火の話が、町を動かす
春の匂いが、昨日より少し深い。
靴の裏に、わずかな湿りが残っている。 朝の冷えがまだ地面に薄く貼りついていて、そこへ日差しが差し込み、ゆっくりとほどけていく。
土の匂いが上がる。柔らかく、少し重い。その上に、若い草の青さが重なる。
校門の手前で、誰かが靴底を擦っていた。 乾ききっていない土が細かく剥がれていく音。振り返ると、靴の裏に張りついた泥が、まだ光を含んでいる。
日差しはあたたかいのに、足元だけが少し遅れている。その遅れが、空気に残っていた。
春は来ているはずなのに、どこかでまだ、ひと呼吸ぶんだけ足りていない。
エルマはその中を歩いて、校門をくぐった。
『あったかい』
『ひらく』
『まだ』
『ちかい』
精霊たちが、朝から騒いでいる。
数が多い。声が重なる。けれど騒がしいというより、落ち着かない。寄ってきては、すぐ離れる。同じ場所に長くいない。
いつもなら、もう少しまとわりつくのに。
今日は、近づいては引く。その繰り返しが妙に速い。
「……朝から元気だね」
呟くと、笑う気配だけ残して散っていく。
意味はわからない。いつも通り。
ただ、少しだけ。
急いでいるみたいだった。
*
掲示板の前に、人が集まっている。
笑い声が普段より半歩だけ前に出ていた。誰かが紙を指さし、別の誰かが覗き込む。肩と肩がぶつかる距離で、言葉が重なっている。
「やっとだって!」
「ほんとにやるの?」
「村も来るらしいよ」
声が少しだけ熱を帯びている。
「エルマ!」
メイヴが手を振る。
「見た?」
「なに」
「これ」
貼られた紙は新しい。まだ角が立っている。
──ベルテイン火祭り、開催。
下に並ぶ名前。町と、近郊の村。
その中に、普段は見かけない村の名前が混ざっていた。遠いはずの場所。祭りでもなければ関わらない距離。
理由までは届かない。
ただ、目に入った瞬間に、少しだけ視線が止まる。読む前に、引っかかる。
けれど、誰もその違和感については何も言わなかった。
「ほんとに来るの?」
「牛も出すって」
「昔はここら全部つながってたんだよ」
誰かがそう言うと、少し年上の生徒が頷いた。知っている顔をしているのに、説明はしない。
言葉は軽いのに、その下にあるものだけが少し古い。
紙の端が、風もないのにわずかに揺れた。
貼り付けたばかりのはずなのに、角だけがほんの少し浮いている。誰かが指で押さえ直す。すぐに戻る。
何もおかしくないはずなのに、そこだけ時間が遅れているみたいだった。
紙に書かれた名前の列を、エルマはもう一度だけ見る。
町。村。知らない地名。遠い場所のはずなのに、妙に近く感じる。
距離の問題じゃない。
ただ、ここに来ることが、最初から決まっていたみたいに見えた。
*
「今年やるんだって」
メイヴはもう楽しそうだった。
「ちゃんとしたやつ。火焚いて、牛通して、音楽も」
「へえ」
エルマは頷く。
春だし、祭りくらいある。それだけのことだと思った。
「場所どこ」
フィンの声が、少し遅れて入る。
メイヴが紙の下を指でなぞる。
「牛越の丘」
その言葉が出た瞬間、空気がほんのわずかに遅れた。
誰も気づかない程度。
でも、エルマの耳元の精霊だけが一瞬止まる。
『……』
すぐに、また動き出した。
フィンが黙る。紙を見ているのに、その向こうを見ているみたいだった。視線が少しだけずれている。
指先がわずかに動く。何かを数えるみたいに、一定の間隔で止まる。
距離か、位置か、それとも──。
途中でやめる。
口に出せば形になる。形になれば、戻せなくなる。だから、言わない。
ただ、少しだけ呼吸が浅くなっていた。
見間違いではない。そう思ったところで、目を逸らす。確かめれば、確定する。確定させたくないものは、まだ見ない。
ローワンは掲示板ではなく、地面を見ていた。影の形と、足元の線を追うように。
「いいじゃん、広いし」
メイヴは気にしない。
「村の人も来るって。久しぶりのやつ」
「牛越の丘って……あの牧場の?」
ニアムが声を落とす。
「うん。エルマのほう」
「近いよ」
エルマは肩をすくめる。歩いて行ける距離だ。
フィンが言う。
「昔の場所だよ」
「昔ってなに」
「火祭りやってた丘」
「だから今回やるんでしょ」
フィンは一瞬だけ言葉を選ぶ。
「形が戻る」
それ以上は言わない。
ローワンが、遅れて言葉を置く。
「円、ある」
「丘って丸いじゃん」
メイヴが笑う。
「違う丸さ」
短く言って、ローワンは口を閉じた。
ニアムは喉元に指を当てる。
「……歌、あるかな」
「あるでしょ」
メイヴは即答する。
ニアムは少し遅れて頷いた。
エルマは四人を順に見る。
フィンは考えている。ローワンは測っている。ニアムは感じている。メイヴは楽しんでいる。
自分は。
「楽しそうじゃん」
そう言って、肩の力を抜いた。
昼の光は強い。
でもどこか、奥に影があるみたいに見えた。
*
帰り道、五人は森の縁を歩いた。
モーンの森は、春の匂いが濃い。葉はまだ薄く、光を通す。影はやわらかく、風が通るたび、枝同士が触れて軽い音を立てる。
音は多い。
枝が触れる音。遠くで誰かが笑う声。鳥が一度だけ鳴く。
どれも確かにあるのに、少しずつ距離がずれている。近い音と遠い音が、同じ場所に重なっているみたいだった。
耳に届く順番が、ほんのわずかに狂っている。
気づいた瞬間だけ、世界が一枚薄くなる。
すぐ戻る。
それでも、何か一枚だけ削られているみたいだった。
足元の土が、ほんの少しだけ柔らかい。踏み込むと、遅れて沈む。昨日までとは違う湿り方だった。
乾いているはずなのに、奥に水気が残っている。季節が、地面の中で動いているみたいだった。
『くる』
『ちかい』
『ひらく』
『まってる』
精霊たちの声が、さっきよりはっきりしている。
「なにが?」
エルマが聞く。答えはない。
フィンが立ち止まる。森の奥を見る。視線は動かない。何かを測るみたいに。
「……近い」
「なにが」
メイヴが聞く。
フィンは首を振った。
「まだいい」
ローワンはしゃがみ、草を押す。柔らかさを確かめ、そのまま指先を少しだけ土に入れる。湿り。温度。そして、指を抜く。
ニアムが息を吸う。
喉は開いているのに、音が出ない。ハミングにならない。
エルマは風を受ける。
やわらかい。
いい匂いだ。
*
そのとき。
木の上に、黒い影が並んでいるのが見えた。
カラス。
一羽じゃない。枝の間に、間を詰めるように並んでいる。
同じ方向を見ている。ひとつも首を動かさない。
何かを待っているのか、それとも見ているのか。
視線の先は、森の奥ではない。ほんの少し手前。丘へ続く、あの方向だった。
見ているのは、場所じゃない。それでも、動かない。
「……多くない?」
メイヴが言う。
「春だし」
エルマは答える。
カラスは、同時に飛んだ。
ばらばらじゃない。ひとつの塊みたいに。羽音はあるのに、音が残らない。
そのまま森の奥へ消える。溶けるみたいに。
風が、少しだけ引っかかる。流れが一瞬、歪む。すぐ戻る。
フィンが言う。
「やめたほうがいい」
「なにを?」
「……火祭り」
間がある。
メイヴが笑う。
「今さら無理でしょ」
エルマは空を見上げる。
まだ明るい。
でも光の奥に、夜が混ざっている。完全な昼じゃない。
春は、もう来ている。足りているはずなのに。
それでも何かが、さらに来ようとしている。
エルマには、ただいい季節だった。
そう思ったままにしておいた。
ベルテイン(Beltane):春の終わりと夏のはじまりを告げる、ケルトの火の祭り。
火が灯る夜には、ひとと自然、こちら側とあちら側の境目が少しだけ近づくとされています。




