2025年7月7日(月)
店に入って最初に目についたのは、カウンターの端に置かれた笹だった。
背丈は私の腰より少し高いくらい。
細い枝には赤や黄色、水色の短冊がいくつも結ばれていて、エアコンの風が届くたび、葉と一緒にかすかに揺れている。
「こんにちは」
「いらっしゃい。和葉ちゃんも一枚書く?」
奥さんがカウンターの向こうから、短冊を一枚摘まんで見せた。
「七夕ですか?」
「今日でしょう?」
「あ、そうでした」
「高校生が忘れちゃ駄目じゃない」
「学校では特に何もしなかったので」
奥の部屋で制服から着替え、エプロンをつけて店へ戻る。
改めて笹を見ると、短冊にはいろいろな願い事が書かれていた。
『健康でいられますように』
『今年こそ旅行に行けますように』
丸い字で書かれた『サッカーがうまくなりますように』の隣には、震えた文字で『孫が元気に生まれますように』とある。
「これ、お客さんが書いたんですか?」
「昨日から置いてるの。せっかくだからって、思ったよりみんな書いてくれて」
「大人の人も書くんですね」
「願い事に年齢制限なんてないでしょう?」
そう言いながら、奥さんが短冊とペンをこちらへ差し出した。
「ほら、和葉ちゃんも」
「今ですか?」
「暇なうちにね。混んだらそんなことしてられないから」
受け取った短冊を、カウンターの空いたところへ置く。
願い事。
そう言われると、いくつか浮かんだ。
進路のこと。
いつきさんのこと。
御子神さんのこと。
歩ちゃんや朱鷺子のことだってある。
何も書かないままペンを持っていると、奥さんがこちらを見て笑った。
「欲張ってる顔してるわね」
「顔に出てます?」
「ちょっとね」
「一個じゃないと駄目ですか?」
「短冊なら余ってるわよ」
「そういう意味じゃなくて」
笑われながら、もう一度短冊へ目を落とした。
学校はまだ決まっていない。
大学と専門学校を一校ずつ見て、それから考えることにした。
でも、その先に何を目指すのかは、もう迷わない。
ペン先を紙へつける。
『看護師になれますように』
書き終えて、笹の空いている枝へ紐を結んだ。
「あら、決めたのね」
「はい。学校はまだですけど」
「大学か専門かで迷ってたんだっけ?」
「両方見てから決めようと思ってます」
奥さんは私の短冊を一度見上げ、それからこちらへ視線を戻した。
「じゃあ、そっちはお願いするだけじゃ駄目ね」
「分かってます」
「ならよろしい」
満足そうに頷いたところで、入り口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
笹から手を離し、客の方へ向かう。
それからは、いつもの仕事だった。
水を運び、注文を取り、空いた皿を下げる。
夕方には短冊がまた何枚か増えていた。
途中、小学生くらいの女の子が母親と一緒に笹の前へ立ち、舌を少し出すような真剣な顔で何かを書いていた。
何を書いたのかは見なかった。
結び終えたあと、母親の手を引いて一歩離れ、満足そうに自分の短冊を見上げていた。
***
「和葉ちゃん、これ持って帰る?」
閉店後。
着替えを終えて店へ戻ると、奥さんが店の裏から細い笹を一本持ってきた。
店に飾ってあるものよりずっと小さい。枝も数本しかなく、片腕で十分抱えられる大きさだった。
「いいんですか?」
「余ったの。捨てちゃうのももったいないでしょう?」
「もらいます」
「即答ね」
「家でも飾れるかなって」
そう言うと、奥さんは笹と私を見比べてから、カウンターの下へ手を伸ばした。
「家でも飾るなら、短冊も書くでしょう?」
「あ、はい」
「じゃあ、これも持っていきなさい」
何枚かの短冊と、結ぶための紐まで一緒に渡される。
「ありがとうございます」
「せっかくだもの。家でも楽しんで」
「はい」
短冊を鞄へしまい、笹を抱え直す。
家で書くなら、当然いつきさんにも一枚渡すつもりだった。
何を書くのか考えてみたけれど、まったく想像がつかなかった。
***
「ただいまです」
「おかえり」
玄関を開けると、居間からいつきさんの声が返ってきた。
靴を脱いでいるうちに、御子神さんも内扉の向こうまで迎えに来る。
「御子神さん、ただいま」
笹を持ったまま扉を開けた。
御子神さんの視線が、私の顔を通り越して笹へ向く。
葉が揺れる。
御子神さんの顔も同じ方向へ動く。
嫌な予感しかしない。
「何持って帰ってきたんだ?」
いつきさんが居間から顔を出した。
「笹です」
「それは見れば分かる」
「七夕なので、奥さんにもらいました」
「ああ」
いつきさんは笹を見てから、壁のカレンダーへ目をやった。
「そうか。七夕って今日だったな」
「七月七日ですよ?」
「仙台じゃ七夕は八月だからな。どうもそっちの感覚が抜けない」
「あ」
去年、一緒に見た七夕飾りが頭に浮かんだ。
「去年、行きましたね」
「人がすごかったな」
「そこですか?」
私が見上げると、いつきさんはわずかに口元を緩める。
「飾りが綺麗だったのも覚えてる」
「ならいいです」
去年見上げた七夕飾りは、通りを覆ってしまいそうなくらい大きかった。
腕に抱えた笹は、片手でも持てる。
「家でも飾ろうと思って」
「どこに?」
「それを今から――」
葉先が揺れた。
次の瞬間、御子神さんの前足が伸びる。
「あっ」
咄嗟に笹を持ち上げた。
届かなかった御子神さんは前足を床へ戻し、そのままじっとこちらを見上げている。
「駄目だな」
「まだ何もしてませんよ」
「御子神さんはする気だったぞ」
「御子神さん、これは遊ぶものじゃないです」
言い聞かせてみる。
試しに笹を少し動かすと、葉の動きに合わせて御子神さんの瞳も左右へ動いた。
いつきさんと顔を見合わせる。
「居間は無理ですね」
「倒されるだけならまだしも、葉や紐を齧ったら困る」
「じゃあ玄関?」
「内扉の外なら届かないな」
結局、笹は玄関へ置くことになった。
靴箱の横に小さな容器を置き、倒れないように固定する。
内扉を閉めると、御子神さんは格子の向こうからまだ笹を見ていた。
私は扉の前にしゃがみ、同じ方向を見る。
「諦めませんね」
「しばらく監視するつもりだろ」
「監視されるの、笹の方なんですね」
御子神さんの耳が、葉の擦れる音に合わせて動いた。
少なくとも、あの位置なら手は届かない。
居間へ戻り、鞄から短冊を取り出した。
「はい」
いつきさんの前へ一枚差し出す。
「何だ」
「短冊です」
「見れば分かる」
「さっきも聞きました」
ペンも一緒に置くと、いつきさんは短冊と私の顔を交互に見た。
「俺も書くのか?」
「願い事に年齢制限はないそうです」
「店の奥さんに言われたのか」
「はい」
「そういうところだけ素直に影響されるな」
「私も書くので」
自分の分を一枚取り、テーブルの上へ置く。
「店では書かなかったのか?」
「書きましたよ。看護師になれますように、って」
いつきさんが一度頷いた。
それだけで、それ以上は何も聞かなかった。
「でも、これは家用です」
「願い事を使い分けるのか?」
「二枚あるので」
「理由になってるような、なってないような」
ペンを持つ。
こっちに書くことは、店で短冊をもらったときから決めていた。
『いつきさんと、これからも一緒にいられますように』
一文字ずつ書いて、最後の丸をつける。
顔を上げると、いつきさんの視線が短冊に落ちていた。
「見ました?」
「見える位置で書いてただろ」
「じゃあ仕方ないですね」
「隠す気はないのか」
「ないです」
四月に、気持ちは全部伝えた。
今さら、この程度を隠す理由もない。
いつきさんは短冊をもう一度眺める。
「ずいぶん真っ直ぐ書くな」
「願い事なので」
「理屈になってるか、それ」
「いいんです」
返すと、いつきさんはそれ以上何も言わなかった。
止められもしなかった。
代わりに、自分の短冊を手元へ引き寄せる。
「いつきさんは?」
「考えてる」
短冊の上で、ペン先だけが止まっている。
普段なら仕事のメモでも買い物のメモでも、迷わず書き始める人なのに、こういうことになると妙に時間がかかるらしい。
「健康とか?」
「悪くないな」
「仕事は?」
「それを願い事でどうにかしようとは思わん」
それなら、と内扉の方へ目を向ける。
見えないところで、御子神さんはまだ笹を見張っているのだろうか。
「御子神さんのこととか」
「候補を増やすな」
「決まらなそうだったから」
「余計決まらなくなる」
ようやくペンが動いた。
何を書くのか気になって身体を少し横へ傾けると、いつきさんの手が短冊の上を覆った。
「見せてください」
「嫌だ」
反対側から覗こうとする。
今度は短冊ごと向きを変えられた。
「私のは見たじゃないですか」
「お前が目の前で書いたんだろ」
「ずるいです」
「何がだ」
さらに位置をずらすと、いつきさんも同じだけ動かす。
意地になっているのは、たぶんお互い様だった。
「そこまで隠すようなこと書くんですか?」
「そう言われると余計見せたくなくなるな」
いつきさんの肘の向こうから短冊の端だけが見える。
当然、文字までは読めない。
「でも、玄関に飾ったら結局見えますよ?」
ペンが止まった。
いつきさんが短冊と玄関の方を交互に見る。
「……確かに」
「気づいてなかったんですか?」
「書くことしか考えてなかった」
おかしくなって、笑ってしまった。
「じゃあ、どうするんです?」
「そのときはそのときだ」
「今は駄目?」
「今は駄目だ」
そこまで言われると、かえって気になる。
けれど、隠しているものを取り上げてまで見る気にもならなかった。
「分かりました」
ペンを置き、先に自分の短冊を持ち上げる。
「飾りに行きましょう」
***
内扉のところまで戻ると、御子神さんはまだそこにいた。
「本当にずっと見てたんですか?」
「他にすることなかったんだろ」
扉を開ける前に御子神さんを少し離し、私だけ玄関側へ出る。
自分の短冊を、笹の空いている枝へ結んだ。
紐を締めると、白い紙が葉の間で揺れる。
その隣へ、いつきさんも自分の短冊を結んだ。
文字の面はちょうど反対側。
「向き、わざとですよね」
「たまたまだ」
「絶対嘘です」
内扉を閉めた向こうでは、御子神さんが座ってこちらを見ている。
笹を触っている私たちだけが、少しずるいことをしているような顔だった。
「御子神さん、残念でした」
しゃがんで声をかける。
御子神さんは私ではなく、肩越しの笹へ視線を向けた。
玄関から入る風が葉を揺らす。
短冊も、紐の先でゆっくり向きを変えた。
一度だけ、いつきさんの短冊がこちらを向きかける。
文字が見えそうになって、目がそちらへ引かれた。
けれど、読めるより先に風が止まり、短冊はまた裏側を向いた。
「残念だったな」
後ろから声がする。
「……見ようとしてません」
「今のは信用しづらいな」
言い返そうとしたところで、内扉の向こうから御子神さんが一声鳴いた。
笹の葉がさらさらと擦れる。
私といつきさんの短冊は、その音の中で並んで揺れていた。




