2025年6月15日(日)
夕方になって台所へ入ろうとしたら、和葉に止められた。
「今日は、私が作ります」
「手伝うくらいはいいだろ」
「大丈夫です。座って待っててください」
両手で背中を押される。
力は大したことがない。抵抗しようと思えば、その場から一歩も動かずに済む。
ただ、本人がやると言っている以上、邪魔をする理由もなかった。
「分かった。何かあったら呼べよ」
「はい」
台所を追い出され、こたつ机の前に座る。
こたつ布団はもう片付けてある。広くなった足元では、御子神さんが身体を伸ばして寝ていた。
台所から、包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。
少しして、生姜と醤油の匂いが流れてきた。
今日が父の日だということには、朝から気づいていた。
去年は、和葉が自分で絵付けしたティーカップをくれた。俺がホワイトデーに贈ったものと並べて使えるように選んだらしく、今も二つ揃って食器棚に収まっている。
だから、今日の夕飯にも何か理由があるのだろう。
とはいえ、本人が何も言っていないうちから聞くことでもない。
足元に寄ってきた御子神さんを膝に乗せ、頭を撫でながら待つことにした。
「できました」
声をかけられ、立ち上がる。
テーブルには豚の生姜焼きと味噌汁、それにだし巻き卵と小鉢が並んでいた。
「……多くないか」
「少しだけです」
「品数がいつもより二つ増えてる」
「少しだけです」
同じ言葉を繰り返した和葉が、先に座る。
ここで言い合っても、皿の数が減るわけではない。
俺も向かいに腰を下ろした。
「いただきます」
「いただきます」
生姜焼きを一口食べる。
肉は少し厚めだが、固くはない。味も濃すぎず、ご飯によく合う。
「どうですか?」
「うまい」
和葉の肩から、少しだけ力が抜けた。
「よかったです」
だし巻き卵を箸で切る。
形はきれいに揃っていて、中までふっくらしている。少し甘めなのは、和葉の好みだろう。
「これ、きれいに巻けてるな」
「ほんとですか?」
「ああ」
「喫茶店の奥さんに教えてもらったんです。休憩中に作ってくれたことがあって、巻き方を聞いたら教えてくれて」
「店で出すのか?」
「出しませんよ。奥さんが自分で食べたくて作っただけです」
「そういうことか」
教わったことを、きちんと自分のものにしたらしい。
「上手くできてる」
「まだ練習中です」
そう言いながらも、和葉は嬉しそうにだし巻き卵へ箸を伸ばした。
食事中は、学校のことや、喫茶店であったことを聞いた。
特別な日のはずなのに、話していることは普段と大して変わらない。
それが、かえって落ち着いた。
食べ終わり、俺が皿を重ねようとすると、また止められた。
「今日は私がやります」
「作った方が片付けまでやる決まりはないぞ」
「父の日なので」
「便利な言葉だな」
「今日しか使えませんから」
皿を取り上げられる。
仕方なく座り直すと、御子神さんが空いた膝に乗ってきた。
「お前は何もしてないだろ」
頭を撫でると、当然のように喉を鳴らす。
洗い物の音が止まり、今度は湯を沸かす音がした。
和葉が戻ってきたとき、手には二つのティーカップがあった。
「今日はこれか」
「はい。せっかくなので」
二つのカップが、テーブルの上に並ぶ。
一つは、俺が和葉に贈ったもの。
もう一つは、去年の父の日に、和葉が自分で絵付けしてくれたものだった。
並べて使うことを考えて選んだらしいが、形も色合いも少し違う。
それでも、食器棚に並んでいるところを見慣れたせいか、今では二つで一組のように思えた。
紅茶を一口飲む。
「今日は、いろいろありがとうな」
「はい」
和葉は返事をしたあと、カップの取っ手に指をかけたまま、少しだけ黙った。
「……父の日なので」
「ああ」
「でも、少し迷いました」
「何をだ」
「今年も、父の日としてお祝いしていいのかなって」
そこで初めて、話の意味が分かった。
「今は、いつきさんにお父さんになってほしいわけじゃありません」
和葉は、俺から目を逸らさずに続ける。
「私にとっては、好きな人ですから」
「……それは知ってる」
「はい。もう言ってあります」
「知ってることでも、面と向かって言われると困るんだよ」
「困るんですか?」
「そういう顔するな」
和葉の口元が、少し緩む。
からかうつもりではないのだろうが、以前よりこういう場面で引かなくなった。
カップを置き、和葉は膝の上で手を重ねた。
「でも、今までしてくれたことに感謝しているのも、本当です」
声から、さっきまでの軽さが少し抜ける。
「助けてくれて、家族になってくれて、ずっと支えてくれました。好きになったからって、そこまで違うことにはしたくなかったんです」
「……違うことにする必要はないだろ」
「はい。私も、そう思いました」
返事は迷いなく返ってきた。
「だから、今年も父の日にお礼をしたいと思いました。でも、恋人に贈るみたいなものを選ぶのも、少し違う気がして」
「まだ恋人でもないしな」
「それは分かってます」
少しだけ不満そうな顔をされる。
余計なことを言ったらしい。
「それで、普通に使ってもらえるものにしました」
「まだあるのか」
「夕飯だけだと思ってました?」
「思ってた」
「あります」
和葉が立ち上がり、自分のタンスへ向かう。
戻ってきた手には、小さな紙袋が下がっていた。
「どうぞ」
「ありがとう」
受け取り、袋の中を確認する。
入っていたのは、チャコールグレーのメッシュバッグだった。
底の網目は少し粗く、内側には小さな仕切りもある。持ち手は短く、濡れた場所にも掛けやすそうな形になっていた。
「銭湯用か」
「はい。スパバッグというみたいです」
底の網目や、内側の仕切りを確かめる。
「水が溜まらないようになってるのか」
「そうみたいです。いつきさん、今までタオルも洗面用品も、普段のトートバッグにまとめてたじゃないですか」
「別に困ってなかったぞ」
「使い方はだいぶ適当でした」
「一つにまとめてただけだ」
「濡れたサウナハットを、ビニール袋に入れたまま忘れたこともありましたよね」
「……一回だけだ」
「水泳バッグを放置してた小学生と同じじゃないですか」
「塩素の匂いがしないだけ、まだましだろ」
「ましの基準が低すぎます」
返す言葉もない。
和葉は少し呆れたように笑い、バッグの底を指差した。
「これなら水が切れますし、帰ったらそのまま吊るしておけます。前に贈ったサウナハットも入る大きさにしました」
バッグを広げてみる。
確かに、サウナハットとタオルを入れても十分な余裕がありそうだった。
クリスマスにもらったものが、半年後の贈り物につながっている。
革のキーケースも、サウナハットもそうだったが、和葉は物を選ぶとき、実際に使っているところまで考えるらしい。
「助かる。使わせてもらう」
「はい」
「ありがとう」
あらためて伝えると、和葉は少し照れたように目を伏せた。
父の日に贈られたものだからといって、俺を父親として見ているわけではない。
かといって、これまでの関係を否定したいわけでもない。
俺には思いつかなかった迷いを、和葉は自分なりに考えて、答えを出したらしい。
なら、こちらはそのまま受け取ればいい。
俺はバッグを畳まず、テーブルの脇へ置いた。
「せっかくだから、今日使うか」
和葉が顔を上げる。
「今からですか?」
「まだ早いし、腹が落ち着いてからならちょうどいいだろ」
「行きます」
返事が早い。
「じゃあ、準備しとけ」
「はい」
残っていた紅茶を飲み、二人でカップを片付けた。
洗ったカップを布巾で拭き、食器棚の同じ段へ戻す。
御子神さんは、テーブルの横に置いたメッシュバッグへ鼻を近づけていた。中に顔を入れようとして、取っ手に引っかかる。
「お前のじゃないぞ」
バッグを持ち上げると、御子神さんは興味を失ったように尻尾を向けた。
少し時間を置いてから、銭湯へ行く準備を始める。
新しいバッグに、タオルと洗面用品を入れる。
サウナハットを重ねても、まだ余裕があった。今まで使っていたトートバッグより小さいのに、中は整理しやすい。
「本当にちょうどいいな」
「ちゃんと大きさを見て選びましたから」
和葉も自分のスペースから、薄いベージュのメッシュバッグを取り出した。
「自分の分も買ったのか」
「はい。見ていたら便利そうだったので」
俺のものとは、色も形も少し違う。
お揃いにしたわけではないらしい。
和葉は着替えを小さな巾着へ入れ、タオルや洗面用品と一緒にバッグへ収めた。
「準備できました」
「ああ。行くか」
御子神さんに留守番を頼み、玄関を出る。
梅雨の合間の夜は、昼間よりも少し涼しかった。
外階段を下りると、先に出た和葉が足を止めて待っている。
俺が隣に並ぶと、また歩き始めた。
手元では、色の違う二つのバッグが、同じ歩調で揺れていた。




