ベルテイン後編 影と女
火は、まだ生きていた。
日が落ちきる前の、いちばん色の濃い時間。空は青のまま深くなり、煙だけが先に夜へ溶けていく。
音は続いている。
火の匂いが濃い。
乾いた薪の焦げる匂いと、獣の体温が混ざる。人の熱が近い。肩が触れる。腕が当たる。誰かの笑いが耳元で弾ける。
焼いたパンの甘さと、少し焦げた脂の匂いが、煙に乗って流れてくる。
スプーンズの音が跳ねる。軽いのに、どこか急かすような速さだった。
その下で、低い太鼓の音が続いている。
地面の奥から響くみたいに。
足踏みが揃う。土が沈む。夜に向かう前の時間が、少しだけ速くなる。
スプーンズの乾いたリズム。フィドルの跳ねる音。足踏み。笑い声。
どれもさっきと同じはずなのに、どこか輪郭がずれている。
近い音と遠い音が、同じ場所に重なっている。
火の向こうで、子どもが一歩引いた。
熱に驚いたのか、それとも別の何かか。
「ほら、大丈夫だって」
大人が背中を押す。笑いながら。
けれど、その手は少し強い。
押された子どもは、火の明るさを見ない。
その向こうを見る。すぐに視線を戻す。見なかったことにする動きだった。
火のあいだに、人が集まっていた。
「ほら、行くよ」
誰かが牛の綱を引く。火の前で、牛が止まる。綱が張る。
牛は前に出ない。踏み出しかけて、足を引く。横へずれる。火から距離を取るみたいに。
鼻先が上がる。空気を嗅ぐ。風を探すみたいに、何もない場所を見る。
耳が別々の方向を向く。目だけが、火ではない何かを追っている。
人の声には従うのに、空気には逆らう。ほんの一歩分だけ、横へずれる。
押される。引かれる。それでも、まっすぐ進まない。
鼻先が上がる。風を探すみたいに。耳が、別々の方向を向く。
「大丈夫、大丈夫」
笑っている。けれど、視線だけは外さない。
火と、その向こう。何もないはずの場所を、何度も見る。
知っている顔だった。理由を言わない顔。説明しないで済ませる顔。
そういう日だから、と決めている顔だった。
*
男が笑う。
「火の前はこうなることもある」
軽い声だった。けれど、その手は綱を強く握っている。
「昔もあったよ」
別の声が言う。
「こういうの」
説明にはならない言葉。それで十分だという顔。誰も詳しくは言わない。けれど、知らない顔でもない。
昔からそうだった、という顔。理由よりも先に、順番を知っている顔だった。
こういう日は、こうする。そうしていれば、大丈夫だと決めている。
蹄が止まる。土を押す。滑る。踏み直す。
それでも前に出ない。綱がさらに強く引かれる。
牛は首を振る。拒む動きじゃない。ただ、そこに進めないだけだ。
空気の厚みを確かめるみたいに、何度も同じ場所を見る。
人が先に疲れる。牛は、まだ見ている。
牛は、ようやく火のあいだへ入る。炎が揺れる。
その瞬間、煙が少しだけ重くなる。
何も起きない。ただ、通り過ぎる。
それだけのことなのに、周りの空気が一段落ちる。
拍手が起きる。笑い声が戻る。
次は人だ、と誰かが言う。
「ほら、エルマも行く?」
メイヴが軽く言う。
「あとでいい」
エルマは答える。
急ぐ必要はない。火は逃げない。音は、止まらない。
*
カラスが増えていた。
最初は、木の上だけだった。
気づけば、柵にもいる。
石にも、地面にもいる。
黒が増える。
数じゃない。
密度が変わる。
隙間が埋まっていくみたいに、同じ方向を向いている。
鳴かない。ただ、揃っている。数えていないのに、多いとわかる。
目に入る黒が、増えすぎている。視線の外側にも、いる気がする。
振り向けば、そこにもいる。視線を戻せば、最初からいたみたいに動かない。
増えているのか、最初からいたのか、わからなくなる。
さっきまで木の上だけだったのに、今は柵にも、石にも、地面にもいる。
黒が、点じゃなくなる。並んでいる。同じ方向を見ている。
丘の中央。立石のあたり。
鳴かない。羽も動かさない。ただ、見ている。
「……多くない?」
メイヴが言う。
「こういう日だし」
近くの大人が笑う。
「昔から言うだろ、火の日は集まるって」
「なにが?」
「さあな」
答えになっていない。けれど、それで話は終わる。
「この丘、昔から使ってたんだって」
別の声が重なる。
「間違えると、向こうが近くなるって話もあるけど」
笑いが混じる。
「だから音止めるなって言うんだよ」
*
誰かがスプーンズを強く打つ。
リズムが少し速くなる。止めないための音。押し返すための音。
ニアムが息を吸う。喉が開く。けれど、音にならない。ハミングが出ない。
フィンが、動かない。視線が、立石から外れない。
ローワンの足が地面を押す。一歩出そうとして、止まる。踏み込めない。境界が、そこにある。
メイヴが、無言で二人の後ろに寄る。笑っていない。
エルマのまわりに、空間ができる。
フィンは視線を動かさない。
ローワンは一歩が出ない。
ニアムは音を失っている。
メイヴは笑えない。
エルマは、ただ立っている。
何が違うのかは、わからない。
けれど、同じ場所に立っている感じがしない。
空気の重さが、少しだけ違う。
それだけは、わかる。
フィンは、それ以上見ないようにしている。
ローワンは、線を越えないようにしている。
ニアムは、音を戻そうとしている。
メイヴは、空気を壊さないようにしている。
エルマは、何もしていない。
それが、いちばん違っていた。
守っているわけじゃない。
触れられないだけだ。
スプーンズの音が速くなる。
笑いが大きくなる。火が強くなる。
誰も止めない。止めないために、続けている。
音が、重なる。重なりすぎて、輪郭が崩れる。
足踏みが揃いすぎる。手拍子が重なりすぎる。
音が、きれいすぎる。
誰も崩さない。崩さないために、続けている。
続けすぎて、形が歪む。
音が、落ちた。
低い太鼓の音だけが、少し遅れて残る。
消えたわけじゃない。
叩くリズムも、笑い声も続いている。
ただ、遠い。
耳の外側で鳴っている。
火の揺れだけが、遅れる。
太鼓の音が、ひとつ遅れる。
煙が、上に上がらない。
一瞬だけ、横に流れる。
風の向きと違う方向へ。
火が、遅れる。
一拍だけ、揺れがずれる。
立石の向こうに、影がある。
最初は、影だった。
輪郭が定まらない。煙みたいに揺れている。
けれど、そこにあるものは、まったく動かない。
*
カラスが、一羽、石の上に降りた。
鳴かない。
見ている。
影が、整う。
女だった。
黒が、黒のまま立っている。
火の色も、煙も、何も乗らない。
顔ははっきりしない。
けれど、視線だけがある。
エルマは、それを見る。
怖くない。
でも、同じでもない。
空気がひとつ分、重い。
踏み込めば、戻れない気がする。
だから、踏み込まない。
ただ、立つ。
女のほうが、先に気づく。
視線が、止まる。
ほんのわずかに、首が傾く。
理解ではない。
確認でもない。
ただ、「ある」と知る動き。
その瞬間、カラスが一斉に震える。
音は出ない。
けれど、空気が裂ける。
フィンの指が動く。何かを掴もうとして、掴めない。
ローワンの足が沈む。一歩が、出ない。
ニアムの喉が閉じる。音が、完全に消える。
メイヴが、息を止める。誰も、動けない。
女は、何も言わない。
ただ、見ている。
興味だけがある。
エルマは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
わからない。
でも、わかってしまう気がする。
目を逸らさない。
風が戻る。
音が、一気に流れ込む。
スプーンズが鳴る。火がはぜる。誰かが笑う。
立石の向こうには、何もない。
カラスも、いない。
「……今の」
エルマが言いかける。やめる。
「風、強くなったね」
メイヴが言う。少し遅れての声。誰も否定しない。
フィンが何も言わない。
ローワンも、視線を落としたまま動かない。
ニアムは喉元に手を当てたまま、音を探している。
火は、まだ燃えている。音も、止まらない。
人は笑う。だから、祭りは続く。
エルマは、立石のほうをもう一度だけ見る。
何もない。
けれど、背中のどこかに、触れられたみたいな感覚だけが残っていた。
そこだけ、少し温度が違う。
冷たいわけでも、熱いわけでもない。ただ、他と混ざらない。
触れられた、というより。残された、みたいだった。
触れていないはずなのに、そこだけ感覚がある。
意識すると、消えそうになる。意識しないと、残る。
誰にも見えない場所で、何かが、まだそこにある。
カラスが、一羽だけ戻ってきた。
木の上に止まる。
鳴かない。
ただ、見ている。
※モリガン(Morrígan):ケルト神話において、戦と死、運命の影を司る女神。
しばしば烏の姿で現れ、破滅の気配とともに人の行く末を見つめる存在です。




