2025年5月23日(金)②
カフェの看板は、思っていたより小さかった。
商店街の通りから少しだけ奥まったところに、木の扉と細い窓がある。
窓際の席には、文庫本を開いている女の人がひとり座っていた。
店内の灯りは、外より少しだけ暗い。
けれど、暗いというより落ち着いている感じだった。
「ここです」
「ああ」
いつきさんは中をちらりと見てから、扉の横にある小さな黒板を見る。
コーヒー。
紅茶。
ケーキ。
その下に、夕方からの軽食メニューも書かれていた。
「飯も食えそうだな」
「ご飯ですか」
「この時間から帰って作ると、少し遅くなる。軽く食べて帰った方が楽だろ」
言われて、スマホの時計を見る。
図書館で思ったより時間を使っていたらしい。
まだ夕飯には少し早い気もするけれど、家に帰ってから支度をすることを考えると、たしかに遅くなる。
「じゃあ、ここで夕飯ですか」
「そういうことになるな」
その言葉に、胸の中が少し弾んだ。
甘いものを食べるつもりだった。
でも、一緒に夕飯を食べるなら、それはもっとちゃんと外出らしい気がする。
「嬉しそうだな」
「嬉しいです。隠しても、たぶん分かるので」
「まあ、分かるな」
そう言われると、少し恥ずかしい。
でも、否定されなかったので、それでいいことにした。
いつきさんが扉を開ける。
中から、コーヒーの香りと、焼いたパンのような匂いがした。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
店員さんの声は、静かで柔らかかった。
店内には、他に数組のお客さんがいる。
新聞を読んでいる年配の男性。
窓際で文庫本を開いている女の人。
奥の席で小さな声で話している二人組。
急かされるような空気ではなかった。
「どこがいい」
「窓際、空いてます」
「じゃあ、そこにするか」
窓際の二人席に向かう。
向かい合って座ると、机の上には小さな花瓶が置かれていた。
白い小さな花が、一輪だけ入っている。
私は鞄を膝の横に置いた。
中には、図書館で借りた本が入っている。
それだけで、少し落ち着かない。
「喫茶店は、バイト先で慣れてるんじゃないのか」
メニューを開きながら、いつきさんが言った。
「違います。働くのと、座るのは違います」
「そういうものか」
「はい。バイト先だと、次に何をするか考えてしまうので。お水を出すとか、片づけるとか、誰かが困っていないかとか」
「今日は考えなくていい」
「はい。今日は、ただ座っていられます」
私は、机の上の花瓶を見る。
前にも似たようなことを言った気がする。
でも、今座ってみると、やっぱり違った。
お客さんとして席に座っている。
注文を聞かれる側にいる。
片づけることも、次のお客さんのことも、今は考えなくていい。
ただ、いつきさんと向かい合っている。
古本屋も、ボードゲームカフェも、あとから思えばデートだったのかもしれない。
でも、最初からそういうつもりで待ち合わせて、そういうつもりで席に座っているのは、今日が初めてだった。
いつきさんと、というだけではない。
私にとって、こういう時間そのものが初めてだった。
「こうして座っていると、少しだけそれっぽいですね」
「何がだ」
「放課後デート、みたいです」
言ってから、メニューに視線を落とした。
いつきさんはすぐには返事をしなかった。
少しだけ間があってから、低い声が返ってくる。
「それだと俺の格好が違う」
「いつきさんの格好ですか」
「相手も制服じゃないと、放課後デートというより保護者同伴だろ」
「保護者同伴」
「少なくとも、外からはそう見える」
「少し残念です」
「残念がるところじゃない」
分かっている。
今日の私は制服だ。
朝も、商店街でも、そのことでちゃんと線を引かれた。
でも、少しだけ残念に思うことまで、止めるのは難しい。
「でも、そう見えないことと、そう思っていることは、少し違うので」
言うと、いつきさんの手がメニューの端で止まった。
「そういうところで、急に逃げ道を塞ぐな」
「塞いでますか」
「少しな」
「すみません」
「謝るところでもない。お前の中でどう思ってるかまでは否定しない。ただ、外での振る舞いは別だ」
「それも分かってます。でも、私にとってはデートです」
「それは朝から聞いてる」
「何回言っても、変わらないので」
「そうか」
短い返事だった。
でも、そこに否定はなかった。
だから、今はそれで十分だった。
メニューを見る。
オムライス、ナポリタン、ピラフ、ミックスサンド。
ケーキと飲み物のセットもある。
「決まったか」
「オムライスにします。あと、ケーキも食べたいです」
「食べられるならいい。テスト明けだからって、勢いで頼むなよ」
「ご褒美なので、たぶん食べられます」
「その“たぶん”が怪しいんだが」
「でも、残したらもったいないので、ちゃんと考えます」
「ならいい」
結局、私はオムライスと紅茶、あと小さなケーキのセットにした。
いつきさんはナポリタンとコーヒー。
注文を終えると、少しだけ静かになる。
窓の外では、商店街を人が行き交っている。
自転車を押す人。
買い物袋を持った人。
制服姿の学生も何人か通り過ぎていく。
その中にいるときは、自分も同じような一人だった。
でも今は、窓の内側にいる。
向かいにはいつきさんがいて、机の下には借りた本の入った鞄がある。
それだけのことなのに、少し不思議だった。
「何を見てる」
「外です。外というか、こっち側にいることが、少し不思議で」
「こっち側?」
「お客さんの席です。いつもは、見る側というか、動く側なので」
「今日は座る側か」
「はい。いつきさんと」
言ってから、少しだけ顔が熱くなった。
いつきさんはそれ以上聞かなかった。
聞かれないことも、ありがたい時がある。
今はたぶん、そういう時だった。
しばらくして、料理が運ばれてくる。
私の前に置かれたオムライスは、黄色い卵の上にケチャップがかかっていた。
思っていたより大きい。
「多かったら、無理に全部食べなくていいからな」
「食べられると思います」
「ならいい。足りないよりはいいだろ」
そう言って、いつきさんは自分の前に置かれたナポリタンを見る。
「こういう喫茶店のナポリタン、久しぶりだな」
「好きなんですか」
「たまに食べたくなる。家で作るのとは、また違うからな」
「いつきさんでも、外で食べたいものってあるんですね」
「ある。俺を何だと思ってる」
「何でも作れる人です」
「だいぶ雑な評価だな」
いただきます、と小さく声を合わせる。
スプーンを入れると、卵の下からケチャップライスが見えた。
少し熱い。
けれど、ちゃんと美味しい。
「美味しいです。卵が柔らかいです」
「良かったな。家で作る時は、こういうのはあまりやらないからな」
「難しいんですか」
「難しいというより、面倒だ。朝や平日の夜にやるものじゃない」
「じゃあ、今度の休みの日なら?」
そう言うと、いつきさんは一瞬だけこちらを見る。
「そういう拾い方をするな」
「だめですか」
「だめとは言ってない。気が向いたらな」
それだけで、少し嬉しくなる。
外で食べているオムライスの話が、いつか家で作るかもしれない話につながる。
そういうところが、今日の外出らしい気がした。
いつきさんはナポリタンを一口食べて、少しだけ頷いた。
「こっちも普通にうまいな」
「普通に」
「褒めてる。喫茶店のナポリタンは、こういうのでいいんだよ」
「分かるような、分からないような」
「そのうち分かる」
「大人の味ですか」
「いや、ケチャップの味だ」
思わず笑ってしまう。
静かな店内なので、大きな声は出さない。
それでも、向かい合って食べているだけで、思っていたよりずっと楽しかった。
そうして食べているうちに、ふと思いついた。
これは、少しだけデートらしいかもしれない。
いや、もう私にとってはデートなのだけれど。
でも、もっと分かりやすい形というものがある気がした。
私はスプーンでオムライスを小さくすくう。
卵とライスを、こぼれないくらいの量だけ。
「いつきさん」
「ん」
「こうすれば、少しデートっぽいですよね」
そう言って、スプーンを少し持ち上げた。
いつきさんは一拍置いて、すぐに自分の皿をこちらへ少し寄せた。
「そこに置け」
「置くんですか」
「置く」
「食べさせるのは?」
「却下」
「理由は」
「制服」
「またですか」
「今日はだいたいそれだ」
朝から何度目だろう。
でも、言われる理由は分かっている。
分かっているからこそ、少しだけ別の言い方をしてみたくなった。
「じゃあ、家ならいいんですか」
「それはそれ、これはこれだ」
「ずるい言い方です」
「分かってて言ってる」
「逃げましたね」
「今はな」
その返事は、肯定ではなかった。
けれど、ただの否定にも聞こえなかった。
だから私は、それ以上は押さずに、スプーンの中身をいつきさんの皿の端に置いた。
それを見て、いつきさんは観念したようにフォークで取る。
「これならいいんですね」
「ぎりぎりな。人前で騒がない。距離を詰めすぎない。制服を忘れない」
「今日の基本方針ですね」
「分かってるならいい」
いつきさんはそう言って、オムライスを口に運んだ。
ほんの少しだけ、緊張する。
「どうですか」
「うまい」
「よかったです」
「お前が作ったわけじゃないだろ」
「でも、私が選びました」
「そういうことにしておくか」
それだけのことで、思ったより嬉しかった。
食べさせることはできなかった。
手もつないでいない。
でも、私が選んだものを、いつきさんが一口食べた。
たぶん今日は、それで十分だった。
***
食事を終えて、ケーキと紅茶が運ばれてきた。
小さなチーズケーキだった。
フォークで端を切ると、しっとりとしていて、口の中でゆっくりほどける。
テストが終わったあとに食べる甘いものは、いつもより少しだけ特別だった。
「それ、読むのか」
いつきさんが、私の鞄を見る。
鞄の口から、図書館で借りた本の端が少しだけ見えていた。
「読んでもいいですか」
「店が混んでないならな。長居しすぎない範囲で」
店内を見回す。
最初に見た文庫本の女の人は、まだ本を読んでいた。
新聞を読んでいた男の人も、ゆっくりコーヒーを飲んでいる。
急かされる感じはない。
「少しだけにします」
「それならいい」
私は鞄から本を取り出した。
図書館の透明なカバーがかかった表紙。
さっき自分で選んで、自分の名前で借りた本。
明るい絵の表紙を、指でそっとなぞる。
それから、ページを開いた。
喫茶店の中は、完全に静かではない。
カップを置く音。
店員さんの足音。
窓の外を通る自転車のベル。
それでも、不思議と文字は読みやすかった。
数ページだけ読む。
難しい言葉ばかりではない。
けれど、軽いだけでもない。
冒険の始まりらしい空気が、少しずつページの向こうから近づいてくる。
「どうだ」
いつきさんが聞いた。
「まだ少しだけです。でも、読みやすいです。ホビットとは全然違うんですけど」
「ああ」
「知らない場所に入っていく感じは、少し似ています。怖いより先に、何があるんだろうって思えるところが」
自分で言ってから、少し考える。
「今日の図書館も、少しそうでした」
「図書館が冒険か」
「笑いますか」
「いや」
いつきさんは、コーヒーのカップを置いた。
「そう思えるなら、いいんじゃないか。知らない場所に入って、何か持って帰ってきたなら、冒険みたいなものだろ」
その言い方が、少しだけ嬉しかった。
図書館で借りた本。
喫茶店で向かい合って食べた夕飯。
今日はつなげなかった手。
どれも、持って帰れるもののような気がした。
「なら、この本は合ってるのかもしれません」
「そうだな」
「ちゃんと読みます。ホビットも、一冊ずつ」
「いい判断だ」
「今日、二回目です」
「何がだ」
「いい判断」
「じゃあ、三回目はない」
「残念です」
「残念がるな」
私はまた少しページを読む。
いつきさんはスマホを触らなかった。
ただコーヒーを飲みながら、窓の外を見ている。
見守られている、というより、同じ席にいる。
それが、少し心地よかった。
働いているわけではない。
勉強しているわけでもない。
家事をしているわけでもない。
ただ、借りた本を少し読んでいる。
向かいには、いつきさんがいる。
それだけなのに、ちゃんと時間が満たされていく気がした。
「そろそろだな」
いつきさんが時計を見て言った。
「もうですか」
「今日は学校帰りだし、テスト明けだ。続きは家で読め」
「少しだけなら、たぶん続けてしまいます」
「自覚があるなら閉じろ」
「はい」
私はしおりを挟んで、本を閉じた。
まだ読みたい。
けれど、今日はここでやめる。
そう決めることも、少しだけ大事な気がした。
会計を済ませて店を出ると、外はもう夜に近づいていた。
商店街の灯りが、昼間よりはっきり見える。
「寒くないか」
「大丈夫です」
「帰るぞ」
「はい」
帰る。
その言葉が、すとんと胸に落ちた。
出かけた先から、二人で帰る。
それだけで、今日の予定がちゃんと終わりに向かっているのが分かった。
***
家の扉を開けると、御子神さんが玄関まで来ていた。
「ただいま帰りました」
「ああ。ただいま」
御子神さんは、まずいつきさんの足元を一周した。
それから私の鞄に鼻を近づける。
「本の匂いがしますか」
「それか、喫茶店の匂いだな」
「オムライスかもしれません」
「そっちの方が興味ありそうだ」
御子神さんは少しだけ鞄を嗅ぐと、すぐに興味をなくしたように部屋の奥へ歩いていった。
「審査、早いですね」
「本より飯の方が大事なんだろ」
「正直です」
「猫だからな」
靴を脱いで部屋に入る。
手を洗って戻ると、私は鞄から借りた本を取り出した。
こたつ机の上に、そっと置く。
部屋の本棚には、まだ読み終わっていないホビットがある。
その近くに、今日借りた本を置く。
買った本と、借りた本。
家にあった本と、今日自分で選んだ本。
並べてみると、少しだけ変な感じがした。
「今日はもう読むなよ」
いつきさんが言った。
「少しだけ、と言いたいですけど、眠くもあります」
「なら寝ろ。テスト明けで、学校もあって、外にも出たんだ。無理して読む日じゃない」
「はい」
「返事が素直だな」
「今日は、ちゃんと楽しんだので」
そう言うと、いつきさんは少しだけ目を伏せた。
「ならいい」
御子神さんが、こたつ机の下を通り抜けて、私の足元に頭を押しつけてきた。
指先でそっと撫でると、少しだけ喉が鳴る。
「今日、ちゃんとデートでしたか」
聞いてから、自分でも少しだけ息を止めた。
いつきさんは、すぐには答えなかった。
こたつ机の上に置いた本へ視線を落として、それから短く息を吐く。
「俺に聞くのか」
「はい。私の中ではデートでした。でも、いつきさんがどう思ったのかも、少し知りたいです」
「難しいことを聞くな」
「難しいですか」
「難しい。けど、普通の外出ではなかったな」
それは、思っていたよりもずっと大きな返事だった。
「それは、前進ですか」
「たぶんな。断言すると、お前が調子に乗る」
「乗りません」
「その顔で言うな」
私は自分の頬に触れる。
たぶん、笑っていた。
今日一日で、たくさんのことをした気がする。
待ち合わせをした。
手はつなげなかった。
図書館で本を借りた。
カフェで夕飯を食べた。
少しだけ、本も読んだ。
全部が思い通りになったわけではない。
でも、だめだったことも含めて、ちゃんと今日の中に残っている。
部屋の中は、いつも通りだった。
御子神さんがいて、いつきさんがいて、こたつ机がある。
その上に、今日借りた本が一冊置かれている。
家には、まだ読み終わっていないホビットがある。
今日、自分で選んだ本もある。
どちらも、ちゃんと帰る場所へ持って帰れる本だった。




