(六)空箱
昭和二十年、冬。
空を覆う鈍色の雲からは冷たい粉雪が舞い落ち、吹きすさぶ木枯らしが容赦なく体温を奪っていく。まもなく太陽がてっぺんまで昇ろうとしていたが、吐く息は真っ白に凍りつき、防空頭巾の隙間から入り込む冷気で手足の先は感覚がなくなるほど冷え切っていた。
葵子は、完全にバッテリーが切れ、ただの冷たいガラス板となったスマホを、リュックの底深くへしまい込んだ。もう、未練がましく電源ボタンを長押しすることはない。現代への細い糸を自ら断ち切るように、ジッパーをしっかりと閉めた。
「アオちゃん、お芋、重くない?」
ずっしりと重い風呂敷包みを背負って歩く葵子を、隣を歩くナルが心配そうに見上げてくる。小さな手が、葵子のもんぺの裾をぎゅっと握っていた。
「全然へーき。これくらい、なんとかナルっしょ!」
葵子がわざと明るい声を出し、凍える顔でウインクを作って見せると、ナルはパッと顔を輝かせた。
「あははっ、アオちゃん、また言った!」
年が明け、葵子の生活は以前とは大きく変わっていた。今朝子が隣組の組長に対して、田舎から身重の自身とナルの世話をしに来た親戚と嘘の申告をして庇ってくれたおかげで、葵子は女子挺身隊として軍需工場へ動員されるのを免れていた。もしあの時、今朝子が機転を利かせて特高や役人の目から守ってくれていなければ、素性の知れない葵子はとうの昔に過酷な労働へと駆り出されていただろう。
「あー、早くおうちに帰りたい。お腹すいちゃったよ」
「ナルも、お腹ぐーぐーなってるよ」
「じゃあ帰ったら、これすぐふかして食べよっか」
葵子が背中の風呂敷包みを軽く揺らすと、ナルは嬉しそうにごくりと喉を鳴らした。
「うん! ほかほかのお芋たべたい!」
「そしたら、お腹がいっぱいにナル!」
「あははは! いっぱいにナル!」
「~にナル」という言葉遊びは、最近の二人の間ですっかりお決まりのやり取りになっていた。自分の名前をいじられてケタケタと面白がるナルの無邪気な笑顔を見ていると、葵子もつられて笑うことができた。
今朝子への恩に報いるように、葵子はただ防空壕の隅で怯えて過ごすのをやめた。お腹がさらに大きくなり、体調の優れない日が増えた今朝子に代わって、家事や買い出しを積極的に引き受けるようになったのだ。
背中で鈍い重さを主張している風呂敷の中身は、今朝子の古い着物を農家へ持っていき、何度も頭を下げてようやく交換してもらった貴重なサツマイモと大根だった。グーグルマップどころか普通の地図さえない中、農村までの片道何キロもある道のりを満足な防寒着もないまま歩き回るのは、現代の生活に慣れきっていた葵子にとって過酷以外の何物でもない。
けれども、不思議と苦ではなかった。
「アオちゃん、お鼻、真っ赤っかだよ」
「あんただって真っ赤じゃん」
葵子がナルの冷たい鼻の頭を指先でちょんと押す。
「ほら、お揃いだね」
「えへへ、おそろい!」
ナルは嬉しそうに目を細めた。
家までの道のりもあと少しというところで、目の前に急な上り坂が現れた。ずっしりと重い風呂敷包みを背負った葵子の足が、思わずピタリと止まる。
「うえ……超坂道じゃん」
気合いを入れて上り始めた葵子だったが、途中で足が鉛のように重くなり、たまらず立ち止まってしまった。
「きっつ……ナルー、後ろ押して」
「うん!」
ナルが小さな体全体を使って、後ろから一生懸命に葵子を押し上げてくれる。
「よいしょ……よいしょ……」
「いいよー、ナルちゃん。その調子~」
そのささやかな力と温もりに励まされ、坂を途中まで上がったその時だった。結び目が緩んでいたのか、風呂敷の隙間からサツマイモが一本、コロンと転げ落ちた。
「あっ、お芋!」
「わっ! ナル、追っかけて!」
「まってー!」
ナルが慌てて坂を駆け下りる。コロコロと転がる芋を必死に追いかけ、小さな両手でがっちりと拾い上げると、嬉しそうに高く掲げた。
「お芋、とったよ~」
「ナイスキャッチ! 偉いっ!」
息を切らしながらも笑い合う二人の声が、冷たい冬の空気に溶けていく。自分が「ナルの姉」としての役割を確かに果たせている。今朝子のお腹にいる新しい命を繋ぐ手伝いができている。その小さな誇りと責任感が、この狂った灰色の時代を生き抜くための、葵子の何よりの支えになっていた。
昼過ぎに家へ帰り着くと、土間の戸が開く音を聞きつけた今朝子が板間から顔を出した。
「ただいま、今朝子さん」
「おかえりなさい。寒かったでしょう」
「めっちゃ寒かったよ。それより見て、大収穫」
葵子が風呂敷包みをドサッと下ろすと、ナルが真っ先に今朝子へ駆け寄った。
「お芋ね、ころころって転がって、ナルがつかまえたんだよ!」
鼻息を荒くして身振り手振りで報告するナル。今朝子はそんなナルの冷え切った頬を両手で優しく包み込んだ。
「そう、偉かったわねえ。葵子さんもお疲れ様」
「これくらい、全然!」
葵子がドヤ顔で答えると、今朝子もふっと目尻を下げて穏やかな笑みを浮かべた。冷え切った家の中なのに、不思議とそこだけポッと火が灯ったような温かさがあった。
葵子が土間にしゃがみ込んで冷たい水で泥を落とし、かまどに火をくべる。もう手慣れたものだった。パチパチと燃え上がる炎の温もりに冷え切った体を寄せながら待つことしばし。茹で上がったばかりのサツマイモは、すぐに熱々のふかし芋となって卓袱台に並んだ。部屋いっぱいに甘く温かい湯気が広がる。
「あちっ、ふー、ふー!」
口いっぱいに芋を頬張るナルを見て、葵子と今朝子も顔を見合わせて自然と笑みをこぼす。
「お芋、あまくておいしいね」
「ほんと、これおいしい」
「葵子さんが頑張って運んでくれたおかげね」
「ナルも、アオちゃん押したんだよ!」
「はいはい、ナルもありがとうね」
たわいもない会話と、ささやかな笑い声。いつの間にか、この家で過ごす三人の光景が、本当の家族のようにごく自然なものになっていた。
食後、少しだけお腹が膨れたナルが、今朝子の傍らで丸くなってスヤスヤと寝息を立て始めた頃。窓の外はすっかり日が落ちて深い闇に包まれ、時折遠くを吹き抜ける冬の風の音が聞こえるだけの静寂が広がっていた。
ほころびたもんぺの繕い物に再び取り掛かった今朝子の向かいで、葵子は白湯を飲みながらほっと一息ついていた。ふと、薄明かりの中で静かに針を動かす今朝子の穏やかな顔を見つめていると、ずっと胸の奥に引っかかっていたことを不意に思い出した。
「今更なんだけど、今朝子さん」
「なんだい?」
今朝子は針を動かす手は止めず、声の調子だけで葵子に意識を向けた。
「あの時……上野駅で、どうしてあたしを助けてくれたの?」
怪しい風体の自分を、特高のリスクを負ってまで匿う理由なんてなかったはずだ。今朝子は縫い針を動かす手を止め、ふと手元の布から視線を外し、窓の外へと遠い目を向けた。
「……葵子さんにも、帰りを待つご両親がいらっしゃるでしょ?」
「え……うん、まあ……」
今朝子のその言葉の裏に、遠く離れた大切な誰かに祈るような、深く静かな響きが混ざっていた。
「親心、みたいなものかしら。親ってのは、どこにいたって子供のことが心配なものだからね」
今朝子は手を止めて、葵子の方を向いて座りなおした。
「自分がそばにいてやれない分、もし自分の子が見知らぬ土地で一人震えていたら、どうか誰か手を差し伸べてやってほしいって……そう願わずにいられないのよ」
「……そう、なんだ」
「それにね、なんだか他人のように感じなかったのよ」
「えっ、他人のように感じなかったの?」
葵子は思わず、小さく今朝子の方へ顔を向けた。
「おかしいでしょ? ふふ……」
ぽつりとこぼしたその笑いには、普段の厳しい表情とは違う、どこかひどく懐かしむような、脆くて柔らかいものが滲んでいた。
****
「いらっしゃいませー」
数日後の昼下がり。卓袱台の上で小石や木片を並べ、葵子とナルは「コンビニごっこ」に熱中していた。
「お弁当、あたためますか?」
丸い小石を器用に両手で持ちながら、ナルが店員になりきって首を傾げる。
「はい、お願いします。あと、レジ横の肉まんもひとつください」
「かしこまりましたー。おまちください」
ナルは小石を別の木片の横に置き、自分の指で空中のボタンを押す真似をした。
「ぴっ、ぴっ……うぃーん。ちーん! おまちどおさまです!」
「ありがとう。袋はいらないです。マイバッグ持ってるんで」
「はーい。がめんの、たっちをお願いします。でんしで、いいですか?」
「電子マネー、ね」
「でんし、まねーで、いいですか?」
「ぷっ……あはは!」
五歳の子供が発するにはあまりにも不釣り合いな現代用語の羅列に、葵子は思わず吹き出した。夜な夜な寝物語として聞かせた現代のコンビニのシステムを、ナルはスポンジのように吸収し、恐ろしいほどの解像度で再現して見せるのだ。
「アオちゃん、笑わないで!」
「はいはい、PayPayで」
葵子が平べったい石をかざす真似をすると、ナルは元気よく「ぴぴっ!」と高い声で決済音を口にした。
「ありがとうございましたー! またおこしくださいませー!」
「……あー、肉まん食いてー」
それは、まだ見ぬ平和な時代。だが葵子の胸の奥には、単なる遊びではない切実な願いが宿っていた。早く戦争が終わってほしい。この狂った時代を一緒に生き抜いて、いつか本当に、ナルと二人で手をつないで煌々と明かりの灯る本物のコンビニへ行きたい。
あの薄暗い部屋で指切りげんまん。桃色に色づいたナルの嬉しそうな笑顔を見つめながら、葵子はその温かい約束が叶う日を心の底から信じていた。
そんなささやかな未来への願いを打ち砕くように、不吉な来訪者は突然やってきた。
「ごめんください」
土間の扉越しに、くぐもった男の声が響いた。今朝子が立ち上がり、戸を開ける。
「あら、組長さん」
「こんにちは、佐伯さん」
そこには、国防色の服を着た役場の男と、隣組の組長が神妙な面持ちで立っていた。男の手には、白い布で包まれた小さな白木の箱が大事そうに抱えられている。
「……」
その出で立ちと、男の胸に抱かれた四角い箱を見た瞬間、今朝子の顔からスッと血の気が引いた。彼女はすべてを察したのだろう。少しだけ肩を震わせ、それからゆっくりと息を吐き出した。
その異様な空気に、葵子もナルの手を引いて、板間の奥から土間が見える位置まで近づき、そっと覗き込むように息を潜めた。
「佐伯さん」
「はい」
今朝子は土間口に丁寧に正座した。
「……ご子息の佐伯ミチル君、立派なご最期でした」
役場の男が、定型文を読み上げるように平坦な声で言った。
『最期』──その言葉の響きに、葵子は息を呑んだ。
死んだ……? 誰が? 今朝子さんの息子さんが……?
「彼は南方の島で名誉の戦死を遂げられました。英霊となられたこと、おめでとうございます」
「おめでとう。佐伯さんも、これで立派な軍国の母だよ」
隣組の組長が、どこか誇らしげな、それでいてひどく冷たい声で言葉を重ねる。
「ありがとうございます。お国のために散ることができ、本人も本望でしょう」
今朝子は深く頭を下げ、その白木の箱を両手で受け取った。一切の感情を排した、機械のような声だった。表情一つ変えず、涙の一滴すらこぼさない。
「では、これで」
「佐伯さん、じゃあまた」
男たちが短い敬礼を残して去り、ガラガラと戸が閉まる。
男たちの足音が遠ざかると、土間口には、耳鳴りがしそうなほどの重く冷たい静寂が降りてきた。柱時計の秒針の音さえ吸い込まれてしまいそうなほどの、完全な沈黙だった。
「ち……ちょっと、今朝子さん」
張り詰めた沈黙を切り裂くように、葵子はたまらず今朝子のそばへ歩み寄った。
「なんだい」
「てか……息子さん、亡くなったの……?」
「ええ。お国の為にね」
「お国の為、て……」
葵子は唖然として呟いた。今朝子は無言のまま、白木の箱を見つめている。
「……いくつだったの?」
「……この前、二十一歳になったわ」
「二十一って……あたしより年下じゃない」
現代ならまだ大学生で、これから楽しいことがいくらでも待っているはずの年齢だ。それが、親の死に目にも会えず、たった一枚の紙切れと小さな箱だけで、こんなにもあっけなく終わってしまった。
「無理やり戦争に連れていかれて、殺されて、」
葵子は全身に鳥肌が立つのが分かった。
「それで、『おめでとう』って……何?」
「……」
「今朝子さん、ねえ、悔しくないの⁉」
「……」
その感情を押し殺した態度と、先ほどの役人たちの異常な言葉に、葵子は唇を噛み締めた。人の命がこんなにも軽く扱われ、それを名誉だと強弁する狂気。どうしても、どうしても納得できない怒りが葵子の中で爆発した。
「こんなの……絶対おかしい‼」
葵子はたまらず、裸足のまま土間を飛び出した。
「葵子さん!」
今朝子の制止を振り切り、冷たい冬の路地を走る。角を曲がろうとしていた役場の男の背中に向かって叫んだ。
「……待ってください!」
怒声のような叫びに、組長と男が怪訝な顔で足を止めて振り返る。裸足のまま血相を変えて追いかけてきた葵子のただならぬ様子に、組長は少しばかり目を丸くした。
「なんだ、佐伯さんとこの子じゃないか」
組長の声は聞こえていないのか、葵子は息を切らしながら男に駆け寄り、その軍服に詰め寄った。
「ほんとに……ほんとに、これだけなんですか⁉」
「……」
冷たい風が吹き抜ける。役場の男は葵子を振り払うでもなく、ただ無言で、微かに痛みを堪えるような悲痛な目で葵子の叫びを聞いていた。
「お、おい。なんだ急に……」
「ほんとに! 紙切れを読んで、よくわかんない箱を渡して……それだけで人間の命が終わるって思ってるんですか⁉」
「……」
「『おめでとう』なんて、ほんっとに思ってるの⁉」
男は無機質な目で葵子を見つめる。彼もまた、この狂った時代の中で同じ言葉を何十回、何百回と繰り返させられている歯車の一つに過ぎないのだ。
「葵子さん、やめなさい!」
慌てて家から飛び出してきた今朝子が、葵子の腕を強く引いた。
「でも、だって、」
「やめなさい!」
空気を裂くような鋭い一喝が、葵子の声を強制的に遮った。それは単なる怒りではなく、葵子を致命的な危険から遠ざけようとする今朝子の必死の叫びだった。
「佐伯さん、一体どういうつもりなんだ?」
「……本当に、なんとお詫びを申し上げたら……」
今朝子は葵子の腕を力任せに引き寄せると、男に向かって深々と、ひたすら許しを乞うように頭を下げた。葵子の二の腕を掴む今朝子の指が食い込み、その手から伝わる微かな震えが、この時代の絶対的な権力に対する恐怖を雄弁に物語っていた。
「とにかく、その子をしっかり教育してもらわないと困るよ」
「はい……申し訳ありません」
「じゃ、行きましょうか」
男たちは二人を路傍の石でも見るような冷ややかな目で一瞥すると、それ以上は相手にする価値もないとばかりに視線を外し、何事もなかったかのように再び歩き始めた。
無機質な足音が冷たい冬の路地に遠ざかっていく中、葵子は今朝子に強引に薄暗い家の中へと引きずり込まれた。
ガラガラと不快な音を立てて戸が閉まり、二人は再び外気よりさらに冷え切った薄暗い家の中へと戻った。土間の上がり框には、ナルが心配そうに身を固くして待っていた。
「アオちゃん……」
「……」
ナルは葵子に駆け寄ろうとしたが、その一歩を踏み出す前に小さな体を強張らせた。葵子の瞳には、理不尽な男たちへの抑えきれない怒りが燃え上がり、その肩は激しい呼吸と共に小刻みに震えている。現代を生きる彼女にとって、目の当たりにした蛮行は到底許せるものではなかった。子供から見ても、今の葵子が並大抵ではない怒りに支配されていることは明白で、ナルは声をかけるのを反射的に飲み込んだ。
行き場をなくしたナルは、今度は今朝子の傍らへ寄り添うと、そのもんぺの裾をぎゅっと握りしめた。
「……お母さん。ミチル兄ちゃん、帰ってきたの?」
驚くほど、無邪気な声だった。ずっと待ち望んでいた兄の帰宅ではないかと期待するナルの澄んだ瞳が、今朝子を真っ直ぐに見上げた。
「ええ……そうよ」
「この、箱のなか?」
「……うん」
土間に立ち尽くす葵子の前で、ナルが不思議そうに白木の箱を見上げて首を傾げた。
「ミチル、兄ちゃん……?」
死というものをまだ完全に理解していない無邪気な瞳。今朝子はその視線を受け止めながら、箱を膝の上にそっと置いた。
「……この箱ね、とても軽いのよ」
ポツリとこぼれたその声は、いつもの凛としたものではなく、ひび割れて今にも崩れ落ちそうだった。激しい怒りに肩を震わせていた葵子も、そのあまりに脆い声にはっと息を呑み、言葉を失って今朝子を見つめた。
「遺骨はおろか、石ころ一つ、紙切れ一枚すら入っちゃいない」
「……今朝子さん」
二人の様子を呆然と見つめていた葵子は、やっと言葉が出た。白布をなぞる今朝子の指先が、微かに震えている。
「私はね、子供をたった二人しか産んでいないんだよ。今、お腹にいる子を入れて、やっと……やっと三人」
「お母さん。ナル、お姉さんになるんだよね?」
「ええ、そうね」
今朝子は微笑んで、ナルの頬をそっと撫でた。
「ミチルは……私にとって、本当に宝物だった……」
静かな板間に、柱時計の秒針の音だけが響く。
「……名誉? お国のため?」
今朝子の口から、初めて国を呪う言葉が吐き出された。
「子供が死んで、嬉しいと思う親がいるわけがないじゃないか」
いつも気丈で、特高の暴力にも決して屈せず涙を見せなかった今朝子が、箱を胸に抱き寄せ、静かに身を丸めた。
「ミチル……うう……ううっ」
それでも、今朝子は泣き叫ぶことはなかった。だが、その閉じた目尻から止めどなく溢れ出した涙が、白布に黒い染みを作っていく。嗚咽を漏らさまいと唇を強く噛みしめ、ただ肩を小刻みに震わせて音もなく泣き続ける。
「今朝子さん……」
その静寂に包まれた見たこともないほど深い悲しみは、どんな慟哭よりも痛切に、葵子の胸を抉った。
「お母さん……? 泣かないで、お母さん……」
母の痛切な悲しみがようやく伝わったのだろうか。死の本当の意味は分からずとも、ナルは不安そうに今朝子の背中をさすった。
「お母さんが泣くと、ナルもなんか、かなしい……」
やがて大きな瞳からポロポロと涙をこぼして一緒に泣き始めた。
葵子は土間に立ち尽くしていた。
現代の価値観で叫ぶことなんて、何の意味もなかった。戦争という巨大な理不尽の前に、未来から来た自分はあまりにも無力だ。
「なんなの、戦争って」
音を殺して泣く母と、それに寄り添う子の小さな背中。
葵子は静かに二人を見つめていた。戦時下という怪物に対する、行き場のない激しい怒りと絶望。
「……ふざ……けんな……」
絞り出した言葉が、薄暗い冬の部屋に空しく響き渡った。




