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2025年7月11日(金)

 三者面談という言葉を見るたびに、少しだけ変な感じがする。


 進路について話すのが嫌なわけではない。


 看護師になりたい。


 それはもう、自分の中では迷っていなかった。


 大学にするのか、専門学校にするのか。その先はまだ決められていないけれど、夏休みには両方のオープンキャンパスへ行ってみるつもりでいる。


 だから今日の面談で、先生に何を聞かれても、前みたいに答えられなくなることはないはずだ。


 それでも、机の中から三者面談の日程表を取り出すと、そこに書かれた『保護者』という文字へ目が止まった。


 今日、その席にはいつきさんが座る。


 学校にも事情は伝わっているし、先生もいつきさんのことは知っている。二年生の頃から、必要な連絡や面談では何度も話してもらってきた。


 だから今さら、不思議なことではない。


 ただ、四月に気持ちを伝えてからは、その言葉を前とまったく同じようには見られなくなった。


 保護者。


 間違ってはいない。


 今もそういう立場で、私の生活を支えてくれている。


 でも、私がいつきさんに望んでいるものは、それだけではない。


「和葉、今日だっけ?」


 顔を上げると、歩ちゃんが日程表を見ていた。


「うん。もうすぐ」


「弓削さん来るんだよね」


「仕事、少し早めに切り上げてくれるって」


「在宅いいなあ。うちのお母さん、今日のために半休だよ」


 歩ちゃんが机へ頬杖をつく。


「だからって、弓削さんが暇なわけじゃないでしょ」


 朱鷺子が横から口を挟んだ。


「それは分かってるって。でも、うちなんて朝から『時間間違えないでよ』って三回くらい言われてさ」


「普段の行いじゃない?」


「信用ないなあ」


 いつもの二人のやり取りに笑いながら、日程表を鞄へしまった。


 期末考査も終わり、返ってきた答案もほとんど揃っている。


 教室の空気は少しずつ夏休みへ向かっていた。


 それでも三年生だからか、去年とは違う話も増えた。


 誰がどこの学校を見に行くとか、夏期講習をどうするとか、推薦を狙うとか。


 来年の自分について話すことが、もう特別ではなくなっている。


 去年の今頃の私は、自分がそんな会話に混ざるなんて考えていなかった。


 もっと前なら、来週のことを考えるだけでも精いっぱいだった。


 今は、三年先や四年先のことまで考えようとしている。


 そのことに自分で気づくと、少しだけ不思議だった。


「美作ー。そろそろ来るぞ」


 教室の前から先生に呼ばれる。


「はい」


「そんな固くならなくていいからな。面接じゃないんだから」


「まだ何も言ってませんけど」


「顔に書いてある」


 先生はそれだけ言って、先に廊下へ戻っていった。


 相変わらずだった。


 真面目な話をする時でも、最初から構えさせない。


 でも、見ていないようでちゃんと見ている。


 二年生の頃から、そこは変わらない。


「行ってらっしゃい」


 歩ちゃんが手を振った。


「看護師になるって、ちゃんと言ってきなよ」


「それは言えるよ」


 そう返すと、朱鷺子が小さく頷く。


「なら、あとはその先だけね」


「うん」


 鞄を持って教室を出た。


 廊下の窓から差し込む日差しは強く、床に白い四角を作っている。


 階段へ向かおうとしたところで、制服のポケットに入れていたスマホが震えた。


『着いた。昇降口の前にいる』


 いつきさんからだった。


 短い文面を読み、自然と歩く速度が少し上がった。


 ***


「お待たせしました」


 昇降口へ行くと、いつきさんは壁際の掲示板を眺めていた。


 仕事の時によく着ているシャツに、黒っぽいパンツ。


 ネクタイまではしていないけれど、家で仕事をしている時よりは少しだけきちんとして見える。


 学校で見るせいかもしれない。


「おう」


 こちらに気づいて、いつきさんが顔を上げた。


「早かったですね」


「仕事が予定より早く片付いた。十分くらい前には着いたぞ」


「暑かったですか?」


「駅から歩いてきたのは失敗だったな」


「七月ですから」


「知ってる」


 そう言いながら、いつきさんはシャツの襟元を少し引いた。


 家にいる時と変わらない。


 それだけで、学校で一緒にいることへの妙な緊張が少し薄れる。


「教室、こっちです」


「ああ」


 廊下を並んで歩く。


 同じように面談へ来た保護者らしい人と、何度かすれ違った。


 そのたびに、自分の隣を歩くいつきさんを少しだけ意識してしまう。


 恥ずかしいわけではない。


 むしろ、来てくれたことが嬉しい。


 私の学校へ来て、私の将来について一緒に話を聞いてくれる。


 前なら、そこにあるのは安心だけだったと思う。


 今は、その安心の中に別の気持ちも混ざるようになった。


「テストは?」


 歩きながら、いつきさんが聞いた。


「ほとんど返ってきました」


「赤は」


「ないです」


「ならよし」


「もうちょっと褒めてもいいと思います」


「全部見てからな」


 少し不満だったけれど、口元がわずかに緩んでいるのが見えた。


 そういうところは、もう分かるようになった。


 ***


「それでは、始めましょうか」


 先生は机の上に進路希望調査を置いた。


 私といつきさんは、その向かい側に並んで座っている。


 黒板には今日の日付が残ったままだった。


 いつも授業を受けている教室なのに、先生と向かい合って座るだけで少し違う場所に見える。


「美作。看護師志望ってところは、今も変わってないんだな?」


「はい」


 そこだけは、すぐに答えられた。


「そのあたりは、ご家庭でも話されていますか?」


 先生が隣へ視線を移す。


「はい。看護師を目指したいという話は聞いています」


 いつきさんが答えると、先生は一度頷いた。


「では、職種については固まっていると。大学と専門学校の両方を検討中になってるけど、この辺りは?」


「夏休みに、一校ずつオープンキャンパスへ行く予定です」


「弓削さんとも相談して?」


「はい」


「資料だけでは分からない部分もあるので、両方見てから考えればいいと話しています」


 いつきさんの言葉を聞いて、先生は机の上に置いていた二つの資料へ目を落とした。


「そうですね。今の段階なら、それが一番だと思います」


 大学は四年。


 看護以外も含めて幅を持って勉強できる学校が多く、その先の進路を広げやすい場合もある。


 専門学校は三年。


 看護師になるための勉強が中心で、一年早く現場へ出ることになる。


 先生の説明は、家で資料を見ながら調べた内容と大きくは変わらなかった。


 それでも、改めて並べて聞くと、その一年の違いが少し気になった。


 一年。


 言葉にすれば短い。


 けれど、一年あれば季節が一周する。


 学校へ戻ってから今までの時間を思えば、決して小さな差ではなかった。


「弓削さんから見て、美作は今、どちらかに傾いているように見えますか?」


 先生にそう聞かれ、私は少しだけ隣を見る。


 いつきさんは一度考えてから答えた。


「専門の方を気にしているようには見えます。ただ、理由までは本人から聞いていません」


 そこで視線が私に戻る。


 知らないことを、いつきさんが代わりに説明しようとしなかったことが、少し嬉しかった。


「美作。今は専門の方が気になってる?」


「少しだけです」


「どうして?」


「看護師になりたいことはもう決まってるので。だったら、三年間でそこを目指す方が私には合ってるのかなって」


 先生は急かさずに、続きを待っている。


「でも、まだ資料を見ただけなんです。大学の四年間でできることも、ちゃんと分かってないので」


 机の上の資料へ目を落とす。


「知らないまま専門の方がいいって決めるのも、違う気がして」


「なら、今はそれでいい」


 先生はあっさりと言った。


「まだ決めなくてもいいんですか?」


「見てもないのに決めろって言われても困るだろ」


 少しだけ口元を緩めてから、先生は続ける。


「ただ、三年だから一年短くて楽、って話ではないからな。三年でやる分、忙しい時期もある。大学にも専門にも、それぞれ大変なところはある」


「はい」


「そこも含めて見てきた方がいい」


 私は頷いた。


 大学の方が上で、専門学校の方が下。


 先生はそんな言い方を一度もしなかった。


 看護師になるなら、どちらもそこへ続く道。


 その中で、自分に合う方を選べばいい。


「弓削さんとしては、今の段階でどちらかを勧めているということはありますか?」


「特にはありません」


 いつきさんは短く答えた。


「実際に通って、三年なり四年なり過ごすのは和葉ですから」


 そこで一度だけ、私を見る。


「費用や通学みたいな現実的なところは一緒に確認します。ただ、それを理由に最初から俺が決めるつもりはありません」


 家でも、似たようなことは言われていた。


 両方見てこい。


 比べて、それから自分で考えろ。


 だから、驚くような話ではない。


 それでも先生の前で、改めてそう言われると少し違って聞こえた。


 前の私は、自分で何かを決めることが怖かった。


 間違えたらどうしよう。


 迷惑をかけたらどうしよう。


 誰かに決めてもらえた方が楽だと思ったこともある。


 いつきさんは助けてくれた。


 でも、何でも代わりに決めてくれたわけではなかった。


 学校へ戻る時も。


 看護師になりたいと言った時も。


 考えるための材料は一緒に集めてくれるのに、最後のところは私に残す。


「美作はどうだ?」


 先生に聞かれて、顔を上げる。


「弓削さんに決めてもらった方が楽か?」


「……いえ」


 答えは、思ったより簡単に出た。


「自分で決めたいです」


「なら、それでいい」


 先生は進路希望調査へ何かを書き込みながら言った。


「ただし、自分で決めるのと、一人で決めるのは別だからな。分からないことは学校でも聞けばいいし、家でも相談できるだろ」


「はい」


「使える大人は使っとけ。こういう時のためにいるんだから」


 少しだけ笑ってしまった。


「先生が自分で言うんですか?」


「言うよ。仕事だからな」


 軽い口調だった。


 でも、冗談だけではないことも分かる。


 二年生の頃から、この先生はそうだった。


 答えを代わりに決めてはくれない。


 でも、自分で決めろと言って放り出すこともしない。


 そのあたりは、いつきさんと少しだけ似ている。


 似ているけれど、やっぱり違う。


 先生は、迷っているなら迷ったまま話せと言う人だ。


 いつきさんは、まず一緒に調べて、考えられる形にしてくれる人。


 どちらも、私より先に答えを出そうとはしない。


「成績を見る限り、大学を最初から外す理由もない」


 先生はそう言って、二つの資料を揃えた。


「だから、せっかく選べるなら両方見てこい。それで専門がいいと思えば専門でいいし、大学がいいと思えば大学でいい」


「はい」


「設備だけじゃなくて、先生や学生の雰囲気も見てきた方がいい。毎日通う場所だからな」


 そこで先生は少しだけ間を置いた。


「あと、両方見て『どっちも違う』ってなっても別に構わないから」


「え?」


「今は看護師になりたいと思ってる。でも、実際に見たら考えが変わることだってあるだろ」


「……はい」


「十八なんだから、変わったって悪いことじゃない。その時の自分でちゃんと考えればいい」


 その言葉が少しだけ残った。


 変わってもいい。


 今は看護師になりたい。


 だから今は、そのための場所を自分で見に行く。


 それでいいらしい。


「分かりました」


「よし。じゃあ今日はこんなところで」


 先生が時計を見てから、いつきさんへ向き直る。


「お忙しいところ、ありがとうございました」


「いえ。こちらこそ、ありがとうございます」


 二人が軽く頭を下げ合う。


 それを見て、ようやく三者面談が終わったのだと実感した。


 ***


 校舎を出ると、冷房に慣れた肌へ夏の空気がまとわりついた。


「暑い」


 いつきさんがすぐに言う。


「来た時も言ってましたよ」


「今の方が暑い」


「気のせいです」


 校門の近くにある自動販売機の前で、いつきさんが足を止めた。


「何か飲むか?」


「じゃあ、麦茶」


「即答だな」


「さっきまで喉渇いてなかったんですけど、見たら飲みたくなりました」


 落ちてきたペットボトルを、いつきさんが取り出して渡してくれる。


「ありがとうございます」


 冷たいボトルを頬に当てると、熱が少し引いた。


 二人で駅へ向かって歩き出す。


「いつきさん」


「ん?」


「本当に、どっちでもいいんですか?」


 口にしてから、少し違うと思った。


「大学と専門か?」


「はい」


「どっちでもいいとは言ってない」


「でも、どっちの方がいいとは言わないですよね」


 いつきさんは少し考えるように前を見た。


「今の話を聞けば、専門に惹かれる理由は分かる」


 看護師になるという目標が決まっていること。


 三年間でそこを目指せること。


 でも、と続ける。


「大学の四年で何ができるのか、お前はまだ実際に見てないだろ」


「はい」


「なら、今決める理由もない」


 やっぱり、答えそのものは教えてくれなかった。


 でも、それが嫌だったわけではない。


「今日、先生に本人が決めるって言ってましたよね」


「ああ」


「前だったら、たぶん安心するだけだったと思います」


「今は?」


 ペットボトルのラベルを指でなぞる。


「ちゃんと、自分で決めないといけないんだなって思いました」


「嫌か?」


「ううん」


 首を振った。


「嬉しいです」


 昔は、誰かに決めてもらった方が楽だと思っていた。


 自分で決めれば、間違えた時も自分の選んだ結果になる。


 それが怖かった。


 今は、選べるなら自分で選びたい。


「なら、そうしろ」


 いつきさんはそれだけ言ってから、少し間を置いた。


「ただ、分からないことまで一人で決めるなよ」


 思わず横を見る。


「そこは一緒に考えるから」


 何でもないことみたいに言って、水を一口飲む。


 自分で決めろと言われる。


 でも、一人で決めろとは言われない。


 先生も、似たようなことを言っていた。


 言い方は、全然違ったけれど。


「じゃあ、いっぱい相談します」


「ほどほどにな」


「今、一緒に考えるって言ったばかりですよ?」


「限度はある」


 いつきさんが少しだけ笑う。


 私も麦茶を一口飲んだ。


 まだ、大学か専門かは決められない。


 来年の自分が、どこで何を勉強しているのかも分からない。


 それでも、決まっていないことが前ほど怖くはなかった。


 夏の日差しの中を、いつきさんと並んで駅へ向かった。


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