2025年7月26日(土)
夏休みに入って、一週間が過ぎた。
終業式そのものは、あっさりしたものだった。
校長先生の話を聞いて、通知表を受け取って、歩ちゃんと朱鷺子に「またね」と手を振った。
三人で泊まりに行く話は、まだ話のままだ。
その代わり、スマホには毎日のように歩ちゃんから旅行先の候補が送られてくる。
『ここ温泉ある!』
数分後。
『高い』
朱鷺子が返す。
『じゃあこっち!』
『遠い』
『朱鷺子厳しくない?』
通知を見るたびに笑ってしまう。
そんなやり取りを横目に、私は自分の予定を二つ先に入れた。
オープンキャンパス。
大学と専門学校を、一校ずつ。
今日は、その一校目だった。
***
「暑いですね」
「七月だからな」
「それ、前にも聞きました」
駅から大学へ向かう道を、いつきさんと並んで歩く。
朝から日差しが強い。アスファルトの照り返しもきつく、日傘を持ってくればよかったと後悔した。
いつきさんが横目でこちらを見る。
「水は?」
「持ってます」
「受付の画面は」
「すぐ出せます」
「資料入れる袋」
「鞄に入ってます」
「ならよし」
「……いつきさん、お母さんみたいですね」
「誰がだ」
不満そうな声がおかしくて、笑った。
前方に大学の正門が見えてくる。
写真では何度も見た。
それでも、実際に立ってみると印象が違った。
門も、校舎も、人の数も。
高校とはずいぶん違う。
敷地の奥にも建物が続いていて、案内図を見ただけでは広さがよく分からなかった。
「緊張してるのか?」
「ちょっとだけ」
「受験じゃないぞ」
「分かってます」
今日は見るだけだ。
でも、ここが来年から自分の通う場所になるかもしれない。そう考えると、ただ見物に来たような気分にはなれなかった。
受付を済ませ、資料の入った袋と、首から下げる名札を受け取る。
案内によると、受付の先で高校生向けの体験プログラムと保護者向けの説明会に分かれるようになっていた。
「じゃあ、俺はこっちか」
いつきさんが案内を確認する。
「終わったら連絡してください」
「お前もな。迷ったら無理に歩き回らず聞けよ」
「子供じゃないです」
「さっき門見て止まってただろ」
「見てただけです」
「そういうことにしとく」
軽く手を上げて、いつきさんは保護者向けの会場へ向かった。
その背中が人の流れに混ざる。
私は一人で、看護学部の案内表示を探した。
一人。
いつきさんと一緒に来たのだから、帰る時にはまた会える。
それでも、知らない場所で一人になると、持っている案内図まで急に頼りなく見えた。
けれど、心細いからといって立ち止まる理由もない。
来年ここへ通うことになれば、自分で教室を探して、自分で人に聞いて、毎日こうして歩くのだろう。
そんなことを考えながら角を曲がり――
「……あれ」
数分前に見た掲示板が、また目の前にあった。
どうやら一周したらしい。
「ねえ」
背後から声をかけられた。
「次、看護体験行く人?」
「え?」
振り向く。
同じくらいの年の女の子が立っていた。
肩より少し長い明るめの茶色い髪。化粧をしていて、短く整えられた爪にも淡い色がついている。
白いトップスに細身のパンツ。
歩ちゃんとは違う意味で、ぱっと目につく子だった。
女の子は手にしたスマホを軽く上げる。
「これ、次あっちの棟で合ってる?」
「あ……はい。たぶん」
「たぶんなんだ」
一瞬、困った顔をしたあと、彼女は笑った。
「よかった。あたしも分かってない」
「え?」
「一人で迷うより二人の方がマシじゃん。行こ」
初対面とは思えない速さで話が進む。
「あ、はい」
返事をすると、彼女がこちらを見る。
「同い年だよね?」
「たぶん、そうだと思います」
「敬語なんだ」
責めるというより、本当に気になっただけらしい。
「癖みたいなもので」
「へえ。じゃ、無理に直さなくていいけど」
あっさり引いた。
「そのうち勝手に崩れそうだし」
「……そうでしょうか」
「今まで友達に言われたことない?」
「あります」
「じゃ、やっぱそうじゃん」
何が「やっぱり」なのかは分からない。
でも彼女は満足したらしく、スマホの地図をこちらにも見えるように傾けた。
「たぶん、この建物」
「私もそこだと思います」
「じゃ決まり。間違ってたら二人で謝ろ」
「誰にですか?」
「知らないけど」
思わず笑ってしまった。
***
看護学部の実習室には、ベッドが何台も並んでいた。
白いシーツに血圧計、人体模型。棚には、病院で見覚えのある器具も並んでいる。
その中の一つ、血圧計に目が留まった。
病院では何度も使ってもらったことがある。腕に巻かれる帯が締まっていく感覚も覚えていた。
でも、その巻き方を考えたことはなかった。
「うわ、本格的」
隣から聞こえて、横を見る。
さっきの子も興味深そうに室内を見回していた。
「病院みたいですね」
「ね。なんか急に実感出る」
体験が始まる前に、学生スタッフの先輩が看護学部の授業や実習について簡単に説明してくれた。
四年間のカリキュラム。
講義と演習。
病院などでの実習。
私は配られた資料を見ながら聞いていたのだけれど、隣では彼女が何かを書き込んでいた。
資料の余白に、授業の名前や実習についてのメモが並んでいる。
しかも結構、細かい。
説明が終わると、高校生同士で二人一組になり、血圧測定を体験することになった。
腕に巻くカフを受け取る。
さっきまで自分が使ってもらう側だった物を、今は相手の腕へ巻こうとしている。
いざやってみると、位置を合わせるのが難しかった。
「和葉、もうちょい上じゃない?」
「ここですか?」
返事をしてから、あれ、と思った。
名前、教えたっけ。
でも、今はカフの位置を合わせる方が先だった。
「んー……たぶん」
「たぶんなんですね」
「だってあたしも初めてだし」
彼女が笑う。
近くにいた学生の先輩が、
「もう少し上ですね」
と直してくれた。
「あ、やっぱ惜しかった」
彼女が得意そうに言う。
「惜しいでいいんですか」
「だいたい合ってたし」
次は交代する。
さっきまで自信満々だったのに、今度はチューブの向きを逆にして、すぐ先輩に直されていた。
「あ、そっちなんだ。恥ずかし」
「惜しかったですね」
返してみる。
一瞬きょとんとしたあと、彼女が吹き出した。
「言うじゃん」
つられて、私も笑った。
初対面の人とこんなふうに話すのは、前ならもっと疲れたと思う。
今日は、まだ午前中だというのにずいぶん喋っていた。
***
午前のプログラムが終わる頃には、最初に声をかけられた時より、彼女と話すことにも慣れていた。
実習室を出ると、廊下には昼休憩へ向かう人の流れができている。
「和葉、昼どうする?」
もう名前で呼ばれることにも驚かなくなってきた。
「持ってきてます」
「じゃ、一緒に食べよ。席なくなる前に行こ」
「あ、はい」
返事をするより先に、彼女は空いている休憩スペースを探し始めていた。
窓際の二人掛けが空いているのを見つけて、向かい合って座る。
私は鞄からパンを一つ取り出した。
包みを開けようとしたところで、向かいの彼女が眉を寄せる。
「……和葉、それだけ?」
「はい」
「昼ごはん?」
私のパンと、自分の弁当を見比べている。
「朝はちゃんと食べましたよ」
「朝は朝じゃん」
「そんなにお腹空いてないので」
「午後もあるのに?」
彼女は自分の袋を探り、小さなゼリー飲料を一本取り出した。
「これ飲みな」
「え、いいです」
「予備で持ってきたやつだから」
「でも」
「苦手じゃなければ。持って帰ってぬるくするよりいいし」
机の上を滑らせるように、こちらへ渡してくる。
断るのも悪い気がして受け取った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
満足そうに、自分の弁当を開く。
なんだか変な感じだ。
「どうしたの?」
「いえ。普段、私がこういうこと言う側なので」
「マジ?」
「ご飯食べた方がいいとか、体調大丈夫とか」
「じゃあ今日は言われる側ね」
当然のように言われた。
「ほら、食べな」
「……はい」
「やっぱ敬語抜けないね」
「だから癖なんです」
「はいはい」
彼女はそれ以上何も言わず、弁当のおかずを口へ運んだ。
私もパンを食べ、ゼリーの蓋を開ける。
冷たくはなかったけれど、甘さが喉を通ると、ちゃんとお腹が空いていたことに気づいた。
向かいから、得意そうな視線を感じる。
「……否定できません」
「何も言ってないじゃん」
そう言いながら、彼女は笑っていた。
「そういえば」
箸を止めて、こちらを見る。
「あたし、まだ名乗ってなかったね」
「あ」
確かに。
午前中ずっと一緒にいたのに、名前を聞いていなかった。
「あたしは早瀬莉央。莉央でいいよ」
「早瀬さん」
「そこ名字なんだ?」
「あ……じゃあ、莉央ちゃん」
「うん。そっちの方がいい」
莉央ちゃんは頷いてから、私の胸元を指さした。
「ちなみに和葉の名前は、さっき名札で見た」
「それで呼んでたんですか?」
「そ。勝手に呼んでたけど、よかった?」
今さら聞くんだ。
「大丈夫です」
「よかった」
あっさりした返事に、また笑いそうになった。
莉央ちゃんは弁当を食べながら、机に置いていたパンフレットへ目をやる。
「和葉、ここ第一志望?」
「まだ決めてないです」
「大学と専門で迷ってるとか?」
「はい」
「あたしも」
顔を上げる。
「そうなんですか?」
「看護師になりたいのは決まってるんだけどね」
莉央ちゃんはパンフレットのページをめくった。
「でも大学なら四年あるし、看護以外もいろいろ見られそうじゃん。あとでやりたいこと変わるかもしれないし」
「なるほど」
「和葉は?」
「私は逆かもしれません」
「逆?」
「看護師になりたいところは決まってるから、それなら三年間で目指せる専門でもいいのかなって」
「へえ」
莉央ちゃんは、今度は真面目な顔でこちらを見る。
「じゃ、今日は大学もちゃんと見てから決めたい感じ?」
「はい。知らないまま選ぶのは違うかなって」
「真面目だね」
「莉央ちゃんも、午前の説明でずっとメモしてましたよね」
「あ、見てた?」
「結構細かく書いてましたよね」
「だって受験で困るの自分だし」
あっさり言う。
「そこ適当にする意味なくない?」
意外だった。
顔に出たのかもしれない。
莉央ちゃんが目を細める。
「今、見た目のわりにって思った?」
「……」
「思ったんだ」
「ちょっとだけ」
嘘をつくよりはいい気がした。
莉央ちゃんは怒らず、むしろ楽しそうだった。
「よく言われる。遊んでそうとか」
「ごめんなさい」
「気にしてないって。実際、遊ぶ時は遊ぶし」
そう言ってから、水を一口飲む。
「でも進路は別でしょ」
「……そうですね」
莉央ちゃんはもう弁当の続きを食べている。
私はパンの袋を畳みながら、最初に彼女を見た時のことを思い出していた。
派手な髪に、化粧。
それだけで、何となく自分とは違う人だと思った。
今も、違うとは思う。
でも、最初に思っていたのとは違う。
「和葉、午後って何からだっけ?」
声をかけられ、慌ててパンフレットを開く。
「ええと、模擬授業からです」
「おっけ。場所は?」
「……ここの三階ですね」
「了解。じゃ、食べたら行こ」
莉央ちゃんは箸を動かしながら、もう次の予定を確認していた。
***
午後は模擬授業から始まった。
莉央ちゃんと並んで座った講義室は、高校の教室よりずっと広い。前方には大きなスクリーンがあり、先生が一枚のスライドを映した。
そこには、短い会話が書かれている。
退院後の生活について尋ねる看護師と、「大丈夫です」と答える患者さん。
「さて、皆さんなら、このあと何と声をかけますか?」
先生が問いかけた。
大丈夫と言っているのだから、それを受け止めればいい。
最初はそう思った。
でも、先生は続ける。
「この方は一人暮らしで、退院してからの生活に不安を抱えています。それでも『大丈夫』と答えました。では、本当に心配がないのでしょうか」
前の席の高校生が、配られた紙に何かを書き始める。
私もペンを持った。
大丈夫、という言葉だけでは分からない。
何が大丈夫なのか。
困っていることはないのか。
そもそも、心配事を言いやすい相手なのか。
考え始めると、簡単には答えが出なかった。
隣を見ると、莉央ちゃんも真剣に紙へ書き込んでいる。
「答えは一つではありません」
先生は、学生から出た意見をいくつか拾っていった。
病気や治療の知識はもちろん必要だけれど、患者さんがどんな暮らしをしていて、何を大切にしているかを知ることも看護につながる。
そういう話だった。
私は、以前お世話になった人たちの顔を思い出していた。
病院で診てもらった時も、各務先生に相談した時も。
症状だけではなく、私の生活のことまで気にかけてもらった覚えがある。
あの時は、それがありがたかった。
でも、実際に自分が看護師になって、同じように誰かから「大丈夫です」と言われたら。
その言葉の先を、どうやって聞けばいいんだろう。
手元の紙に目を落とす。
書きかけの答えは、まだ途中で止まっていた。
授業が終わると、莉央ちゃんが自分のメモを覗き込んだ。
「難しくない? これ」
「はい。正解が一つじゃないって、難しいですね」
「でも面白かった」
「私もです」
私は書きかけの答えを消さず、そのまま資料に挟んだ。
模擬授業のあとは、在学生の先輩に案内されて校内を見学した。
図書館や食堂を見て回り、看護学部の建物を離れて、他の学部も利用する講義棟へ入る。
「一年生の時は、ここで他学部の学生と一緒に授業を受けることもあるんですよ」
案内役の先輩が、廊下の教室を示しながら教えてくれた。
看護の専門科目とは別に、共通科目から選んで学ぶ機会もあるらしい。
「看護の授業だと、周りは当然看護を勉強してる人ばかりなんですけど、こっちは違う学部の人もいるので。グループワークなんかでも、考え方が全然違って面白いですよ」
先輩はそう言って笑った。
開いていた教室の扉から、机を囲んで話し合っている学生たちが見える。
着ている服も、手元に広げている資料もばらばらだった。
看護師を目指す人だけが集まる場所ではない。
昼に莉央ちゃんが言っていたことを思い出した。
看護以外も、いろいろ見られそう。
今までは、専門学校より一年長いというところばかり気になっていた。
その一年があれば早く働き始められるし、いつきさんへの負担だって減らせる。
そう考えていた。
でも、さっきの授業も面白かったし、こうして違う学部の人たちと学ぶのも楽しそうだった。
「四年かあ……」
声に出ていたらしい。
莉央ちゃんが振り向いた。
「ん?」
「あ、いえ。長いなって思ってたんですけど」
「大学?」
「はい。でも、こういうところなら……」
言いかけて、廊下の向こうを見る。
学生らしい人たちが、話しながら階段を下りていった。
何の学部なのかは分からない。
そのうちの一人が、笑いながら友達の肩を叩いていた。
「ちょっと、楽しそうだなって」
「でしょ?」
莉央ちゃんは嬉しそうに頷く。
「あたし、大学生活もちょっと憧れてるんだよね」
「そうなんですか?」
「うん。だって四年もあるんだよ? 勉強だけで終わるのももったいなくない?」
「……確かに」
「まあ、看護は忙しいらしいけどさ」
パンフレットにも、授業や実習の予定がびっしり書いてあった。
簡単な四年間ではないのだろう。
それでも、今日見て回った場所を、また学生として歩く自分を想像してしまった。
大学、か。
帰ったら、もう一度資料を見てみよう。
***
最後の校内見学が終わり、人の流れが出口へ向かい始めた。
「和葉」
莉央ちゃんに呼ばれて足を止める。
「専門も見に行くって言ってたよね?」
「はい」
「どこ?」
学校名を伝える。
すると、莉央ちゃんが目を大きくした。
「そこ、あたしも行く」
「本当ですか?」
「来週のやつでしょ?」
「はい」
「同じじゃん」
嬉しそうな声に、私まで顔が緩んだ。
「じゃあ、また会えるかもしれませんね」
そう言うと、莉央ちゃんが首を傾げた。
「かも、じゃなくて会おうよ」
「え?」
「今日普通に楽しかったし。一人より二人の方がいいじゃん」
さらっと言われて、返事が一拍遅れた。
今日会ったばかりなのに、次も一緒に回ろうと誘ってくれている。
別に断る理由なんてなかった。
それどころか、私も同じことを考えていた。
「……私も、また会いたいです」
「じゃ決まり」
莉央ちゃんはスマホを取り出した。
「連絡先交換しよ」
「はい」
「待ち合わせ決めとけば、次は迷わなくて済むし」
「それは助かります」
「今日迷ってたもんね」
画面を操作していた莉央ちゃんが、顔を上げる。
「和葉、一周してたじゃん」
「見てたんですか?」
「見てた。さっきもこっち通ったなーって」
「それなら声かけてくださいよ」
「かけたじゃん。二周目入る前に」
そう言って、悪戯っぽく笑う。
反論できないのが悔しい。
連絡先を交換すると、画面に新しい名前が増えた。
早瀬莉央。
「じゃあ、また来週ね」
「はい。また」
莉央ちゃんが手を振って、人の流れへ消えていく。
私はスマホの画面を閉じた。
来週はどこで待ち合わせよう。
駅でもいいし、学校の入口でもいいかもしれない。
……今度は迷わないようにしないと。
「和葉」
今度は、よく知っている声だった。
顔を上げる。
少し離れたところに、いつきさんが立っている。
「終わったか?」
「はい」
「どうだった」
すぐには答えが出なかった。
模擬授業のこと。
四年間のこと。
大学の広さ。
それから、今日初めて会った人のこと。
「……いろいろありました」
「なんだその感想」
「帰りながら話します」
「長い?」
「たぶん」
「じゃあ先に何か飲むか」
「はい」
正門へ向かって並んで歩く。
来た時より、手に持った資料は増えている。
スマホの連絡先も、一つ増えた。
今日はまだ、大学を見に来ただけのはずだった。




