(七)紅蓮
暗い部屋の中、葵子がパチリと目を開けた。
「今朝子さん、ナル」
「ええ、起きてるわ」
「……スー、スー……」
ウゥゥゥゥーーッ……‼
腹の底を這い回るような不気味なサイレンの音が鳴り響く。だが、葵子にパニックを起こす素振りは微塵もなかった。
「ナル、起きな!」
「……んん……あ、アオちゃん?……まだ、ねむい……」
睡魔にまとわりつかれ、半分夢の中をたゆたっているナルを、葵子は強引に引き起こした。
「寝ぼけてる暇ないよ、ほら。防空頭巾!」
「……うん、うん……」
寝ぼけてふらつく小さな頭に防空頭巾をすっぽりと被せ、顎の下で紐をキュッと結び上げる。
「おんぶ紐は?」
「……ここ。持ったよ」
少しずつ意識が浮上してきたのか、ナルは重そうな瞼を擦りながら答えた。
「よし。火消し壺は?」
「……うん、あるよ」
「オッケー。今朝子さん、荷物はあたしが持つから、絶対走らないで!」
「すまないね」
暗闇の中でも迷うことなく非常袋の紐を掴み、枕元の靴を引っ掛ける。頭で考えるより先に、手足が勝手に次の動作へと移っていく。警報から避難までの手順は、もはや完全に葵子の身体へ染み付いていた。
「ナル、手!」
「うん!」
「じゃ、みんな行くよ!」
無駄のない動きで火の始末を確認し、ナルの手を引いて土間を飛び出す。
外は墨汁をひっくり返したような完全な暗闇だった。凍てつくような冬の夜風が容赦なく頬を刺す中、そこかしこから防空頭巾を被った人々の慌ただしい足音と、押し殺したような声だけが響いてくる。葵子は身重の今朝子の背中を庇うようにしながら、闇に沈む路地を足早に防空壕へと向かった。
「今朝子さん、ゆっくりね」
「ええ、ありがとう」
板きれで覆われた狭い入り口をくぐり、じめっとした冷たい土の匂いが立ち込める壕の中へ滑り込む。中はすでに避難してきたご近所たちでごった返しており、誰もが土壁に背を預け、肩を寄せ合いながら不安そうに息を潜めていた。
「ナル、いる?」
「うん」
暗闇の中で小さく返事するナルの手を握り直し、葵子は安堵の息をつくと、周囲に倣うようにスッと声を潜めた。
ふと周囲を見渡した葵子は、あるはずの影が見当たらないことに眉をひそめた。
「……あれ、藤野さんとこのお婆ちゃんがいなくない?」
葵子の呟きは、狭い壕の中に波紋のように広がった。
「えっ、婆さんは?」
「藤野さん! タツ婆さんは一緒じゃないのかい⁉」
暗がりの中で誰かが叫び、互いの顔を必死に確認し合う混乱が広がる。
「お前が婆さんを連れていくって……」
「アタシは子供を背負ってたじゃないか……!」
タツの息子と嫁が青ざめた顔で互いを責め始める。命の危機という極限の恐怖が、家族の余裕すらも容易く奪い去っていた。
タツの行方が分からない。やがて絶望的な事実が浮き彫りになると、壕内の空気は一瞬にして凍りついた。壕の外ではサイレンが一段と高く響き、遠くで不気味な地鳴りのような音が近づいている。
「タツさん……足が悪いから、途中で立ち往生してるのかも……」
今朝子が壕の入り口を見つめる。誰かが助けに行かなければならない。けれど、外へ戻る恐怖に皆が口を噤んだその沈黙を、葵子の凛とした声が切り裂いた。
「あたし、見てくる!」
「えっ、葵子さん⁉ 危ないわ、もう警報が……」
驚愕する周囲の制止を振り切り、葵子は壕の入り口に向かって力強く踵を返した。
「大丈夫、すぐ戻るね」
「でも……」
「ナルはお母さんのそばから離れない!」
「うん!」
葵子は迷うことなく壕を飛び出し、再び死の気配が漂う暗い路地へと駆け出していった。
お婆ちゃんは足が悪い。あの歩幅なら、まだ遠くへは行けないはずだ。せいぜい長屋の縁側か、路地の角の防火水槽のあたりか。
辺りには薄っすらと煙が立ち込め始めている。葵子は焦る心を抑え、路地を一つ一つ冷静に確認していく。
「お婆ちゃん、どこ……?」
誰もいない。次の角か。そう思って足早に通り過ぎようとした瞬間、視界の隅に不自然な影が引っかかった。
「……いた、お婆ちゃん!」
予想通り、縁側で立ち往生している老婆を見つけて駆け寄った。
「お婆ちゃん、急いで!」
「……ああ、葵子ちゃんか。こんばんは」
「こんばんは、じゃないでしょ! 大丈夫? ケガはない?」
「ケガ? ちょっと足が悪いけど、身体はいつだって健康だよ」
空襲警報が鳴り響く中でのあまりにおおらかすぎるお婆ちゃんの言葉に、葵子は思わず拍子抜けして肩から力が抜けた。
「みんな心配してるから、急いで防空壕に戻ろ?」
小さく丸まった体を、葵子は有無を言わさず自身の背中へと負ぶった。
「葵子ちゃん、すまないねえ……」
「全然平気。ちゃんと捕まっててね!」
息を切らしながらも、葵子は軽口を叩いて微笑んだ。気合を入れて駆け出そうとしたその時、背中から呑気な声が降ってきた。
「それはそうと、葵子ちゃん」
「……なに、どうしたの?」
「旦那は見つかったんかい?」
「は……?」
「もういい歳なんだから……うちの孫はどうだい?」
「いいから! 今それどころじゃない!」
極限まで張り詰めていた葵子の心は不思議と少しだけ和らいだ。葵子は背中の重みをしっかりと支え直し、防空壕へ向かって一気に駆け出した。
「あっ、アオちゃん!」
無事に壕へ戻ると、真っ先にナルの声が飛んできた。
「お婆ちゃん、いたよ……!」
身を寄せ合うご近所から安堵と感嘆の声が漏れる。
「ああっ、婆さん! まったくもう、心配したのよ!」
「ぜえ……ぜえ……家の縁側に、いましたよ」
「もう、よかった……ありがとうね、葵子ちゃん」
人々から口々に感謝される葵子を、ナルは誇らしげな笑顔で見上げて、ぎゅっとその腕に抱きついた。今朝子は葵子の煤けた頬をそっと手ぬぐいで拭いながら、深い信頼と安堵が入り混じった優しい眼差しを向けている。自分を心から頼りにしてくれる二人の温かい表情に触れ、葵子の胸にふと静かな感慨がよぎった。
特高の影に怯え、大根の葉の粥に泣き言を漏らしていた数ヶ月前の自分が、まるで遠い昔の嘘のように思える。
それでも、三月に入ってからの東京は、明らかにどこか空気が違っていた。
三月五日、午後一時十二分
配給の帰り道。手に入れたばかりの貴重なサツマイモが入った袋を提げ、葵子はナルと手を繋いで歩いていた。
「アオちゃん、今日のお芋、すっごくおっきいね!」
袋を覗き込むナルの目は、宝物でも見つけたかのようにキラキラと輝いている。ここ最近の配給といえば、ナルの小さな拳にも満たないような、しなびたサツマイモばかりだったのだ。袋の底でずっしりと確かな重みを主張する少しだけ大きなサツマイモは、二人の目に、より一層大きく映っているのだろう。
「ね。これなら今夜はお腹がいっぱいにナルね」
「あははは、いっぱいにナル!」
葵子がわざとらしく言うと、ナルは下駄を鳴らしながら無邪気に笑った。繋いだ小さな手から伝わる体温が、ひどく愛おしかった。ずっとこの平和な帰り道が続けばいいのに。そんな、たわいもない時間を楽しんでいると、
「あっ、ミチル兄ちゃん!」
不意に、ナルが立ち止まって細い路地を指差した。
「は? 何言ってるのナル。ミチルさんは……」
笑って否定しようとした葵子だが、ふと刺さるような視線を感じて路地裏へ目を向けた。薄暗い電柱の陰に、スッと立つ人影があった。国防色の軍服を着た青年が、じっとこちらを見つめている。
「……え」
一瞬、確かに視線が交錯した気がした。だが、一度瞬きをした次の瞬間には、そこにはただ血のように紅く沈む夕闇が広がっているだけだった。
「ミチル、兄ちゃん……」
「……ナル」
「いま、いたんだよ?」
嘘じゃないと主張するように少しムキになりつつも、ナルの瞳にはどこか縋るような悲しそうな色が浮かんでいた。葵子は否定するのをやめ、ナルの小さな頭を優しく撫でた。
「……そっか。じゃあ、きっとナルの様子を見に来てくれたんだよ」
「ナルを? どうして?」
「さあ……お母さんの言うことをきちんと聞いてるかなあって?」
葵子が少しだけ明るい声を作って首を傾げると、ナルは不満げに頬を膨らませた。
「ナル、お母さんのいうこときいてるもん」
「ふふっ、そっか。じゃあ、お兄ちゃんも安心だね」
「うん」
「さ、帰ろ」
路地裏には風の音すらなく、人影は跡形もなく消えていた。
三月九日、午後八時十一分
風の無い、異様に生暖かい夜。灯火管制で漆黒の街に、ヒリヒリとした焦燥感のような不穏な気配がべっとりと張り付いている。肌が粟立つような、息の詰まる空気だった。
だが、家の中だけは違った。僅かに揺れる薄暗い裸電球の下、小さなちゃぶ台を囲む。
「今日はいつもより調子がいいの」
配給のサツマイモがゴロゴロと入った粥をすすりながら、今朝子が珍しく相好を崩した。
「そっかそっかー。赤ちゃん、元気に育ってるってことだね」
「ええ……ほら、今もお腹を蹴ってるわ」
そう言って、今朝子は愛おしそうに少し膨らんだお腹を撫でた。
「ほんと? ナルもさわる!」
身を乗り出そうとしたナルを、葵子はお椀を持ったまま軽く制する。
「ほら、ご飯食べてからにしな」
「ぶー。アオちゃんのケチ」
頬を膨らませるナルに、葵子は苦笑いした。
「ケチってなんだよ」
「……あっ、アオちゃんのお粥のなかの、お芋おっきい!」
不意に、ナルのまん丸な目が葵子の手元に釘付けになる。
「あら、バレました?」
「ナルにも、ちょっとちょーだい!」
「だーめ。これはあたしが配給の列に二時間並んで勝ち取ったものなの」
葵子がわざとお椀を遠ざけてみせると、ナルは悔しそうに身をよじった。
「ケチー!」
「ケチで結構」
葵子がふてぶてしく胸を張ってみせると、今朝子もたまらず吹き出し、くすくすとした笑い声が土間に響き渡った。
「ほら、口開けな」
悪態をつきながらも、葵子はお椀の中から一番大きなサツマイモの欠片を箸でつまみ、ナルの小さな口元へと差し出した。
「あーん」
無邪気に喜ぶその姿に、葵子も自然と頬を緩めた。
「ったく」
「うふふ……」
温かい湯気と、サツマイモのほのかな甘い匂い。外の街がどれほど不穏な空気に包まれていようと、この小さな食卓だけは確かな温もりで満たされていた。
明日も、明後日も。
こうして三人で笑い合ってご飯を食べたい。お椀から伝わるじんわりとした熱を両手で包み込みながら、葵子はそのささやかな幸せを祈るように噛み締めた。
三月十日、午前零時十五分
ウゥゥゥゥ……
遠くで鳴るサイレンの音。不気味な重低音が耳の奥で、じわり、じわりと増幅され──、
ウゥゥゥゥーーッ……
「……あお……さん、」
ウゥゥゥゥーーッ‼
「葵子さん、起きて!」
肩を激しく揺すられ、葵子はハッと覚醒した。
「……えっ?」
けたたましいサイレンの音が、鼓膜を劈くように鳴り響いている。見れば、すでに飛び起きていたナルが震える手で防空頭巾を被ろうとしていた。
ドクッ……ドクッ……ドクッ……。
妙な動悸。何かが違う。これまでに何度も聞いた警報とは、明らかに空気が違った。肌を刺すような絶対的な死の気配。
「……あ、れ……ごめん、寝てた!」
今夜に限ってひどく体が重く、葵子は頭の芯がぼんやりと霞んでいた。
「急ぎましょう、今夜は様子がおかしいの」
今朝子のただならぬ声に急かされ、葵子は寝ぼけてふらつく足元を必死に踏みしめながら、暗闇の中で非常袋の紐をあわただしく掴んだ。枕元の靴を引っかけ、防空頭巾を引っ掴むようにして外へ飛び出した瞬間、葵子は全身の血の気が一気に引いていくのを自覚した。
「嘘、でしょ……」
違う。いつもの局地的な空襲とは、まるで次元が違う。
「葵子さん、走って!」
今朝子の声に弾かれ、葵子は無我夢中で駆け出した。怒涛のように押し寄せる群衆の波に呑まれまいと、必死にナルの小さな手を引く。見上げた頭上では、低空で飛来する無数のB-29。夜空を埋め尽くす巨大な銀色の機体は、まるで羽虫の群れのように無機質で、この時代にはあり得ない圧倒的な〝異物感〟を放っていた。大地を揺るがす低いエンジン音が腹の底に響き、黒い雨のように無数の焼夷弾を降らせていく。
「飛行機が、多すぎるわ……」
「ほんと、どうなってんの……?」
「アオちゃん、こわいよ」
「……ナル、絶対に手を離さないで」
ドスンドスンという重い着弾音とともに、街のあちこちで紅い火柱が上がり、冬の冷たい夜空を不気味な紅蓮に染め上げていく。今までの局地的な空襲とは、明らかにワケが違う。
「……あ、ちょっと待って」
逃げ惑う人々の波の中で、葵子だけが突然、地面に縫い付けられたようにピタリと足を止めた。
「葵子さん! どうしたの、早く!」
今朝子が焦燥に駆られた声で急かすが、葵子の耳には届いていないようだった。見開かれた瞳は、燃え盛る夜空を呆然と見上げている。
「……今日、三月十日って、確か……」
葵子の脳裏に、遠い未来の記憶がまざまざと蘇った。現代の三月十一日といえば、誰もが知る『東日本大震災』の日。そして、その前日。三月十日は──
「葵子さん?」
「東京に、すごく大きい空襲があった日かもしれない……」
「大きい……空襲?」
日本の歴史に、しっかりと刻まれた日。
「そうだ、東京大空襲……!」
「東京、大空襲……?」
聞き慣れない言葉を口にした今朝子は、葵子の顔に張り付いたかつてない恐怖の色を見て、ハッと息を呑んだ。葵子のただならぬ様子に、それが途轍もない破滅の脅威であることは察したようだった。
「マジでやばいかも……とにかく、逃げよう! ナル、行くよ!」
「うん!」
「ええ、急ぎましょう!」
あんなに歴史の勉強をする時間があったのに、もっと真面目に調べておかなかったのか。己の無知と現代人としての慢心を、葵子は激しく悔やんだ。だが、もし自分の記憶が本当なら……。
「危ない!」
葵子はナルと今朝子を強く引き寄せ、地面に伏せた。
ドォォォォッ!
強烈な爆風とともに、炎がすぐ頭上を舐めるように吹き抜けた。頭上からバチバチと火の粉が降り注ぎ、鼓膜の奥ではキーンという甲高い耳鳴りだけが響いていた。熱波で髪の毛がチリチリと焦げる。
葵子はゆっくりと顔を上げた。視界に飛び込んできたのは、さっきまでそこにあったはずの木造家屋が跡形もなく吹き飛び、剥き出しの骨組みから猛烈な炎を上げている凄惨なありさまだった。
「……二人とも、大丈夫⁉」
「うん!」
「ええ、大丈夫よ」
身を起こして周囲を見た葵子は、絶望的な光景に言葉を失った。つい数時間前まで日常があった街が、文字通り炎の海に沈んでいた。吹き荒れる強風が炎を煽り、凄まじい火災旋風となって木造の家々を次々と飲み込んでいく。バキバキと音を立てて崩れ落ちる屋根、火の粉を巻き上げて天を焦がすオレンジ色の業火。熱気が呼吸を奪い、鼓膜が破れそうなほどの爆音が東京の夜空を支配していた。
「こんなことって……」
「……本当に、今回ばかりはヤバすぎる……」
葵子の震える声は、爆音と人々の悲鳴にあっけなくかき消された。
ウゥゥゥゥーーッ……
ドォォォォッ!
猛烈な熱気と煙から逃れようと、路地にはパニックに陥った群衆が怒涛のように押し寄せていた。
「葵子さん! ナルから手を離さないで!」
「わかってる!」
見たこともない数の人々が、炎の紅に照らされながら恐怖に顔を引き攣らせて大通りへと殺到する。
「アオちゃん、なんか、こわいよぉ……」
「大丈夫、あたしの手をしっかり繋いでて!」
葵子は必死にナルの小さな手を握りしめた。しかし、生き延びようとする巨大な人の波の暴力は容赦ない。
──ドッ、
背中に強い衝撃を受け、葵子は無防備に前へのめり込んだ。
「あっ……!」
その瞬間、固く繋いでいたはずのナルの手が、するりと解けた。
「あーっ! アオちゃーん!」
「ち、ちょっと……ナル! 今朝子さ……」
今朝子の腕を掴もうと伸ばした手も、怒涛の人の波に無残に弾き飛ばされる。
「ま……待って、待って! どいて!」
振り返ろうにも為す術なく押し流され、揉みくちゃにされながら、葵子がようやく体勢を立て直したとき、隣にいたはずのナルも、今朝子の姿も、どこにもなかった。
三月十日、午前一時三十五分
他人の肘や肩が容赦なく身体に打ち付けられ、むせ返るような熱風が呼吸を奪っていく。逃げ惑う群衆の巨大なうねりに逆らうことは不可能に近く、葵子は何度も足を取られては押し潰されそうになった。それでも、ナルを失った焦燥感だけで無我夢中で人の波を掻き分け、もがき苦しみながら、なんとか大通りの脇道へと転がり出る。
激しく咳き込みながら顔を上げると、少し離れた場所で血相を変え、群衆の中を狂ったように探し回る今朝子の姿を見つけた。
「今朝子さん!」
「葵子さん!……どうしよう、目の前で、はぐれてしまったの……ナル、ナルが……!」
あの常に冷静で凛としていた今朝子が、髪を振り乱し、パニックで声を震わせて泣き崩れそうになっている。
「ごめん、ごめんなさい……あたしが、あたしが最初に手を放してしまったから……」
葵子もまた、激しい後悔と自責の念に押し潰されそうになった。あの時、もっと強く、あの小さな手を握りしめていれば。
ドォォォォ……ォン……
強烈な着弾音と共に、焦げ臭い熱風が容赦なく二人の頬を叩いた。
後悔してる場合じゃない。葵子は両手で己の頬をパンッと強く叩き、無理やり気合を入れた。今、ここで自分を責め続けていてもナルは見つからないのだ。
「あたし、もう一度探してくる! 今朝子さんはここで少し休んでて」
「でも……」
「お腹に赤ちゃんがいるんだから、無理しないで! あたしはあっちの路地を探してくるから!」
「……わかったわ。葵子さん、気を付けて!」
「大丈夫、絶対に見つけ出すから!」
落ち着いて探せば必ず見つかるはずだ。そう固く信じて、葵子は逸れたはずの場所へと火の海を逆走した。
目の前に広がるのは、完全にこの世の地獄そのものだった。
「水……誰か、水を……」
全身にひどい火傷を負い、泥水をすすろうとする人々。
「……キヨ! キヨはどこだ!」
半狂乱で紅く燃え盛る家屋へ飛び込もうとする父親。燃え盛る電柱が轟音とともに倒れ、火だるまになった人が悲鳴を上げながら転げ回っている。鼻をつく強烈な肉の焦げる匂い。道端には、真っ黒な炭の塊のようなものが無数に転がり、それがついさっきまで生きていた人間なのだと理解した瞬間、葵子は胃の中のものを吐き出しそうになった。
「ナル……大丈夫、だよね……?」
最悪の想像が頭をよぎり、思わず目を背けそうになる。
いる、絶対に……!
喉の奥から血の味がするほど、何度も何度も名前を呼び続けた。逃げ惑う大人たちの隙間を縫うように走り、うずくまっている小さな影を見つけては縋るように肩を掴む。だが、振り返るのは恐怖に顔を引き攣らせた見知らぬ子供ばかりだ。
容赦なく眼球を刺す黒煙に涙が止まらず、業火の轟音が葵子の悲痛な叫びをあっけなくかき消していく。あちこちの路地を彷徨い、倒れかけた家屋の陰まで必死に覗き込んだが、どれだけ探してもナルの姿はどこにも見当たらない。
「もう! どこに行ったのよ、ナル!」
焦燥と恐怖で喉が裂けそうになった、その時だった。
「あ……」
もうもうと立ち込める黒煙の向こうに、すっと人影が現れた。
先日、配給の帰り道で見かけたあの青年だった。国防色の軍服を着た姿が、炎の中で不思議なくらい輪郭を保って浮かび上がっている。
「あの……ほんとうに、ミチルさんなの?」
青年は葵子に気づくと、その煤けた顔をいたわるように、静かで深い慈愛に満ちた眼差しを向けた。その表情には、この世の者とは思えないほどの穏やかさが湛えられている。
彼は無言のまま、真っ直ぐに腕を伸ばし、ある方向を指し示した。
「それって、もしかして……ナル、が?」
戦死したはずの長男の幻影。一瞬の瞬きの後、その姿は煙に溶けるように消えていた。
「……うん、わかった」
葵子は弾かれたように、幻影が指し示した細い路地の奥へと駆け出した。
頬は煤で汚れ、全身は滝のような汗でぐしゃぐしゃだった。熱風と煙にむせ返り、肺が焼けるように痛い。それでも必死に走り続ける葵子の目の前で、不思議な現象が起きていた。
周囲は阿鼻叫喚の地獄だというのに、なぜか葵子の走る道だけが、まるで導かれているかのように真っ直ぐに、ぽっかりと空いているのだ。逃げ惑う群衆も、降り注ぐ火の粉すらも、葵子を避けているかのようだった。
その真っ直ぐの先、炎の向こうに再び青年の姿が現れた。
「ミチルさん……⁉」
今度は明確に、崩れ落ちた家屋の瓦礫を指差している。幽霊だろうと幻だろうと、もはや理屈はどうでもいい。
「……ここ、ここでいいのね?」
葵子が真っ直ぐに見据えて言うと、ミチルはまた煙に溶けるように消えた。
パチパチと木材が爆ぜる音に混じって、微かな、しかし聞き覚えのある泣き声が耳に届いた。
「んあっ……おかあ、さん……あおちゃん……」
「……ナル⁉」
声のする方へ飛び込むと、そこには無残に崩れ落ちた家屋の瓦礫があった。熱を持った柱や瓦の隙間から、小さなすすり泣きが聞こえてくる。
「ナル、ナル返事して‼」
葵子は這いつくばり、熱を持った瓦礫の隙間を必死に覗き込んだ。暗闇の向こうに、見慣れたナルの顔があった。いつもケタケタと笑っているその顔が、今は苦痛に歪み、荒い息を吐いている。
「ナル‼」
「あ……アオちゃん……? どこ、行ってたの……」
「バカ! こっちのセリフだよ!」
その声が、心から嬉しかった。意識はある。それだけで、葵子は胸が張り裂けそうなくらい安堵した。
「だ、大丈夫、ナル……⁉」
「うん……でも、体があつくて、うごかないよぉ……」
その言葉を聞いた瞬間、葵子は躊躇なく瓦礫の隙間へと体をねじ込んだ。
「待ってて! いま引っ張り出してあげるから!」
火の粉が舞う中、葵子は肩を擦りむきながらジリジリと奥へ這い進む。限界まで体を入れ込んだ。
「ナ……ル……、手を、伸ばして……!」
熱さと息苦しさに耐えながら叫ぶと、暗闇の中から、煤と血が混じった弱々しい小さな手がゆっくりと伸びてきた。
その指先のすぐそば、瓦礫の隙間に、見覚えのある小さな塊が転がっているのが見えた。いつだったか、葵子が自身のリュックから外して、ナルにあげた『ねこじろう』のキーホルダーだ。紐がちぎれてしまったのか、泥にまみれながらも、炎の赤い照り返しを受けてかすかに輪郭を浮かび上がらせていた。
「……アオ、ちゃん……」
「も……もう、ちょっと……がんばれ……」
「……ん、んんっ……」
「……掴んだ‼」
葵子はその手を、絶対に離さないとばかりに固く両手で握りしめた。
「せえのっ……!」
瓦礫の破片に足をかけ、全身の筋肉を軋ませながら力いっぱい引く。葵子は抱え込むようにして、瓦礫の奥からナルを力任せに引きずり出した。
「ナルッ‼」
葵子がそのまま彼女を抱きかかえようとした瞬間。
はあ……はあ……
はあ──
三月十日、午前二時四分




