2025年6月13日(金)
放課後、帰り支度をしていると、歩ちゃんがスマホから顔を上げた。
「そういえば、今週の日曜って父の日じゃん」
鞄に教科書を入れようとしていた手が止まる。
「うん。そうだね」
「和葉、今年も何かするの?」
「そのつもりなんだけど……」
答えながら、机の上に残っていたノートを閉じる。
去年、初めて父の日の贈り物をした。
いつきさんがホワイトデーにくれたティーカップと並べて使えるように、もう一客を用意して、自分で絵付けをした。
二つのカップは、今も食器棚の同じ段に並んでいる。
普段から使っているわけではないけれど、紅茶を淹れるときには、ときどき二人で出している。
「何、その顔」
歩ちゃんが椅子をこちらへ向けた。
「何か問題でもあんの?」
「問題っていうか……去年と同じ気持ちで祝っていいのかなって」
「同じものをあげるわけじゃないでしょ?」
「そうじゃなくて」
うまく説明できずにいると、朱鷺子が鞄のファスナーを閉めながら、こちらを見た。
「告白したから、父の日の扱いに困ってるの?」
「……うん」
言葉にされてしまえば、そのままだった。
「今は、いつきさんに娘としてだけ見てほしいわけじゃないから」
「ああ、そっちね」
歩ちゃんはすぐに納得したようだった。
「でも、父の日をやめたいわけじゃないんでしょ?」
「それも違うんだよね」
いつきさんは、私のお父さんではない。
それでも、帰る場所を作ってくれた。
学校へ戻れるように支えてくれて、困ったときには一緒に考えてくれた。
家族として守ってくれたことも、ここまで育ててくれたことも、今の気持ちとは別に、ちゃんと感謝している。
娘としてだけ見られたくないからといって、これまでしてもらったことへの感謝まで、なかったことにはしたくなかった。
「今までしてくれたことには、ちゃんとありがとうって言いたいんだ」
「じゃあ、普通に言えばいいじゃん」
歩ちゃんがあっさり答える。
「でも、父の日だよ?」
「だからでしょ。感謝する日なんだから」
「それはそうだけど……」
「父の日に色気出してどうすんの」
「言い方」
朱鷺子がすぐに止めた。
「でも、今回は歩の言うことも分かるわ」
「今回はって何」
「いつも分かってないとは言ってないでしょう」
「似たようなもんじゃん」
二人のやり取りに、少しだけ笑ってしまった。
朱鷺子は歩ちゃんを放っておいて、私に向き直る。
「父親としてだけ見てほしくないことと、今までのことに感謝するのは、別に矛盾しないと思う」
「……うん」
「恋人みたいな日にしたいわけでもないんでしょう?」
「それは、違うかな」
父の日にまで、今の気持ちを強く押し出したいわけではない。
告白したことをなかったことにするつもりはないけれど、何もかもを恋愛につなげてしまうのも違う気がした。
今までの感謝を、今の私から伝える。
たぶん、それでいい。
「じゃあ、今年も実用品じゃない?」
歩ちゃんが机に頬杖をつく。
「弓削さん、そういうのが一番喜びそうだし」
「喜ぶというより、困らないものね」
「朱鷺子、それ褒めてる?」
「褒めてるわよ。使わないものをもらっても、捨てられずに困りそうでしょう?」
「それは、あるかも」
いつきさんは、必要なものなら自分で買う。
余計なものはあまり増やさないし、もらったものはできるだけ使おうとする。
革のキーケースも、サウナハットも、今でもちゃんと使ってくれている。
特にサウナハットは、思っていたより出番が多かった。
銭湯へ行く前に、忘れていないか確認している姿を何度も見ている。
「銭湯で使うものがいいかな」
「また?」
歩ちゃんが聞き返す。
「サウナハットも銭湯用品だったでしょ」
「でも、いつきさんが好きなものだし」
「まあ、弓削さんと言ったら銭湯だもんね」
それから少し考えて、いつきさんが銭湯へ行くときの荷物を思い出した。
タオルや洗面用品は、昔から使っているらしい小さなトートバッグにまとめている。
濡れたタオルとサウナハットは、帰りにはビニール袋へ。
特に困っている様子はない。
けれど、使いやすそうにも見えなかった。
「銭湯用のバッグって、あるよね?」
「スパバッグとか?」
歩ちゃんがすぐにスマホを操作する。
画面をこちらへ向けると、メッシュ素材の小さなバッグが並んでいた。
「こういうの。水切れがいいらしいよ」
「前に調べたとき、見た気がする」
サウナハットを探したとき、知らない銭湯用品の中に混じっていた。
そのときは、帽子の方に目を取られて、詳しく見なかった。
「サウナハットも入るかな」
「大きさによるんじゃない?」
朱鷺子が画面をのぞき込む。
「実物を見た方がよさそうね。持ち手や底の作りも違うみたいだし」
「じゃあ、帰りに見に行こうよ」
「二人とも来てくれるの?」
「ここまで聞いて、放置する方が気になるじゃん」
「歩は買い物したいだけでしょう」
「それもある」
「隠す気もないのね」
歩ちゃんは立ち上がると、もう鞄を肩に掛けていた。
「ほら、行こ。日曜まで時間ないんだから」
「まだ金曜日だよ」
「金曜しか三人で動けないかもしれないでしょ」
そう言われると、その通りだった。
私も鞄を持って、二人と一緒に教室を出た。
***
駅ビルの生活雑貨店には、浴室用品をまとめた棚があった。
タオルやシャンプーボトルの横に、大小いくつかのスパバッグが吊り下げられている。
「和葉、これ」
歩ちゃんが最初に手に取ったのは、鮮やかな青色のバッグだった。
側面に大きく温泉マークが描かれている。
「いつきさん、持つかな」
「銭湯ならアリじゃない?」
「たぶん、嫌がると思う」
「じゃあ、こっち」
次は黒地に白い文字で、何か英語が書かれたものだった。
「何て書いてあるの?」
「分かんない」
「勧めないでよ」
「見た目はいいじゃん」
歩ちゃんからバッグを受け取り、棚へ戻す。
隣では、朱鷺子が落ち着いた色のものを一つずつ確かめていた。
「これなら、サウナハットも入りそうじゃない?」
差し出されたのは、チャコールグレーのメッシュバッグだった。
小さすぎず、大きすぎない。
底の部分は網目が少し粗くなっていて、水が溜まりにくそうだった。
持ち手も短く、浴室のフックに掛けられる形になっている。
「中に仕切りもあるね」
洗面用品を入れる小さなポケットもついていた。
折り畳んだサウナハットとタオルを入れても、少し余裕がありそうだ。
「これ、いいかも」
「すごく弓削さんっぽい」
歩ちゃんが横からのぞき込む。
「それ、地味って意味?」
「落ち着いてるって意味だよ」
「今、言い直したでしょ」
「でも、ほんとに使いやすそう」
バッグを持ったまま、もう一度全体を見る。
サウナハットを入れて、タオルを入れて、いつもの銭湯へ持っていく。
使っている姿が、すぐに浮かんだ。
「これにする」
「決まりね」
朱鷺子がうなずく。
そのままレジへ向かおうとして、隣の棚で足が止まった。
同じくらいの大きさで、少し明るい色のバッグが並んでいる。
いつきさん用に選んだものとは形が少し違うけれど、こちらも水切れのいいメッシュ素材だった。
色は、薄いベージュ。
「それも見るの?」
朱鷺子に聞かれ、バッグを手に取る。
「私も、こういうの持ってないから」
今まで銭湯へ行くときは、洗面用品を小さなポーチにまとめていた。
特に困ってはいなかったけれど、実物を見ると便利そうだった。
「買えばいいじゃん」
歩ちゃんがあっさり言う。
「父の日の買い物に来たのに?」
「自分のもの買っちゃいけない決まりないでしょ」
「それはそうだけど」
薄いベージュのバッグと、チャコールグレーのバッグを並べてみる。
お揃いではない。
色も形も少し違う。
それでも、二人でそれぞれのバッグを持って銭湯へ行く姿を想像した。
いつきさんは、きっといつもと同じ速さで歩く。
私は少しだけ足を速めて、その隣に並ぶ。
手元では、色の違う二つのバッグが揺れている。
「買う顔してる」
歩ちゃんの声で、我に返った。
「どんな顔?」
「二人で銭湯行くところ想像してる顔」
「してないよ」
「してたでしょ」
「してないって」
「和葉、顔に出やすいから」
朱鷺子まで静かに重ねる。
「……便利そうだから買うだけ」
「はいはい」
歩ちゃんは楽しそうに笑った。
「二人でスパバッグ持って銭湯かあ」
「だから、そういう言い方しないでよ」
「何で? そのままじゃん」
言い返せないまま、二つのバッグを持ってレジへ向かう。
父の日の贈り物には、簡単な包装をお願いした。
自分用のバッグは、そのまま別の袋に入れてもらう。
会計を終えて店を出ると、歩ちゃんが袋をのぞき込んだ。
「いい買い物したね」
「うん。ありがとう、二人とも」
「日曜、ちゃんと渡せそう?」
「大丈夫」
そう答えると、朱鷺子が少しだけ笑った。
「もう迷ってないみたいね」
「うん」
父親として見てほしいわけではない。
娘としてだけ扱われたいわけでもない。
それでも、今までしてくれたことには、ちゃんと感謝している。
その二つを、無理にどちらかへ寄せなくてもいい。
そう思えたら、日曜日に伝えたい言葉も、少しだけ見えてきた。
***
家に帰ると、いつきさんはまだ仕事中だった。
「ただいま」
「ああ、おかえり」
パソコンから目を離さずに返事が届く。
御子神さんが玄関までやってきて、買い物袋に鼻を近づけた。
「御子神さん、食べ物じゃないですよ」
「何買ってきたんだ」
「日用品です」
「そうか」
いつきさんは、それ以上聞かなかった。
こういうところは助かるけれど、少しだけ拍子抜けもする。
包装してもらった方のバッグは、いつきさんに見つからないよう、鞄の中に入れたまま自分のスペースへ運んだ。
鍵付きのタンスを開け、奥へしまう。
自分用のバッグも、その隣へ置いた。
二つ並んだバッグを見ていると、店で想像した光景がもう一度浮かんでくる。
日曜日に渡して、もしそのまま使ってくれたら。
私も新しいバッグを持って、一緒に銭湯へ行けるかもしれない。
期待しすぎるのはよくない。
いつきさんにも予定があるだろうし、渡した日に使うとも限らない。
それでも、少しくらい楽しみにしてもいいと思った。
タンスを閉める。
鍵を回す音の向こうから、いつきさんの声がした。
「和葉、そろそろ仕事終わる。夕飯どうする」
「今行きます」
返事をして、鍵をしまう。
父の日まで、あと二日。
今年は、ちゃんと今の私から、ありがとうを伝えられそうだった。




