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モーンの森事件録━━ケルトの森で  作者: 宮生さん太


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ベルテイン前編 火と丘

 丘へ上がる前から、音が聞こえていた。


 乾いたリズムが、風に乗ってほどける。

 スプーンズの軽い打音。足踏み。笑い声。


 その下で、ボウランの低い音が転がる。

 短いバチで刻む、丸い響き。


 まだ見えないのに、そこに人がいるとわかる音だった。


 学校でも、この数日はその話ばかりだった。


 掲示板の前で立ち止まる生徒が増えて、昼休みには誰かが「今年は本当にやるらしい」と言い、別の誰かが「牛も来るんだって」と言っていた。

 先生まで、授業の終わりに少しだけ笑って「夜更かししすぎないように」と言った。


 みんな、待っていたのだと思う。


 春がここまで来て、やっと丘に火が灯る。


 それを確かめるみたいに、今日は足取りまで少し浮いていた。


 草は柔らかい。昼のあたたかさが、まだ地面に残っている。踏むと沈む。少し遅れて戻る。

 土の匂いがする。湿りが抜けきっていない春の匂い。その上に、煙の匂いが重なっている。


「もう始まってるね」


 メイヴは少しだけ歩くのを速める。

 追い越すほどじゃない。でも、待てない感じだった。


「ほんとにやるんだね」


 誰に言うでもなく、そう言う。

 返事はいらない言い方だった。


 エルマも少しだけ歩幅を合わせる。

 気づかないうちに、足が前に出る。


 メイヴが先に言う。


「早い」


 フィンは短く返す。歩調は変えない。

 変えないまま、少しだけ前を見る。



 丘の上に、火が見えた。

 近づくほど、音がはっきりする。


 叩くリズムに、足音が重なる。誰かが手を叩く。笑い声が跳ねる。

 風に乗って、焼けたパンの匂いが流れてくる。


「いい匂い」


 メイヴが先に言う。


「絶対焼きすぎてるやつある」


「それがうまいんだよ」


 誰かが後ろで笑う。知らない声なのに、会話は混ざる。


 二つの火が、間を空けて向かい合うように焚かれている。

 まだ明るいのに、火ははっきりしていた。


「ちゃんとやるんだ」


「去年までこんなのなかったのにね」


 メイヴは火を見ながら言う。


「今年だけって感じしない」


 ニアムが小さく続ける。


「待たせてたもの、やっとやる感じ」


 その言い方に、エルマは少しだけ笑う。


 たしかに、そんなふうだった。

 春になってからずっと、丘の上には何かが足りない気がしていた。火が入れば、それが埋まるような気がする。


 理由はわからない。

 でも、こうしてみんなが同じ方を向いているのは、なんだかいいと思った。


 メイヴが笑う。


「昔の形」


 フィンが言う。


「火のあいだ、通すやつ?」


「そう」


 短い返事。それ以上は言わない。


 人が多い。見慣れた顔も多かった。

 上級生が火のそばでふざけていて、下級生がその少し後ろで様子を見ている。寄宿舎の子たちも来ていたし、通学生の家族連れも混ざっている。


 少し離れたところには先生たちの姿もあった。普段より肩の力が抜けていて、けれど完全には気を抜いていない顔。

 ミセス・ブラウンまで来ていて、誰かの持った紙皿を受け取るでもなく眺めていた。


 学校が、そのまま丘に流れ込んできたみたいだった。


「ほんとに村も来てる」


 メイヴが少し背伸びして見る。


「遠いとこも混ざってるね」


 ニアムが静かに言う。


「この規模は珍しい」


 フィンが短く言う。


「いいじゃん、にぎやかで」


 メイヴは笑う。

 ローワンは何も言わないが、人の流れだけは見ている。


 町の顔と、知らない顔が混ざっている。声の高さも、言葉の調子も、少しずつ違う。

 距離のある場所同士が、無理なく同じ輪に入っている。祭りのときだけできる混ざり方だった。


 火の近くでは、パンが焼かれている。


「ほら、持ってけ」


 知らない大人がパンを差し出す。少し焦げている。

 メイヴが先に受け取る。


「ありがとう!」


 そのまま一口かじる。


「熱っ」


 言いながら笑う。エルマも受け取る。

 指先に残る温度が、少し長い。


 少し焦げた匂い。甘さと油が混ざる。

 誰かが笑いながら、焼きすぎた端をちぎる。隣に渡す。受け取ったほうも笑う。そのやり取りが、あちこちで起きている。



 誰かが笛を外し、別の誰かが笑いながら代わりに鳴らす。うまくいかなくて、周りが囃す。

 火の向こうでは、小さな輪ができていて、拍子に合わせて子どもたちが飛び跳ねていた。


 ぎこちないのに、みんな楽しそうだった。 久しぶりだから、たぶん少し下手なのだ。それでも構わないという空気がある。


 今夜ここに火があること自体が、もう嬉しいのだとわかる。

 誰も急いでいない。やることは決まっているのに、順番は気にしていない。


 ここにいれば、そのうち全部回ってくる。そんな安心があった。

 だから、笑い声も長く続く。


 子どもが火に近づいて、一歩引いた。熱に驚いたのか、それとも別の何かか。


「ほら、大丈夫だって」


 大人が背中を押す。笑いながら。

 けれど、その手は少し強い。押された子どもは、火を見ない。

 その向こうを見る。すぐに視線を戻す。見なかったことにする動きだった。


 リズムに合わせて、足が動く。意識していないのに、少しだけ揃う。

 誰かが肩で拍子を取る。隣の動きが伝わる。そのまま、輪の中に引き込まれる。


 スプーンズの音が速くなる。

 低い太鼓の音だけは、少し遅れてついてくる。速くなっているはずなのに、どこか噛み合わない。

 手拍子と足踏みが、ほんのわずかにずれている。揃っているのに、揃いきらない。音が重なりすぎて、ひとつにまとまらない。


 足踏みが揃う。笑い声が、少しだけ弾む。


 メイヴが手を引く。


「ほら、あっちもっと人いる」


「ちょっと待って」


 言いながら、エルマはついていく。

 人の間を抜ける。ぶつかりそうになって、避ける。それも楽しい。



 エルマは火を見る。

 明るい。普通の火だ。

 ただ、煙の上がり方だけが、少し重い気がした。


 火のそばは暖かい。人の声も近い。

 ここにいれば大丈夫だと、理由もなく思う。

 誰もそう言わないのに、そういう空気がある。


「牛、来るよ」


 誰かが言う。

 綱を引かれて、牛が連れてこられる。

 大きい。ゆっくりしている。そのはずなのに、足取りが揃わない。


 火の前で、牛が止まる。綱が張る。

 人が少しだけ力を入れる。牛は前に出ない。


 踏み出しかけて、足を引く。横へずれる。 火から距離を取るみたいに。

 鼻先が上がる。空気を嗅ぐ。


 風を探すみたいに、何もない場所を見る。耳が、別々の方向を向く。

 目だけが、火ではない何かを追っている。


「ほら」


 男が笑う。


「大丈夫、大丈夫」


 軽い声だった。

 けれど、綱を持つ手は少し強い。


「火の前はこうなることもある」


 別の声が重なる。


「こういう日だし」


 誰も深くは言わない。

 言わなくていいこととして扱っている。


「昔もあったよ」


 誰かが言う。


「こういうの」


 説明にはならない。それでも、十分だった。

 牛は、もう一度だけ同じ場所を見る。その視線の先には、何もない。


 火でも、人でもない。それでも、そこから目を離さない。

 見てはいけないものを見るみたいに、ゆっくりと逸らす。何かを確かめるみたいに。


 それから、ようやく一歩出る。火のあいだを通る。

 炎が揺れる。煙が、少しだけ重くなる。


 何も起きない。ただ、通り過ぎる。

 拍手が起きる。笑い声が戻る。


 次は人だ、と誰かが言う。


「ほら、エルマも行く?」


 メイヴが振り向く。


「あとでいい」


 エルマは答える。

 急ぐ必要はない。火は逃げない。音も止まらない。



 そのとき。木の上に、黒がいた。


 カラス。

 一羽じゃない。

 枝の間に、間を詰めるように並んでいる。


「……多くない?」


 メイヴが言う。


「こういう日だし」


 近くの大人が笑う。


「火の日は集まるって言うだろ」


「なにが?」


「さあな」


 答えになっていない。

 けれど、それで話は終わる。


 エルマは見上げる。


 カラスは鳴かない。

 同じ方向を見ている。丘の中央。立石のあたり。

 羽も動かさない。ただ、見ている。

 誰かを見ているわけじゃない。場所でもない。


 そこに来るもの、を見ているみたいだった。


 ニアムが、喉元に手を当てる。

 小さく息を吸う。音にならない。

 フィンは視線を上げない。けれど、見ている。

 ローワンは足を止めたまま、少しだけ体重をずらす。線を確かめるみたいに。

 メイヴは笑っている。笑っているまま、少しだけ距離を取る。

 

 エルマは、その全部を見る。何が違うのかは、わからない。ただ。少しだけ、近いと思った。音が少しだけ、重なりすぎている気がした。


 スプーンズが鳴る。足踏みが揃う。

 笑い声が続く。祭りは、普通に続いている。


 それなのに。

 木の上の黒だけが、ずっと同じ方を見ていた。


※ベルテイン(Beltane):春の終わりと夏のはじまりを告げる、ケルトの火の祭り。

火が灯る夜には、ひとと自然、こちら側とあちら側の境目が少しだけ近づくとされています。


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