春は笑いながら-エルマの春-
休み明けの朝は、少しだけ歩く速度が速い。
校門へ向かう道を、生徒たちがばらばらに歩いている。笑い声もあれば、あくびを隠さない顔もあった。イースターの余韻はまだ残っていて、誰かの鞄には色のついたリボンが結びっぱなしになっている。
エルマはいつものように校門をくぐった。耳元が少しだけ賑やかになる。
『おはよう』
『帰ってきた』
『あったかい』
春だからだ、とエルマは思う。
「……朝から元気だね」
小さく呟くと、精霊たちは勝手に笑い合う。意味はよくわからないけれど、騒いでいるときはだいたい機嫌がいい。
校庭の端には黄色い花がまだ残っていた。イースター前に咲ききった水仙が、少しだけ色を薄くして風に揺れている。
春は、もう始まっている。それ以上でも、それ以下でもなかった。
エルマは肩をすくめて歩き出す。後ろからローワンが来る気配がして、少し遅れてフィンの足音も聞こえる。ニアムは誰かと笑いながら歩いていたし、メイヴは遠くから手を振っている。
いつもの五人だった。
休みが明けても、特に変わらない。変わらなくていい。
校舎の窓が朝の光を跳ね返す。春の光は少し強くなっていたけれど、エルマにとってはそれもいつものことだった。
春は毎年来る。精霊たちは毎年騒ぐ。だから、何も気にしない。
ただ、ひとつだけ。すれ違った風が、少し近かった気がした。
でもそれも、春ならよくあることだと思って、エルマは気にせず教室の扉を開けた。
*
休み明けの教室は少し落ち着かなかった。
椅子を引く音。休み中の話をする声。どこへ行ったとか、何を食べたとか、誰が寝坊したとか。先生が来るまでの短い時間が、いつもよりゆっくりと過ぎていく気がする。
エルマは席に座りながら、窓の外を見た。
校庭の隅に、水仙がまだ残っている。花びらの端は少しだけ色を落としていた。春は進んでいるんだな、となんとなく思う。
『ねえ』
『あったかいね』
『もうすぐ』
耳元で精霊たちが好き勝手言っている。
「うるさい」
小声で言うと、隣のメイヴが笑った。
「また?」
「朝は多いんだよ」
メイヴは楽しそうに頷くだけだった。ローワンは窓側の席で静かにノートを開いていて、フィンは何かを書きながら目を上げない。ニアムはスカーフを外して、珍しくそのまま首元を出していた。
エルマは少しだけ目を留める。
「取ったんだ」
ニアムは肩をすくめた。
「今日は平気」
それだけだった。
授業が始まる。先生の声。チョークの音。ページをめくる音。
休み前と何も変わらない。
考えるのをやめて、エルマはペンを走らせた。午前の授業はあっという間に過ぎていく。窓の外の光だけが、少しずつ濃くなっていた。
*
昼休みになると、五人は自然に同じ場所へ集まっていた。
購買横の外のベンチ。風を遮る木が一本だけ立っていて、春になると誰かが必ずここの根っこへ座る。
誰が決めたわけでもない。気づけばそうなっていた場所だった。
エルマは先に腰を下ろし、草の感触を確かめる。まだ少し湿っているけれど、冷たくはない。メイヴが袋を広げる。
「今日はね、母さんがサンドイッチ大量に作った」
「多すぎるやつ?」
ニアムが笑う。
「うん、絶対余るやつ」
紙を開く音がする。パンの匂い。バターの匂い。春の光の中では、そういう小さな生活の匂いがやけに安心する。
ローワンは少し離れて座り、フィンはいつものように端に位置を取る。けれど距離は遠すぎない。
その加減が、五人らしかった。
エルマは頬杖をついて空を見上げる。雲がゆっくり流れている。急ぐ必要がないみたいに。
『ねえ』
『あったかい』
『気持ちいい』
精霊たちの声が風に混ざる。
「今日は静かだね」
「いいことじゃない?」
エルマは肩をすくめる。
「まあね」
メイヴがサンドイッチを差し出してくる。
「ほら、食べて」
受け取る。パンは柔らかくて、ハムの塩気がちょうどよかった。
フィンは無言で差し出されたサンドイッチを食べている。ローワンは食べながら、風の向きを見ているみたいに目を細めていた。
誰も急いでいない。時間がゆっくり流れている。
そのとき、ニアムがほんの小さくハミングした。声にならないくらいの短い旋律。エルマは耳を動かす。
「歌ってる?」
ニアムは首を振る。
「ううん。ただ、なんとなく」
春の光の中で、その音はすぐに溶けていく。
フィンがちらっと目を上げる。ローワンも何も言わない。でも、誰も止めない。
エルマは気づく。
冬のあいだ、ニアムはよく「歌う?」と聞いていた。慎重に。確認するみたいに。今日は、それがない。
風がやわらかい。小川の水音が遠くで揺れる。
メイヴが笑いながら言う。
「なんかさ、今日ずっと平和だね」
「そうだね」
ニアムが答える。
ローワンは何も言わないけれど、口元だけが少し緩んでいた。
エルマは草を指でちぎりながら、目を瞬かせた。
今は、パンの味のほうが大事だ。
春は長い。急いで意味をつけなくてもいい。
そう思って、もう一口かじった。昼の光は、ゆっくり角度を変えていた。
小川の水は昼より少し強く光っていた。風が渡るたび、細かい反射が揺れる。
エルマの耳元で、精霊たちがひそひそと何か言い合っている。
『あったかい』
『まだ』
『もうすぐ』
意味を聞こうとすると逃げてしまう声。
エルマは追わない。追えば、騒がしくなるだけだから。
ニアムがスカーフの端をゆるく指でなぞる。喉元はいつもより少し開いていた。風が通るたび、布が柔らかく揺れる。
それを見て、エルマはなんとなく思う。ああ、春なんだな、と。
冬のあいだ、ニアムは喉を隠すようにしていた。今は違う。隠していないわけじゃない。でも、息を止めてもいない。
ニアムは小さく息を吸って、また短いハミングをこぼした。
音はすぐに空気へ溶ける。何かを呼ぶわけでも、押し戻すわけでもない。ただそこに置かれたみたいな音だった。
「その曲なに?」
メイヴが聞く。
「わかんない」
ニアムは笑った。
「たぶん、今ここにあるやつ」
フィンが少しだけ視線を上げる。けれど何も言わない。
風が止んだ。ほんの一瞬。
音が消えたわけではないのに、空気が静止したみたいになる。
エルマの背筋が、かすかに伸びた。耳の奥がひんやりする。
光が、少しだけ濃くなった気がした。誰も気づいていない。
メイヴは笑っているし、ローワンは草を指でちぎっている。フィンは遠くを見ているだけ。
ニアムは、ただ息をしていた。
エルマだけが、ほんの一瞬だけ目を細める。
春が近づいた。そんな感じだった。距離が少し縮まったみたいな。
次の瞬間、風が戻る。
小川の音がまた流れ出して、草が揺れ、誰かの笑い声が重なる。
「ねえ、放課後さ、パブ行かない?」
メイヴが何気に言う。
「久しぶりに、みんな揃ったし」
空気はいつも通りに戻っていた。エルマは気づかないふりをする。
今のは、たぶん気のせいだ。そういうこともある。
春だから。さっきの感覚は、もう遠い。
ただの春の午後。ただの、いい日。それでいいと思った。
*
放課後、五人はいつものように坂を下った。
小さな川を渡って、石畳の道を曲がると、古いパブがある。学校がある町では、学生が寄ることも珍しくない場所だった。
扉を押すと、木の匂いと少し甘い香りが混じっている。
昼と夜のあいだの時間。
大人たちはまだ少なく、店の奥ではグラスを磨く音がしていた。
「いつもの席、空いてる」
メイヴが先に歩いていく。
窓際の丸いテーブル。五人が並ぶとちょうどいい大きさだった。
飲み物が運ばれてくる。ジュース、紅茶、ぬるめのココア。軽い音を立ててグラスが置かれる。
窓の外を、風が通り抜ける。
春の光が斜めに差し込み、テーブルの上に丸い光を作った。
ニアムがふと鼻歌のようなものをこぼす。ほんの一音。すぐ消える。
誰も気にしない。けれど、エルマは少しだけ顔を上げた。
さっきまでの空気と、何かが違った。軽いのに、密度がある。
春が、外で待っているみたいだった。
エルマは窓の外を見た。
ブラックソーンの花が風に揺れている。白い花弁が、光の中で少しだけ眩しい。
『ちかい』
『ちかいよ』
『もうすぐ』
精霊たちが囁く。エルマは笑った。
怖くない。でも、少しだけ。春が近づきすぎている気がする。
理由はわからない。ただ、空気が濃い。
グラスが空になり、誰かが席を立つ。
「そろそろ戻ろうか」
「うん」
椅子が引かれる音。五人は自然に立ち上がる。
扉を開けると、外の光は少しだけ傾いていた。
まだ明るい。でも、空気の温度が変わっている。
風が通り抜ける。その瞬間。
エルマは、ほんの一瞬だけ足を止めた。
*
坂を上る途中だった。
さっきまで話していた声が、少しずつ間延びしていく。
笑い声。足音。風。全部そこにあるのに、少しだけ遠い。
エルマは歩きながら、ふと顔を上げた。
春の光が、急に濃くなる。影が柔らかくなって、輪郭が揺れる。
その瞬間だった。耳元で騒いでいた精霊たちの声が、一斉に消えた。
静か。本当に静かだった。まるで、世界が息を止めたみたいに。
フィンが足を止める。
「……」
何も言わない。
ローワンは視線だけを動かして、周囲を確かめる。
ニアムのスカーフが、風もないのにわずかに揺れる。
メイヴは気づかないまま、まだ何か話そうとしていた。
でもエルマにはわかった。ああ、と。来たんだ。
それは恐怖じゃない。知らないものでもない。
毎年、ほんの一瞬だけ。春が近づきすぎる時がある。
空気が濃くなる。光の中に、見えない何かが混じっている。
川の向こう。木立のあたり。影とも違う。形はないのに、存在だけがある。
フィンが見たと言っていたもの。たぶん、同じ種類。エルマは目を細める。
『……』
精霊たちは、声を出さない。
いつもなら騒がしいのに、まるで道を空けるみたいに静かだった。
エルマは小さく息を吸う。
「こんにちは」
誰にも聞こえないくらい小さな声で言った。挨拶みたいに。
影は近づかない。ただ、そこにある。
春の匂いが濃い。草。土。まだ咲ききらない花。
季節そのものが、少しだけこちら側へ傾いたみたいだった。
エルマは怖くなかった。むしろ、知っている。春は時々、こうなる。
笑いながら寄ってきて、すぐ離れていく。
ふっと風が動いた。同時に、精霊たちの声が戻る。
『いった』
『はやい』
『またね』
世界が急に音を取り戻す。
「……なんか今」
メイヴが言いかける。
「風?」
ニアムが首を傾げる。
フィンは何も言わない。ただ、遠くを見ていた。
ローワンは目を伏せる。誰も説明しない。
エルマは肩をすくめた。春は、ただ通り過ぎただけ。それだけだ。
「行こ」
そう言って歩き出す。足元で草が揺れる。
精霊たちはもういつも通りに騒いでいる。さっきの静けさが嘘みたいだった。
けれど。エルマの胸の奥には、ほんの少しだけ温かい余韻が残っていた。
春は笑っていた。
本当に、一瞬だけ。
*
風が、ふっと止まった。それまで賑やかだった精霊たちの声が、同時に消える。不自然なくらいそこここにまだ残っているのに、音だけが遠くへ押しやられたみたいだ。エルマは足を止める。
空気が近い。春の匂いが、ひとつ分だけ濃くなった。
草の青さ。土の湿り。花が開く直前の甘い気配。どこかで影が動いた気がした。黒でもなく、光でもない、あのときと同じ輪郭。
フィンが見たと言っていたものと、どこか似ている。精霊たちは、黙っている。見ている。待っている。
エルマは少しだけ目を細めた。胸の奥に、驚きはなかった。怖さもない。
ただ、ああ、とわかる感じ。春が、少しだけ寄ってきた。それだけだった。
次の瞬間、エルマは声を上げて笑った。
「なあんだ!」
空気がほわっと動き出す。止まっていた風が一気に戻り、草が揺れる。
『びっくりした』
『笑った』
『あーあ』
精霊たちの声が一斉に戻ってきて、周りはいつもの騒がしさに戻った。さっきまでの静けさが、まるで錯覚みたいに消える。
エルマは肩をすくめる。春は、たまにこういうことをする。
近づいてきて、挨拶だけして、また離れる。
それを怖がる理由が、エルマにはわからなかった。
遠くで誰かがボールを蹴る音がする。笑い声が重なる。日差しはまだ明るい。
春の光は、少しだけ濃い。けれど、満ちきってはいない。
エルマは歩き出す。
足元の草が揺れて、黄色い小さな花がいくつも目に入る。
いい匂いだな、と思った。
家への帰り道。風はやわらかく、空は高かった。
エルマは鼻歌とも呼べないくらいの小さな音を漏らす。
春は笑っている。どこかで。たぶん、ずっと前から。
それが怖いとも思わない。むしろ、知っている感じがする。
だからエルマも笑った。今日も何も起きなかった。
でも、何かが始まりかけていることだけは、確かだった。
春は、まだ終わらない。笑いながら、次へ向かっていく。




