(九)命脈
やっほー、みんな元気?
秋田もやっと暖かくなってきたくらいかな?
あたしは……まあ、なんかちょっと遠いところにいるんだけど、心配しないで。
お父さん。
お酒飲みすぎてない? 身体には気をつけてよね。
薫。
この前約束したシュークリームだけど、当分買って帰れなそう。ごめんね。
お母さん。
今度、もしも、私がそっちに帰った時、
あたしと薫の生まれた時の話をたくさん聞かせてほしい。
****
……──ナルッ!!
あの夜、轟々と燃え上がる路地の片隅で、スマホを握りしめたまま呆然としていた葵子の耳に、瓦礫を掻き分ける足音が聞こえた。血相を変えて駆けつけてきた今朝子は、葵子の腕の中でピクリとも動かなくなったナルを見た瞬間、その場に崩れ落ちた。
葵子は無言のまま、腕の中の小さな体を今朝子へと差し出した。今朝子は震える手でゆっくりとそれを受け取る。煤で汚れた我が子の冷たい顔をしばらく見つめていたが、やがてその肩が激しく震え始めた。
──ッ‼ ナ……ッあ……ッ‼
あの常に冷静で、どんな時も凛としていた今朝子が、身重の体で瓦礫に這いつくばり、ナルの冷たくなった顔に自分の頬をすり寄せ、声にならない悲鳴を上げて──慟哭した。
天を仰ぎ、髪を振り乱して泣き崩れるその姿を、葵子は一生忘れることはできない。
あの丘へ、行こう。
夜が明けても、東京の空は不気味な鈍色に澱んでいた。黒い煙がくすぶる焦土の中、葵子と今朝子はナルの小さな亡骸を抱きかかえ、あの丘を目指して黙々と歩き続けていた。
道を進む二人の目に飛び込んできたのは、道端の荷車に山積みにされた名もなき遺体だった。かつては誰かの宝物であり、名前があったはずの命が、今はまるで廃棄物を処理するかのように無造作に放り込まれていく。そのあまりにも惨烈な光景に、葵子は今朝子の袖を掴み、腕の中のナルを押し潰さんばかりに強く抱きしめた。
あんな冷たくて暗い荷車に、ナルを乗せることなんて絶対にできない。
葵子の胸の内で、激しい怒りと拒絶が渦巻く。それは今朝子も同じ思いだった。たとえ死してなお、ごみのように雑に扱われるくらいなら、自分たちの手で、せめて少しでも温かい土をかけてあげたい。身重の体で一歩一歩、瓦礫を踏みしめる今朝子の背中からは、言葉にならない、けれど烈しい母親としての決意が痛いほど伝わってきた。
「今朝子さん、疲れてない?」
「大丈夫よ、ありがとう」
お寺へ行けば、ナルもまたあの〝山積みの一部〟にされてしまうかもしれない。そんな恐怖が二人を突き動かしていた。かつてナルが、見ず知らずの少年の無事を案じて炎を見つめていた、あの丘しかなかった。ナルの優しさが確かにそこにあったという記憶だけが、この地獄のような現実の中で唯一の道標だった。誰の目にも触れぬよう、二人は互いの体温でナルを守るように挟み込み、緩やかな坂を登って丘の上へと辿り着いた。
「はあ……」
丘を登り切ったところで、葵子は大きく息を吐いた。そして、それまで大切に抱きかかえていたナルの小さな亡骸を、丘の柔らかな草の上へとそっと横たえた。空っぽになった両腕をやり場をなくしたように見つめる。隣に並んだ今朝子もまた、息を整えながら、草の生い茂る静かな平地へ視線を落とした。
「……静かだね」
「ええ……。ナルも、ここなら寂しくないわね」
眼下に広がる東京は、黒い骸のような姿を晒して今もあちこちで煙が上がっていたが、丘の上だけは嘘のように静まり返っていた。
「ここにしましょう」
「うん」
お寺のように掘り起こされる心配もない。二人は真っ黒に汚れた素手で、固い地面を必死に掘った。
「こんな狭いところで、ごめんね……」
そう呟きながら、なんとかナルが収まるほどの小さな穴を作る。そして、布に包まれたナルをそっと横たえる。
二人は土を被せることも忘れ、
「……」
しばらく無言でナルの顔を見つめ続けた。今になって、よくナルの顔を見るとずいぶん痩せていたことに気づいた。その事実が、葵子の胸をキリキリと締め付ける。
「……あ」
「どうしたの?」
土を被せる前、葵子は思い出したかのようにリュックの底から現代の化粧ポーチを取り出した。何か大切な記憶を呼び起こすように、透明なピンク色のリップグロスをじっと見つめると、今朝子の目の前にそっと差し出して見せた。
「今朝子さん……これ、塗ってあげてもいい?」
「ええ……きっとこの子も喜ぶわ」
葵子は指先で、血の気を失ったナルの小さな唇に、そっとそれを塗ってやった。
「ピンク……桃色、似合ってるよ」
「本当。よかったわね、ナル」
小さな風が吹いた。ナルが、少し笑ったように見えた。
「あとさ、これ。全部あげる」
そしてコンパクトと一緒に、ナルの冷たい両手にしっかりと握らせる。
「……戦争が終わったら、絶対に掘り起こして、綺麗なお墓に入れてあげるからね」
小さな体は少しずつ土に覆われ、今やポツンと青白い顔だけが外に出ている状態だった。最後に、今朝子が慈しむようにナルの冷たい頬を両手で包み込んだ。そして、その小さな耳元に顔を寄せ、
「さようなら」
と、絞り出すような声で小さく呟いた。それは、二度と会えない現実を受け入れる、本当に悲しい別れの言葉だった。
小さな亡骸に、二人でそっと最後の土を被せる。ナルの体が冷えないようにと祈るように、丁寧に、丁寧に土を盛り上げていった。
その小さな土の山の上に、拾ってきた木片に石で『佐伯ナル』と彫り、墓標として立てた。とても質素だけれど、昇ってきた朝の光がその木片を真っ直ぐに照らし出し、どこか神秘的に見えた。
溢れた涙が葵子の煤だらけの頬を伝って、白い跡を作った。
丘から戻り、改めて二人が見る空襲直後の東京は、まさに阿鼻叫喚だった。あちこちで身内の遺体を探す人々が彷徨い、炭と化した死体が荷車で次々と運ばれていく。
だが、葵子と今朝子は悲しみに浸る間もなく、今日を生きるための寝床を探さなければならなかった。見渡す限りの黒い平野と化した東京の街。
「家……どの辺か分かる?」
「……見当もつかないわね」
焦げた木材と灰の匂いが染み付いた焦土に、虚脱状態の人々が焼け残ったトタン板や木材を拾い集め、バラックと呼ばれる粗末な小屋をぽつぽつと建て始めている。
葵子と今朝子も、泥まみれになりながら資材をかき集め、隙間風だらけの小さなバラックを建てて身を寄せた。もはや、ここが本当に今朝子の家があった場所なのかどうかすら分からないが、そんなことを気にしている余裕のある人間など一人もいなかった。
拾い集めた黒焦げの木材を柱にし、赤錆の浮いたトタン板や焼け残ったトタン屋根を継ぎ接ぎして壁を作っただけの、箱のような粗末な外観。内側もひどいもので、隙間からは容赦なく風が吹き込み、雨露をしのぐのがやっとの薄暗い空間だった。
「窓も、台所もないね」
「ええ。お鍋だってないわ」
「今朝子さんちって、めっちゃいい家だったんだね」
「そうよ、豪邸だったのよ」
久しぶりに今朝子がふっと笑い、葵子も小さく笑い返した。
「……今日って、配給あるのかな?」
「さあ……どうかしらね」
何もない、ただゴザを敷いただけの薄暗い空間。その片隅に、今朝子はミチルの白木の箱を置き、静かに手を合わせていた。
焦土に冷たい夜風が吹き抜け始めた頃。隣を隔てる壁や塀が一切ないこの焼け野原では、少し離れたバラックから赤ん坊の泣き声や、誰かのむせ返るような咳、ひそやかな啜り泣きが、すぐ耳元のように生々しく聞こえてくる。
二人は薄暗いバラックの中で、拾ってきた木箱を裏返して机代わりにし、ゴザの上で向き合って座っていた。その上には、なんとか手に入れた配給のすいとんがよそわれた二つのブリキの椀が置かれている。
「きっと……」
すいとんを少し口に含んでから、傷だらけの椀を木箱の上にコトリと置き、今朝子がぽつりと呟いた。
「きっと、嬉しかったんでしょうね」
「え?」
炎の揺らぐランプの灯りが、彼女の痩せた横顔を照らしている。
「……あの子はね、ほんとにあなたのことを実の姉だと思っていたのよ」
「……うん」
「葵子さん、ナルと最期まで一緒にいてくれて……ありがとうね」
その穏やかな声に、葵子は胸を突かれた。ナルとはぐれてしまったことを、今朝子は一度も責めなかった。
「あたしも……本当の妹みたいだった」
「……」
「もっと……もっと、いろんなこと教えてあげたかった……」
「葵子さん……」
言葉を絞り出すと、今朝子は優しく微笑んで葵子の背中を撫でてくれた。隙間風が吹き込む無機質で冷たいバラックの中だったが、肩を寄せ合う二人の間には、確かに小さな、けれど力強い温もりが宿っていた。
翌日の昼下がり。前日までの淀んだ空気が嘘のように、この日の天気はすっきりと澄み渡った快晴だった。日の光が焦土を照らし、葵子の沈んだ気分もほんの少しだけ晴れるような気がした。
葵子は拾ってきた木片と泥で、バラックの壁の隙間を塞ぐ作業をしていた。手を止め、どこまでも平坦になった真っ黒な東京の景色を眺める。遠くの方まで遮るものが何もなく、地平線のように空が広く見えた。
「少し、休憩しましょう」
バラックの中から今朝子が出てきて、その隣に腰を下ろすのを待って、葵子は口を開いた。
「……あのね、今朝子さん」
「うん?」
「今はこんなだけどさ。ここらへんは超でっかいビルだらけになるんだ」
「ビル?」
「そう。タワーマンションとか、超オシャレなホテルとか。なんか、いっつも工事してるんだよね」
八十年後、ナルが生きるはずだった未来の景色。自分が当たり前のように消費していたあの退屈な景色が、どれほど奇跡の上に成り立っていたのか、今なら痛いほど分かる。
今朝子は葵子の言葉を馬鹿にすることなく、焦土の先に広がる青空を見つめて目を細めた。
「……やっぱり、あなたって不思議な子ね」
今朝子はふう、と小さく息を吐き、愛おしそうに自身のお腹を手のひらで撫でさすった。
「……でも、なんだかそんな気がしてくるわ」
「絶対そうなるんだって。あたしが保証する!」
ドヤ顔で頷いた、その時だった。
「っつ……」
隣に座っていた今朝子が、突然お腹を押さえて呻き声を上げ、その場にうずくまった。
「え……今朝子さん? なに、どうしたの⁉」
見ると、今朝子の足元から水のようなものが流れ出していた。
「は……破水、した……」
「う、嘘でしょ、ちょっと待って! まだ予定日より早いんじゃ……」
「……痛っ、つぅ……陣痛が……」
額に脂汗を浮かべ、今朝子が荒い息を吐く。
「どっ、ど……どうし、どうしよ⁉」
救急車は呼べない。産婆さんがどこにいるかも分からない。いざという時のために、かかりつけの産婦人科の場所や先生の名前を今朝子から聞いて覚えていたが、あの空襲で病院周辺もすべて灰になってしまったはずだ。
「と、とりあえず中に、中に入って横になろう……‼」
葵子はパニックになりながらも、うずくまる今朝子の体を必死に抱え上げ、バラックの中のゴザの上へと運び入れた。今朝子は折れそうなほど強く葵子の袖を掴み、
「お願い……誰か、人を呼んできて……」
額に脂汗を浮かべ、必死に声を絞り出す。
「わかった、すぐ連れてくる! ちょっとだけ待ってて!」
葵子は強く言い残すと、弾かれたようにその場から走り出した。
バラックの立ち並ぶ路地へ、通りがかる人々に手当たり次第に声をかける。とにかく自分にできることは、誰かお産ができる経験者を探すことだけだ。
もし見つからなかったら? 最悪、自分がやるしかないのか……。
震える手で通行人に懇願する。
「あの、お産! お産ってできたりしますか⁉」
「すいません、誰か、お産できる人いませんか!」
だが、皆自分のことで精一杯で、足早に過ぎ去っていく。
どうしよう、誰も助けてくれない。もう自分でやるしかない。
腹を括り、泣きそうになりながらバラックへ戻ろうと踵を返した時だった。
「どうしたの? 誰かお産かい?」
ふと、もんぺ姿の年配の女性が、十歳くらいの少年を連れて足を止めた。
「……そ、そうなんです! うちの人が、破水しちゃって……!」
「あら、そりゃ大変だ。その人はどこにいるんだい?」
「えっ! お産できるんですか⁉」
「まあね。案内してくれるかい?」
「こ、こっち……こっちです‼」
葵子はおばさんの腕を引っ張るようにして、急いでバラックへと導いた。少年もまた、無言のまま二人の後を小走りで追ってくる。
「今朝子さん、お産できる人連れてきたよ!」
「あ……葵子さん……」
今朝子はゴザを強く握りしめ、指の関節を真っ白にしながら、押し寄せる陣痛の波を必死にこらえていた。額には大粒の汗が浮かんでいる。
「ちょっと失礼するよ。大丈夫かい?」
「あの……破水が、始まっちゃって……」
「どれどれ……あら、もう頭が下りてきているわね」
「えっ……頭って、赤ちゃんの頭⁉」
パニックになる葵子とは対照的に、うずくまる今朝子を見たおばさんの口調はひどく穏やかで落ち着いていた。
「焦らなくても大丈夫よ。お湯を沸かしたいから、お姉ちゃんは綺麗な水と清潔な布きれを用意してちょうだい」
「お湯!? どーしよ……えーと、水と、あと……あと何!?」
「テツジさん」
おばさんが優しく声をかけると、バラックの外で待っていた少年が中を覗き込んだ。
「このお姉ちゃんと一緒に水汲んできておくれ」
「うん」
テツジと呼ばれた少年は、坊主頭に古びた国民服を着て、くたびれた戦闘帽を深く被っていた。この少年もどことなく落ち着いた雰囲気を漂わせている。少年は葵子に静かに目をやった。
「行こう」
「……え、あ、はいっ!」
葵子は少年に案内され、近くの共同水汲み場へと走った。黒焦げになった柱や鋭い瓦礫を避け、まだ微かに燻る灰の匂いを吸い込みながら急ぐ。水汲み場には幸い誰もおらず、二人はすぐに手押しポンプを使うことができた。
手桶になみなみと水を入れ、そのズシリとした重さに葵子がよろめいた瞬間だった。細身の少年が無言で手桶の持ち手を奪い取るように掴み、葵子の代わりに軽々と持ち上げてみせた。
「あ……ありがと」
「戻ろう」
少年は胸を張るわけでも、照れるわけでもなく、ただかいがいしく目前の作業をこなすように淡々と歩き出した。
二人は水をこぼさないよう、黒焦げた瓦礫を避けながら急いでバラックへの道を戻る。
「名前さ、なんていうの?」
葵子が声をかけると、少年は足を止めず、顔だけをこちらへ向けた。
「テツジ」
「テツジくん、ね。ほんと、君のお母さんがいなかったら、超やばかったよ」
歩調を合わせながら話しかけると、戦闘帽のつばの下で、テツジは前を向いたままぽつりと呟いた。
「……母ちゃん、じゃないんだ」
「え?」
「オレ、大空襲の夜に親とはぐれたんだ」
手桶の水をこぼさないように歩幅を合わせながら、テツジはぽつりぽつりと話し始めた。
「次の日、自分の家があった焼け跡で、真っ黒になった父ちゃんと母ちゃんたちのそばでずっと座ってたんだ」
「……そう、だったんだ……ごめん」
「どうすることもできなくて、お腹も空きすぎて立てなくて」
葵子は黙って耳を傾ける。
「そしたら、通りかかったスズさんが、配給の握り飯を半分くれたんだ」
「スズさん? あ、あのお母さんか」
「それで、一緒に父ちゃんたちの骨拾ってくれて……」
「……そっか」
葵子は焼け野原のあちこちで、似たような光景を数え切れないほど見てきた。
「行く当てがないなら、一緒に来るかって、手を引いてくれたんだ」
テツジは前を向いたまま、静かに言葉を継いだ。
「オレ、スズさんに助けてもらったんだよ。だから、今度はオレが手伝うんだ」
言葉数は少なかったが、その声にはおばさんへの深い恩義と、不器用ながらも真っ直ぐな優しさが滲んでいた。葵子は息を呑んだ。
「うん、一緒にがんばろうよ」
「……急ごう」
テツジは、戦闘帽のつばを少し下げて、ほんの少しだけ照れたような顔を見せて先を急いだ。血の繋がりすらなくとも、この地獄のような焦土の中で、人は他人の痛みを背負い、互いに支え合って生きようとしているのだ。
二人は並々と水の入った重い手桶を必死に運び、息を切らしながらやっとの思いでバラックへ辿り着いた。
「水、持ってきました!」
「ご苦労さま。じゃあ次」
スズは休む間も与えず、すぐに次の動作を指示した。
「いいかい、一気に全部沸かさないで。沸かしたお湯と水を混ぜて、ちょうどいい温度にするんだよ」
「はい!」
スズの的確な指示のもと、葵子は竈に薪をくべ、火吹き竹で狂ったように息を吹き込みながらお湯を用意した。
「フウッ……フウッ……!」
ゴザの上で、今朝子が壮絶な痛みに耐えながら息を逃がしている。
「……そうそう、あんた上手だね。もうちょっと、力んでちょうだい」
スズが手際よく今朝子の体を支える。
「あ……葵子さん……」
今朝子が痛みに顔を歪めながら、葵子の手を強く握りしめてきた。骨が砕けそうなほどの強い力。それは、命を生み出そうとする人間の、圧倒的で生々しい力だった。
「大丈夫、大丈夫だから! 頑張って!」
葵子は今朝子の手を両手で握り返し、汗まみれの額を拭った。
「……よし、もうすぐだよ」
スズが額の汗を拭いながら言った。
「じゃあ、あんたたちは外で待っててちょうだい」
「え、あっ、はい!」
「うん」
葵子は本当に今朝子を置いていっていいのかと不安そうに何度も振り返りながら外へ出た。テツジも戦闘帽を深く被りなおし、静かにバラックの外へ出る。
焼け野原とは対照的に、空はすっきりと澄んでいた。二人は外でじっと息を潜めて待つ。
──ッ!! ウ──ッ!!……
中から今朝子の最後の力を振り絞るような凄絶な叫び声が聞こえ、葵子はいたたまれなくなって両手で強く耳を塞ぎ、目を閉じた。ふと横を見ると、テツジも葵子に背を向けるようにして地面にしゃがみ込んでいる。
そして、焦土となった真っ黒な東京の空気を震わせるように、新しく力強い命の産声が響き渡った。
「二人とも、入っておいで」
スズの声に、葵子は恐る恐る、心臓を早鐘のように鳴らしながらバラックの中へ足を踏み入れた。テツジも葵子の後ろから、少しうつむき加減で静かに入ってくる。
「あっ……」
「生まれたよ。元気な女の子だ」
薄暗い小屋の中で、しわくちゃで真っ赤な赤ん坊が産声を上げている。葵子は、その神秘的で生々しい光景に息を呑んだ。
「今朝子さん……やった、やったね……!」
葵子は今にも泣き出しそうな表情で、汗だくの今朝子にねぎらいの言葉をかけた。
スズが手際よくへその緒を処置し、手ぬぐいで小さな体を包み込む。
「抱いてみるかい?」
「えっ、いいの今朝子さん?」
「……ええ、もちろん」
スズは優しく微笑み、震える葵子の腕の中にそっとそれを乗せてくれた。羊水と血にまみれた、しわくちゃで真っ赤な赤ん坊。その体から伝わってくるのは、火災旋風の熱気でも、火消し壺の熱でもない。内側から燃えるような、圧倒的な生命の熱だった。
「……ああ、まじ、かわいすぎる……」
腕の中で、命が泣いている。息をして、手足をバタつかせている。葵子はその小さな命を胸に抱いたまま、今朝子の顔の横へとそっと近づけた。
「ほら……君のお母さんだよ?」
今朝子はかすむ目を何度も瞬かせ、震える手を伸ばして赤ん坊の小さな、湿った頬にそっと触れた。
「よく、生まれてきてくれたね……」
消え入りそうな、けれど確かな光を宿した声で呟き、汗びっしょりの今朝子は、愛おしそうに赤ん坊の顔を見つめ、静かに涙を浮かべた。
「ふふ……また、女の子だね」
そのつぶやきに、葵子もたまらず嗚咽を漏らした。
「ナル、妹ができたよ……あんた、お姉ちゃんになったんだよ」
この温かい命を、ナルにも見せてあげたかった。どれほど喜んで、その小さな指で赤ん坊の頬を突いたことだろう。ナルの命がこぼれ落ちていくのをただ見ていることしかできなかったこの手が、今、新しい命をしっかりと抱きとめている。
スズが、泣き声を上げる赤ん坊を愛おしそうに見つめながら微笑んだ。
「おお、元気元気」
「あの……ありがとうございます。おばさんがいなかったら、どうなっていたか……」
葵子が深く頭を下げる。
「気にしなくていいのよ。……私の息子もね、特攻隊で行ったきり、もう帰ってこないの」
「特攻隊?…………あっ……」
葵子でも、それが何を意味するかは知っていた。爆弾を積んだ飛行機ごと敵艦に突っ込む、生還することのない致死の作戦。その穏やかな笑顔の奥に、ふと計り知れない悲しみがよぎった。
「お国のために立派に散った、なんて言われても……ね」
スズは、バラックの立て付けの悪い扉を開け放つと言った。
「見てごらんなさい」
開いた扉の向こうに広がるのは、焼け焦げた木材と瓦礫の山。
「子供も……あたしの生まれ育った街だって、こんなにされたんだよ」
果てしなく続く焦土の街並みを見つめながら、全員が押し黙った。どこか遠くを見るような悲しい目をするスズのそばに、テツジがそっと寄り添い、無言で彼女の影に重なるように立った。
「こちらこそ、ありがとうね」
スズは葵子の腕の中でモゾモゾと動く赤ん坊に目をやり、慈しむように優しく言った。
「こうやって新しい命が元気に生まれるのを見ると、なんだか私まで救われる気がするよ」
「おばさん……」
葵子は胸が詰まり、ただ頭を下げることしかできなかった。スズはテツジの小さな肩にそっと手を置いた。テツジはその手を一度じっと見つめ、それからスズの顔を見上げて小さく頷いた。
「それじゃあ、私たちは行くわ。元気に育てるのよ」
「あの、本当に、なんとお礼を申し上げたら……」
感謝を伝えようと、今朝子が痛む体を押して無理に上半身を起こそうとする。
「いいから、いいから。あなたはまずゆっくりしなさい」
「……はい。ありがとうございます」
「じゃあ、テツジさん行きましょう」
「うん」
スズはテツジの手を引き、葵子に一度微笑んで立ち去っていった。葵子は手を振った。
「ほんとに、ありがと~!」
二人の後ろ姿が遠ざかる中、テツジがふと足を止め、少し何か言いたげな表情でこちらを振り返った。だが、すぐに小さくお辞儀をして、スズの後を追って瓦礫の向こうへ溶け込むように見えなくなった。
「葵子さん……」
疲労困憊で横たわる今朝子が、かすれた声で葵子を呼んだ。
「ありがとう。あなたがいてくれて、本当に助かったわ」
「いやあ、超焦ったけどね!」
葵子はそう言って、強張っていた全身の緊張をほぐすように、両手を高く上げて大きく背伸びをした。
「……でも、本当によかった」
葵子は赤ん坊の近くにそっと座り、その小さな手を握りながら優しく微笑み返した。
この子と三人で生きていこう。
血まみれの小さな頬に自分の頬をすり寄せながら、葵子は強く、強く決意した。
もう逃げない。
たとえ二度と元の時代に戻れなくても、もう一生スマホが使えなくても構わない。
あの無気力で空っぽだった「泉葵子」は、あの業火の火の粉と共に消えたのだ。
葵子はこの焦土で、今朝子と、この赤ん坊と一緒に生きていく。ナルが夢見た摩天楼の街が建ち並ぶその日まで、泥水に這いつくばってでも、絶対に生き抜いてみせる。
そんな葵子の強い決意を知る由もなく、新しい命がすやすやと穏やかな寝息を立てていた。
****
みんな、元気でね。
さよなら。
葵子




