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モーンの森事件録━━ケルトの森で  作者: 宮生さん太


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23/25

火の話が、町を動かす

 春の匂いが、昨日より少し深い。


 靴の裏に、わずかな湿りが残っている。 朝の冷えがまだ地面に薄く貼りついていて、そこへ日差しが差し込み、ゆっくりとほどけていく。


 土の匂いが上がる。柔らかく、少し重い。その上に、若い草の青さが重なる。


 校門の手前で、誰かが靴底を擦っていた。 乾ききっていない土が細かく剥がれていく音。振り返ると、靴の裏に張りついた泥が、まだ光を含んでいる。


 日差しはあたたかいのに、足元だけが少し遅れている。その遅れが、空気に残っていた。


 春は来ているはずなのに、どこかでまだ、ひと呼吸ぶんだけ足りていない。


 エルマはその中を歩いて、校門をくぐった。


『あったかい』

『ひらく』

『まだ』

『ちかい』


 精霊たちが、朝から騒いでいる。


 数が多い。声が重なる。けれど騒がしいというより、落ち着かない。寄ってきては、すぐ離れる。同じ場所に長くいない。


 いつもなら、もう少しまとわりつくのに。


 今日は、近づいては引く。その繰り返しが妙に速い。


「……朝から元気だね」


 呟くと、笑う気配だけ残して散っていく。

 意味はわからない。いつも通り。


 ただ、少しだけ。

 急いでいるみたいだった。



 掲示板の前に、人が集まっている。


 笑い声が普段より半歩だけ前に出ていた。誰かが紙を指さし、別の誰かが覗き込む。肩と肩がぶつかる距離で、言葉が重なっている。


「やっとだって!」

「ほんとにやるの?」

「村も来るらしいよ」


 声が少しだけ熱を帯びている。


「エルマ!」


 メイヴが手を振る。


「見た?」

「なに」

「これ」


 貼られた紙は新しい。まだ角が立っている。


 ──ベルテイン火祭り、開催。


 下に並ぶ名前。町と、近郊の村。


 その中に、普段は見かけない村の名前が混ざっていた。遠いはずの場所。祭りでもなければ関わらない距離。


 理由までは届かない。


 ただ、目に入った瞬間に、少しだけ視線が止まる。読む前に、引っかかる。


 けれど、誰もその違和感については何も言わなかった。


「ほんとに来るの?」

「牛も出すって」

「昔はここら全部つながってたんだよ」


 誰かがそう言うと、少し年上の生徒が頷いた。知っている顔をしているのに、説明はしない。


 言葉は軽いのに、その下にあるものだけが少し古い。


 紙の端が、風もないのにわずかに揺れた。

 貼り付けたばかりのはずなのに、角だけがほんの少し浮いている。誰かが指で押さえ直す。すぐに戻る。


 何もおかしくないはずなのに、そこだけ時間が遅れているみたいだった。


 紙に書かれた名前の列を、エルマはもう一度だけ見る。

 町。村。知らない地名。遠い場所のはずなのに、妙に近く感じる。


 距離の問題じゃない。

 ただ、ここに来ることが、最初から決まっていたみたいに見えた。



「今年やるんだって」


 メイヴはもう楽しそうだった。


「ちゃんとしたやつ。火焚いて、牛通して、音楽も」


「へえ」


 エルマは頷く。


 春だし、祭りくらいある。それだけのことだと思った。


「場所どこ」


 フィンの声が、少し遅れて入る。

 メイヴが紙の下を指でなぞる。


「牛越の丘」


 その言葉が出た瞬間、空気がほんのわずかに遅れた。


 誰も気づかない程度。


 でも、エルマの耳元の精霊だけが一瞬止まる。


『……』


 すぐに、また動き出した。


 フィンが黙る。紙を見ているのに、その向こうを見ているみたいだった。視線が少しだけずれている。


 指先がわずかに動く。何かを数えるみたいに、一定の間隔で止まる。

 距離か、位置か、それとも──。

 途中でやめる。


 口に出せば形になる。形になれば、戻せなくなる。だから、言わない。

 ただ、少しだけ呼吸が浅くなっていた。


 見間違いではない。そう思ったところで、目を逸らす。確かめれば、確定する。確定させたくないものは、まだ見ない。


 ローワンは掲示板ではなく、地面を見ていた。影の形と、足元の線を追うように。


「いいじゃん、広いし」


 メイヴは気にしない。


「村の人も来るって。久しぶりのやつ」


「牛越の丘って……あの牧場の?」


 ニアムが声を落とす。


「うん。エルマのほう」


「近いよ」


 エルマは肩をすくめる。歩いて行ける距離だ。

 フィンが言う。


「昔の場所だよ」


「昔ってなに」


「火祭りやってた丘」


「だから今回やるんでしょ」


 フィンは一瞬だけ言葉を選ぶ。


「形が戻る」


 それ以上は言わない。

 ローワンが、遅れて言葉を置く。


「円、ある」


「丘って丸いじゃん」


 メイヴが笑う。


「違う丸さ」


 短く言って、ローワンは口を閉じた。

 ニアムは喉元に指を当てる。


「……歌、あるかな」


「あるでしょ」


 メイヴは即答する。

 ニアムは少し遅れて頷いた。

 エルマは四人を順に見る。


 フィンは考えている。ローワンは測っている。ニアムは感じている。メイヴは楽しんでいる。

 自分は。


「楽しそうじゃん」


 そう言って、肩の力を抜いた。


 昼の光は強い。

 でもどこか、奥に影があるみたいに見えた。



 帰り道、五人は森の縁を歩いた。


 モーンの森は、春の匂いが濃い。葉はまだ薄く、光を通す。影はやわらかく、風が通るたび、枝同士が触れて軽い音を立てる。


 音は多い。

 枝が触れる音。遠くで誰かが笑う声。鳥が一度だけ鳴く。


 どれも確かにあるのに、少しずつ距離がずれている。近い音と遠い音が、同じ場所に重なっているみたいだった。


 耳に届く順番が、ほんのわずかに狂っている。

 気づいた瞬間だけ、世界が一枚薄くなる。


 すぐ戻る。

 それでも、何か一枚だけ削られているみたいだった。


 足元の土が、ほんの少しだけ柔らかい。踏み込むと、遅れて沈む。昨日までとは違う湿り方だった。


 乾いているはずなのに、奥に水気が残っている。季節が、地面の中で動いているみたいだった。


『くる』

『ちかい』

『ひらく』

『まってる』


 精霊たちの声が、さっきよりはっきりしている。


「なにが?」


 エルマが聞く。答えはない。


 フィンが立ち止まる。森の奥を見る。視線は動かない。何かを測るみたいに。


「……近い」


「なにが」


 メイヴが聞く。

 フィンは首を振った。


「まだいい」


 ローワンはしゃがみ、草を押す。柔らかさを確かめ、そのまま指先を少しだけ土に入れる。湿り。温度。そして、指を抜く。


 ニアムが息を吸う。

 喉は開いているのに、音が出ない。ハミングにならない。


 エルマは風を受ける。

 やわらかい。

 いい匂いだ。



 そのとき。

 木の上に、黒い影が並んでいるのが見えた。


 カラス。

 一羽じゃない。枝の間に、間を詰めるように並んでいる。

 同じ方向を見ている。ひとつも首を動かさない。


 何かを待っているのか、それとも見ているのか。


 視線の先は、森の奥ではない。ほんの少し手前。丘へ続く、あの方向だった。


 見ているのは、場所じゃない。それでも、動かない。


「……多くない?」


 メイヴが言う。


「春だし」


 エルマは答える。


 カラスは、同時に飛んだ。

 ばらばらじゃない。ひとつの塊みたいに。羽音はあるのに、音が残らない。


 そのまま森の奥へ消える。溶けるみたいに。

 風が、少しだけ引っかかる。流れが一瞬、歪む。すぐ戻る。

 

 フィンが言う。


「やめたほうがいい」


「なにを?」


「……火祭り」


 間がある。

 メイヴが笑う。


「今さら無理でしょ」


 エルマは空を見上げる。


 まだ明るい。

 でも光の奥に、夜が混ざっている。完全な昼じゃない。


 春は、もう来ている。足りているはずなのに。

 それでも何かが、さらに来ようとしている。


 エルマには、ただいい季節だった。

 そう思ったままにしておいた。


ベルテイン(Beltane):春の終わりと夏のはじまりを告げる、ケルトの火の祭り。

火が灯る夜には、ひとと自然、こちら側とあちら側の境目が少しだけ近づくとされています。


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