第110話「影の気配」
第110話
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その朝、霧滝の里はいつもと変わらず静かだった。
湖面には薄い霧が漂い、3方の崖から落ちる滝が柔らかな音を重ねている。
光苔の淡い光が霧に溶け、里全体がゆっくりと目を覚ましていく。
エリシアは家の前で伸びをし、深く息を吸い込んだ。
昨日の薬草採りの疲れはまだ少し残っていたが、里の空気を吸うと胸の奥がすっと軽くなる。
「今日も、いい朝だね」
角に触れると、ひんやりとした感触が指先に伝わった。
その瞬間――ほんの一瞬だけ、角の奥がざわりと揺れた。
「……?」
エリシアは首をかしげた。
痛みでも、強い反応でもない。
ただ、風が角を撫でたような、そんな微かな違和感。
気のせいかもしれない。
そう思い直して、家の中へ戻った。
朝食の準備をしている母セラフィナが、エリシアに気づいて微笑んだ。
「おはよう、エリシア。昨日はよく頑張ったわね」
「うん。お父さん、少し楽になったみたいでよかった」
寝台の上で横たわる父ラザロは、穏やかな表情で眠っていた。
薬草の効果が出ているのだろう。
角の脈動も、昨日より落ち着いている。
「今日は授業の日でしょう? あまり無理しないでね」
「大丈夫だよ、お母さん」
エリシアは笑って答え、家を出た。
湖のほとりでは、すでにミラとルークが待っていた。
「エリシア、おはよう! 昨日はちゃんと休めた?」
「うん、大丈夫だよ。心配かけてごめんね」
ミラは胸を撫で下ろし、ルークは腕を組んでうなずいた。
「今日は授業だけにして、のんびりしろよ。ほら、行こうぜ」
3人は笑い合いながら広場へ向かった。
今日の授業は、ノクティカーナ家の家長であり、夜の結界術を司るエヴァンジェリナが担当だ。
漆黒の角を持つ彼女は、静かな雰囲気をまといながらも、里の誰よりも“気配”に敏いことで知られている。
「皆、よく来ましたね」
エヴァンジェリナの声は、霧のように柔らかく、しかし芯のある響きを持っていた。
「今日は“影の気配を読む”練習をします。
光があれば影があるように、魔力にも“影”があります。
それは悪いものではありません。
ただの流れの一部です。
けれど時に、外からの気配が混ざることもあるのです」
エリシアの胸が、ほんの少しだけざわついた。
――今朝感じた違和感を思い出したのだ。
「では、湖の方を向いて目を閉じて。角に意識を集中させてください」
エリシアは言われた通りに目を閉じた。
角に意識を向けると、湖の魔力がゆっくりと流れ込んでくる。
水の冷たさ。
光苔の温かさ。
滝の振動。
それらが混ざり合い、里全体がひとつの生命体のように感じられる。
しかし――
「……あれ?」
エリシアは眉をひそめた。
湖の魔力の奥に、ほんの微かな“揺らぎ”があった。
風のような、波紋のような、触れれば消えてしまいそうな気配。
でも確かに、何かが混ざっている。
「エリシア、どうしました?」
エヴァンジェリナが声をかけた。
「……なんだか、いつもと違う気がして」
「ふむ……」
エヴァンジェリナはエリシアの角に手をかざし、静かに目を閉じた。
しばらくして、彼女はゆっくりと手を下ろした。
「大丈夫。危険なものではありません。
外界の魔力が少し流れ込んだだけでしょう」
「そうなんだ……」
エリシアは胸を撫で下ろした。
でも、角の奥のざわつきは完全には消えなかった。
授業が終わると、子どもたちは湖で遊び始めた。
エリシアはミラと一緒に家路についたが、心のどこかで“影の揺らぎ”が気になっていた。
「エリシア、どうしたの? なんか元気ないよ」
「ううん、なんでもないよ」
エリシアは笑ってみせたが、ミラはじっと彼女を見つめた。
「……無理しないでね」
「ありがとう」
その優しさが胸に染みた。
家に戻ると、父ラザロの容態が少し悪化していた。
角の脈動が強く、魔力が暴れようとしている。
「お父さん……!」
エリシアが駆け寄ると、ラザロは苦しげに目を開けた。
「……エリシア……」
「大丈夫、すぐ薬草を煎じるから!」
セラフィナが急いで薬草を準備する。
エリシアは父の手を握り、必死に魔力を抑えようとした。
そのとき――
「……外界……あの時……ヴィオデス様……」
ラザロがかすれた声で呟いた。
「お父さん……?」
エリシアは息を呑んだ。
外界。
ヴィオデス様。
それは、授業でもほとんど語られない“禁じられた言葉”だった。
セラフィナが震える声で言った。
「エリシア……あなたは知らなくていいの」
「……えっ、で、でも……」
エリシアの胸が強く締めつけられた。
その夜、エヴァンジェリナが家を訪れた。
父の容態を確認した後、エリシアに静かに言った。
「エリシア。
あなたは優しい子です。
でも、知りすぎるのは危険なこともあります。
外界のことは……今はまだ、知らなくていい」
「……どうして?」
「それは――」
エヴァンジェリナは言葉を飲み込んだ。
霧の向こうで、滝の音が静かに響いている。
「いつか話す時が来ます。
でも今は、里の平和を信じていなさい」
そう言って、彼女は去っていった。
エリシアは家の前に座り、光苔の輝く湖面を見つめた。
霧が揺れ、滝の音が優しく響く。
――でも、角の奥のざわつきは、消えなかった。
「……薬草を採りに行く森の向こうには、どんな世界が広がっているんだろう」
呟いた声は、霧に溶けて消えていった。
里は今日も静かで、美しかった。
けれどその静けさの奥に、ほんのわずかな“影”が揺れていた。
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