2025年5月4日(日)
朝食を片づけたあと、和葉が鞄の中身を整理していた。
昨日使ったハンカチ、財布、スマホ。
こたつの上に一つずつ並べて、最後に小さなカードを二枚取り出す。
一枚は、昨日行ったボードゲームカフェの会員証。
もう一枚は、スタンプカードだった。
「それ、昨日の店のか」
「はい。受付のときにもらいました」
「そういえば作ってたな」
会員証には店のロゴと、登録した名前が印字されている。
名前欄には、ちゃんと「和葉」とあった。
スタンプカードの方には、昨日の分のスタンプがひとつだけ押されている。
初回利用の印としては、たぶんそれ以上の意味はない。
だが、和葉はそれを少し大事そうに指先でなぞっていた。
「こういうの、ちょっと嬉しいですね」
「スタンプカードが?」
「はい。また行ける場所ができた感じがして」
そう言われて、少しだけ返事に困った。
店側からすれば、次に来てもらうための仕組みだ。
ただの紙のカードで、そこにスタンプがひとつ押されているだけ。
けれど和葉にとっては、昨日の続きが形になって残ったものなのだろう。
昨日、あの店で和葉は、歩や朱鷺子と一緒に席に着いた。
店員に名前で呼ばれ、ゲームを教わり、失敗して、笑った。
俺の家にいる子ではなく、客の一人として。
「……まあ、なくすなよ」
「はい。ちゃんとしまっておきます」
和葉はそう言ってから、ふとこちらを見た。
「いつきさんも、持ってるんですか?」
「何を」
「スタンプカードです」
「ああ。財布に入ってる」
財布を開けて、奥の方から少し擦れたカードを引っ張り出す。
角はわずかに丸くなっていて、スタンプ欄は半分以上埋まっていた。
和葉がそれを見て、目を丸くする。
「……結構ありますね」
「たまに行ってたからな」
「たまに、でこんなに溜まるんですか?」
「頻繁ではない。長いだけだ」
「長い」
和葉が、その言葉を小さく繰り返した。
「私と会う前から、ですか」
「ああ」
「……そうなんですね」
和葉は、自分の真新しいカードと、俺の少し古びたカードを見比べていた。
押されたスタンプの数だけ、あの店に行った日がある。
そう考えると、ただの紙が妙に年季の入ったものに見えなくもない。
「あと少しで特典ですね」
「ドリンク一杯無料だった気がする」
「次に一緒に行ったら、使いますか?」
「四人で行ったときに一杯だけ無料でも揉めるだろ」
「確かに」
「争いの火種は避ける」
「ゲームではあんなに争ってたのに」
「ゲームと飲み物は別だ」
和葉がくすっと笑った。
それ以上、店の話を深掘りすることはなかった。
ただ、和葉はカードを財布にしまう前に、もう一度だけ俺のスタンプカードへ目を落としていた。
何かを覚えておくような顔だった。
「そろそろ洗濯物干すか」
「あ、はい。手伝います」
「今日は休みなんだから、そこまで張り切らなくてもいい」
「休みなので、ゆっくり手伝います」
「手伝うこと自体は変わらないんだな」
和葉は少しだけ笑って、会員証とスタンプカードを財布の内側にしまった。
こたつの横では、御子神さんが丸くなっている。
尻尾だけが、こちらの会話に返事をするみたいにゆっくり揺れていた。
***
昼は簡単に済ませることにした。
冷凍してあったご飯を温め、卵とハムで炒飯を作る。
和葉はその横で、今朝の味噌汁を小鍋に移して温め直していた。
「昨日、疲れなかったか」
卵を溶きながら聞くと、和葉は少し考えてから頷いた。
「少し疲れました。でも、楽しかったです」
「ならよかった」
「歩ちゃん、帰ってからもメッセージくれました。次は別のゲームもやろうって」
「元気だな」
「はい。すごく」
味噌汁の鍋から、湯気が立つ。
和葉は火を弱めてから、お玉で中を一度だけかき混ぜた。
「朱鷺子も、楽しかったみたいです」
「そうだろうな。あいつ、かなり向いてる」
「いつきさんもそう思いました?」
「思った。嫌なところを的確に刺す才能がある」
「それ、褒めてますか?」
「かなり褒めてる」
和葉は少し笑った。
昨日の話をしているときの顔は、まだ明るい。
負けたことも、迷ったことも、少し置いていかれたことも、今はちゃんと楽しかったことの中に入っているらしい。
それなら、悪くない。
「和葉も、途中から変な読み合いを覚えようとしてただろ」
「変でしたか?」
「変ではないが、俺を止めるゲームではない」
「でも、いつきさんが困ってました」
「そこを成功判定にするな」
「少しだけ、成功した気がします」
そう言って、和葉は鍋の火を止めた。
前なら、こんなふうに返してこなかったかもしれない。
それくらいで留めて、炒飯を皿に盛る。
味噌汁と一緒にこたつへ運ぶと、御子神さんが匂いにつられて足元へ来た。
「お前の昼飯じゃない」
そう言うと、御子神さんは不満そうに尻尾を振った。
「あとで、おやつにしましょうね」
「甘やかすなよ」
「少しだけです」
「その少しが積み重なるんだ」
「昨日のスタンプみたいにですか?」
「猫の体重でスタンプを例えるな」
和葉が笑う。
休日の昼に、こたつで炒飯を食べる。
味噌汁の湯気が上がって、足元には猫がいる。
特別なことは何もない。
だが、昨日の外出があったせいか、いつもの部屋が少しだけ違って見えた。
***
食後、こたつに戻って茶を淹れた。
御子神さんは俺の膝の横に来て、何か言いたげにこちらを見上げている。
昼飯にハムを使ったせいで、匂いだけはしっかり覚えているのだろう。
もちろん、やらない。
「GW、まだ休みあるだろ」
湯呑みを置きながら、俺は言った。
「はい。六日まで休みです」
「他に行きたいところ、あるか?」
「行きたいところ、ですか」
和葉は湯呑みを両手で包んだまま、少し考えるように視線を落とした。
遊園地とか、水族館とか、映画とか。
高校生が連休に行きたがる場所なら、いくつか思いつく。
もっとも、今から混雑に突っ込むのは避けたい。
俺の本音としては、近場で済むと助かる。
しばらくして、和葉が小さく口を開いた。
「……場所、というより」
「ん?」
「いつきさんが、前から行っていたところに行ってみたいです」
思わず、湯呑みを置いた。
「俺が?」
「はい」
「別に、面白いものでもないと思うが」
「面白いかどうかは、私が決めます」
思ったよりはっきり返されて、少しだけ言葉に詰まる。
そう言ったあと、和葉は少しだけ頬を赤くした。
強く出た自覚はあるらしい。
だが、引っ込める気はなさそうだった。
「私、昨日思ったんです」
「何を」
「いつきさんって、自分のこと、あまり話さないじゃないですか」
「そうか?」
「そうです」
「聞かれたことには答えてるつもりだが」
「でも、自分からはあまり話しません」
それは、まあ。
言われてみれば、そうかもしれない。
自分の話をする必要を、あまり感じてこなかった。
仕事のことも、趣味のことも、昔のことも。聞かれれば答えるが、わざわざ口に出すほどのものでもないと思っている。
「そんなに必要だとも思わないが」
「必要か必要じゃないかじゃないんです」
和葉の声が、少しだけ強くなった。
俺が顔を上げると、和葉は湯呑みを両手で包み直していた。
その指先には少し力が入っている。
「私が、知りたいんです」
「……俺のことを?」
「はい」
そこまで言ってから、和葉は一度だけ目を伏せた。
けれど、すぐにこちらを見る。
「いつきさんは、私のことをたくさん知ってくれました。昔のことも、家のことも、怖かったことも……私がうまく話せなかったことまで、ちゃんと聞いてくれました」
「それは、必要だったからだ」
「だからです」
和葉は小さく首を振る。
「必要だったから知ってくれたんだとしても、私はそれで救われました。でも、私は……必要だからじゃなくて、知りたいんです」
部屋が少し静かになった。
御子神さんが、こたつの横で小さくあくびをする。
その気の抜けた音がなければ、返事の間を持て余していたかもしれない。
「好きな人のことを知りたいって思うのは、変ですか」
真正面からそう言われて、喉の奥が詰まった。
変ではない。
好意を向けられたことが、なかったわけではない。
付き合った相手がいなかった、と言えば嘘になる。
それでも、ここまでまっすぐに「知りたい」と言われた覚えはなかった。
我が出てきた。
昼の会話でも、昨日のゲームの話でもそうだった。
和葉は最近、少しずつ自分の言葉を前に出すようになっている。
それはいいことだ。
俺が「大した話じゃない」と言えば引いていた子が、今は「面白いかどうかは私が決めます」と返してくる。
何を知りたいか、何を面白いと思うか。
そういうものを、自分で持とうとしている。
ただ、その矛先が俺なのは困る。
照れる。
正直、かなり照れる。
「……変ではないな」
どうにかそう返すと、和葉は少しだけ安心したように息を吐いた。
「じゃあ、教えてください」
「何を」
「大したことじゃない話を」
「それが一番困るんだが」
「困ってください」
「お前、だいぶ強くなったな」
「はい。たぶん」
和葉は少し照れたように笑った。
その笑い方も、前より少しだけ強い。
頼るだけではなく、自分から手を伸ばしてくる顔だった。
「俺の話なんて、聞いて面白いかは本当に分からんぞ」
「面白いかどうかは、私が決めます」
「二回目だな、それ」
「大事なので」
まいったな、と思う。
茶化して流すのは簡単だ。
学生だから。今はそういう時期じゃないから。俺の昔の話なんて聞いても仕方ないから。
理由はいくらでも並べられる。
だが、それで和葉の「知りたい」を勝手に処理してしまうのは、たぶん違う。
ふと、彼方さんに言われたことを思い出した。
子どもだから。
守るべき相手だから。
そういう言葉で、大人の側が本人の気持ちまで決めるな、と。
あのときは、面倒なことを言う人だと思った。
今でも少し思っている。
けれど、間違ってはいない。
「私が何を知りたいかは、私が決めたいです」
和葉は、こちらを見ていた。
「いつきさんでも、そこは譲れません」
怒っているわけではない。
責めているわけでもない。
ただ、自分の気持ちを自分のものとして、両手で抱えているような言い方だった。
俺は息を吐く。
「……そうか」
「はい」
「じゃあ、審査はそっちに任せる」
「はい。厳しめに見ます」
「やめろ。急に嫌になってきた」
和葉が小さく笑った。
少しだけ、部屋の空気が緩む。
「大した話じゃなかったら?」
「それも、私が決めます」
「逃げ道がないな」
「ないです」
「そういうところ、歩に似てきてないか」
「歩ちゃんほど勢いはないです」
「方向性は近い」
「それは、ちょっと嬉しいかもしれません」
和葉は湯呑みに口をつけた。
お茶は少し冷めているはずだが、そのぶん飲みやすそうだった。
俺は頭をかく。
どこかに行きたいかと聞いただけなのに、話が思ったより深いところへ転がった。
まあ、いつものことだ。
この家に和葉が来てから、何気ない会話ほど、油断できない。
「……じゃあ、明日でいいか」
「明日?」
「昔から、たまに寄ってる店がある。古本屋だ」
「古本屋さん」
「ああ。広くはないし、派手な店でもない。たぶん地味だぞ」
「行きたいです」
「即答か」
「はい」
迷う素振りすらなかった。
「古本屋って言っても、何か特別なことがあるわけじゃないからな。古い本が置いてあるだけだ」
「いつきさんは、そこで何を見るんですか?」
「文庫とか、仕事の資料になりそうな本とか。あと、気分で変な本を買う」
「変な本」
「変な本だ」
「気になります」
「そこに食いつくのか」
「はい」
和葉は真面目な顔で頷く。
妙なところに興味を持つ。
いや、妙なところに興味を持つようになった、というべきか。
それもたぶん、悪いことではない。
「じゃあ、明日。昼前くらいに出るか」
「はい」
和葉はすぐにスマホを手に取った。
「予定、入れておきます」
「そんな大げさなもんでもない」
「大げさかどうかも、私が決めます」
「……その理屈、しばらく使うつもりか」
「はい。しばらく使います」
カレンダーアプリを開き、和葉が短く文字を打つ。
古本屋さん。
画面に表示されたその予定を見て、少しだけ困る。
俺にとっては、ただの寄り道だった。
ひとりで気が向いたときに入り、適当に本を眺め、たまに買って帰るだけの場所。
それが和葉にとっては、明日の予定になる。
誰かと行く場所になる。
そう考えると、少しむず痒い。
こたつの上では、朝見た会員証とスタンプカードが、財布の近くに並んでいた。
御子神さんがいつの間にか起き上がり、カードの端を鼻先でつついている。
「あ、御子神さん、それは食べ物じゃないです」
「紙だからな」
「紙、好きなんですか?」
「好きだな。特に、こっちが困る紙が好きだ」
御子神さんは聞いていないふりをして、尻尾だけを揺らした。
和葉は会員証とスタンプカードをそっと回収し、財布の内側にしまう。
それからスマホの画面をもう一度見て、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
昨日のスタンプと、明日の予定。
ただそれだけのものが、少しずつ増えていく。
連休は、まだ二日ある。
俺の大したことのない話が、どこまで審査に耐えられるかは分からない。
御子神さんが、カードをしまわれた財布の方へ鼻を向ける。
和葉がそれを胸元に引き寄せて、笑った。




