2025年6月21日(土)
進路希望調査票の第一志望欄は、さっきから空白のままだった。
看護師。
目指す職業の欄には、もう迷わずそう書ける。
けれど、そのためにどこへ進むかとなると、途端に手が止まった。
こたつ机の上には、学校からもらった資料と、自分で取り寄せた案内が広がっている。
四年制の大学。
三年制の専門学校。
修業年数や学費、取れる資格の違いは調べた。入試方式も、学校ごとにある程度はまとめてある。
それでも、どちらが自分に合っているのかは分からない。
案内を一枚めくる。
そこに書かれた通学時間へ目が止まり、元のページへ戻した。
「煮詰まってるな」
向かいから声をかけられ、顔を上げる。
いつきさんはノートパソコンから手を離し、こちらを見ていた。
「顔に出てましたか?」
「さっきから同じ紙を何度もめくってる」
「……見てたんですね」
「正面にいるからな」
隠すことでもないので、調査票をいつきさんの方へ向ける。
「看護師になりたいのは決まってるんです」
「ああ」
「でも、大学と専門学校のどちらにするかで迷ってて。違いは調べたんですけど、どっちが私に合うのかまでは分からなくて」
いつきさんは一冊だけ学校案内を取り、何ページかめくった。
「俺も詳しくはないな」
「ですよね」
「そこで即答されると、少し引っかかる」
「いつきさん、看護学校には通ってませんから」
「それはそうだが」
学校案内が元の位置へ戻される。
「学費と通学時間、入試の日程なら一緒に整理できる。必要なら、一人暮らしにかかる金も調べる」
「一人暮らし……」
思わず繰り返すと、いつきさんがこちらを見る。
「遠い学校なら、そういう選択肢もあるだろ」
「そうですね」
紙の上へ視線を戻す。
まだ、どの学校に行きたいかも決めていない。
それなのに、今の家を出て暮らす自分は、うまく想像できなかった。
「ただ、何を学びたいかとか、学校の雰囲気が合うかまでは、資料だけじゃ分からないだろうな」
「はい」
「現場を知ってる人にも聞いた方がいい」
「遥先生には、もう一度相談しようと思ってます」
「医師と看護師では少し違うだろうが、医療職としての話は聞けるか」
「医院の看護師さんにも、話を聞けたらと思ってて」
各務医院を手伝っていた頃、仕事の手順や患者さんへの接し方を教えてくれた人がいる。
遥先生とは違う立場から、見えているものもあるはずだった。
「なら、まず遥さんに相談してみるか」
「はい」
答えたところで、机に置かれていたスマホが震えた。
いつきさんが画面を確認する。
「彼方さんだ」
「何かあったんですか?」
「今夜、遥さんと飯を食うから来ないか、だと」
「飲みに行くんですか?」
「向こうは飲むかもしれないな」
短く返事を打ちかけた指が止まる。
「遥さんも一緒なら、ちょうどいいか」
「何がですか?」
「和葉も来るか」
思っていなかった言葉に、瞬きをした。
「私もですか?」
「遥さんに話を聞きたいんだろ」
「でも、大人の集まりですよね」
「和葉を連れていっていいかは、これから聞く」
いつきさんはスマホを持ったまま、こちらを見る。
「和葉は、行きたいか」
私の代わりに予定を決めるのではなく、最後はちゃんと聞いてくれる。
「……行きたいです」
「分かった」
彼方さんへ返事を送る。
しばらくもしないうちに、またスマホが震えた。
「構わないそうだ。遥さんも連れてこいと言ってるらしい」
「先生、隣にいるんですね」
「たぶんな」
空欄のままの調査票を見る。
今夜すぐ、答えが決まるとは思っていない。
それでも、分からないまま一人で資料を眺め続けるよりは、少し先へ進めそうだった。
***
待ち合わせたのは、駅から少し離れた和食店だった。
店の中は居酒屋に近い造りだけれど、焼き魚や釜飯、定食も多い。案内された四人席は半個室になっていて、周囲の声もそれほど気にならなかった。
「悪かったな。急に呼び出して」
彼方さんが、開いたメニューを私の方へ寄せる。
「和葉ちゃんは、好きなもの頼んでいいぞ。今日は樹のおごりだからな」
「勝手に決めないでください」
「じゃあ、俺が出す」
「助かります」
いつきさんがすぐに答えると、彼方さんは眉を寄せた。
「遠慮がないな、お前」
「最初に言ったのはそっちでしょう」
「和葉ちゃんは気にしなくていいからね」
遥先生が笑いながら、別のメニューを開いてくれる。
「釜飯は時間がかかるけど、おいしいわよ」
「じゃあ、五目釜飯にします」
「私は海鮮にしようかな」
彼方さんは刺身定食、いつきさんは焼き魚の定食を選んだ。
酒を頼んだのは、彼方さんだけだった。
「樹、飲まないのか?」
「今日は和葉もいますし」
「別に一杯くらいいいだろ」
「食事に誘われて来ただけなので」
「相変わらず付き合い悪いな」
「来てるでしょう」
二人のやり取りを聞いているうちに、少しだけ肩の力が抜けた。
飲み物が届き、一通り近況を話してから、遥先生がこちらを見る。
「進路のことで聞きたいことがあるんだって?」
「はい」
膝の上で手を重ねる。
「看護師を目指すことは決めました。でも、大学と専門学校のどちらに進むかで迷っていて」
「なるほどね。一応、違いは調べた?」
「はい。大学は四年間で、専門学校は三年間のところが多いとか。学ぶ内容や、卒業後の選択肢にも違いがあるって」
「ちゃんと調べてるのね」
「でも、どちらが私に合うのかまでは分からなくて」
「そこは資料だけだと難しいわね」
遥先生は温かいお茶を一口飲んだ。
「どちらが上という話ではないの。大学でも専門学校でも、看護師になるために必要なことは学ぶ。ただ、授業の組み方も、実習先も、学校の雰囲気もかなり違うわ」
「大学か専門かだけで決めない方がいいんですか?」
「そうね。同じ大学でも学校ごとに違うし、専門学校も同じよ」
資料を見ているだけでは、どこも似たようなことが書かれていた。
けれど、実際に通うなら、数字や資格だけでは決められないこともあるのだと思う。
「私の場合は看護師じゃなくて医師だから、少し違うけどね」
「先生も、進路で迷ったんですか?」
「医師になるまでは、それほど迷わなかったかな。でも、そのあとはずいぶん迷ったわよ」
遥先生が少しだけ笑う。
「病院に残るか、縁があって今の医院を引き継ぐか。病院にいた頃と今では、同じ医師でも仕事の見え方が全然違うもの」
「最初から、医院をやろうと思ってたわけじゃないんですね」
「全然。声をかけてもらったときも、すぐには決められなかったわ」
いつも各務医院にいる遥先生しか知らなかった。
だから、今の場所へ来るまでに迷った時間があったことは、少し意外だった。
「資格を取ったら、それで進路が全部決まるわけじゃないの」
「看護師になったあとも、ですか?」
「もちろん。大きな病院、個人医院、訪問看護、福祉施設。働く場所だけでもいろいろあるでしょう?」
「今から、そこまで考えた方がいいんでしょうか」
「全部決める必要はないわ」
遥先生の声は、答えを急がせるものではなかった。
「まだ知らない仕事だってあるでしょうしね。まずは学校を見て、そこで学ぶ自分を想像してみる。分からないところは、実際に働いている人に聞く。それでいいと思う」
「医院の看護師さんにも、話を聞いてみたいです」
「いいわよ」
遥先生は迷わずうなずいた。
「前に手伝ってくれたとき、よく教えてくれた人がいたでしょう。勤務の邪魔にならない時間に、少し話せるようにしてみるわ」
「ありがとうございます」
「私の話だけで決めるより、看護師として学校を選んだ人の話も聞いた方がいいもの」
そこで、彼方さんがグラスを置いた。
「大学と専門、両方見に行けばいいだろ」
「そんな簡単に言わないの」
「決めるのは簡単じゃなくても、見るだけならできるだろ」
遥先生が少し黙る。
「……まあ、それはそうね」
「だろ?」
彼方さんが得意そうに笑う。
「中身を見ないで悩むより、一回見てから悩んだ方がましだ」
「言い方は雑だけど、今回は正しいわ」
「今回はって何だよ」
「普段の実績の問題ね」
そのやり取りに笑っていると、注文した料理が運ばれてきた。
釜飯の蓋を開けると、湯気と一緒に出汁の匂いが立ち上る。
いつきさんが焼き魚の骨を外しながら、こちらを見た。
「オープンキャンパスの日程は出てるのか」
「いくつかは」
「なら、帰ったら候補を整理するか」
「一緒に見てくれますか?」
「学費と通学、入試の日程はな」
いつきさんは箸を置かずに続ける。
「遠い学校なら、一人暮らしも含めて考える必要がある。そこも調べる」
「……はい」
「ただ、どこで学びたいかを決めるのは和葉だ」
いつきさんが学校を決めてくれるわけではない。
けれど、一人で全部を調べろとも言わない。
選ぶために必要なことは、一緒に整理してくれる。
「私、大学と専門学校、両方見てみたいです」
口にすると、考えていたよりもはっきりした声が出た。
「一校ずつ、実際に見てから考えたいです」
「それがいいと思う」
遥先生が笑う。
「見たあとで迷ったら、また相談して」
「はい」
「俺には相談しなくていいのか?」
彼方さんが不満そうに割り込む。
「彼方さんには、何を相談すればいいんですか?」
「そうだな。体力作りとか」
「看護学校の話でしょう」
「看護師も体力はいるだろ」
「そこだけは間違ってないのが腹立つわね」
遥先生が呆れ、いつきさんが小さく笑った。
進路希望調査票の第一志望欄は、まだ空いたままだ。
けれど、決めていないことと、何もしていないことは違う。
まずは大学と専門学校を、自分の目で見てみる。
そのうえで、自分が学びたい場所を選ぶ。
通学時間も、学費も、その先の暮らし方も、きっと考えなければならない。
その中に、一人暮らしという選択肢があることも分かっている。
それでも今、学校から帰る先として思い浮かぶのは、いつきさんと御子神さんのいる、あの部屋だった。
まだ、それだけで学校を選ぶつもりはない。
ただ、その気持ちまで、最初から理由の外へ追い出す必要はないように思えた。




