2025年5月5日(月)
「古本屋に行くだけだぞ」
昨日、いつきさんはそう言った。
広くもないし、派手な店でもない。そんな構える場所じゃない、とも。
それでも、朝から私は少し落ち着かなかった。
遊園地に行くわけじゃない。
映画を見るわけでもない。
遠くまで出かけるわけでもない。
だけど、鞄の中は何度も確かめた。
財布。スマホ。ハンカチ。
昨日もらったボードゲームカフェの会員証も、一応入っている。
鏡の前で髪を結び直す。
今日はお下げにした。
いつきさんが、私と出会う前から行っていた場所。
そこに、私も連れて行ってもらう。
そう考えると、ただの外出とは少し違って思えた。
「まだか」
部屋の向こうから、いつきさんの声が聞こえた。
「もう少しです」
「古本屋だぞ」
「分かってます」
「分かってなさそうな返事だな」
分かっている。
古本屋さんだ。
でも、私にとっては、ただの古本屋さんではない。
鏡の中の自分に小さくうなずいて、私は鞄を手に取った。
部屋に戻ると、いつきさんはこたつの横で御子神さんに声をかけていた。
「留守番頼むぞ」
御子神さんは返事の代わりに、尻尾だけをゆっくり動かす。
行ってらっしゃいというより、勝手に行けば、という顔に見えた。
「お待たせしました」
「行くか」
「はい」
玄関で靴を履いてから、私はふと思い出して振り返る。
「御子神さん、行ってきます」
御子神さんは、少し大きなあくびをした。
返事、ということにしておいた。
***
古本屋は、駅前の大きな通りから少し外れたところにあった。
商店街の端を抜けて、細い道へ入る。
パン屋さんやクリーニング店の前を通り過ぎると、古いビルの一階に小さな看板が見えた。
看板には、少し色の抜けた文字で店名が書かれている。
入口のガラス扉には、営業時間の紙と、買い取り歓迎の貼り紙。
外から見た店内は、少し暗い。
でも、扉を開けた瞬間、紙と木の棚の匂いがふわっと流れてきた。
「いらっしゃい」
奥のカウンターから、男の人の声がした。
五十代くらいだろうか。
眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の店主さんだった。
白髪が少し混じっているけれど、声ははっきりしている。
「あれ、弓削くんか。久しぶり」
「どうも」
「今日は珍しいね」
店主さんの視線が、いつきさんから私へ移る。
じろじろ見る感じではない。
ただ、本当に少し驚いているようだった。
「連れがいるなんて」
「たまたまです」
「たまたま人は古本屋に連れてこないよ」
店主さんが笑った。
いつきさんは、少しだけ目を逸らす。
「……まあ、少し見せるだけです」
「はいはい。ゆっくり見ていって」
私は小さく頭を下げた。
「お邪魔します」
「いらっしゃい。狭いけど、好きに見てね」
狭い、というほど窮屈ではない。
でも、通路は広くなくて、両側の棚には本がびっしり並んでいた。
背表紙の色はばらばらで、少し焼けたものもある。
新しい本屋さんとは違って、棚全体に時間が積もっているように見えた。
いつきさんは迷わず奥へ進む。
私はその後ろについていきながら、少し不思議な気持ちになった。
初めて来た私には、どこに何があるのか分からない。
でも、いつきさんは棚の位置を覚えているみたいだった。
立ち止まる場所にも迷いがない。
背表紙を端から眺めて、気になる本だけを少し引き出す。
開いて、何行か読んで、戻す。
たまに奥付を見て、また棚へ戻す。
早いわけではない。
けれど、迷子になっていない。
この場所での歩き方を、ちゃんと知っている人の動きだった。
「ここ、よく来てたんですか?」
「よく、というほどじゃない。たまに」
「たまに、なんですね」
「……気になるのか」
「はい。いつきさんが、私と会う前から来ていた場所なので」
「大した場所じゃないぞ」
「それは、私が決めます」
「またその理屈か」
「はい」
いつきさんは少し困ったような顔をした。
でも、何も言わずに棚へ視線を戻した。
しばらくして、棚の端にあった英語の本を一冊抜き取る。
背表紙は少し焼けていて、表紙の角も丸くなっている。
タイトルは英語で書かれていたけれど、いくつかの単語だけは見覚えがあった。
「それ、英語の本ですか?」
「ああ。指輪物語の原書だな」
「指輪物語……映画になってるやつですよね」
「そう。それの原作」
「いつきさん、こういうのも読むんですね」
「昔読んだ。翻訳版も持ってるけど、原文の言い回しを見たくなることがある」
「仕事ですか?」
「半分は。もう半分は趣味だな」
そう言って、いつきさんは本のページを軽くめくった。
英語の文章が、紙の上にぎっしり並んでいる。
私には、すぐに意味を追えるものではなかった。
でも、いつきさんはそれを見て、少し懐かしそうにしていた。
大きく表情が変わったわけじゃない。
それでも、指先の動きが少しだけゆっくりになった気がした。
「面白いんですか?」
「面白い。けど、長い」
「長いんですか」
「かなり」
「どれくらいですか?」
「休日が消えるくらい」
「それは……長いですね」
「原書ならもっと消える」
いつきさんは本を閉じて、少し考えるように棚へ視線を向けた。
「興味あるなら、日本語訳からでいいと思う。たぶん図書館にもあるぞ」
「弓削くん」
カウンターの方から、店主さんの声が飛んできた。
振り向くと、店主さんが半分呆れたような顔をしている。
「うちの店内で、まず図書館を勧めるのはどうなんだい」
「あ」
「いや、正しいよ。正しいけど、商売としては少し寂しい」
「……すみません」
いつきさんが珍しく、少し気まずそうに目を逸らした。
その様子がなんだかおかしくて、私は思わず笑ってしまう。
「でも、たしかに図書館にもありそうですね」
「あるだろうな。有名どころだし」
「じゃあ、今日はここで見てみたいです」
そう言うと、いつきさんがこちらを見た。
「……そうか。なら見てみるか」
「はい」
「買うかどうかは、手に取ってからでいい。古本は状態もあるしな」
「状態?」
「日焼けとか、書き込みとか。読めればいいなら気にしなくてもいいが」
「なるほど……」
「だから、無理に決めなくていい」
「はい。でも、気になる本があったら、今日はここで選んでみたいです」
そう言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
でも、嘘ではなかった。
図書館で借りられる本だとしても、今日はこの店で見たかった。
いつきさんが前から通っていた場所で、自分の手で棚から選んでみたい。
そう思った。
店主さんはにこりと笑った。
「日本語版なら奥にあるよ。全部揃いじゃないけど、一冊目あたりならあったはず」
「見てもいいですか?」
「もちろん」
案内された棚には、海外文学やファンタジーの本が並んでいた。
指輪物語の日本語訳もあった。
手に取ってみると、思ったより厚い。
ページを開くと、知らない地名や名前がたくさん出てくる。
面白そうだとは思う。
でも、今すぐ全部読めるかと聞かれたら、少しだけ自信がなかった。
山登りみたいなものだと、いつきさんはさっき言った。
たしかに、入口からもう坂道が見えている気がする。
「無理そうなら、別のでいい」
いつきさんが横から言った。
「まだ何も言ってません」
「顔に出てる」
「そんなに出てました?」
「少しな」
私は本を棚に戻した。
そのまま、少しだけ一人で見てもいいですか、と言うと、いつきさんは「ああ」とだけ答えた。
自分は少し離れた辞書や資料本の棚を見に行く。
一人で棚の前に立つと、古本屋の静けさが少し近くなった。
遠くでページをめくる音がする。
外の通りを車が走る音も、扉越しに少しだけ聞こえる。
店主さんがカウンターで何かを整理している気配もあった。
私は棚の背表紙を、ゆっくり眺めた。
途中で、料理本の棚が目に入る。
家庭料理。
常備菜。
お弁当。
やさしい和食。
そういう文字を見ると、つい足が止まった。
いつもの私なら、たぶんそちらを先に見ていたと思う。
料理は落ち着く。
材料と手順があって、切って、煮て、味を見て。
ちゃんと進めれば、ちゃんと形になる。
でも今日は、もう少しだけ別の棚にいたかった。
いつきさんが昔から読んでいたもの。
私と出会う前の時間に、少しだけつながっているもの。
それを、今の私でも読める形で見つけたかった。
棚の少し下に、指輪物語より薄い本があった。
タイトルは、『ホビットの冒険』。
ホビット、という言葉には少しだけ聞き覚えがあった。
たぶん映画の名前で見たことがあるのだと思う。
でも、私の手を止めたのはタイトルではなく、背表紙の著者名だった。
英語の名前なので、読み方はよく分からない。
それでも、さっきいつきさんが手に取っていた本にも、同じ名前が書かれていた気がした。
「これ……さっきの本と、同じ人ですか?」
私が聞くと、いつきさんは横から表紙をのぞき込んだ。
「ああ。トールキンだな」
「同じ作者なんですね」
「指輪物語より前に書かれた話だ。同じ世界の入口みたいなものだな」
「前のお話、ですか?」
「ざっくり言えばな。出版もこっちが先だ」
「じゃあ、読むならこっちからでもいいんですか?」
「ああ。むしろ入り口としてはそっちの方がいいと思う」
入口。
その言葉で、少しだけ安心した。
指輪物語は、山の入口からもう遠くまで道が続いているように見えた。
でも、この本は少し違う。
同じ世界に続いているのに、最初の扉が少し低いところにある気がした。
「じゃあ、これにします」
「それにするのか」
「はい。入口なら、ここから入ってみたいです」
「いいと思う」
「いいんですか?」
「自分で選んだんだろ」
「……はい」
「なら、それでいい」
その言い方が、なんだかうれしかった。
自分で選んだ。
だから、それでいい。
当たり前のことなのに、いつきさんにそう言われると、少しだけ本の重さが変わった気がした。
「迷子にならないようにします」
「本で迷子になるのは普通だ」
「じゃあ、少しなら迷子になります」
「迷子になる前提なのか」
「少しなら、です」
いつきさんが小さく息を吐いた。
呆れているようで、少し笑っているようにも見えた。
「それにしても、ホビットって言葉、どこかで聞いたことはある気がします」
「映画にもなってるからな」
「あ、やっぱり」
「指輪物語ほどじゃないが、有名ではある」
「じゃあ、私が知らなかっただけですね」
「知らない本の方が多いだろ。俺もそうだ」
そう言って、いつきさんは手元の本に視線を落とした。
その手には、さっきの原書とは別に、古い辞書のような本が一冊あった。
「それも買うんですか?」
「迷ってる」
「何の本ですか?」
「古い言い回しの辞典みたいなものだな」
「ネットじゃだめなんですか?」
「済むこともある。でも紙の辞書は、探してない言葉まで目に入る」
「探してない言葉」
「そういうのが役に立つこともある」
そういうところも、私の知らないいつきさんだった。
必要なものだけを探すのではなく、たまたま目に入ったものまで拾っていく。
それは少し、古本屋という場所に似ている気がした。
***
会計のとき、店主さんが私の選んだ本を見て、少し楽しそうに目を細めた。
「いいところから入るね」
「そうなんですか?」
「指輪物語よりは、足を踏み入れやすいと思うよ」
「よかったです」
「でも、そこから先へ行くと長いよ」
「少しずつ読みます」
そう答えると、店主さんは笑って、店名の入った紙の栞を一枚挟んでくれた。
「よかったら、これ使って」
「ありがとうございます」
薄い紙の栞だった。
でも、その店の名前が入っているだけで、少し特別に見えた。
いつきさんも自分の本を会計に出す。
そのとき、ふと思い出したように店主さんへ言った。
「そうだ。今度、読まなくなった本を何冊か持ってきます」
「買い取り?」
「値がつくなら。無理なら処分で」
「珍しいね。弓削くん、本を減らすの嫌がる方だと思ってたけど」
「部屋が狭いんで」
いつきさんはそう言ってから、ほんの少しだけ私の方を見た。
「棚も、少し空けないといけませんし」
その言葉に、私は少し遅れて気づいた。
私の本を置く場所を、作ろうとしてくれているのだと。
店主さんは、何かを察したように小さく笑った。
「なるほど。新しい本の場所を作るわけだ」
「そんな大げさな話じゃないです」
「最初は一冊でも、気づくと増えるからね」
いつきさんは、そこには何も返さなかった。
袋に入れてもらった本を受け取り、店を出る。
外の光は、入る前より少し眩しく感じた。
「楽しかったか」
いつきさんが聞いた。
「はい」
私は袋の持ち手を両手で持ち直す。
「本を買うのって、こんなに悩むんですね」
「悩むのも込みだな」
「いつきさんも悩んでました?」
「少し」
「少しだけですか?」
「わりと」
「わりと」
「言い直さなくていい」
古本屋の看板を振り返る。
さっきまで知らなかった場所が、もう一度来たい場所になっていた。
いつきさんが前から歩いていた道に、今日は少しだけ、自分の足跡を足せた気がした。
***
帰りにパン屋へ寄って、昼食用のパンをいくつか買った。
家に戻ると、御子神さんはキャットタワーの上からこちらを見下ろしていた。
「ただいま、御子神さん」
そう声をかけると、御子神さんはゆっくり瞬きをした。
「荷物置いたら、昼にするぞ」
「はい」
こたつの上にパンの袋と、本の入った袋を並べる。
いつきさんは買ってきた辞典のような本を棚の横に置いた。
私は紙袋から、自分の本を取り出す。
店名入りの栞が、最初のページに挟まれていた。
「棚、空けるんですか?」
聞くと、いつきさんは本棚の前で少しだけ頷いた。
「ああ。少しな」
「私のために、ですか?」
「お前の本も増えるだろ」
「増やしていいんですか?」
「置く場所がある分ならな」
その言い方が、いつきさんらしかった。
何でも好きなだけ、とは言わない。
でも、置いていい場所はちゃんと作ってくれる。
「じゃあ、場所を埋めすぎないように、厳選します」
「その方がいい」
「でも、今日みたいに悩むなら、厳選にも時間がかかりそうです」
「時間をかけろ。急ぐものでもない」
「はい」
いつきさんは本棚の一段から、何冊かの文庫と雑誌を抜いた。
そこに、ほんの少しだけ空きができる。
広い場所ではない。
けれど、私の本を一冊置くには十分だった。
私は今日買った本を、そこにそっと差し込む。
いつきさんの本棚に、私の本が入る。
そう考えたら、手に残っていた紙袋の感触まで、少し違って思えた。
御子神さんがいつの間にか近づいてきて、本棚の下から背表紙を見上げている。
それから、私の足元にすり寄ってきた。
「認可は下りたみたいだな」
「御子神さんのですか?」
「この家では一番厳しい審査だ」
「そうなんですか?」
「たぶん」
御子神さんは、審査員にしてはあまりにも気まぐれな顔で、こたつの方へ歩いていった。
私は本棚の中の一冊を、もう一度見る。
まだ一冊だけ。
でも、そこは私の場所だった。
こたつの上では、パンの袋が小さく音を立てている。
店名入りの紙の栞が、本の間から少しだけ覗いていた。




