(八)指切
「わあ、きれーい!」
いつかの穏やかな午後。縁側に座って、葵子はリュックの底に眠っていた現代の化粧ポーチを開いていた。
見慣れないキラキラとしたコンパクトや、いちごの甘い香りがするリップグロスに、ナルは目を輝かせて身を乗り出してきた。
「アオちゃん、これちょうだい!」
ナルがさりげなくリップグロスを手に取った。
「こら、あんたは化粧なんかしなくても大丈夫なんだから」
「えー、ほしいよ!」
「だーめ」
不満げに唇を尖らせるナルが可愛くなり、葵子はほんの少しだけ、透明なピンク色のリップグロスをナルの小さな唇に乗せてやった。
「桃色!」
「可愛いじゃん」
艶やかになった自分の唇を小さな手鏡で見つめ、ナルは花が咲いたようにケタケタと笑うと、弾んだ足取りで部屋の奥へと駆け出していった。
「お母さん、みてみて!」
背後で乾いた洗濯物を畳んでいた今朝子に、ナルは得意げに顔を近づけた。
「あら、べっぴんさんになったね。でも葵子さん、あんまり甘やかさないでちょうだいよ」
今朝子は呆れたように息を吐きつつも、その口元は優しく緩み、愛おしそうにナルを見つめていた。
お母さんに褒められてすっかり気をよくしたナルは、再び縁側の葵子の元へ駆け寄ってくると、顔を突き出して目を閉じた。
「アオちゃん、もっとぬって」
「もーおしまい」
葵子はリップグロス化粧ポーチの中にしまって、ジッパーをピシャリと閉めた。
「えー」
「えー、じゃないよ」
「もっと、ぬってほしい!」
「ダメ」
「ぬって!」
「……ったく。ほら、代わりにこれあげるから」
そう言って葵子は、リュックにぶら下がっていた『ねこじろう』のキーホルダーを取り外し、ナルに差し出した。
「あっ! 猫のやつ!」
ナルはぱあっと表情を明るくして、とぼけた顔のねこじろうを両手で受け取った。
「これで我慢しな」
「うん!」
葵子はナルの小さな背中に腕を回すと、もんぺの腰紐にホルダーのループを通し、落ちないようにしっかりと結びつけてやった。
「わあ……!」
腰元でぷらぷらと揺れる三毛猫を撫でて、ナルは嬉しそうに目を細める。ピリッとした冬の冷たい風が縁側をかすめていったが、ささやかな陽だまりが心地よく三人を暖かく包んでいた。
化粧なんかしなくても、未来の、平和な時代になれば、いくらでも好きな服を着て、好きなようにお洒落ができる。美味しいものをたくさん食べて、当たり前のように大人になっていくのだ。
だからさ、ナル。もう少し一緒に待とうよ。
****
はあ……はあ……
はあ──
むせ返るような煙の臭い。パチパチと爆ぜる火の粉が頬をかすめる。
呼吸が、苦しい。
瓦礫の奥深くからどうにか引きずり出したナルの小さな体は、誰の目から見てもすでに致命的に壊れていた。身体の下半分が、数秒すら直視できないほど潰されている。
「嘘……うそ、ナル、なんで、なんでよ……⁉」
葵子は震える両手で口元をきつく覆い、瓦礫の上に力なく崩れ落ちていた。
「……アオちゃん……」
「な、なに……ナル⁉」
「……おてて、はなして、ごめんなさい」
その細い声は、ごうごうと燃え盛る周囲の炎の音に、今にもかき消されそうなくらい弱々しかった。はぐれた恐怖で泣き叫んでいたはずなのに、ナルは自分の痛みより先に、自分が手を離してしまったと思い込んでいた。
「ちがっ、違うよ! あたしが手を離しちゃったんだよ! ナルはぜんぜん悪くない!」
葵子は血の気が引いた顔で激しく首を横に振り、ナルの言葉を必死に打ち消した。
「そんなことよりナル、痛くない⁉ どこが痛い⁉」
葵子は震える手で煤だらけのナルの頬を包み込もうとして──自分の両手が、生温かく粘り気のある血でべっとりと濡れていることに気づいた。鉄の錆びたような血の匂いが、焦げた木材の匂いと混ざり合って鼻腔を突く。
「……ううん。でも、すごく、あっついんだ……」
痛みすらない。
もはや神経が完全に絶たれ、感覚すら届かなくなっているのだ。そのあまりにも残酷な深刻度が、なんの医療知識もない葵子にでさえ嫌というほど分かった。
「ナル、痛かったよね……、ごめんね、ほんとに、ごめ……ん」
自分が手を離してしまったせいで、こんな小さな体にどれほどの苦しみを味わわせてしまったのか。目から涙がボロボロと溢れ出した。
震える声で何度も謝罪を口にしながら必死に傷口を押さえようとする。けれど、もんぺの絣模様はすでにどす黒い赤に染まりきっており、どこから血が出ているのかすら分からない。ただ、目の前では小さな体から、指の隙間をすり抜けるようにして、確実に命がこぼれ落ちていく。
「はあ……、は、あ……」
荒い呼吸を繰り返すナルの顔は煤と埃にまみれ、かつてリップを塗って笑い合った唇は、今は血の気を失って真っ青にひび割れている。
「ナル! しっかりして! いま、お母さんも呼んでくるからね!」
「……アオ、ちゃん……」
葵子の袖を、ナルの氷のように冷たい弱々しい指先が掴んだ。
「うん、どうしたの……ナル?」
「……アオちゃん……の、いたところ……って、たのしい?」
思わぬことを口にした。ナルはいつも葵子が語っていた「魔法の店」がある未来を、たった一つの希望として夢見ているのだ。
「……ナル」
その純粋すぎる笑顔を見た瞬間、葵子はハッとして、込み上げる絶望を奥歯で強く噛み殺した。煤と血にまみれた顔を腕で擦り、いつもの葵子らしい弾んだ声を絞り出した。
「た、楽しいに決まってるじゃん……! もうね、まじで最高なん、だから。ナルも今度、ぜ、絶対連れてってあげるんだから!」
火の粉が狂ったように舞う地獄の夜空を見上げながら、ナルは力のない声で、ゆっくりと微笑んだ。
「……そっ、かあ……たのしみ、だなあ……」
炎に照らされたナルの瞳に、微かな希望の光が宿る。
「それにさ、日本はこれから超お金持ちになって、超平和になるんだよ?」
そう言うと、ナルは不思議そうに瞬きをした。
「……へいわ、って……なあに?」
「え……」
葵子は言葉を詰まらせた。物心ついた時から戦争しか知らないこの少女にとって、『平和』という言葉は概念すら存在しないのだ。その残酷な事実に心臓を強く握り潰されそうになりながらも、葵子は必死に涙まみれの笑顔を作った。
「み……んなが、毎日お腹いっぱいご飯を食べられて、空から爆弾なんて降ってこなくて、楽しくて、笑ってて……すごい世界のことだよ!」
葵子は、思いつく限りの平和だと思える言葉を必死に並べた。つまらないニュース番組、冷たいアイスクリーム、行きたくない歯医者……
「もうすぐ平和にナル……一緒にコンビニ行くんだよ、ナル?」
いらっしゃいませー! コンビニですよー!
チョコ、ありますか?
ありますよ! はい、一円!
やっす!
じゃあ、十円!
いや、それでも安いって
──縁側で小石や葉っぱを並べて遊んだ、他愛のないコンビニごっこ。魔法のような未来の店に、目を輝かせていたナルの顔が浮かぶ。
「だから、もう帰ろ……? コンビニのチョコ、一緒に食べるって約束したじゃん……?」
どうにもならない現実が、葵子の心をズタズタに引き裂いていく。
「あ、お……ちゃん」
青白い唇からこぼれたその音は、もはや声とは呼べないものだった。
「……なに? 何でも言って!」
「おやくそく……だよ……?」
「する! 約束する!」
「……じゃあ、ゆび、つないで」
「……指?」
葵子は震える手で、ナルの血まみれの小指に、自分の小指をそっと絡ませた。
「ゆ、びきり……げん、まん……」
冷たい。絡めた小指から伝わってくるわずかな体温が、急速に失われていくのが分かる。ナルの意識が、深い底へと遠のいていく。
「……ナル?」
「……うそ……つい、」
「駄目……ねえ! 駄目駄目駄目駄目、絶対、駄目だって‼」
「……ついた、ら……」
「ナル‼」
葵子は、喉が切れるほど泣き叫んだ。
こんなの、全部ナルの悪戯だったらいいのに。
明日も一緒に配給に行って、お芋を食べて、並んで寝て。
明日も生きていてくれれば、もう自分の人生なんてどうなったって構わないのに。
神様、一生のお願いです。
絡ませた小指が、するりと抜けた。
宙を掻くように小さく震え、
「……はり、せん、ぼん……」
その言葉を最後に、ナルの胸の上下の動きが止まった。
「……ナル?」
「……ねえ、ナルってば」
「……ナル……」
「ナル‼」
返事はない。ただ、熱風がナルの前髪を揺らしただけだった。
頭の奥で、たった〝一文字〟が浮かんでいる。だが葵子は、その言葉が明確な形になるのを拒絶していた。
絶対に口にしてはいけない。そんな言葉を認めてしまえば、この悪夢のような現実が、取り返しのつかない決定的なものになってしまう気がしたからだ。
「ナル」
葵子は我に返り、ナルの小さな胸に両手を重ねた。正しいやり方なんて知らない。ただ、無我夢中で心臓マッサージを始める。
「……お願い、」
一、二、三!
「動いてよ‼」
フーッ、フゥゥゥゥッ!
「息、してってば‼」
煤だらけの唇に自分の唇を重ね、息を吹き込む。
「絶対……絶対、大丈夫だから」
何度も、何度も。涙と鼻水、それに煤が混ざり合ってぐしゃぐしゃになった顔で、葵子は胸を押し続けた。膝が擦りむけて血が滲んでも、狂ったように圧迫を繰り返した。
「ナルったら、ねえ⁉」
頭に過ぎりそうになる忌まわしい言葉を打ち消しながら、ただ命の鼓動だけを求めた。それでも、ナルの体は人形のように揺れるだけで、二度と自ら呼吸をすることはなかった。
やばい、やばい、ああ……やばい。
息が、呼吸ができないよ。
煙のせいではない。肺が焼け焦げるような感覚ではなく、心臓そのものを直接鷲掴みにされて握り潰されているような痛み。
「……こんなの、嘘だよ……こ、こんなことって……」
これまでの二十四年の人生で、こんなに苦しいと思えることなんて一度もなかった。彼氏にフラれた時も、仕事でミスをして怒られた時も、こんな絶望に比べれば、ただの児戯にすぎなかった。
「救急車……、そう、救急車は⁉」
葵子は震える手で傍らに放り出していたリュックの底を探り、冷たいスマホを引っ張り出した。数ヶ月前にバッテリーが切れ、ただの黒い板と化していることは分かっていた。電波なんてあるはずがない。119番が繋がるわけがない。そんなことは分かっている。それでも、すがるように真っ暗な画面を指で叩き、電源ボタンを長押しした。
「お願い、繋がって……。救急車……お願いだから!」
いくら画面を擦っても、当然、無反応だ。血まみれの指が目に入った。
「なんで……、なんで⁉」
行き場のない悲しみと絶望に押し潰され、葵子はスマホを両手で強く握りしめた。どうしようもない怒りと無力感に任せ、足元の瓦礫に思い切り叩きつけようと腕を振り上げた。その時だった。
振り上げた葵子の手の中で、完全にバッテリーが切れていたはずのスマホの画面が、青白い光を放ったのだ。
「えっ……」
涙で霞む視界の中、暗闇に浮かび上がった液晶画面に、見覚えのある無機質な文字が表示されていた。
ポイントが一括還元されました。ご利用ありがとうございました。
(あなたが無駄にしてきた時間 80年分 を還元)
その文字を見た瞬間、葵子はスッと背筋に冷たいものを感じた。
くだらない、くだらない、くだらない。
大きなお世話だ。バカ、バカ、バカ……
ほんと、バカみたい
あの日、カッとなって押した『一括還元』のボタン。自分が現代で価値を見出せず、ただ投げやりに捨ててしまった〝無駄な時間〟の合計。
その数字が意味する真実は何だったのか。
一九四四年から、二〇二四年までの、八十年。
それは、戦後の焼け野原から立ち直り、誰もがお腹いっぱい食べられるようになるまでの軌跡。高層ビルが建ち並び、夜中まで明るいコンビニが街中を照らし、日本が超お金持ちになって、超平和になるまでの八十年。
煤と血にまみれたナルの亡き骸を見つめる。
この子が、一体何をしたっていうのだろう。
たまたま戦争という狂った時代に生まれてしまった。ただそれだけで、どうしてこんなにも残酷に未来を奪われなければならないのか。やり場のない理不尽な運命に対する怒りと絶望が、葵子の胸を激しくかきむしる。
「……ねえ、ナル」
「あたしの……あたしの人生、八十年でも百年でもあげるからさ……ね?」
ナルがコンビニに行き、可愛い洋服を着て、誰かに恋をして、お婆ちゃんになるまで幸せに生きるはずだった未来。
「戻ってきてよ」
あたしが退屈だと見下し、興味もない仕事で一日を過ごし、味わいもしないでコンビニ弁当を食べ、暇つぶしのゲームに費やして捨てていた無数の時間は、この小さな女の子が喉から手が出るほど生きたかった『未来』そのものだった。
「約束、したじゃん」
たまたま平和な時代に生まれただけのあたしが、いとも簡単にゴミのように捨ててしまったその時間は、理不尽に命を散らされたこの子にとって、どれほど重く、必要で、尊いものだったか。
あたしは、馬鹿だ。
「うっ……う……あ、あぁぁ……‼」
何もわかっていなかった自分の愚かさへの激しい後悔と、残酷すぎる真実の重さが、葵子の心を完全に打ち砕いた。
焼き尽くされた東京の空の下、葵子は動かなくなったナルの小さな体を優しく抱きしめ、声の限り泣き叫んだ。
終戦まで、あと、百五十七日間。




