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2025年6月28日(土)

 昼を過ぎても、窓の外は朝から変わらない灰色だった。


 雨は降っていない。ただ、窓を開けても入ってくるのは湿った風ばかりで、しばらくして諦めてエアコンを除湿に切り替えた。


 午前中まで使っていた資料を仕事机の端へ寄せ、ノートパソコンを閉じる。


 午後は三人が来ると聞いていたので、今日はこれで終わりにするつもりだった。


 二時を少し過ぎた頃、玄関の向こうから聞き慣れた声がした。


「おじゃましまーす」


「歩ちゃん、声大きいよ」


「こんにちは」


 三人分の声が続く。


 和葉が迎えに出て、歩と朱鷺子を連れて戻ってきた。


 歩はコンビニの袋を提げている。


「お菓子持ってきたよ」


「この前も持ってきてなかったか?」


「食べたらなくなるんだから、また必要でしょ」


「誰のための菓子だ」


「みんなのため。私が食べたいのも入ってるけど」


「最後が本音だろ」


 歩が笑いながら袋をテーブルへ置く。


 その隣で朱鷺子が鞄を下ろすと、御子神さんがすぐに寄ってきた。


 最初に菓子の袋を嗅ぎ、それから朱鷺子の鞄へ鼻を寄せる。


「御子神さん、こっちには何も入ってないわよ」


 鞄を持ち上げても、御子神さんは念のためとでも言うようにもう一度確認してから離れた。


「検査終了らしいな」


「合格?」


「基準は知らん」


 冷蔵庫から麦茶を出す。


 和葉が立ち上がろうとしたので、そのまま座るよう手で示した。


「今日は俺がやる」


「じゃあ、お願いします」


 四人分のグラスと皿を運び、歩が持ってきた菓子を適当に広げる。


 いつもの土曜日と、それほど変わらない。


 違うのは、ゲームを出すより先に朱鷺子がスマートフォンを手にしたことくらいだった。


「弓削さん、先にこの前の話、いいですか?」


「ああ。和葉から聞いてる」


「仕事のこと、ちょっと聞きたくて」


「俺で分かる範囲ならな」


 朱鷺子が画面を開く。


 こちらから内容までは見えないが、何度もスクロールしているあたり、かなり書いてきたらしい。


「……準備してきたな」


「聞こうと思ってたことを忘れたら嫌なので」


「それ、今週ずっと書き足してたよね」


 歩がクッキーの袋を開けながら言う。


「思いついたときに足しただけよ」


「面接みたい」


「ちゃんと聞きたいの」


「まあ、好きに聞け」


 朱鷺子は一度画面を見直した。


「まず、弓削さんって、今は翻訳の仕事だけで生活してるんですよね?」


「ああ」


「小説とかゲームの翻訳が多いんですか?」


「いや。一番多いのは技術文書とか製品のマニュアルだな。英語の実務翻訳が中心だ」


「そうなんですね」


 横を見ると、和葉もこちらを見ていた。


「私も、技術関係が多いってことくらいしか知らなかったです」


「仕事の内容を毎日報告することもないからな」


「ゲームの翻訳もするんですよね?」


 朱鷺子が聞く。


「たまにな。海外の小さい会社や制作チームから、日本語版を頼まれることもある」


「台詞とか?」


「それもあるし、アイテムの説明やメニュー、チュートリアルなんかもある」


「え、発売前のゲームできるの?」


 歩がすぐに食いついた。


「できるとは限らん」


「えー」


「文章だけ渡されることもある」


「それはちょっと残念」


「遊ぶための仕事じゃないからな」


「でも期待するじゃん」


「お前が期待してどうする」


 歩は納得していない顔でクッキーをかじった。


 朱鷺子は笑いながら、次の質問へ移る。


「英語が中心なら、ドイツ語はあまり使わないんですか?」


「案件次第だな。英語ほどは多くない」


「ドイツ語って難しいって聞きますけど、仕事で使うために勉強したんですか?」


「いや」


 朱鷺子が顔を上げる。


「じゃあ、どうして?」


「ボードゲーム」


「……それが理由なんですか?」


「ああ」


「趣味じゃん」


 歩が横から言う。


「趣味だぞ」


「もっとこう、将来のためとか、格好いい理由だと思ってた」


「学生が全員そんな立派な理由で外国語を勉強してると思うな」


「でも、趣味でドイツ語までやる?」


「当時はドイツのゲームを調べることが多かったからな。原文が読めれば便利だと思った」


 そこで朱鷺子が、少し笑った。


「でも、ドイツ語って響きが格好いいですよね」


「分かるか」


「なんか、必殺技みたいで」


「そうなんだよ」


「そこ二人で意気投合するんだ」


 歩が呆れたように俺たちを見る。


「言われてみれば、ちょっと分かるかも」


 和葉まで考え始める。


「和葉は無理に分からなくていいぞ」


「なんでですか」


「そういうのは、分からない人がいた方が健全だ」


「どういう意味ですか」


 朱鷺子が吹き出した。


 最初にスマートフォンを開いたときより、随分いつもの顔になっている。


「でも、本当に最初はそれくらいだったんだ。語学自体は性に合ってたから、そのまま続けた。それが仕事を選ぶときに使えた」


「じゃあ、好きなものをそのまま仕事にしたわけではないんですね」


「そういうことだな」


 朱鷺子はすぐには次の質問へ移らなかった。


 画面を見たまま、何か考えている。


「始める理由って、そのくらいでもいいんですね」


「理由まで立派である必要はないだろ」


「進路だと、ちゃんと理由がないと駄目な気がして」


「仕事にするかどうかは後で考えればいい。興味を持つところまで理由を審査する必要はないんじゃないか」


「……なるほど」


 朱鷺子の親指が一度だけ画面を動いた。


「じゃあ、次」


「まだあるのか」


「ありますよ」


「やっぱり面接じゃん」


「歩は黙って食べてて」


「はいはい」


 そう言いながら、歩は三枚目のクッキーに手を伸ばした。


「弓削さん、会社員だったこともあるんですよね?」


「ああ。大学を出てから何年かは翻訳会社にいた」


「今はフリーランス」


「そうだな」


「安定します?」


 ずいぶん真っ直ぐ来た。


「そこ、早くない?」


 歩が笑う。


「大事でしょう」


「まあ、大事だけど」


 朱鷺子は俺を見る。


「実際どうですか?」


「安定だけで比べるなら、会社員の方が上だ」


 即答すると、朱鷺子は残念がるどころか頷いた。


「やっぱり」


「今の俺は長く付き合ってる取引先があるから、毎月仕事を探して回ってるわけじゃない。それでも量には波がある」


「最初からフリーは?」


「安定を一番に考えるなら勧めない」


「ですよね」


「納得するんだな」


「そこを濁された方が困ります」


 朱鷺子はスマートフォンを一度テーブルへ置いた。


「弓削さんなら、都合のいいことだけ言わないと思ってたので」


「……それは褒めてるのか?」


「褒めてますよ。かなり」


 間を置かず返ってきた。


「それはどうも」


 麦茶へ手を伸ばす。


 向かいでは、和葉が妙に嬉しそうな顔をしていた。


「何だ」


「なんでもないです」


「そういう顔じゃないだろ」


「朱鷺子が、いつきさんを頼ってるのが嬉しいだけです」


「俺が頼られて、なんでお前が喜ぶんだ」


「いいじゃないですか」


 歩が横から笑う。


「和葉、自分が褒められたみたいな顔してる」


「してないよ」


「してるって」


「歩ちゃん」


「はいはい」


 和葉に睨まれ、歩が菓子へ逃げる。


 朱鷺子も笑っていた。


 ただ、すぐにはスマートフォンを手に取らなかった。


「弓削さん」


「ん?」


「もう一つ聞いていいですか?」


「ああ」


「好きなものを仕事にすると、嫌いになるっていう話あるでしょう?」


「あるな」


「弓削さんはどうです?」


「ボードゲームは今でも好きだぞ」


「でも、ボードゲームそのものを作る仕事じゃないですよね」


「そうだな」


 どうも、さっきまでの質問とは少し違う。


「朱鷺子は、ゲームの仕事がしたいのか?」


「……そこが、自分でもちょっと違う気がしてるんです」


 返事までに間があった。


「ゲームは好きです。でも、ゲーム会社に入りたいのかって聞かれると、たぶん違う」


「小説は?」


「好き。でも、小説家になりたいわけでもないし」


「じゃあ、何が気になってる?」


「それを考えたくて、弓削さんに聞いてるところもあります」


「なるほど」


 今度はこちらが質問する側らしい。


 朱鷺子はテーブルの上のスマートフォンを指先で動かしながら、言葉を選んでいた。


「前は、好きなものは趣味でいいと思ってたんです。仕事はちゃんと生活できるものを選んで、趣味は趣味で楽しめばいいって」


「公務員を考えてるのも、それか」


「ええ。今でも有力候補ですよ。安定してる仕事がいいっていうのは変わってないし」


「なら、何が引っかかった?」


「進路を決める前に、他の仕事をほとんど知らないままでいいのかなって」


 朱鷺子はそこまで言って、少し考えた。


「ゲームとか小説って、誰かが作って、それで終わりじゃないでしょう?」


「ああ」


「形にしたり、直したり、外に出したり。いろんな人が関わって、やっとこっちまで届くんだなって最近思って」


「作る側に入りたい?」


「そこまで言うと、ちょっと違うかも」


 眉が寄る。


「自分でゼロから何か作りたいっていうのは、あまりなくて。向いてるとも思わないし」


「じゃあ、出来たものを整える方か」


「……それは、ちょっと近いです」


 今までより返事が早い。


「文章を読んでて、ここ分かりにくいなとか、この言い方の方が伝わるのにって思うことはあるんです」


「言葉に関わる仕事が気になる?」


「たぶん、そっち」


 敬語まで少し抜けた。


 本人も気づいていないらしい。


「翻訳を調べたのも、ゲームの仕事だからじゃなくて……言葉を扱いながら、作品にも関われるから気になったのかも」


「なら、話が少し変わるな」


「変わります?」


「ゲーム会社に入りたいわけじゃないなら、ゲーム業界だけ調べても仕方ないだろ」


「ああ……」


「翻訳以外にも、編集や校正みたいに言葉を扱う仕事はある。ゲームならローカライズも近いだろうな」


「編集、校正……」


「ただ、職種名だけ見て自分に合うと思うなよ。実際に何をするかは会社でも違う」


「そこはちゃんと調べます」


「返事が早いな」


「そのために相談してるんですから」


 さっきまでより言い方が砕けている。


 少なくとも、最初ほど構えてはいないらしい。


「朱鷺子、編集とか似合いそう」


 歩が言った。


「何を根拠に?」


「人の文章に細かく突っ込み入れそう」


「それ、褒めてる?」


「かなり」


 さっきの会話を真似したらしい。


「歩の場合は信用できないわね」


「ひどい」


「でも」


 朱鷺子が一度考える。


「あるものを見て、ここを直した方がいいとか考えるのは嫌いじゃないかも」


「ほら」


「歩の分析が当たったわけではない」


「そこ否定する?」


「する」


 和葉が笑っている。


「朱鷺子、誤字とかもすぐ気づくよね」


「歩が多すぎるから気づくだけ」


「私基準なの?」


「変換途中で送るでしょう」


「勢いが大事なんだって」


「文章に勢いだけあっても困るでしょう」


「でも伝わるよ?」


「たまに伝わらない」


 和葉まで頷いた。


「歩ちゃん、この前も何言ってるか分からなかったよ」


「二対一じゃん」


 歩が不満そうに菓子へ手を伸ばす。


 その横で、朱鷺子がようやくスマートフォンを取り直した。


 さっきまでの質問とは別に、何かを入力し始める。


 一度書いて、消す。


 また少し考えてから打ち直す。


「今度は何を書いてるんだ?」


「まだ整理してる途中です」


「俺に相談しに来たんじゃなかったのか」


「そうですけど、これは自分用」


 ずいぶん遠慮がなくなった。


「何々?」


 歩が身体を傾ける。


「見るな」


「あ、『言葉に関わる仕事』」


「だから見るなって言ってるでしょう」


 朱鷺子が歩の額を押し返す。


「その下に翻訳、編集、校正……ローカライズ?」


「読むな」


「いっぱい増えたね」


「減らすために増やしてるの」


「矛盾してない?」


「知らないままじゃ、候補から外すこともできないでしょう」


「まあ、それはそうか」


 朱鷺子はスマートフォンを自分の方へ引き戻した。


「来る前よりは、自分が何を気にしてたのか分かった気がします」


「ゲームの仕事じゃなかったと」


「ええ。たぶん、作品そのものより……言葉を使って、作品に関わる仕事の方が気になってたみたい」


「公務員は?」


「まだ候補ですよ」


 そこは迷わないらしい。


「安定して働きたいっていうのも私だし、こういう仕事が気になるのも私だから。どっちかを今すぐ捨てなくてもいいでしょう?」


「高校生の進路なら、まず調べるところからでいいんじゃないか」


「そうします」


 朱鷺子が頷く。


「候補がもう少し見えてきたら、また聞いてもいいですか?」


「ああ。俺で分かることなら」


「じゃあ、またお願いします」


 今度の言い方には、最初のような遠慮はなかった。


 そのとき、机の下にいた御子神さんが朱鷺子の膝へ前足を掛けた。


「あ」


「捕まったな」


 朱鷺子はスマートフォンを片手へ移し、空いた手で御子神さんの頭を撫でる。


「相談料?」


「こいつに払うのか」


「場所代かもしれないですよ」


 和葉が笑う。


「御子神さん、気が済むまで離れないよ」


「それなら安いわね」


 指先で顎を撫でられ、御子神さんが顔を上げる。


 歩がまた朱鷺子のスマートフォンを覗こうとして、その手で押し返された。


「見るなって言ってるでしょう」


「一個だけ」


「駄目」


 その間を縫うように御子神さんの尻尾が伸び、画面の上を横切った。


「ほら、御子神さんまで見せるなって言ってる」


「これはただ邪魔してるだけでしょう」


 朱鷺子はそう言いながらも、猫を撫でる手を止めなかった。


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