↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

14/19

2025年6月15日(日)

 夕方になって台所へ入ろうとしたら、和葉に止められた。


「今日は、私が作ります」


「手伝うくらいはいいだろ」


「大丈夫です。座って待っててください」


 両手で背中を押される。


 力は大したことがない。抵抗しようと思えば、その場から一歩も動かずに済む。


 ただ、本人がやると言っている以上、邪魔をする理由もなかった。


「分かった。何かあったら呼べよ」


「はい」


 台所を追い出され、こたつ机の前に座る。


 こたつ布団はもう片付けてある。広くなった足元では、御子神さんが身体を伸ばして寝ていた。


 台所から、包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。


 少しして、生姜と醤油の匂いが流れてきた。


 今日が父の日だということには、朝から気づいていた。


 去年は、和葉が自分で絵付けしたティーカップをくれた。俺がホワイトデーに贈ったものと並べて使えるように選んだらしく、今も二つ揃って食器棚に収まっている。


 だから、今日の夕飯にも何か理由があるのだろう。


 とはいえ、本人が何も言っていないうちから聞くことでもない。


 足元に寄ってきた御子神さんを膝に乗せ、頭を撫でながら待つことにした。


「できました」


 声をかけられ、立ち上がる。


 テーブルには豚の生姜焼きと味噌汁、それにだし巻き卵と小鉢が並んでいた。


「……多くないか」


「少しだけです」


「品数がいつもより二つ増えてる」


「少しだけです」


 同じ言葉を繰り返した和葉が、先に座る。


 ここで言い合っても、皿の数が減るわけではない。


 俺も向かいに腰を下ろした。


「いただきます」


「いただきます」


 生姜焼きを一口食べる。


 肉は少し厚めだが、固くはない。味も濃すぎず、ご飯によく合う。


「どうですか?」


「うまい」


 和葉の肩から、少しだけ力が抜けた。


「よかったです」


 だし巻き卵を箸で切る。


 形はきれいに揃っていて、中までふっくらしている。少し甘めなのは、和葉の好みだろう。


「これ、きれいに巻けてるな」


「ほんとですか?」


「ああ」


「喫茶店の奥さんに教えてもらったんです。休憩中に作ってくれたことがあって、巻き方を聞いたら教えてくれて」


「店で出すのか?」


「出しませんよ。奥さんが自分で食べたくて作っただけです」


「そういうことか」


 教わったことを、きちんと自分のものにしたらしい。


「上手くできてる」


「まだ練習中です」


 そう言いながらも、和葉は嬉しそうにだし巻き卵へ箸を伸ばした。


 食事中は、学校のことや、喫茶店であったことを聞いた。


 特別な日のはずなのに、話していることは普段と大して変わらない。


 それが、かえって落ち着いた。


 食べ終わり、俺が皿を重ねようとすると、また止められた。


「今日は私がやります」


「作った方が片付けまでやる決まりはないぞ」


「父の日なので」


「便利な言葉だな」


「今日しか使えませんから」


 皿を取り上げられる。


 仕方なく座り直すと、御子神さんが空いた膝に乗ってきた。


「お前は何もしてないだろ」


 頭を撫でると、当然のように喉を鳴らす。


 洗い物の音が止まり、今度は湯を沸かす音がした。


 和葉が戻ってきたとき、手には二つのティーカップがあった。


「今日はこれか」


「はい。せっかくなので」


 二つのカップが、テーブルの上に並ぶ。


 一つは、俺が和葉に贈ったもの。


 もう一つは、去年の父の日に、和葉が自分で絵付けしてくれたものだった。


 並べて使うことを考えて選んだらしいが、形も色合いも少し違う。


 それでも、食器棚に並んでいるところを見慣れたせいか、今では二つで一組のように思えた。


 紅茶を一口飲む。


「今日は、いろいろありがとうな」


「はい」


 和葉は返事をしたあと、カップの取っ手に指をかけたまま、少しだけ黙った。


「……父の日なので」


「ああ」


「でも、少し迷いました」


「何をだ」


「今年も、父の日としてお祝いしていいのかなって」


 そこで初めて、話の意味が分かった。


「今は、いつきさんにお父さんになってほしいわけじゃありません」


 和葉は、俺から目を逸らさずに続ける。


「私にとっては、好きな人ですから」


「……それは知ってる」


「はい。もう言ってあります」


「知ってることでも、面と向かって言われると困るんだよ」


「困るんですか?」


「そういう顔するな」


 和葉の口元が、少し緩む。


 からかうつもりではないのだろうが、以前よりこういう場面で引かなくなった。


 カップを置き、和葉は膝の上で手を重ねた。


「でも、今までしてくれたことに感謝しているのも、本当です」


 声から、さっきまでの軽さが少し抜ける。


「助けてくれて、家族になってくれて、ずっと支えてくれました。好きになったからって、そこまで違うことにはしたくなかったんです」


「……違うことにする必要はないだろ」


「はい。私も、そう思いました」


 返事は迷いなく返ってきた。


「だから、今年も父の日にお礼をしたいと思いました。でも、恋人に贈るみたいなものを選ぶのも、少し違う気がして」


「まだ恋人でもないしな」


「それは分かってます」


 少しだけ不満そうな顔をされる。


 余計なことを言ったらしい。


「それで、普通に使ってもらえるものにしました」


「まだあるのか」


「夕飯だけだと思ってました?」


「思ってた」


「あります」


 和葉が立ち上がり、自分のタンスへ向かう。


 戻ってきた手には、小さな紙袋が下がっていた。


「どうぞ」


「ありがとう」


 受け取り、袋の中を確認する。


 入っていたのは、チャコールグレーのメッシュバッグだった。


 底の網目は少し粗く、内側には小さな仕切りもある。持ち手は短く、濡れた場所にも掛けやすそうな形になっていた。


「銭湯用か」


「はい。スパバッグというみたいです」


 底の網目や、内側の仕切りを確かめる。


「水が溜まらないようになってるのか」


「そうみたいです。いつきさん、今までタオルも洗面用品も、普段のトートバッグにまとめてたじゃないですか」


「別に困ってなかったぞ」


「使い方はだいぶ適当でした」


「一つにまとめてただけだ」


「濡れたサウナハットを、ビニール袋に入れたまま忘れたこともありましたよね」


「……一回だけだ」


「水泳バッグを放置してた小学生と同じじゃないですか」


「塩素の匂いがしないだけ、まだましだろ」


「ましの基準が低すぎます」


 返す言葉もない。


 和葉は少し呆れたように笑い、バッグの底を指差した。


「これなら水が切れますし、帰ったらそのまま吊るしておけます。前に贈ったサウナハットも入る大きさにしました」


 バッグを広げてみる。


 確かに、サウナハットとタオルを入れても十分な余裕がありそうだった。


 クリスマスにもらったものが、半年後の贈り物につながっている。


 革のキーケースも、サウナハットもそうだったが、和葉は物を選ぶとき、実際に使っているところまで考えるらしい。


「助かる。使わせてもらう」


「はい」


「ありがとう」


 あらためて伝えると、和葉は少し照れたように目を伏せた。


 父の日に贈られたものだからといって、俺を父親として見ているわけではない。


 かといって、これまでの関係を否定したいわけでもない。


 俺には思いつかなかった迷いを、和葉は自分なりに考えて、答えを出したらしい。


 なら、こちらはそのまま受け取ればいい。


 俺はバッグを畳まず、テーブルの脇へ置いた。


「せっかくだから、今日使うか」


 和葉が顔を上げる。


「今からですか?」


「まだ早いし、腹が落ち着いてからならちょうどいいだろ」


「行きます」


 返事が早い。


「じゃあ、準備しとけ」


「はい」


 残っていた紅茶を飲み、二人でカップを片付けた。


 洗ったカップを布巾で拭き、食器棚の同じ段へ戻す。


 御子神さんは、テーブルの横に置いたメッシュバッグへ鼻を近づけていた。中に顔を入れようとして、取っ手に引っかかる。


「お前のじゃないぞ」


 バッグを持ち上げると、御子神さんは興味を失ったように尻尾を向けた。


 少し時間を置いてから、銭湯へ行く準備を始める。


 新しいバッグに、タオルと洗面用品を入れる。


 サウナハットを重ねても、まだ余裕があった。今まで使っていたトートバッグより小さいのに、中は整理しやすい。


「本当にちょうどいいな」


「ちゃんと大きさを見て選びましたから」


 和葉も自分のスペースから、薄いベージュのメッシュバッグを取り出した。


「自分の分も買ったのか」


「はい。見ていたら便利そうだったので」


 俺のものとは、色も形も少し違う。


 お揃いにしたわけではないらしい。


 和葉は着替えを小さな巾着へ入れ、タオルや洗面用品と一緒にバッグへ収めた。


「準備できました」


「ああ。行くか」


 御子神さんに留守番を頼み、玄関を出る。


 梅雨の合間の夜は、昼間よりも少し涼しかった。


 外階段を下りると、先に出た和葉が足を止めて待っている。


 俺が隣に並ぶと、また歩き始めた。


 手元では、色の違う二つのバッグが、同じ歩調で揺れていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。