表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
モーンの森事件録━━ケルトの森で  作者: 宮生さん太


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/25

春は笑いながら-エルマの春-

 休み明けの朝は、少しだけ歩く速度が速い。


 校門へ向かう道を、生徒たちがばらばらに歩いている。笑い声もあれば、あくびを隠さない顔もあった。イースターの余韻はまだ残っていて、誰かの鞄には色のついたリボンが結びっぱなしになっている。


 エルマはいつものように校門をくぐった。耳元が少しだけ賑やかになる。


『おはよう』

『帰ってきた』

『あったかい』


 春だからだ、とエルマは思う。


「……朝から元気だね」


 小さく呟くと、精霊たちは勝手に笑い合う。意味はよくわからないけれど、騒いでいるときはだいたい機嫌がいい。

 校庭の端には黄色い花がまだ残っていた。イースター前に咲ききった水仙が、少しだけ色を薄くして風に揺れている。


 春は、もう始まっている。それ以上でも、それ以下でもなかった。

 エルマは肩をすくめて歩き出す。後ろからローワンが来る気配がして、少し遅れてフィンの足音も聞こえる。ニアムは誰かと笑いながら歩いていたし、メイヴは遠くから手を振っている。


 いつもの五人だった。

休みが明けても、特に変わらない。変わらなくていい。

 校舎の窓が朝の光を跳ね返す。春の光は少し強くなっていたけれど、エルマにとってはそれもいつものことだった。


 春は毎年来る。精霊たちは毎年騒ぐ。だから、何も気にしない。

 ただ、ひとつだけ。すれ違った風が、少し近かった気がした。

 でもそれも、春ならよくあることだと思って、エルマは気にせず教室の扉を開けた。



 休み明けの教室は少し落ち着かなかった。

椅子を引く音。休み中の話をする声。どこへ行ったとか、何を食べたとか、誰が寝坊したとか。先生が来るまでの短い時間が、いつもよりゆっくりと過ぎていく気がする。


 エルマは席に座りながら、窓の外を見た。

校庭の隅に、水仙がまだ残っている。花びらの端は少しだけ色を落としていた。春は進んでいるんだな、となんとなく思う。


『ねえ』

『あったかいね』

『もうすぐ』


 耳元で精霊たちが好き勝手言っている。


「うるさい」


 小声で言うと、隣のメイヴが笑った。


「また?」


「朝は多いんだよ」


 メイヴは楽しそうに頷くだけだった。ローワンは窓側の席で静かにノートを開いていて、フィンは何かを書きながら目を上げない。ニアムはスカーフを外して、珍しくそのまま首元を出していた。


 エルマは少しだけ目を留める。


「取ったんだ」


 ニアムは肩をすくめた。


「今日は平気」


 それだけだった。

 授業が始まる。先生の声。チョークの音。ページをめくる音。

 休み前と何も変わらない。


 考えるのをやめて、エルマはペンを走らせた。午前の授業はあっという間に過ぎていく。窓の外の光だけが、少しずつ濃くなっていた。



 昼休みになると、五人は自然に同じ場所へ集まっていた。


 購買横の外のベンチ。風を遮る木が一本だけ立っていて、春になると誰かが必ずここの根っこへ座る。

 誰が決めたわけでもない。気づけばそうなっていた場所だった。


 エルマは先に腰を下ろし、草の感触を確かめる。まだ少し湿っているけれど、冷たくはない。メイヴが袋を広げる。


「今日はね、母さんがサンドイッチ大量に作った」


「多すぎるやつ?」


 ニアムが笑う。


「うん、絶対余るやつ」


 紙を開く音がする。パンの匂い。バターの匂い。春の光の中では、そういう小さな生活の匂いがやけに安心する。

 ローワンは少し離れて座り、フィンはいつものように端に位置を取る。けれど距離は遠すぎない。

 その加減が、五人らしかった。


 エルマは頬杖をついて空を見上げる。雲がゆっくり流れている。急ぐ必要がないみたいに。


『ねえ』

『あったかい』

『気持ちいい』


 精霊たちの声が風に混ざる。


「今日は静かだね」


「いいことじゃない?」


 エルマは肩をすくめる。


「まあね」


 メイヴがサンドイッチを差し出してくる。


「ほら、食べて」


 受け取る。パンは柔らかくて、ハムの塩気がちょうどよかった。

 フィンは無言で差し出されたサンドイッチを食べている。ローワンは食べながら、風の向きを見ているみたいに目を細めていた。


 誰も急いでいない。時間がゆっくり流れている。


 そのとき、ニアムがほんの小さくハミングした。声にならないくらいの短い旋律。エルマは耳を動かす。


「歌ってる?」


 ニアムは首を振る。


「ううん。ただ、なんとなく」


 春の光の中で、その音はすぐに溶けていく。

 フィンがちらっと目を上げる。ローワンも何も言わない。でも、誰も止めない。


 エルマは気づく。

 冬のあいだ、ニアムはよく「歌う?」と聞いていた。慎重に。確認するみたいに。今日は、それがない。


 風がやわらかい。小川の水音が遠くで揺れる。

 メイヴが笑いながら言う。


「なんかさ、今日ずっと平和だね」


「そうだね」


 ニアムが答える。

 ローワンは何も言わないけれど、口元だけが少し緩んでいた。

 エルマは草を指でちぎりながら、目を瞬かせた。


 今は、パンの味のほうが大事だ。

 春は長い。急いで意味をつけなくてもいい。

 そう思って、もう一口かじった。昼の光は、ゆっくり角度を変えていた。

 

 小川の水は昼より少し強く光っていた。風が渡るたび、細かい反射が揺れる。

 エルマの耳元で、精霊たちがひそひそと何か言い合っている。


『あったかい』

『まだ』

『もうすぐ』


 意味を聞こうとすると逃げてしまう声。

 エルマは追わない。追えば、騒がしくなるだけだから。


 ニアムがスカーフの端をゆるく指でなぞる。喉元はいつもより少し開いていた。風が通るたび、布が柔らかく揺れる。


 それを見て、エルマはなんとなく思う。ああ、春なんだな、と。


 冬のあいだ、ニアムは喉を隠すようにしていた。今は違う。隠していないわけじゃない。でも、息を止めてもいない。


 ニアムは小さく息を吸って、また短いハミングをこぼした。


 音はすぐに空気へ溶ける。何かを呼ぶわけでも、押し戻すわけでもない。ただそこに置かれたみたいな音だった。


「その曲なに?」


 メイヴが聞く。


「わかんない」


 ニアムは笑った。


「たぶん、今ここにあるやつ」


 フィンが少しだけ視線を上げる。けれど何も言わない。


 風が止んだ。ほんの一瞬。


 音が消えたわけではないのに、空気が静止したみたいになる。

 エルマの背筋が、かすかに伸びた。耳の奥がひんやりする。


 光が、少しだけ濃くなった気がした。誰も気づいていない。

 メイヴは笑っているし、ローワンは草を指でちぎっている。フィンは遠くを見ているだけ。


 ニアムは、ただ息をしていた。

エルマだけが、ほんの一瞬だけ目を細める。


 春が近づいた。そんな感じだった。距離が少し縮まったみたいな。


 次の瞬間、風が戻る。

 小川の音がまた流れ出して、草が揺れ、誰かの笑い声が重なる。


「ねえ、放課後さ、パブ行かない?」


 メイヴが何気に言う。


「久しぶりに、みんな揃ったし」


 空気はいつも通りに戻っていた。エルマは気づかないふりをする。

 今のは、たぶん気のせいだ。そういうこともある。


 春だから。さっきの感覚は、もう遠い。


 ただの春の午後。ただの、いい日。それでいいと思った。



 放課後、五人はいつものように坂を下った。


 小さな川を渡って、石畳の道を曲がると、古いパブがある。学校がある町では、学生が寄ることも珍しくない場所だった。

 扉を押すと、木の匂いと少し甘い香りが混じっている。


 昼と夜のあいだの時間。

 大人たちはまだ少なく、店の奥ではグラスを磨く音がしていた。


「いつもの席、空いてる」


 メイヴが先に歩いていく。

 窓際の丸いテーブル。五人が並ぶとちょうどいい大きさだった。


 飲み物が運ばれてくる。ジュース、紅茶、ぬるめのココア。軽い音を立ててグラスが置かれる。


 窓の外を、風が通り抜ける。

 春の光が斜めに差し込み、テーブルの上に丸い光を作った。


 ニアムがふと鼻歌のようなものをこぼす。ほんの一音。すぐ消える。

 誰も気にしない。けれど、エルマは少しだけ顔を上げた。


 さっきまでの空気と、何かが違った。軽いのに、密度がある。

 春が、外で待っているみたいだった。


 エルマは窓の外を見た。

 ブラックソーンの花が風に揺れている。白い花弁が、光の中で少しだけ眩しい。


『ちかい』

『ちかいよ』

『もうすぐ』


 精霊たちが囁く。エルマは笑った。

 怖くない。でも、少しだけ。春が近づきすぎている気がする。


 理由はわからない。ただ、空気が濃い。

 グラスが空になり、誰かが席を立つ。


「そろそろ戻ろうか」


「うん」


 椅子が引かれる音。五人は自然に立ち上がる。

 扉を開けると、外の光は少しだけ傾いていた。

 まだ明るい。でも、空気の温度が変わっている。


 風が通り抜ける。その瞬間。

 エルマは、ほんの一瞬だけ足を止めた。



 坂を上る途中だった。

 さっきまで話していた声が、少しずつ間延びしていく。


 笑い声。足音。風。全部そこにあるのに、少しだけ遠い。

 エルマは歩きながら、ふと顔を上げた。


 春の光が、急に濃くなる。影が柔らかくなって、輪郭が揺れる。

 その瞬間だった。耳元で騒いでいた精霊たちの声が、一斉に消えた。


 静か。本当に静かだった。まるで、世界が息を止めたみたいに。


 フィンが足を止める。


「……」


 何も言わない。

 ローワンは視線だけを動かして、周囲を確かめる。

 ニアムのスカーフが、風もないのにわずかに揺れる。

 メイヴは気づかないまま、まだ何か話そうとしていた。


 でもエルマにはわかった。ああ、と。来たんだ。


 それは恐怖じゃない。知らないものでもない。

 毎年、ほんの一瞬だけ。春が近づきすぎる時がある。


 空気が濃くなる。光の中に、見えない何かが混じっている。

 川の向こう。木立のあたり。影とも違う。形はないのに、存在だけがある。


 フィンが見たと言っていたもの。たぶん、同じ種類。エルマは目を細める。


『……』


 精霊たちは、声を出さない。

 いつもなら騒がしいのに、まるで道を空けるみたいに静かだった。


 エルマは小さく息を吸う。


「こんにちは」


 誰にも聞こえないくらい小さな声で言った。挨拶みたいに。


 影は近づかない。ただ、そこにある。

 春の匂いが濃い。草。土。まだ咲ききらない花。

 季節そのものが、少しだけこちら側へ傾いたみたいだった。


 エルマは怖くなかった。むしろ、知っている。春は時々、こうなる。

 笑いながら寄ってきて、すぐ離れていく。

 ふっと風が動いた。同時に、精霊たちの声が戻る。


『いった』

『はやい』

『またね』


 世界が急に音を取り戻す。


「……なんか今」


 メイヴが言いかける。


「風?」


 ニアムが首を傾げる。

 フィンは何も言わない。ただ、遠くを見ていた。

 ローワンは目を伏せる。誰も説明しない。

 エルマは肩をすくめた。春は、ただ通り過ぎただけ。それだけだ。


「行こ」


 そう言って歩き出す。足元で草が揺れる。


 精霊たちはもういつも通りに騒いでいる。さっきの静けさが嘘みたいだった。

 けれど。エルマの胸の奥には、ほんの少しだけ温かい余韻が残っていた。


 春は笑っていた。


 本当に、一瞬だけ。



 風が、ふっと止まった。それまで賑やかだった精霊たちの声が、同時に消える。不自然なくらいそこここにまだ残っているのに、音だけが遠くへ押しやられたみたいだ。エルマは足を止める。


 空気が近い。春の匂いが、ひとつ分だけ濃くなった。

草の青さ。土の湿り。花が開く直前の甘い気配。どこかで影が動いた気がした。黒でもなく、光でもない、あのときと同じ輪郭。


 フィンが見たと言っていたものと、どこか似ている。精霊たちは、黙っている。見ている。待っている。


 エルマは少しだけ目を細めた。胸の奥に、驚きはなかった。怖さもない。


 ただ、ああ、とわかる感じ。春が、少しだけ寄ってきた。それだけだった。


 次の瞬間、エルマは声を上げて笑った。


「なあんだ!」


 空気がほわっと動き出す。止まっていた風が一気に戻り、草が揺れる。


『びっくりした』

『笑った』

『あーあ』


 精霊たちの声が一斉に戻ってきて、周りはいつもの騒がしさに戻った。さっきまでの静けさが、まるで錯覚みたいに消える。


 エルマは肩をすくめる。春は、たまにこういうことをする。

 近づいてきて、挨拶だけして、また離れる。

 それを怖がる理由が、エルマにはわからなかった。


 遠くで誰かがボールを蹴る音がする。笑い声が重なる。日差しはまだ明るい。

 春の光は、少しだけ濃い。けれど、満ちきってはいない。


 エルマは歩き出す。

 足元の草が揺れて、黄色い小さな花がいくつも目に入る。

 いい匂いだな、と思った。


 家への帰り道。風はやわらかく、空は高かった。

 エルマは鼻歌とも呼べないくらいの小さな音を漏らす。


 春は笑っている。どこかで。たぶん、ずっと前から。

 それが怖いとも思わない。むしろ、知っている感じがする。


 だからエルマも笑った。今日も何も起きなかった。

 でも、何かが始まりかけていることだけは、確かだった。


 春は、まだ終わらない。笑いながら、次へ向かっていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ