2025年5月23日(金)①
朝から、落ち着かなかった。
昨日、中間考査が終わった。
だから今日は、いつもより少し軽い気持ちで学校へ行けるはずだった。
なのに、制服のリボンを結ぶ指が、何度も同じところで止まる。
鏡の中の自分を見る。
いつもと同じ制服。
いつもと同じ鞄。
髪も、短めのお下げに結んだだけ。
何か特別な格好をしているわけではない。
それなのに、今日だけは少し違って見えた。
「遅れるぞ」
部屋の方から、いつきさんの声がした。
「はい、今行きます」
返事をして、鞄を持つ。
こたつ机の上には、昨日開いた手帳が置いてあった。
五月二十三日。
そこには、私が書いた字で「中央図書館」と「カフェ」が並んでいる。
まだ、それだけだ。
けれど、私にとっては、それだけではなかった。
台所へ行くと、いつきさんは朝食の皿を並べていた。
焼いた卵と、昨日の味噌汁。御子神さんは足元で朝ご飯を食べている。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
いつも通りの声だった。
そのいつも通りが、少しだけありがたかった。
朝食を終えて、皿を片づける。
御子神さんの水を替えていると、いつきさんが手帳に目を落とした。
「今日のことだが」
「はい」
「学校から一度帰ってくるか?」
聞かれて、少し迷う。
中央図書館は、家よりも学校から向かった方が近い。
昨日、地図を見ながらそう話した。
けれど、学校帰りにそのまま行くなら、私は制服のままだ。
「学校から直接でも、いいですか」
「その方が近いんだろ」
「はい」
「なら、無理に戻らなくていい」
それだけで、少し息がしやすくなる。
「じゃあ……商店街の入口で待ち合わせでもいいですか」
「待ち合わせか」
いつきさんが、そこで一度だけ言葉を止めた。
「はい」
「何時に終わる」
「今日は普通授業なので、三時半くらいには学校を出られると思います。でも、早く着きすぎるので、少し図書室で待ってから行きます」
「俺は四時半なら出られる」
「じゃあ、四時半に」
「場所は?」
「アーケードの入口の、時計の下で」
「分かった」
それだけのやり取りなのに、手帳に書いた予定が、急に近くなった気がした。
迎えに来てもらうのではなくて、待ち合わせる。
私が決めた場所に、いつきさんが来てくれる。
考えたら、また少し落ち着かなくなる。
「浮かれるなよ」
「……浮かれてません」
「間があったぞ」
「楽しみにしているだけです」
「それならいい」
否定されなかった。
それが嬉しくて、私は湯呑みを持つ手に少しだけ力を入れた。
***
授業中も、何度か時計を見てしまった。
昨日までなら、中間考査が終わった反動で、もっとぼんやりしていたと思う。
けれど今日は、ぼんやりする暇がなかった。
放課後、鞄を持って立ち上がると、歩ちゃんがすぐに寄ってきた。
「今日だよね」
「うん」
「顔が真面目」
「普通だよ」
「普通の顔でそわそわしてる」
そう言われて、返す言葉に詰まる。
朱鷺子は鞄を肩にかけながら、静かに言った。
「待ち合わせは?」
「四時半に、商店街の入口」
「今からだと少し早いね」
「うん。図書室で少し時間を置いてから行く」
「いいと思う」
朱鷺子が頷く。
「走って行ったりしないように」
「しないよ」
「浮かれて忘れ物もしないように」
「それも言われた」
「誰に?」
「いつきさん」
歩ちゃんが、そこで笑った。
「弓削さんと朱鷺子、たまに同じこと言うよね」
「心外」
朱鷺子が即答する。
「そこまで嫌そうにしなくても」
「嫌そうにしたわけじゃない。確認」
「それがもう朱鷺子」
二人のやり取りに、少しだけ肩の力が抜けた。
図書室で少しだけ時間をつぶしてから、三人で校門を出る。
歩ちゃんも朱鷺子も、途中まで同じ方向だった。
正確には、同じ方向ということにしてくれていたのだと思う。
「別に、ついてこなくても大丈夫だよ」
そう言うと、歩ちゃんは分かりやすく目をそらした。
「ついていくんじゃなくて、途中まで同じ方向なだけ」
「歩は完全に見届ける気だけどね」
「朱鷺子」
「事実だから」
商店街に近づくにつれて、人通りが増えていく。
学校帰りの生徒。
買い物袋を持った人。
自転車を押して歩く年配の人。
その中に、アーケードの入口が見えた。
時計の下に、見慣れた人影がある。
いつきさんだった。
いつも家で見る服とは違う、外に出るときの少し落ち着いた服装。
片手にはスマホを持っていて、こちらに気づくと画面をしまった。
「いた」
小さく言うと、歩ちゃんが私の肩を軽く押した。
「じゃ、ここからは一人で」
「うん」
「楽しんできなよ」
「……うん」
今度は、ちゃんと頷けた。
朱鷺子は少しだけ目を細める。
「浮かれすぎない。でも、楽しむ」
「難しいね」
「和葉ならできる」
そう言われると、少しだけ笑ってしまった。
二人に手を振って、私はアーケードの入口へ向かう。
近づくごとに、心臓が少しずつ忙しくなっていく。
でも、足は止まらなかった。
***
「お待たせしました」
「いや、今来たところだ」
いつきさんは、いつも通りの顔でそう言った。
「本当ですか」
「本当だ」
「待ち合わせみたいですね」
「待ち合わせだからな」
その返事が当たり前すぎて、少しだけ嬉しかった。
私は鞄の持ち手を握り直す。
それから、思い切って右手を出した。
いつきさんが、その手を見た。
「どうした」
「手を、出してください」
「何だ」
「つなぎます」
「決定事項なのか」
「デートなので」
言ってから、自分でも少しだけ顔が熱くなった。
でも、引っ込めなかった。
いつきさんは、私の差し出した手を見て、それから私の制服を見た。
「……そういう心持ちまで、否定するつもりはない」
「じゃあ」
「ただし」
「はい」
「制服姿の女子高生とおっさんが、商店街で手をつないで歩いていたら普通に事案だ」
「おっさんじゃないです」
「そこじゃない」
「そこも大事です」
「大事じゃない。今日は学校帰りだ。遅くならない、近づきすぎない、周りに誤解されることはしない」
「誤解じゃなかったら?」
「そういう拾い方をするな」
「……はい」
「返事だけはいいな」
「ちゃんと聞いてます」
少しだけ残念だった。
でも、いつきさんが私の気持ちを否定しているわけではないことは分かった。
否定しているのは、制服のまま、外で距離を間違えること。
それはたぶん、私を遠ざけたいからではない。
私が困らないように、先に線を引いてくれている。
「じゃあ、今日は控えめにします」
「そうしてくれ」
「でも、楽しみにするのは控えません」
「そこまでは止めない」
「はい」
手はつながなかった。
その代わり、私はいつきさんの半歩隣を歩いた。
近づきすぎないように。
でも、離れすぎないように。
それだけでも、待ち合わせをして、一緒に歩いているのだと思うと少し特別だった。
商店街を抜けると、道の先に中央図書館の建物が見えてきた。
「ここ、学校から近いのに、ちゃんと来たことはありませんでした」
「近い場所ほど、用がないと来ないことはある」
「今日は、少し不思議です」
「何がだ」
「いつきさんの行きつけでも、私の学校でもない場所に、二人で向かっているところが」
そう言うと、いつきさんは少しだけ歩幅を緩めた。
「……そういう場所にしたかったんだったな」
「はい」
「なら、ちゃんと見ていくか」
「はい」
***
自動ドアが開くと、外の音が少し遠くなった。
紙の匂いと、空調の低い音。
人はそれなりにいるのに、声は少ない。
図書館は、学校の図書室とも、いつきさんの本棚とも違う場所だった。
広くて、静かで、知らない本がたくさんある。
「静かですね」
「図書館だからな」
「分かってます」
「ならいい」
いつきさんの声も、いつもより少し低かった。
私は案内板を見る。
一般書。
文庫。
児童書。
ティーンズ。
視聴覚資料。
どこから見ればいいのか、少し迷う。
「どこから見る?」
「いつきさんが決めるんですか」
「お前が誘ったんだろ」
「あ……はい」
「なら、お前が見たいところからでいい」
そう言われて、私は案内板をもう一度見た。
「ホビットが、思っていたより楽しくて」
「ああ」
「まだ途中なんですけど、次に読む本も少し見てみたいです」
「気が早いな」
「一冊だけにします」
「まだ何も言ってない」
「言われそうだったので」
いつきさんは小さく息を吐いた。
呆れたようにも、笑ったようにも見えた。
「ホビットは児童文学寄りだからな。いきなり重い方へ行くより、入口が広い棚を見るのもありだ」
「入口が広い」
「ああ。子どもしか読んじゃいけないという意味じゃない。読み始める入口が広い、というだけだ」
「じゃあ、軽めのファンタジーを見てみたいです」
「なら、ティーンズの棚だな」
ティーンズ。
少しだけ、ほっとした。
児童書の棚に行くことが嫌だったわけではない。
ただ、自分がどこに立てばいいのか分からなかった。
でも、ティーンズという言葉は、今の私でも入っていい場所のように思えた。
棚の前に立つと、背表紙には聞いたことのないタイトルがたくさん並んでいた。
海外のもの。
日本のもの。
厚い本。
薄い本。
古そうなものも、新しそうなものもある。
その中で、ひとつの背表紙に目が止まった。
「ロードス島戦記……」
声に出すと、いつきさんが少しだけこちらを見る。
「それも昔読んだな」
「これも、ファンタジーですか」
「ああ。日本のファンタジー小説の、古い名作寄りだ」
「古い名作」
「指輪物語みたいな海外ファンタジーや、テーブルトークRPGの流れを受けて、日本で書かれた作品だな」
「てーぶる……?」
「説明すると長い」
「長いんですか」
「長い。今日はやめておく」
「気になります」
「気になるだけなら、また今度でいい」
そう言われると、余計に気になった。
けれど、背表紙から漂う雰囲気は、少しだけ難しそうにも見える。
「今の私には、少し早いですか」
「早いとは言わない。けど、今日はもう少し入り口がやわらかいものでもいいと思う」
いつきさんはそう言って、少し隣の棚へ視線を移した。
そのあたりには、さっきより薄めの本がいくつか並んでいた。
背表紙の文字も、表紙の絵も、少しだけ明るい。
私はその中から、冒険者らしい人たちが描かれた一冊を手に取った。
「これは、どうですか」
「見せてみろ」
いつきさんは表紙と背表紙を見て、小さく頷いた。
「フォーチュン・クエストか」
「知ってるんですか」
「ああ。こっちは入りやすいと思う」
「ロードス島とは違うんですか」
「違う。どっちも大事に読まれてきた作品だけど、こっちはもう少し肩の力を抜いて読める冒険ものだな」
「肩の力を抜いて」
「重厚な話だけがファンタジーじゃない、という感じだ」
私は表紙をもう一度見る。
ホビットとは違う。
さっき見たロードス島とも、たぶん違う。
でも、遠すぎる場所ではない気がした。
「じゃあ、今日はこれにします」
「ホビットはまだ途中だろ」
「はい。なので、一冊だけにします」
「いい判断だ」
褒められたわけではないのに、少し嬉しかった。
図書館のカードは、受付で確認してもらうと作れることになった。
申込用紙に自分の名前を書いて、住所を書いて、必要な確認を済ませる。
自分の名前で、この街の図書館から本を借りる。
それは、思っていたよりも不思議なことだった。
借りた本を受け取ったとき、手の中に小さな重さが残る。
買った本ではない。
期限が来たら返す本。
それでも、今だけは確かに私の手元にある。
「借りられたか」
「はい」
「じゃあ、あとはカフェか」
「その前に、少しだけ見てもいいですか」
「何を」
「DVDの棚です。映画もあるって、書いてありました」
「ああ、視聴覚資料か」
二人で棚へ向かう。
映画のDVDが並んだ棚には、古い洋画や邦画、アニメ、ドキュメンタリーがぎっしり入っていた。
背表紙を追っていると、見覚えのある文字が目に入る。
ロード・オブ・ザ・リング。
「これが、指輪物語の映画ですか」
「ああ」
本としての指輪物語は、まだ遠い場所にある気がしていた。
けれど映画の棚に並んでいると、少しだけ近く見える。
「借りて、家で一緒に見るのもデートっぽいですね」
そう言うと、いつきさんは少しだけ真顔になった。
「指輪物語を甘く見るな」
「そんなにですか」
「三本で九時間を超える。完全版なら十一時間半近い」
「……え?」
「昔、リバイバル上映で三部作のオールナイトに行ったことがある」
「全部ですか?」
「ああ」
「楽しかったですか」
「楽しかった」
「じゃあ」
「ただし、終わった頃には朝だった。腰と首と目が死んだ」
「死んだんですか」
「比喩だ」
想像して、少しだけ笑ってしまう。
一晩中、映画館で映画を見る。
いつきさんにも、そんな時間があったのだと思うと、不思議だった。
「でも、一晩中一緒に映画を見るのは、少しデートっぽいです」
「そこを拾うな」
「大事なところなので」
「大事なのは、途中で寝ない体力だ」
「それも大事です」
「今日は借りないぞ」
「はい。ホビットを読み終わってからにします」
「それでいい」
少し残念だったけれど、納得もしていた。
今日は本を一冊借りた。
それだけで十分だと思う。
けれど、DVDの棚には、また来る理由が残った。
***
図書館を出ると、外の空気は夕方の色に変わり始めていた。
入る前よりも、商店街の人通りは少し増えている。
学校帰りの生徒や、買い物袋を提げた人たちが、アーケードの下をゆっくり流れていく。
揚げ物の匂い。
どこかの店から聞こえる呼び込みの声。
自転車のベル。
図書館の中が静かだったせいか、そういう音が少しだけ大きく感じた。
「カフェ、行くか」
いつきさんが言った。
「はい」
返事をしてから、私は鞄の持ち手を少し握り直した。
中には、借りた本が一冊入っている。
自分で選んで、自分の名前で借りた本。
手はつながなかった。
でも、隣を歩く距離は、来たときより少しだけ分かるようになっていた。
近づきすぎない。
離れすぎない。
それでも、一緒に次の場所へ向かっている。
そのことが、思っていたよりずっと嬉しかった。
アーケードの先に、昨日調べたカフェの看板が見えた。
小さな店だった。
窓際の席に、文庫本を開いている人がいる。
「……入れそうです」
「混んではなさそうだな」
「はい」
私は、借りた本の重みを鞄越しに感じながら、小さく息を吸った。
今日の予定は、まだ終わっていない。
そう思うだけで、足元が少し軽くなった。




