「私も、少しずつでいいので、いつきさんのことを教えてください」


「俺の昔話なんか、聞いてどうする」


「知りたいんです」


「……そうか」


「はい」


「大した話じゃないぞ」


「大した話じゃなくてもいいです」


「じゃあ、気が向いたらな」


「気が向くようにします」


「何をする気だ」


「肩を揉みます」


「取引材料にするな」


 小さく笑って、布団をかけ直す。


 明日から学校が始まる。

 また慌ただしい日が戻ってくる。


 でも、今日の夜に聞いたことと、話したことは、ちゃんと残る気がした。


 隣の布団から聞こえる呼吸が、少しずつ落ち着いていく。


 本棚の端には、昨日入れてもらった一冊がある。

 薄い暗がりの中で、その背表紙だけが静かにこちらを向いていた。

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