2025年6月23日(月)
Side:和葉
昼休み、机の上に二冊の学校案内を並べていると、歩ちゃんが横から一冊を引き寄せた。
「こっちが大学で、こっちが専門?」
「うん。とりあえず、一校ずつ見に行ってみようかなって」
土曜日に遥先生たちと話して、まずは実際に学校を見てみることにした。
看護師になる。
そこまでは、もう決めている。
けれど、どこで学ぶかについては、まだ答えが出ていない。
四年制の大学と、三年制の専門学校。
授業の内容も、実習先も、卒業後の進路も、調べれば違いはいくつも見つかる。それでも、資料を読んでいるだけでは、どちらが自分に合っているのかまでは分からなかった。
少し前なら、第一志望の欄を空白にしたままでいること自体が不安だったと思う。
今は違う。
決められないのではなく、決めるために調べている途中。
そう思えるだけで、空欄の見え方も少し変わった。
「オープンキャンパスって、何するんだろ」
歩ちゃんがページをめくっていく。
「学校説明と校内見学と……こっちは実習体験もあるみたい」
「注射とか?」
「高校生にいきなり注射はさせないでしょ」
向かいに座っていた朱鷺子が、呆れたように言った。
「血圧を測ったり、器具に触ったり、そのくらいじゃない?」
「それならちょっとやってみたい」
「進学するの、私なんだけど」
「一人より三人の方が楽しいじゃん」
「遊びに行くんじゃないよ」
そう言いながらも、少し笑ってしまう。
一人で学校案内を見ていると、書かれていることを全部覚えなければいけないような気分になる。
三人で広げていると、単なる知らない学校の資料に戻ってくれた。
「でも、和葉はちゃんと進み始めたよね」
朱鷺子が、歩ちゃんの手から戻ってきた冊子を一冊取った。
「看護師になるのは決めた。そのために大学と専門を比べてるんでしょう? 前よりずっと具体的になってる」
「まだ分からないことばっかりだけど」
「分からないから見に行くんでしょ。それならいいんじゃない?」
さらっと言われて、少しだけ照れくさくなる。
私が進路のことで立ち止まるたび、二人には何度も話を聞いてもらった。
そう考えて、ふと気づく。
「そういえば、二人は?」
「私?」
歩ちゃんが紙パックのジュースを持ったまま、自分を指差した。
「うん。私ばっかり相談してたけど、二人も三年生なんだし」
「あー……私は、まだ保育の方かな」
歩ちゃんは少し考えてから、ストローを指先で弄った。
「前に保育園の見学に行ったときは楽しかったし、子どもと関わる仕事はいいなって思ってる。でも、大学にするのか、短大とか専門にするのかまで全然決めてない」
「じゃあ、まだ途中?」
「途中途中。和葉だけ抜け駆け禁止」
「抜け駆けじゃないよ」
笑いながら、今度は朱鷺子を見る。
「朱鷺子は、公務員だっけ?」
すぐに返事が来ると思っていた。
でも、朱鷺子は手にしていた学校案内を閉じると、少しだけ考えてから机へ戻した。
「……今も候補ではあるわ」
「候補?」
私より先に、歩ちゃんが首を傾げた。
「前はもっと、公務員で決まりって感じじゃなかった?」
「そこまでは言ってない。安定してる仕事がいいとは言ったけど」
「似たようなもんじゃない?」
「違う」
いつもの調子で否定してから、朱鷺子は少しだけ視線を落とした。
「最近、他の仕事も一度ちゃんと調べてから決めた方がいいのかなって思ってる」
その言葉は、少し意外だった。
私が進路で迷っているときも、朱鷺子はいつも落ち着いていた。
聞けば意見を返してくれて、困っていることを整理してくれる。
だから勝手に、自分のことはもう決めているのだと思っていた。
「何か、やりたい仕事があるの?」
「仕事って言えるほど具体的じゃないんだけどね」
朱鷺子は少し迷ってから続けた。
「ゲームとか小説とか、昔から好きでしょう?」
「うん」
「そういうものに関わる仕事も、少し気になってる」
歩ちゃんが目を丸くした。
「朱鷺子、ゲーム会社とか入りたいの?」
「だから、まだそこまでは決めてない」
朱鷺子は苦笑する。
「前は、好きなものは趣味のままでいいと思ってたの。仕事は仕事で、ちゃんと生活できるものを選べばいいって」
そこで一度、言葉が途切れた。
「うち、両親とも働いてて、帰りが遅い日も多くて。弟が小さい頃は、私が家にいるときは宿題を見たり、親が帰ってくるまで面倒を見たりすることも多かったから」
「朱鷺子、弟の面倒よく見てたもんね」
「別に、大したことはしてないわよ」
朱鷺子なら、きっと本当にそう思っている。
「でも、生活って、ちゃんと先が見える方がいいなって思う。収入が安定してて、休みの見通しも立って、何年か先のことまで考えられるような仕事がいいっていうのは、今も変わってない」
「それで公務員なんだ」
「ええ。市役所とか事務系の仕事が嫌なわけでもないし、今でも有力候補」
そこまで言ってから、朱鷺子は少しだけ困ったように笑った。
「ただ、これから何十年も働くのに、好きなものに関わる仕事を何も調べないまま、最初から無理って決めるのも違うかなって」
公務員を考えていることは知っていた。
安定志向なのも、朱鷺子らしいと思っていた。
でも、どうして安定していることを大切にしているのかまでは、知らなかった。
ずっと相談に乗ってくれていた朱鷺子にも、私と同じように、自分なりの理由と迷いがある。
当たり前のことなのに、今さら気づいたような気がした。
「それで、最近調べてるの?」
「そうね。出版社とかゲーム会社とか見てたら、思ってたより色々あるみたいで。編集とか制作とか、シナリオとか」
「なんか楽しそう」
「歩はすぐそっちで考えるわね」
「だってゲーム作れるんでしょ?」
「全部の社員がゲームを作るわけじゃないでしょう」
朱鷺子が呆れたように返してから、今度は私を見た。
「それでさ、和葉」
「なに?」
「弓削さんに、仕事のこと聞いてもいい?」
「いつきさんに?」
そこでようやく、話がつながった。
「翻訳?」
「翻訳も。ゲームのローカライズとか、小説の翻訳とか調べてたら出てきたから。実際に仕事にしてる人の話、一度聞いてみたいなって」
「いいと思うよ」
ほとんど迷わず答えた。
いつきさんが朱鷺子の相談を嫌がるとは思わない。
「仕事中じゃなければ、ちゃんと話してくれると思う」
「迷惑じゃないかしら」
「大丈夫。だけど――」
少し考える。
「たぶん、いいところだけは言わないよ」
「それがいい」
返事は早かった。
「進路だから、楽しい話だけ聞いても仕方ないし」
「うわ、朱鷺子だ」
歩ちゃんが妙に納得した顔をする。
「何、その感想」
「好きなことを仕事にしたいって話なのに、最初から収入とか安定とか大変さまで気にしてるあたり」
「大事でしょう」
「大事だけどさ」
「進路なら余計に大事」
歩ちゃんが肩をすくめる。
そのやり取りを見ながら、少し思う。
たぶん、朱鷺子といつきさんは、こういう話なら結構合う。
いつきさんも、好きなら何とかなるとは言わない。
かといって、難しいから諦めろとも、たぶん言わない。
私が看護師になりたいと話したときも、そうだった。
「じゃあ、いつきさんには私から聞いてみるね」
「お願い」
「今度、二人が家に来るときでいい?」
「うん。私が聞きたいだけだから、わざわざ別に時間を作ってもらうのも悪いし」
「私も行く前提なんだ?」
歩ちゃんが自分を指差した。
「来ないの?」
「行くけど」
「じゃあいいじゃない」
「そういう問題?」
予鈴が鳴り、昼休みの終わりを知らせる。
机の上に広げていた学校案内を鞄へしまう。
私の進路の話から始まったはずなのに、気づけば三人とも自分のこれからについて話していた。
看護師。
保育の仕事。
公務員。
ゲームや小説に関わる仕事。
誰も、まだ全部を決めているわけではない。
知って、比べて、そのあと自分で選ぶ。
それは私だけじゃなく、二人も同じだった。
***
Side:朱鷺子
昼休みに口にしたことは、放課後になっても少しだけ頭に残っていた。
弓削さんに、仕事の話を聞きたい。
そう言ったこと自体を後悔しているわけではない。
ただ、改めて考えてみると、私は弓削さんに自分のことで相談したことがなかった。
何度も会っている。
和葉の家へ遊びに行って、ご飯をご馳走になったこともある。ゲームをしたこともあるし、学校のことを話したこともある。
それでも、弓削さんと話すときは、いつも和葉のことが中心だった。
私にとって弓削さんは、ずっと和葉の大事な人で、何かあったときに助けてくれる大人だった。
自分の将来について意見を聞こうと思ったのは、これが初めてだ。
「朱鷺子」
昇降口でローファーを履いていると、和葉に呼ばれた。
「なに?」
「いつきさんに、今日聞いてみようか?」
靴の踵を直していた手が、一瞬止まる。
「……ええ。お願い」
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「緊張してるつもりはないんだけど」
立ち上がって鞄を持つ。
「考えたら、弓削さんに自分のことで相談するの、初めてだなと思ったのよ」
「そうだっけ?」
「そうよ。和葉のことで話したことは何度もあるけど」
和葉が少し考える。
本人にとっては、それほど区別がなかったのかもしれない。
でも私にはある。
今までは和葉のために、弓削さんと話していた。
今度は自分のために話をする。
「変じゃない?」
「全然」
和葉はすぐに答えた。
「むしろ、いつきさんも嫌じゃないと思うよ」
「そうかしら」
「頼ってもらうの、嫌いじゃないと思う。顔には出さないだろうけど」
「最後の方は想像できる」
少し笑うと、さっきより気が楽になった。
和葉が鞄からスマホを取り出す。
「じゃあ、送るね」
「お願い」
画面を見ながら、和葉がメッセージを打つ。
何を書いているのかまでは見なかった。
隣では歩が露骨に覗こうとして、和葉の手でスマホを遠ざけられている。
「歩ちゃん、見ないでよ」
「見てないって」
「今、身体ごと寄ってきたでしょ」
「どんなふうに聞くのかなと思っただけ」
「見る必要ないでしょ」
二人が言い合っている間に、送信されたらしい。
「送ったよ」
「早い」
「後にすると忘れそうだから」
「和葉、そういうところ前より早くなったよね」
何気なく言うと、和葉が目を瞬いた。
「そうかな」
「前なら、私にもう一回確認してから送ってた気がする」
「……そうかも」
和葉が少し嬉しそうに笑う。
最近、本人が思っている以上に変わったところは多い。
看護師になると決めたこともそうだし、自分の予定を自分で決めるようになったこともそうだ。
見ているこっちが気づくくらいには、少しずつ前へ進んでいる。
「で、既読ついた?」
歩がまた寄ってくる。
「まだ送ったばっかりだよ」
「弓削さん、返事早そうじゃない?」
「仕事中なら遅いよ」
話しながら昇降口を出る。
梅雨の空は曇っていたが、今日は雨が降っていない。
三人で駅へ向かって歩き始めたところで、和葉のスマホが震えた。
「あ、返ってきた」
「早」
今度は私も少しだけ気になって、和葉の方を見る。
画面を開いた和葉が、そのままこちらへ向けた。
『いいぞ。俺で分かることなら』
それだけだった。
もっと何か聞かれるかと思っていた。
何について知りたいのか。
どうして自分なのか。
でも、弓削さんは何も聞かず、まず了承してくれた。
少しだけ肩の力が抜ける。
「大丈夫だって」
「うん」
「よかったね」
和葉が言う。
「じゃあ、聞きたいこと整理しておく」
「そこまで準備するの?」
「時間もらうんだから、何も考えずに行く方が失礼でしょう」
「面接じゃないんだから」
歩が笑う。
「面接じゃなくても、聞きたいこと忘れたら意味ないでしょ」
スマホを取り出し、メモを開く。
まず書いたのは、最初から気になっていたことだった。
――翻訳の仕事を始めたきっかけ。
その下に、収入。
仕事の取り方。
必要な語学力。
会社員とフリーランスの違い。
「……朱鷺子、いきなり現実的すぎない?」
歩が横から覗き込もうとする。
片手で額を押し返した。
「見るな」
「いいじゃん」
「まだまとまってないから駄目」
「収入って書いてあった」
「見るなって言ったでしょう」
「一番大事じゃん」
「だから書いてるの」
歩を押し返しながら、もう一つ考える。
好きなゲームや小説に関わって働くのは、本当に楽しいのか。
好きだったものを、仕事にしても好きでいられるのか。
それも聞いてみたかった。
弓削さんなら、たぶん綺麗な答えだけは返さない。
だからこそ、話を聞いてみたいと思った。
今度、和葉の家へ行くとき。
いつものように遊ぶだけではなく、私は弓削さんに、自分のこれからの話をする。
スマホのメモに、もう一つ質問を書き足した。




