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モーンの森事件録━━ケルトの森で  作者: 宮生さん太


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息づく調べ-ニアムの春-

 春の光は、まだ少しだけ柔らかかった。


 朝の空気に残る冷たさが、日差しに押されゆっくり広がっていく。寄宿舎の前の小道には、誰かが踏んだばかりの靴跡がいくつか残っていた。

 休暇中の学校は静かだけれど、完全に眠っているわけではない。窓のどこかが開いて、閉じて、また開く。そんな音が遠くから聞こえる。


 エルマは丘へ続く道の入口で立ち止まり、振り返った。


「ねえ、遅くない?」


 言いながらも急かしている感じではない。ただ、風の流れを確かめるみたいな声だった。


 小川のほうから、メイヴが手を振ってくる。肩に大きめのバスケットを下げ、歩くたびに紙袋が軽く鳴った。


「重い! ママが入れすぎた!」


 そう言って笑う。その後ろから、ニアムがゆっくり歩いてくる。首元にはいつものスカーフ。春なのに少し厚めの布を巻いているのが、彼女らしかった。


「ごめん、ちょっと遅れた」


 ニアムが言うと、エルマは首を横に振る。


「まだ全員じゃないしね」


 視線の先、寄宿舎の扉が開いた。


 ローワンが出てくる。手ぶらに近い軽さで、肩に小さな鞄をかけているだけだった。後ろからフィンが続く。フィンはポケットに手を入れたまま、いつもの無表情で歩いてきた。


 誰も「戻ってきたね」とは言わない。

 言わなくても、もうそこにいるからだった。


「じゃあ行こっか」


 エルマが言って歩き出す。自然と五人の歩幅が揃う。


 *

 

 小川までの道は短い。


 冬の間は茶色かった草が、少しずつ緑に変わっている。道端には小さな花が点々と咲き始めていて、踏まないように歩くと自然に列がゆるく曲がった。


 水の音が先に聞こえた。陽の光を反射し、小川の表面がきらきらしている。岸辺には水仙が揺れ、その向こうに黒い枝を広げたブラックソーンが白い花をつけ始めていた。


「ここ、ちょうどいいね」


 メイヴがシートを広げながら言う。


「いつも来てるじゃん」


 フィンが小さく返す。けれど否定ではなく、ただの確認みたいだった。


 みんなで端を持って、ピクニックシートを丘の緩やかな斜面に広げる。草は少し湿っていて、手のひらに春の匂いが残った。


 バスケットが開く。


 包み紙の音。紙ナプキン。丸いパン。小さなパイ。甘い焼き菓子。どれも家から持たされたものばかりだった。


「寮の子たちと一緒なんでしょって、うちのママがさ」


 ニアムが笑いながら包みを取り出す。


「うちも」


「うちも」


 メイヴとエルマが重ねる。笑いが漏れる。


 ローワンはそれを聞いて、小さく肩をすくめた。フィンは無言で座り、膝を抱えるようにして景色を見ている。


 丘の上は、風が抜けていく。強すぎないゆるやかな風だった。


 しばらく、誰も話さなかった。


 ただシートの上に座って、春の音を聞いている。小川の流れ。遠くの鳥の声。どこかの家の犬が吠えて、それがすぐに消える。


 ローワンは草を指先で折るでもなく触れるだけ触れて、すぐに手を離した。エルマは寝転がるみたいに空を見上げている。


「いい天気だね」


 ニアムが言う。


 誰かが「ね」と返した気がしたけれど、誰だったかはわからない。それで十分だった。


 春は、急がなかった。

 ただ少しずつ、五人のあいだへ入り込んでくるだけだった。


 *


 包み紙がひとつずつ開いていく音は、どこか小さな儀式みたいだった。


 紙の擦れる音。リボンがほどける音。バターの匂いがふわりと風に乗る。誰が何を持ってきたのか、説明しなくても自然にわかっていく。


「これ、うちのママの定番」


 メイヴが丸い焼き菓子を差し出す。少し大きめで、軽食にもなりそうな重さがある。


「甘い?」


 エルマが覗き込む。


「まあね。ウェルシュケーキだし」


 笑いながら言うと、全員がなんとなく手を伸ばす。誰かが先に取るとか、遠慮するとか、そういう空気はなかった。


 ニアムも包みを開く。中には小さなパンと、薄い紙に包まれたチーズ。母が気を利かせてくれたのだろう、切り分けやすいように最初から分けられている。


「わあ、きれい」


 エルマが素直に言った。


「うちのママ、こういうの好きだから」


 ニアムは少しだけ笑う。


 ローワンは紙袋からスコーンを出して、無言で真ん中に置いた。母に持たされたものだと誰かが察するけれど、誰も言葉にはしない。


 フィンがそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「食べる?」


 ローワンが聞く。


「うん」


 それだけのやり取り。


 食べ物が中心に集まっていく。気がつけば、シートの上が春の昼食らしい色になっていた。


 風が吹く。

 ニアムは無意識にスカーフの端を押さえた。喉元を覆う布が、風に少しだけ揺れる。


 冬の間なら、ここで誰かを見て聞いていたかもしれない。


「歌う?」その一言が、ずっと口ぐせみたいに出ていた季節があった。


 けれど今日は、言わない。誰も歌わなくていい気がした。


「イースター、どうだった?」


 メイヴが軽く聞く。重さのない問いだった。

 ローワンはパンを割りながら、少しだけ考える。


「……普通」


「そっか」


 それで終わる。

 エルマは草の上に肘をついて、空を見ながら言った。


「なんかさ、今日の空、やる気なさそうだよね」


「それどういう意味?」


 ニアムが笑う。


「いい意味。ちゃんと春って感じ」


 誰かが笑って、誰かが頷く。

 食べながら話すことは、どれも小さなことばかりだった。

 学校が休みで変な感じだとか。町のパン屋が混んでいたとか。寄宿舎が静かすぎるとか。


 フィンが珍しく短く笑って、エルマがそれを見て驚いたふりをして、メイヴが大げさに反応する。

 ローワンはそのやり取りを見ながら、ゆっくりパンを食べている。


 光は明るいけれど、強すぎない。影はまだやわらかくて、誰の輪郭もきつくならない。


 ニアムはマグ代わりの小さなボトルを手に持ち、風の流れに耳をすませる。

 川の音。草の揺れる音。遠くで鳥が短く鳴く。

 その合間に、ほんの少しだけ。


 気づく人だけが気づくくらいの小ささで、彼女は息を吐くようにハミングした。


 旋律になりきらない、ただの音。

 誰も反応しない。

 気づいていないのか、気づいていてもそのままにしているのかはわからない。


 それが、心地よかった。


 スカーフがまた風に揺れる。

ニアムは指先で軽く押さえ、喉元を隠す。けれど前ほど強く守るような動きではない。


 春の空気が、ほんの少しだけ近づいている。

 それでもまだ、怖くはない。


 時間はゆっくり進んでいた。

 食べ物は少しずつ減っていき、笑い声はときどき風にさらわれる。誰も急がない。午後のお茶までここにいるつもりで、みんなが同じ速度で呼吸している。


 ニアムはその呼吸の真ん中にいた。


 言葉を足さず、歌も求めず。ただ、春の光の中で。

 いつもの春と、五人で同じ時間を過ごしていた。


 *


 午後のお茶を開くころには、光の色が少しだけ変わっていた。


 同じ春の日差しのはずなのに、朝よりも輪郭がはっきりしている。草の緑が深く見えて、花の色が遠くからでもわかるようになる。


 メイヴが二アムが持ってきた包みを開く。


「これ、まだ温かい。バラ・ブリス?」


 切り分けられた焼き菓子から、甘い香りが立ちのぼる。 バターと蜂蜜の匂い。風がそれを運んで、丘の上にふわりと広がった。


 ローワンは紙コップを手にして、黙って空を見ている。 フィンは足元の草を指先で軽く折って、また放す。


 誰も急に静かになったわけじゃない。

 ただ、会話のあいだに少し長めの間が生まれた。


 風が吹く。

 さっきまでより、ほんのわずかに温かい。


 ニアムは息を吸いこんだ。胸の奥まで空気が入ってくる感覚が、いつもよりはっきりしている。

 スカーフの端が頬に触れた。押さえることもなく、そのままにする。


 エルマがふいに顔を上げた。

 何かを探すように、丘の向こうを見つめる。


 ほんの一瞬だけ。まばたきするより短い時間。

 それからすぐ、肩の力を抜いて笑った。


「風、変わった?」


 誰に向けたでもない言葉。


「そう?」


 メイヴが首をかしげる。


「うん、気のせいかも」


 エルマはそれ以上何も言わない。


 ニアムはただ呼吸していた。

 春の匂いが少し濃くなった気がする。でも、それを言葉にする必要はなかった。誰も困っていないし、何も起きていない。


 遠くの小川の音が、少しだけ近く聞こえる。


 丘の上の空気が透明になったような、濃くなったような、不思議な感覚だけが残る。過ぎていく途中の季節の、残り香。

 

 ニアムは気づかないうちに、小さく息を吐いた。音にならないほどの、ほんの短いハミング。それは風の中に混ざって、すぐに消える。


 一瞬だけ、世界が静かになる。誰も喋らない。

 鳥の声も止まっていたのかもしれない。

 ただ、春が少し近づいたみたいな感覚だけがそこにあった。


 そして次の瞬間には、何も変わっていない。


「これ、甘すぎない?」


 フィンが言う。


「え、そう?」


 メイヴが笑う。

 会話がまた動き出して、空気はいつもの速さに戻っていく。


 エルマは草に手をついたまま、小さく息を吐いた。気づいたのは、たぶん一瞬だけ。それで十分だった。


 ニアムは視線を空へ向ける。春はまだ、満ちきっていない。

 ただ静かに、少しずつ近づいてきているだけだった。


 *


 紙コップの中身がなくなるころ、光は少しだけ傾き始めていた。


 まだ明るい。けれど、午後のいちばん高い場所はもう過ぎている。


 メイヴが最後のクッキーを半分に割って、何も言わずに差し出した。

 ローワンが受け取って、フィンがそれを見て小さく肩をすくめる。

 特別な意味はない。ただ、いつもの流れだった。


 ニアムはお茶の残りをゆっくり飲んだ。

 温度が少し下がっている。それでも喉に落ちる感覚はやわらかくて、春の空気とよく似ていた。


 スカーフの端が風に揺れる。

 今日は結び目をきつくしなくても平気だった。


 エルマが立ち上がって、大きく伸びをする。


「そろそろ片づけようか」


 誰も反対しない。

 ピクニックシートの端を持ち上げると、草が押しつぶされていた跡が残る。けれど風が吹けばすぐ戻る。


 紙袋をたたむ音。カップを重ねる音。小さな動きが重なって、ゆっくり終わりの形になっていく。

 フィンがシートをたたむ手を止めて、丘の下を見た。


「……人増えたな」


 遠くの道に、散歩する人影がいくつか見える。

 春だから、と誰かが言いそうで、誰も言わなかった。


 ニアムは草の上に残ったパンくずを指先で払ってから、立ち上がる。


 ふいに胸の奥から、短い旋律が浮かんだ。声にしないほど小さなハミング。

 それは終わりの音ではなく、続きの音だった。


 エルマが振り返る。


「どうしたの?」


「なんでもない」


 ニアムは笑った。ほんの少しだけ。

 終わることを惜しむ笑いではない。まだ続いていることを知っている笑い。


 丘を下りるとき、風が背中を押した。

 太陽はまだ高く、影は長くなりきっていない。帰るだけだ。また来ればいい。


 メイヴが靴先で小石を転がしながら言う。


「いい日だったね」


 誰かが頷く。


 ローワンも、フィンも、エルマも、言葉にはしないけれど。

 ニアムはその言葉のあとに、もう一度だけ小さくハミングした。


 気づいたのは、たぶん風だけだった。


 丘の向こうで、草が揺れている。

 花はまだ咲ききっていない。空気の奥に、これからの季節の気配が薄く残っている。春は終わらない。ただ、呼吸を続けている。


 五人の足音は、ゆっくりと学校の方へ戻っていった。


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