第109話「薬草の森」
第109話
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霧滝の里にまたいつもの朝が訪れる。
湖面を覆う薄い霧は、夜の名残を抱えたままゆっくりと揺れ、3方の崖から落ちる滝の音だけが、柔らかく空気を震わせている。
エリシアは、家の前で深く息を吸い込んだ。
霧の冷たさが胸の奥まで染み渡り、角の根元がひんやりとする。
「……よし」
小さく呟いて、肩にかけた薬草袋を握り直した。
今日は薬草採りの日。
週に2度、必ず行くと決めている。
家の中から、母セラフィナが心配そうに顔を出した。
「エリシア、本当にひとりで大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、お母さん。いつも通りだし、すぐ帰ってくるから」
エリシアは笑ってみせた。
その笑顔は、母を安心させるためのものだと自分でも分かっている。
セラフィナは娘の角にそっと触れた。
白銀の角は朝の光を受けて淡く輝き、ホルヴァルガ家の血の強さを静かに示していた。
「……気をつけてね。あなたの角は薬草を探せるけれど、魔物も寄ってくることがあるのだから」
「うん。分かってる」
エリシアは母の手を握り返し、優しく微笑んだ。
そのまま家を離れ、湖のほとりを歩き始める。
霧滝の里の端にある“影の回廊”へ向かう道は、朝の光苔が淡く照らしていた。
子どもたちが遊ぶ声が遠くから聞こえてくる。
ミラとルークが手を振ってくれた。
「エリシア、気をつけてね!」
「帰ってきたら、また湖で遊ぼうぜ!」
「うん、すぐ戻るよ!」
エリシアは手を振り返し、影の回廊へと足を踏み入れた。
洞窟の中はひんやりとしていて、光苔の淡い光が壁を照らしている。
角に意識を向けると、外界の魔力の流れが微かに伝わってきた。
――今日も、薬草は森の奥にある。
角がそう告げていた。
洞窟を抜けると、冥界の大森林が広がっていた。
里とは違い、ここは霧が濃く、木々の影が深い。
魔力の気配が重く、空気がひりつくようだ。
エリシアは息を整え、森の中へと歩みを進めた。
薬草は、森の奥の“魔力の溜まり”に生える。
その場所は危険だが、薬草の魔力を感知できるのはホルヴァルガ家の角だけ。
だから、エリシアが行くしかない。
森の中を進むと、角が淡く光り始めた。
薬草が近い証拠だ。
「……あっちだね」
エリシアは木々の間を抜け、苔むした岩のそばにしゃがみ込んだ。
そこには、淡い青色の葉を持つ薬草が静かに揺れていた。
葉からは微かな魔力の波が広がり、角がそれに応えるように震える。
「見つけた……」
エリシアは慎重に薬草を摘み取り、袋に入れた。
父の魔力暴走を抑えるためには、この薬草が欠かせない。
そのとき――
ガサッ。
背後の茂みが揺れた。
エリシアの心臓が跳ねる。
角が警告するように淡く光った。
「……魔物?」
ゆっくりと振り返ると、そこには黒い影が立っていた。
4足で、背中に棘のような突起を持つ小型の魔物。
目が赤く光り、エリシアをじっと見つめている。
エリシアは息を呑んだ。
魔力を使えば倒せる。
それは分かっている。
でも――怖い。
魔物は低く唸り、飛びかかってきた。
「……っ!」
エリシアは反射的に角に魔力を集中させた。
白銀の光が弾け、魔物の動きを弾き返す。
魔物は地面に転がり、しばらくもがいた後、森の奥へ逃げていった。
静寂が戻る。
エリシアは膝をつき、震える手を胸に当てた。
「……怖かった……」
魔物は倒せる。
でも、恐怖は消えない。
それでも――
「帰らなきゃ……お父さんのために」
エリシアは立ち上がり、薬草袋を抱きしめた。
森の奥からは、まだ魔物の気配が漂っている。
角がざわつき、早く帰れと言っているようだった。
エリシアは足早に森を抜け、影の回廊へと戻った。
洞窟を抜けると、霧滝の里の優しい光が迎えてくれた。
湖の水音が耳に心地よい。
「エリシア!」
ミラが駆け寄ってきた。
「大丈夫だった? 遅かったから心配したよ!」
「うん……ちょっと怖かったけど、平気だよ」
エリシアは笑ってみせた。
ミラは安心したように胸を撫で下ろした。
「ほら、ルークがまた石投げの練習してるよ」
「また?」
「うん、3回跳ねさせるって張り切ってる」
エリシアはくすっと笑った。
その笑顔は、森での恐怖を少しだけ忘れさせてくれた。
家に帰ると、母がすぐに薬草を煎じ始めた。
薬草の香りが部屋に広がり、父の呼吸が少しだけ楽になったように見えた。
「……ありがとう、エリシア」
ラザロは弱々しくも優しい声で言った。
「ううん。お父さんが元気になるなら、何度でも行くよ」
エリシアは父の手を握り、微笑んだ。
夜になり、里は光苔の光に包まれた。
湖面には無数の光が揺れ、星空が地上に降りてきたようだった。
エリシアは湖のほとりに座り、今日の出来事を思い返した。
怖かった。
でも、帰ってきたら、みんながいて、家族がいて、優しい光があった。
「……次も、がんばろう」
光苔の輝きが霧に溶け、湖面に静かに揺れていた。
エリシアはその光景に身を委ね、穏やかな夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
今日も、里は優しく、静かで、美しかった。
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