2025年6月20日(金)
喫茶店の扉を開けると、頭上のベルが乾いた音を立てた。
「こんにちは」
「いらっしゃい。雨、大丈夫だった?」
カウンターの奥から、奥さんが顔を出す。
「駅から来る途中で、少しだけ降られました」
傘立てに傘を差し、カーディガンの肩についた雨粒を手で払う。
梅雨に入ってから、空模様は落ち着かない。
学校を出たときにはやんでいたのに、商店街へ入る少し前から、また細かな雨が降り始めていた。
奥の部屋を借りて制服から着替え、エプロンの紐を結ぶ。
髪が乱れていないか鏡で確かめてから店へ戻ると、奥さんはカウンターの中で、洗い終えたカップを拭いていた。
「あの、この前教えてもらっただし巻き、父の日に作りました」
「あら。どうだった?」
「ちゃんと巻けました。いつきさんにも、きれいにできてるって褒めてもらえました」
「よかったじゃない。教えた人がよかったのね」
「私も練習しました」
「はいはい。それも大事ね」
軽く流されてしまったけれど、奥さんの口元は笑っていた。
教わった日の夜に一度作り、その次の日にも、もう一度試した。
一度目は巻く途中で崩れた。
二度目は火を通しすぎて、少し固くなった。
当日は、それまでで一番きれいにできたと思う。
いつきさんがすぐに気づいてくれたことも、思い出すとまだ少し嬉しかった。
「じゃあ、料理の次は接客もお願いね」
「そこにつながるんですか?」
「今日は旦那が買い出しに出てるの。頼りにしてるわよ」
「はい。頑張ります」
返事をしたところで、入り口のベルが鳴った。
入ってきたのは、何度か見かけたことのある年配の女性だった。
「いらっしゃいませ」
「あら。今日は和葉ちゃんの日なのね」
「はい。いつものお席で大丈夫ですか?」
「お願いしようかしら」
窓際の二人席へ案内し、濡れた傘を預かる。
女性はメニューへ手を伸ばしかけて、途中でやめた。
「やっぱり、いつものにしようかな」
「ブレンドとトーストでよろしいですか?」
「ええ。コーヒーは少し薄めにしてもらえる?」
「かしこまりました」
注文を書き終えて振り返ると、再び入り口のベルが鳴った。
今度は、小さな男の子を連れた女性だった。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
「はい」
「こちらへどうぞ」
四人席へ案内してから、子ども用の椅子を持ってくる。
以前なら、使うかどうかを奥さんに確認していた。
今は男の子の背丈を見て、自分で判断できる。
「こちら、使いますか?」
「ありがとうございます。助かります」
椅子を置き、水とメニューを運ぶ。
男の子は写真を見比べながら、プリンとホットケーキの間で迷っていた。
「プリンがいい」
「さっきはホットケーキって言ってなかった?」
「プリンも食べたい」
母親が困ったように笑い、こちらを見る。
「すみません。ここのプリンって、子どもには少し苦いですか?」
「カラメルは少し苦めですけど、プリン自体は甘いです。カラメルを少なめにもできますよ」
「じゃあ、そうしてもらおうか」
「うん」
「プリンを一つ、カラメル少なめですね」
母親は紅茶、男の子はリンゴジュースを選んだ。
注文を復唱してから、厨房へ戻る。
「プリン一つ、カラメル少なめです。紅茶とリンゴジュースもお願いします」
「はい。窓際は?」
「ブレンドを薄めで、トーストと一緒です」
「ちゃんと覚えてるわね」
「前にも同じ注文でしたから」
奥さんは小さくうなずき、コーヒーの準備へ戻った。
私はトースト用の皿とカトラリーを揃える。
雨宿りをするように、そのあとも二組の客が続いた。
満席ではない。
それでも、奥さんと二人で回すには少し忙しい。
傘を預かり、席へ案内する。
水を運び、注文を取る。
出来上がった飲み物を運んでいる途中で、窓際の女性に声をかけられた。
「和葉ちゃん、悪いけどミルクをもう一つもらえる?」
「はい。すぐお持ちします」
カウンターへ戻り、ミルクを用意する。
そのまま別の客の注文を伝えようとして、足を止めた。
先に、プリンを待っている席へスプーンを出しておいた方がいい。
頭の中で順番を並べ直し、トレーを持ち替える。
全部を一度にやろうとすると、かえってどれも遅くなる。
目の前のことを一つ終わらせてから、その次へ進む。
以前、奥さんから教わったことだった。
「和葉ちゃん、三番の紅茶お願い」
「はい」
「そのあと、二番のお水も見てあげて」
「分かりました」
紅茶を運び、減っていたグラスに水を注ぐ。
空いた皿を下げ、会計を済ませる。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました。足元にお気をつけください」
年配の女性を見送り、預かっていた傘を渡す。
扉が閉まると同時に、店の中が少しだけ静かになった。
空いたテーブルを拭いて、カウンターへ戻る。
「すみません。お水、言われるまで気づきませんでした」
「でも、言ったらすぐに動けたでしょう」
「はい」
「最初から全部見られる人なんていないわよ」
奥さんは洗ったカップを伏せ、客席を見回した。
「それに今日は、ほとんど私を呼ばなかったじゃない」
「勝手にやりすぎましたか?」
「逆よ」
予想していなかった返事に、顔を上げる。
「もう、いちいち私に確認しなくても大丈夫そうだなって思ったの」
「……ほんとですか?」
「もちろん、分からないことは聞いてもらわないと困るけどね。でも、席の案内も注文も、自分で考えて動けてたでしょう」
奥さんは少しだけ笑った。
「ちゃんと店員さんらしくなったわね」
胸の辺りが、少しくすぐったくなる。
働き始めた頃は、水を運ぶだけでも緊張した。
客に何かを頼まれるたび、すぐに奥さんの顔を見ていた。
今も失敗はするし、教えてもらうことも多い。
それでも、前よりできることが増えているらしい。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。じゃあ、店員さん。休憩にしましょうか」
「はい」
***
奥の休憩スペースで、奥さんが淹れてくれた紅茶を飲む。
鞄からスマホを出そうとして、一緒に入れていた紙が床へ落ちた。
「あ」
拾い上げると、表に大きく『進路希望調査票』と書かれている。
「もう、そういう時期なのね」
「来週までに出すことになってます」
折れないよう、紙を鞄へ戻す。
進路の欄には、まだ具体的な学校名を書いていない。
目指す職業は、もう決まっていた。
「進みたい方は決まったの?」
「看護師を目指そうと思ってます」
以前なら、口にする前に、これでいいのかと何度も考えていたかもしれない。
今は、自分の言葉として言える。
「そっか。決めたんだね」
「はい。でも、大学にするか専門学校にするかは、まだ迷ってて」
「それは私には難しい話ね」
奥さんは苦笑しながら、カップを持ち上げた。
「でも、実際にその仕事をしてる人から話を聞けるといいんじゃない?」
「はい。前にお世話になった医院があるので、先生や看護師さんにも聞いてみようと思ってます」
「それなら心強いわね」
遥先生なら、医師として進路を選んだ経験を話してくれると思う。
以前、医院を手伝っていたときにお世話になった看護師さんからは、看護師になるまでのことや、実際の仕事について聞けるかもしれない。
同じ医療に関わる仕事でも、立場が違えば見えるものも違う。
「学校も、実際に見に行った方がいいでしょうね」
「オープンキャンパスの案内は来てます」
「じゃあ、夏休みも忙しくなりそうね」
「受験生なので」
そう答えると、奥さんは少し意外そうな顔をした。
「ちゃんと受験生らしいこと言うようになったわね」
「私だって言いますよ」
「前は、学校の話をするとすぐ難しい顔をしてたから」
言われてみれば、そうだったかもしれない。
進路を考えることは、ずっと先の自分を考えることだった。
以前の私には、来年や再来年のことを想像する余裕もなかった。
今は、まだ分からないことが多くても、その先へ進むために考えられる。
「ここのバイトも、無駄じゃなかったと思います」
「まだ辞めるみたいに言わないでよ」
「そういう意味じゃないです」
慌てて否定すると、奥さんが笑った。
「分かってる。でも、接客と看護は別の仕事でしょう?」
「はい」
「それでも、人を見て、自分にできることを考える練習にはなってるかもね」
専門的な助言ではない。
けれど、今日の自分を少し認めてもらえたような気がした。
休憩を終えて店へ戻る頃には、窓を叩いていた雨も弱くなっていた。
***
閉店前の片付けを終え、エプロンを外す。
奥さんが予定表を確認しながら、こちらを振り返った。
「来週の土曜日、少し早めに来られる?」
「土曜日ですか?」
「予約が入ってるの。旦那と二人でもできるけど、和葉ちゃんがいてくれると助かるなと思って」
「確認します」
鞄から手帳を取り出す。
去年のクリスマスに、いつきさんからもらったものだ。
学校の予定とバイトの日、模試や提出物の期限も書き込んでいる。
来週の土曜日には、今のところ何も入っていなかった。
「大丈夫です。何時に来ればいいですか?」
「一時でお願いできる?」
「はい」
予定を書き込み、時間の横に小さく丸をつける。
「よろしくね」
「任せてください」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
前なら、できるだろうかと考えてから返事をしていた。
今も、不安がないわけではない。
それでも、頼ってもらえたことの方が嬉しかった。
「頼もしくなったわね」
「でも、今日もお水を忘れました」
「それは、次に忘れなければいいの」
奥さんに見送られ、店を出る。
雨は、いつの間にかやんでいた。
濡れた道路に、店の明かりが細長く映っている。
鞄の中の手帳には、また一つ、自分で引き受けた予定が増えた。
傘を開かずに歩き出す。
雨上がりの空気は少し冷たかったけれど、足取りは思っていたより軽かった。




