ベルテイン前編 火と丘
丘へ上がる前から、音が聞こえていた。
乾いたリズムが、風に乗ってほどける。
スプーンズの軽い打音。足踏み。笑い声。
その下で、ボウランの低い音が転がる。
短いバチで刻む、丸い響き。
まだ見えないのに、そこに人がいるとわかる音だった。
学校でも、この数日はその話ばかりだった。
掲示板の前で立ち止まる生徒が増えて、昼休みには誰かが「今年は本当にやるらしい」と言い、別の誰かが「牛も来るんだって」と言っていた。
先生まで、授業の終わりに少しだけ笑って「夜更かししすぎないように」と言った。
みんな、待っていたのだと思う。
春がここまで来て、やっと丘に火が灯る。
それを確かめるみたいに、今日は足取りまで少し浮いていた。
草は柔らかい。昼のあたたかさが、まだ地面に残っている。踏むと沈む。少し遅れて戻る。
土の匂いがする。湿りが抜けきっていない春の匂い。その上に、煙の匂いが重なっている。
「もう始まってるね」
メイヴは少しだけ歩くのを速める。
追い越すほどじゃない。でも、待てない感じだった。
「ほんとにやるんだね」
誰に言うでもなく、そう言う。
返事はいらない言い方だった。
エルマも少しだけ歩幅を合わせる。
気づかないうちに、足が前に出る。
メイヴが先に言う。
「早い」
フィンは短く返す。歩調は変えない。
変えないまま、少しだけ前を見る。
*
丘の上に、火が見えた。
近づくほど、音がはっきりする。
叩くリズムに、足音が重なる。誰かが手を叩く。笑い声が跳ねる。
風に乗って、焼けたパンの匂いが流れてくる。
「いい匂い」
メイヴが先に言う。
「絶対焼きすぎてるやつある」
「それがうまいんだよ」
誰かが後ろで笑う。知らない声なのに、会話は混ざる。
二つの火が、間を空けて向かい合うように焚かれている。
まだ明るいのに、火ははっきりしていた。
「ちゃんとやるんだ」
「去年までこんなのなかったのにね」
メイヴは火を見ながら言う。
「今年だけって感じしない」
ニアムが小さく続ける。
「待たせてたもの、やっとやる感じ」
その言い方に、エルマは少しだけ笑う。
たしかに、そんなふうだった。
春になってからずっと、丘の上には何かが足りない気がしていた。火が入れば、それが埋まるような気がする。
理由はわからない。
でも、こうしてみんなが同じ方を向いているのは、なんだかいいと思った。
メイヴが笑う。
「昔の形」
フィンが言う。
「火のあいだ、通すやつ?」
「そう」
短い返事。それ以上は言わない。
人が多い。見慣れた顔も多かった。
上級生が火のそばでふざけていて、下級生がその少し後ろで様子を見ている。寄宿舎の子たちも来ていたし、通学生の家族連れも混ざっている。
少し離れたところには先生たちの姿もあった。普段より肩の力が抜けていて、けれど完全には気を抜いていない顔。
ミセス・ブラウンまで来ていて、誰かの持った紙皿を受け取るでもなく眺めていた。
学校が、そのまま丘に流れ込んできたみたいだった。
「ほんとに村も来てる」
メイヴが少し背伸びして見る。
「遠いとこも混ざってるね」
ニアムが静かに言う。
「この規模は珍しい」
フィンが短く言う。
「いいじゃん、にぎやかで」
メイヴは笑う。
ローワンは何も言わないが、人の流れだけは見ている。
町の顔と、知らない顔が混ざっている。声の高さも、言葉の調子も、少しずつ違う。
距離のある場所同士が、無理なく同じ輪に入っている。祭りのときだけできる混ざり方だった。
火の近くでは、パンが焼かれている。
「ほら、持ってけ」
知らない大人がパンを差し出す。少し焦げている。
メイヴが先に受け取る。
「ありがとう!」
そのまま一口かじる。
「熱っ」
言いながら笑う。エルマも受け取る。
指先に残る温度が、少し長い。
少し焦げた匂い。甘さと油が混ざる。
誰かが笑いながら、焼きすぎた端をちぎる。隣に渡す。受け取ったほうも笑う。そのやり取りが、あちこちで起きている。
*
誰かが笛を外し、別の誰かが笑いながら代わりに鳴らす。うまくいかなくて、周りが囃す。
火の向こうでは、小さな輪ができていて、拍子に合わせて子どもたちが飛び跳ねていた。
ぎこちないのに、みんな楽しそうだった。 久しぶりだから、たぶん少し下手なのだ。それでも構わないという空気がある。
今夜ここに火があること自体が、もう嬉しいのだとわかる。
誰も急いでいない。やることは決まっているのに、順番は気にしていない。
ここにいれば、そのうち全部回ってくる。そんな安心があった。
だから、笑い声も長く続く。
子どもが火に近づいて、一歩引いた。熱に驚いたのか、それとも別の何かか。
「ほら、大丈夫だって」
大人が背中を押す。笑いながら。
けれど、その手は少し強い。押された子どもは、火を見ない。
その向こうを見る。すぐに視線を戻す。見なかったことにする動きだった。
リズムに合わせて、足が動く。意識していないのに、少しだけ揃う。
誰かが肩で拍子を取る。隣の動きが伝わる。そのまま、輪の中に引き込まれる。
スプーンズの音が速くなる。
低い太鼓の音だけは、少し遅れてついてくる。速くなっているはずなのに、どこか噛み合わない。
手拍子と足踏みが、ほんのわずかにずれている。揃っているのに、揃いきらない。音が重なりすぎて、ひとつにまとまらない。
足踏みが揃う。笑い声が、少しだけ弾む。
メイヴが手を引く。
「ほら、あっちもっと人いる」
「ちょっと待って」
言いながら、エルマはついていく。
人の間を抜ける。ぶつかりそうになって、避ける。それも楽しい。
*
エルマは火を見る。
明るい。普通の火だ。
ただ、煙の上がり方だけが、少し重い気がした。
火のそばは暖かい。人の声も近い。
ここにいれば大丈夫だと、理由もなく思う。
誰もそう言わないのに、そういう空気がある。
「牛、来るよ」
誰かが言う。
綱を引かれて、牛が連れてこられる。
大きい。ゆっくりしている。そのはずなのに、足取りが揃わない。
火の前で、牛が止まる。綱が張る。
人が少しだけ力を入れる。牛は前に出ない。
踏み出しかけて、足を引く。横へずれる。 火から距離を取るみたいに。
鼻先が上がる。空気を嗅ぐ。
風を探すみたいに、何もない場所を見る。耳が、別々の方向を向く。
目だけが、火ではない何かを追っている。
「ほら」
男が笑う。
「大丈夫、大丈夫」
軽い声だった。
けれど、綱を持つ手は少し強い。
「火の前はこうなることもある」
別の声が重なる。
「こういう日だし」
誰も深くは言わない。
言わなくていいこととして扱っている。
「昔もあったよ」
誰かが言う。
「こういうの」
説明にはならない。それでも、十分だった。
牛は、もう一度だけ同じ場所を見る。その視線の先には、何もない。
火でも、人でもない。それでも、そこから目を離さない。
見てはいけないものを見るみたいに、ゆっくりと逸らす。何かを確かめるみたいに。
それから、ようやく一歩出る。火のあいだを通る。
炎が揺れる。煙が、少しだけ重くなる。
何も起きない。ただ、通り過ぎる。
拍手が起きる。笑い声が戻る。
次は人だ、と誰かが言う。
「ほら、エルマも行く?」
メイヴが振り向く。
「あとでいい」
エルマは答える。
急ぐ必要はない。火は逃げない。音も止まらない。
*
そのとき。木の上に、黒がいた。
カラス。
一羽じゃない。
枝の間に、間を詰めるように並んでいる。
「……多くない?」
メイヴが言う。
「こういう日だし」
近くの大人が笑う。
「火の日は集まるって言うだろ」
「なにが?」
「さあな」
答えになっていない。
けれど、それで話は終わる。
エルマは見上げる。
カラスは鳴かない。
同じ方向を見ている。丘の中央。立石のあたり。
羽も動かさない。ただ、見ている。
誰かを見ているわけじゃない。場所でもない。
そこに来るもの、を見ているみたいだった。
ニアムが、喉元に手を当てる。
小さく息を吸う。音にならない。
フィンは視線を上げない。けれど、見ている。
ローワンは足を止めたまま、少しだけ体重をずらす。線を確かめるみたいに。
メイヴは笑っている。笑っているまま、少しだけ距離を取る。
エルマは、その全部を見る。何が違うのかは、わからない。ただ。少しだけ、近いと思った。音が少しだけ、重なりすぎている気がした。
スプーンズが鳴る。足踏みが揃う。
笑い声が続く。祭りは、普通に続いている。
それなのに。
木の上の黒だけが、ずっと同じ方を見ていた。
※ベルテイン(Beltane):春の終わりと夏のはじまりを告げる、ケルトの火の祭り。
火が灯る夜には、ひとと自然、こちら側とあちら側の境目が少しだけ近づくとされています。




