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2025年7月17日(木)

 最後の答案が返ってきた。


 冷房の音に混じって、窓の向こうから蝉の声が聞こえている。


 机の上に伏せて置かれた紙を裏返し、右上の数字を確認した。


 思っていたより、よかった。


「……よし」


 声に出してから、もう一度見る。


 見直したところで数字が変わるわけではない。それでも、悪くない点数というのは何度見ても悪くない。


 前のテストより上がっている。

 苦手だったところも、今回はちゃんと取れていた。


「和葉、どうだった?」


 顔を上げると、歩ちゃんが自分の答案を半分に折りながらこちらを見ていた。


「前より上がったよ」


「ほんと? えー、ちゃんと受験生してる」


「ちゃんとって何」


「私は今回、もう忘れることにした」


 折った答案を、そのまま鞄の奥へ押し込む。


「忘れても点数は変わらないわよ」


 朱鷺子が冷静に言った。


「そういう現実いらないんだけど」


「必要だから言ってるの」


「朱鷺子は?」


「普通」


「それ一番信用できないやつ」


 朱鷺子は眉を寄せただけで、自分の答案をファイルへしまった。


 たぶん、悪くはない。

 悪かった時の方が分かりやすい。


「和葉は全体的に上がった感じ?」


「うん。前よりは」


 今日までに返ってきた答案をまとめて机へ出すと、歩ちゃんが覗き込んでくる。


「ほんとだ。すごいじゃん」


「そこまでじゃないよ」


「でも上がってるでしょ?」


「それは、うん」


 自分でも嬉しかった。


 三者面談の日、いつきさんには全部返ってから見ると言われている。


 赤点がなければいい、だけじゃない。


 今回は、自分でもちゃんと頑張ったと思えた。


「弓削さんにも見せるんでしょ?」


 朱鷺子に聞かれて頷く。


「全部返ってきたら見せるって言ってある」


「じゃあ褒めてもらえるじゃん」


「たぶん」


「たぶん?」


「いつきさんだから」


「あー」


 歩ちゃんが妙に納得した顔をする。


 どういう意味なのか気にはなったけれど、聞かない方がいい気がした。


 窓際のカーテンが、冷房の風でわずかに揺れている。

 明日は終業式。教室のあちこちからも、海だの花火だの、夏休みらしい言葉が聞こえていた。


「もうテストの話やめない?」


 歩ちゃんが机へ頬杖をつく。


「自分から聞いてきたんでしょ」


「聞いたけど、もう終わったことじゃん。これからの話しようよ」


 椅子ごとこちらへ向き直った。


 こういう顔をしている時の歩ちゃんは、大体何か思いついている。


「夏休みさ。三人でどっか泊まりに行かない?」


「泊まり?」


 朱鷺子がすぐに聞き返す。


「そう。旅行」


「急ね」


「だって高校最後の夏休みじゃん」


 歩ちゃんは指を一本立てた。


「二学期入ったら、さすがに受験とか進路でもっと忙しくなるでしょ? だったら今のうちに、一回くらい三人で旅行っぽいことしたくない?」


「旅行っぽいことって」


 思わず笑ってしまう。


 でも、言いたいことは分かった。


 夏休みが終われば、今よりもっと進路の話が増える。


 私はオープンキャンパスへ行って、学校を決めて、その先は受験へ向けて動くことになる。


 歩ちゃんも、朱鷺子も同じだ。


 こうして放課後に残って、何でもない話をしている時間だって、ずっと同じように続くわけではない。


「気持ちは分かるけど」


 朱鷺子が腕を組んだ。


「高校生三人だけで泊まりって、普通に考えて難しくない?」


「親?」


「それもあるし、お金も」


「あー……」


 歩ちゃんが黙る。


 そこまでは考えていなかったらしい。


「和葉はバイトしてたよね?」


「うん」


 自分の貯金を思い出す。


「無理しなければ、少しくらいなら出せるけど」


「ほら」


「何が『ほら』なのよ。和葉だけ出せても仕方ないでしょ」


「私はお小遣い前借りするとか」


「旅行のために?」


「だめかな」


 二人のやり取りを聞きながら、机の上の答案を揃えた。


 お金だけなら、私自身は行けなくはない。


 三人で泊まりに行く。


 想像すると、普通に楽しそうだった。


「でも、保護者なしはやっぱり難しいんじゃない?」


 朱鷺子が言った瞬間、歩ちゃんがこちらを見る。


 嫌な予感がした。


「困った時の弓削さん」


「やっぱり」


「便利な大人みたいに言わないの」


 朱鷺子まで呆れている。


「でもさ、弓削さんなら車もあるし。引率お願いすれば、うちの親も安心しそうじゃない?」


「そこまで頼るつもり?」


「一応、案として」


 私は考えた。


 いつきさんなら二人ともよく知っている。

 二人の家の人とも、学校の行事や前に日帰りで出かけた時に顔を合わせたことがある。


 私の保護者だということも知られているから、三人だけで泊まりに行くと言うよりは、話を通しやすいかもしれない。


「……頼んだら、考えてはくれるかも」


「ほら!」


「まだ頼んでないよ」


「和葉から言えば強いって」


「そういう使い方しないで」


 言いながらも、嫌ではなかった。


 三人で出かける。

 そこにいつきさんもいる。


 それはそれで、楽しそうだと思う。


「でも、泊まりになると部屋どうするの?」


 朱鷺子が今度は別の問題を出した。


「部屋?」


「弓削さんまで一緒なら四人でしょ」


 歩ちゃんは少し考えてから、あっさり言う。


「和室の大部屋とかで、一部屋でよくない?」


「え」


 声が出た。


「だって和葉んちも、普段から同じ部屋で寝てるんでしょ?」


「うん……そうだけど」


 自分でも分かるくらい、返事が遅れた。


 朱鷺子がこちらを見る。


「何か言いたそうね」


「いや……」


 別に、嫌というわけじゃない。


 いつきさんを信用していないわけでもなかった。


 むしろ逆だ。


 歩ちゃんも朱鷺子も、いつきさんを信用してくれている。


 それは嬉しい。

 本当に。


「私は弓削さんなら別に気にしないけどな」


 歩ちゃんが言う。


「私も、そこを心配してるわけじゃないわ。着替えとか、その辺は配慮してもらうけど」


「でしょ?」


 二人とも思っていたよりあっさりしている。


 それが、ちょっと困る。


 同じ部屋で寝ること自体が嫌なんじゃない。


 歩ちゃんや朱鷺子の寝顔を、いつきさんが見るかもしれない。


 それも嫌といえば嫌だけれど、もっと引っかかったのは逆だった。


 二人が、いつきさんの寝顔を見る。


 朝はぼんやりしているし、たまに変な寝癖もついている。眼鏡が見つからなくて、枕元を手探りしている時だってある。


 ……そういうのは、私だけが知っていればいいのに。


 そこまで考えて、自分でもおかしくなった。


 どうやら私は、いつきさんの寝癖まで独り占めしたいらしい。


「和葉?」


 歩ちゃんに呼ばれて顔を上げる。


「やっぱ嫌?」


「嫌っていうか……」


 違う。


 嫌、という言い方も少し違う。


「できれば、いつきさんは別の部屋の方がいいかな」


「えー。高くならない?」


「そこなの?」


「大事でしょ」


 歩ちゃんは真面目だった。


 朱鷺子はしばらく私を見てから、何か分かったように小さく息を吐く。


「まあ、その辺は本当に行くことになってから考えればいいんじゃない?」


「そうだね」


「そもそも弓削さんが行くって決まってないからね」


「和葉、頼んでみてよ」


「だから、まだ行き先も決まってないでしょ」


「じゃあそこから決めよう!」


 歩ちゃんがスマホを取り出した。


 さっきまで答案を見たくないと言っていた人とは思えないくらい動きが早い。


「海?」


「暑い」


「朱鷺子、夏休みに暑いって言ったらどこも行けないよ」


「涼しいところもあるでしょ」


「山?」


「虫多そう」


「注文多いなあ」


 二人の声を聞きながら、私もスマホを取り出した。


 まだ、行くかどうかも分からない。

 行き先も決まっていないし、いつきさんが付き合ってくれるかも聞いていない。


 それでも、三人で旅行へ行く夏休みを考えている時間は楽しかった。


 ***


「いつきさん」


 帰宅して着替えを済ませ、答案の束を持ってリビングへ向かった。


 窓の外はまだ明るい。

 いつきさんはいつもの場所でパソコンに向かっていた。


「ん?」


「全部返ってきました」


 答案を見せると、仕事の手を止める。


「今日で最後か」


「はい」


「見せて」


 こたつ机の上へ並べると、一枚ずつ手に取っていく。


 点数だけを見るのかと思ったら、赤の入ったところまで確認していた。


「ここ、前に間違えてたところだろ」


「覚えてたんですか?」


「同じところで引っかかってたからな」


 今回の答案には丸がついている。


「今回はできました」


「ああ」


 次の答案へ移る。


 そんなふうに最後まで目を通している間に、御子神さんが机の横へやってきた。


 答案の端を嗅ぎ始める。


「御子神さん、食べ物じゃないですよ」


 頭を撫でていると、いつきさんが最後の一枚を置いた。


「全体的に上がってるな」


「はい」


「ちゃんと取れるようになってる」


 答案を揃えて、こちらへ戻す。


「頑張ったな」


 その一言で、頬が緩んだ。


 三者面談の日に、全部見てからと言われていた。


 ちゃんと見てもらって、ちゃんと褒めてもらえた。


 これなら、言ってもいいと思う。


「なので、ご褒美を要求します」


 いつきさんの手が止まる。


「要求なのか」


「要求です」


「何が欲しいんだ?」


 欲しいものは、もう決めていた。


 それなのに、いざ口にするとなると、ほんの一瞬だけ照れくさい。


「夏休み、一日ください」


 いつきさんがこちらを見る。


 少し考えてから、


「また引率か?」


 と言った。


「……それはそれですけど」


 思っていた返事と違って、口が尖る。


「あるのか」


「まだ決まってませんけど。歩ちゃんたちと、泊まりでどこか行けたらって話はしてます」


「泊まり?」


 眉が動いた。


「そこはまたちゃんと相談します」


「そうしてくれ」


 やっぱり、そこには引っかかるらしい。


 でも今したいのは、その話じゃない。


「今回は、二人でです」


 言い直す。


「二人で?」


「はい」


 まだ足りない。


「歩ちゃんたちとじゃなくて、私といつきさんの二人で」


「どこか行きたいのか?」


「それはこれから決めます」


「決めてないのか」


「先に一日もらっておきたいんです」


 オープンキャンパスもある。

 バイトもある。

 歩ちゃんたちとの旅行だって、本当に行くなら予定を合わせないといけない。


 いつきさんには仕事もある。


 そうやって予定を埋めていったら、気づいた時には二人で過ごす日がなくなってしまうかもしれない。


 それは嫌だった。


 高校最後の夏休みなのに。


「ご褒美なんですから、私が欲しいものでもいいですよね?」


「まあ、それはそうだな」


「じゃあ、一日ください」


 今度は、はっきり言う。


 いつきさんは私を見たあと、机に並んだ答案へ一度視線を落とした。


「分かったよ」


「本当ですか?」


「ああ。一日くらいなら空ける」


「約束ですよ」


「で、何するんだ?」


「だから、それはこれから考えます」


「順番逆じゃないか?」


「先に予定を押さえる方が大事です」


 そう返すと、いつきさんは呆れたように笑った。


 何をするかは、まだ決めていない。


 旅行の行き先だって決まっていないし、オープンキャンパスの日程もこれからだ。


 ただ、高校最後の夏休みに。


 いつきさんと二人で過ごす一日だけは、先に決まった。


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