第108話「霧滝の里ヴァルノクス」
第108話
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『ぐーたら第三王子は、魔法の廃れた世界で、龍魔王の力をこっそり使い、世界を救う』 <王都アイーズ編>とあわせてお楽しみください。
霧が揺れていた。
朝の光がまだ弱々しく、盆地全体を包む薄い白の帳は、まるで夢の続きのように静かに漂っている。
3方の切り立った崖からは、いく筋もの細い滝が流れ落ち、柔らかな水音を響かせていた。滝はどれも優しく、怒りや荒々しさとは無縁で、ただ里を守るように、抱きしめるように落ち続けている。
その滝の音が、朝の合図だった。
エリシアは、木の香りのする寝台の上でゆっくりと目を開けた。
視界に入るのは、家の天井に吊るされた光苔のランプ。
夜の間は星のように輝いていたそれも、今は淡く光を落とすだけで、朝の訪れを静かに告げている。
エリシアは自分の角にそっと触れた。
白銀色の角は、まだ幼さを残しながらも、ホルヴァルガ家特有の澄んだ輝きを帯びている。角に触れると、里の魔力の流れが微かに伝わってきた。
湖の水面が揺れ、滝が歌い、光苔が呼吸する――そんな気配が角を通して感じられる。
「今日も、いい朝だね」
小さく呟いて身を起こすと、窓の外には霧滝の里が広がっていた。
中央に澄んだ湖があり、その周りに30軒ほどの家が、自然と調和するように並んでいる。木と黒石を組み合わせた独特の建築は、どれも森の一部のようで、人工物というより“生きている家”と呼んだ方がふさわしい。
湖面には薄い霧が漂い、3方の崖から落ちる滝が静かな音を重ねていた。
この光景を、エリシアは毎朝のように眺めている。
それでも飽きることはなかった。
――ここが、角魔族ヴァルノクスの隠れ里。
外界から完全に隔絶された、彼らの本拠地。
エリシアは着替えを済ませると、家の外へ出た。
朝の空気はひんやりとしていて、霧が肌に触れるたびに、まるで優しい手で撫でられているような感覚があった。
「エリシアー! おはよう!」
湖のほとりから、友達のミラが手を振っている。
彼女の角は淡い青色で、ネレアーク家の特徴がよく出ていた。
「おはよう、ミラ。今日も早いね」
「だって今日は授業で“影の読み方”をやるんだよ? 楽しみじゃない?」
「うん、楽しみ」
エリシアは微笑んだ。
ミラの隣には、ヴェルホニア家の少年ルークもいて、湖に石を投げて遊んでいた。
「エリシア、今日こそこの石、3回跳ねさせてみせるからな!」
「昨日も言ってたよね、それ」
「今日は本気だ!」
ルークが勢いよく石を投げると、石は湖面に触れ――一回だけ跳ねて沈んだ。
「……あれ?」
「一回は跳ねたね。すごいよ」
「慰めなくていい!」
そんなやり取りに、エリシアはくすくすと笑った。
この穏やかな時間が、彼女は大好きだった。
やがて、里の中央にある広場に子どもたちが集まり始めた。
今日の授業は、オルドホン家の家長であり、里の指導者のひとりでもあるマグダレナが担当だ。
「皆、よく来たね。今日は“角で魔力の流れを読む”練習をするよ」
マグダレナの声は柔らかく、しかし里の霧のように深みがあった。
「まずは湖の方を向いてごらん。目を閉じて、角に意識を集中させるんだよ」
エリシアは言われた通りに目を閉じた。
角に意識を向けると、湖の魔力がゆっくりと流れ込んでくる。
水の冷たさ、光苔の温かさ、滝の振動――それらが混ざり合い、里全体がひとつの生命体のように感じられる。
角の奥で、湖の魔力が淡く光っているのが分かる。
「さすがエリシアだね。ホルヴァルガの血は伊達じゃないよ」
マグダレナが微笑むと、周りの子どもたちも感嘆の声を上げた。
「エリシア、すごい!」
「どうやったの?」
「えっと……なんとなく、かな」
エリシアは照れくさそうに笑った。
自分が特別だとは思っていない。ただ、角が教えてくれるだけだ。
授業が終わると、子どもたちは湖の周りで遊び始めた。
エリシアもミラと一緒に光苔の洞窟へ向かう。
「見て、今日の光苔、いつもより明るいよ」
「ほんとだ……きれい」
洞窟の壁一面に生えた光苔が、淡い金色の光を放っていた。
その光は霧に反射し、洞窟全体が星空のように輝いている。
「夜になったら、もっときれいになるよね」
「うん。湖に映る星みたいで……」
エリシアは言葉を続けようとして、ふと黙った。
胸の奥に、少しだけ痛みが走ったからだ。
――父のことを思い出した。
遊びの時間が終わり、家に帰ると、母セラフィナが父ラザロの看病をしていた。
ラザロは寝台に横たわり、呼吸は浅く、角は淡く脈打っている。
「おかえり、エリシア」
ラザロは微笑んだ。
その笑顔は優しいが、どこか苦しげだった。
「お父さん、今日はどう?」
「大丈夫だよ。エリシアの顔を見たら、元気が出た」
エリシアは父の手を握った。
その手は温かいのに、どこか力が抜けている。
「明日、薬草を採りに行くね。ちゃんと効くように、いいのを見つけてくる」
「……ありがとう」
ラザロの声はかすかだったが、確かに感謝が込められていた。
夜になり、里は光苔の光に包まれた。
湖面には無数の光が映り込み、まるで空と地上の境界が消えたようだった。
エリシアは家の前に座り、湖を眺めた。
霧が光を受けて揺れ、滝の音が静かに響く。
「……この里が、大好き」
彼女は小さく呟いた。
この美しい世界を守りたい。
父を助けたい。
友達と笑っていたい。
光苔の光が霧に溶け、湖面に星のような揺らぎを落としていた。
エリシアはその光景を胸いっぱいに吸い込み、今日もまた、優しい一日が終わっていくことに幸せを感じていた。
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