(五)夜火
「じゃあ、行ってくるけど……今朝子さん、ほんとに大丈夫?」
土間にうずくまり、口元を布で押さえている今朝子の背中に、葵子は戸惑いながら声をかけた。
「……平気よ。少し、胸がむかむかするだけ」
今朝子はいつもの凛とした表情を崩さず短く返したが、その顔色は土気色に近く、額には薄っすらと脂汗が浮かんでいる。流行り病というよりは、胃の底からせり上がってくる不快感を必死に堪えているような、そんな危うさがあった。
「すまないけど、頼んだよ」
今日は隣組の配給日だった。葵子とナルに託されたのは、数枚の配給切符と古びた買い物袋。
「ナル、行ったことあるからわかるよ!」
「大丈夫かな……」
「うん!」
「まあ……なんとかなるっしょ」
葵子は不格好なもんぺの裾を直し、土間のガラス戸を開けた。あの特高の男にまた目をつけられるのではないか。その恐怖が僅かにチラつく。
外へ出た瞬間、冷たい木枯らしが首筋を撫でた。街の景色は、何度見ても息が詰まるほど殺風景だった。家々の板塀からは金属製の鉄格子や門扉が金属供出で根こそぎ剝ぎ取られ、無残な木枠だけが残っている。さらに最近は、家並みの途中に不自然な『空白』がいくつもポッカリと口を開けていた。黒焦げになった柱だけが転がる空き地や、屋根が半壊して筵が被せられただけの家屋。風が吹くたびに、微かに焦げ臭い匂いが鼻を突く。鮮やかな看板やネオンなどはどこにもなく、代わりに黒ずんだ電柱や土塀には『撃ちてし止まむ』『贅沢は敵だ』といった勇ましいスローガンが黒々とした筆文字で踊っていた。
行き交う人々は一様に薄汚れた国民服やもんぺ姿で、誰もが俯き加減で足早に過ぎ去っていく。色のない、焦げ跡の残る乾ききった世界。外に出るたび、葵子は自分がこの世界の「異物」であることを嫌というほど思い知らされる。
「アオちゃん、こっちだよ」
「あ、うん」
隣を歩くナルが、葵子の手の先をそっと握った。五歳の小さな体は、すでにこの煤けた街の歩き方を熟知しているようだった。
配給所となった国民学校の校庭には、すでに長い列ができていた。かつては子供たちの歓声が響いたであろう場所は、今や灰色の沈黙に支配されている。並んでいるのは、汚れが目立つ国民服の男たちや、表情を失ったもんぺ姿の女たち。
「……あの、これだけですか?」
前の方で、一人の老婆が消え入りそうな声で役人に問いかけた。
「決まっていることだ。次!」
役人の冷淡な声が響く。老婆は震える手で、手のひらに乗るほどのわずかな大豆の袋を握りしめ、力なく列を離れていった。誰も助け舟を出さない。文句を言えば「非国民」の烙印を押される。そんな目に見えない巨大な圧力が、校庭全体を重苦しく押しつぶしていた。
「え、少っ!!」
「どれ? ナルにも見せて」
やっとの思いで葵子たちが受け取ったのは、泥のついた細いサツマイモ数本と、枯れかけた大根の葉だけだった。
「三人だよ? こんなんでどうやって生活しろってのよー」
「しろってのよー!」
ナルが無邪気に真似をすると、ジロリと役人が葵子たちに目を向けた。
「やっば……ナル、行くよ」
「うん?」
慌てて葵子はナルの手を引っ張ってその場を離れた。コンビニに行けば数百円で手に入るようなものが、ここでは命を繋ぐための唯一の希望なのだ。
その時、人気のない路地裏で道端に積み上げられた空の木箱の影に、小さな塊が見えた。
「……子供?」
それは、ボロ布のような衣服をまとった一人の少年だった。学童疎開にも行けず、親とはぐれたのか。顔は煤と泥で汚れ、今にも干からびてしまいそうなほど痩せ細っている。
ナルと同じくらいの年頃に見えた。葵子は言葉を失った。少年は力なく壁に寄りかかり、虚ろな瞳でただ一点を見つめて動かない。
葵子の手が、無意識に買い物袋の中のサツマイモに伸びる。だが、その指先が止まった。これをあげてしまったら、家で待っている今朝子の分がなくなる。何より、隣で自分を見上げているナルの食事を削ることになる。
「あの……じゃあね……」
少年は、声をかけられたことすら認識していないかのように、焦点の合わない目で虚空を見つめたまま、ピクリとも動かなかった。石像のように生気を失ったその姿に、葵子は胸が締め付けられる思いがした。
「……ごめんね!」
葵子は奥歯を噛みしめ、少年から目を逸らして歩き出そうとした。その時、不意にリュックの外ポケットにある感触を思い出した。
……もしかして。
焦る手でジッパーを開ける。指先が、奥の隙間に挟まっていた細長いビニール包装に触れた。引っ張り出してみると、それは一本の小さなチョコバーだった。
「わっ……うそ⁉ チョコじゃん!」
おそらく、誰かにもらったまま忘れてしまっていたのだろう。思わぬ大発見に、葵子の顔がパッと輝いた。この時代に来てから、ろくなものを食べていない。現代の甘い匂いと高カロリーの記憶が脳裏にフラッシュバックして、生唾をごくりと呑み込んだ。これなら今朝子さんやナルと一緒に食べられる。
いや、ひと口だけでもあたしが……。
歓喜に震える手で銀色の包装紙を半分ほど剥きかけた時だった。
「……」
視線を感じて顔を上げると、先ほどの少年がこちらをじっと見つめていた。泥にまみれた虚ろな瞳が、葵子の手元のチョコバーに完全に釘付けになっている。
「あっ……」
葵子の手がピタリと止まった。少年の今にも干からびてしまいそうなほど痩せ細った体を見れば、これが彼にとって「おやつ」ではなく「命を繋ぐもの」であることは一目瞭然だった。
……ううっ。
激しい葛藤が頭の中をぐるぐると駆け巡る。
「アオちゃん、それなあに?」
「待って! ちょっと待っててナル!」
食べたい。すごく食べたい。
でも、このまま見捨てて自分たちだけで食べてしまったら、一生夢に見そうなくらい後悔する。
「……あー、もうっ!」
葵子は泣きそうな顔で天を仰ぐと、未練たっぷりにチョコバーを見つめ、やがて少年の前にしゃがみ込んだ。
「……あのさ」
「……」
「これ……食べる?」
銀色の包装紙を半分ほど剥いた状態で差し出すと、少年の瞳に一瞬だけ生気が宿った。チョコが少し溶け出している。泥だらけの細い指が、震えながらゆっくりと伸びてくる。
「あまぁい、においがするよ?」
隣のナルの目線もチョコバーで止まっていた。ナルもまた、チョコレートの甘い香りにゴクリと唾を呑み込んでいた。ずっとひもじい思いをしているのだ。
「ごめん、ナル。これ、この子にあげてもいい……?」
「これ? 茶色の?」
「……そう。チョコあげてもいい?」
「うん。いいよ」
ナルは少しだけ寂しそうに、それでもしっかりとした声で頷いた。
少年は信じられないものを見るような顔でチョコバーを受け取った。得体の知れない黒い塊に警戒するように顔を近づけ、くんくんと匂いを嗅ぐ。その直後、脳を直接殴るような強烈な甘い香りに目を見開き、そこからはもう獣のようにむさぼり始めた。
サクッ、サクッ……という音が、葵子の耳に沁みる。少年の泥だらけの顔に、涙の筋が一本だけ白く浮かび上がる。
少年は夢中でチョコバーだけをすっぽりと抜き取って口に押し込み、葵子の手には空になった銀色の包装紙だけが残された。葵子はそれをもんぺのポケットに突っ込む。
「あーあ……さようなら、私のチョコ……」
それを見届けた葵子は小さく鼻をすすると、泣く泣く立ち上がり、ナルの手を引いた。
「アオちゃん、どうしたの?」
不思議そうに見上げてくるナルに、葵子は無理やり口角を引き上げた。
「……なーんでもない! 帰ろっか」
「うん!」
ナルの素直で無邪気な笑顔に、葵子は少しだけ救われた気がした。
「あ、待った」
歩き出そうとした時、葵子はポケットに突っ込んだ包装紙の裏に、わずかに溶けたチョコが残っているのを思い出した。
「嘘⁉ ナル見て、ちょっとだけ残ってる!」
「ちょこ?」
「そう! ほら、これ舐めてみな!」
葵子が指先で掬って差し出すと、ナルはペロッと小さな舌を出して、それを丁寧に舐めとった。
「……あまい!」
パッと花が咲いたようなナルの笑顔。
「アオちゃん、これ、すっごくあまいよ!」
「でしょー? ほら、口に付いてるよ」
葵子はそれを人差し指で拭い、自分もぺろりと舐めた。
「……くう~っ、めっちゃ、甘い!」
「あまーい!」
お腹はちっとも膨れなかったが、二人は口の中に残ったほんのわずかな甘みを噛み締めながら、冷たい風を押し返すようにして家路を急いだ。
****
家に戻ってからも、ほんのわずかな甘みの余韻に、二人の興奮は冷めやらなかった。
「アオちゃん、もっとちょうだい!」
土間に座り込んだ葵子のリュックを、ナルが小さな両手で引っ張って揺さぶる。
「だから、ないんだって。もう一回探したけど、まじで、ない!」
葵子はリュックを逆さにして振り、ポケットというポケットに手を突っ込んだりして必死に探したが、奇跡は二度も起きなかった。
「えー、もっとあまいのおねがーい!」
「無理だってば! あーあ、やっぱ半分だけあげればよかったー」
「アオちゃん、チョコ~」
「ない!」
じゃれ合うように言い合いをする二人を、少し離れた板間で休んでいた今朝子が、不思議そうに、けれど穏やかな目で見つめていた。
「二人とも、ずいぶん楽しそうじゃないか」
口元を綻ばせる今朝子の顔は、今朝ほどの土気色が少し和らいで見えた。配給の乏しさも、外の冷たい風も、この狭い家の中の温かな笑い声がほんの少しだけ忘れさせてくれる。
そんな、ささやかだった幸福を、不気味な咆哮が引き裂いた。
ウゥゥゥーーーッ、ウゥゥゥーーーッ……。
「なに……この音?」
突然響き渡った禍々しいサイレンの音に、現代の災害アラートしか知らない葵子は意味を理解できず、呆然と立ち尽くした。
「地震? えっ、津波じゃないよね……?」
さっきまで花が咲いたように笑っていたナルが、ビクッと肩を跳ねさせ、無言で葵子の服の裾をぎゅっと握りしめた。
「空襲警報よ。葵子さん、ナル、早く!」
今朝子の鋭い声が飛ぶ。
「えっ、警報って……なに、どうすればいいの⁉」
「いいからこれを被りなさい!」
「え、え、なにこれ⁉ ちょっと……うぶっ!」
パニックになってオロオロと足踏みする葵子に、今朝子は分厚い綿入りの防空頭巾を乱暴に被せた。ナルはすでに自分の小さな頭巾を引っ張り出し、泣き出しそうな顔を必死に堪えながら小さな両手で被ろうとしていた。
「空襲って……あ、爆弾的なやつ⁉ うそ、ちょっと待って!」
「いいから急いで!」
十一月に入ってから空襲は本格化していた。状況が呑み込めない葵子を、今朝子は力任せに引っ張り上げ、近くの空き地へと走った。葵子と繋いだナルの手には、じっとりと冷たい汗が滲んでいる。
「いいかい。爆弾が落ちてきたら、親指で耳を塞いで、人差し指と中指で目をしっかり押さえるんだよ。わかったね」
「……う、うん」
教えられた通り、葵子は窮屈な姿勢で目を閉じる。ふと横を見ると、ナルがすっかり慣れた手つきで目と耳を塞ぎ、膝を抱えて小さく丸まっていた。声こそ出さないが、その背中は小刻みに震えている。
目と耳を押さえるだけで大丈夫なの?……こんなの、意味ある……?
高度一万メートルから降ってくる鉄の塊が直撃したら、それで終わり。なんの気休めにもならないことくらい、現代人の葵子ならすぐに分かったが、素直に従った。
三人は地面を浅く掘り下げ、丸太と土嚢を被せただけの粗末で薄暗い共同防空壕へと転がり込んだ。十数人が息を潜めて身を寄せ合っている。恐怖に怯える赤ん坊の火のついたような泣き声が、狭く密閉された土の壁に反響し、不安をいやが上にも掻き立てていた。
ブォォォォン……
重低音が空を震わせる。B-29の編隊だ。
ドォォォォォン‼
直後に地面が大きく跳ね上がり、天井の丸太から冷たい土くれがバラバラと落ちてきた。ドスンドスンと地鳴りが続くたびに、壕の壁がミシミシと嫌な音を立てて軋む。火薬の焦げた匂いと、舞い上がった土埃が充満し、息をするのも苦しい。どこかで「南無阿弥陀仏……」と念仏を唱えるかすかな声が聞こえた。
「やばいやばいやばい……」
葵子は膝を抱え、ガタガタと全身を激しく震わせていた。圧倒的な暴力の前では、身を縮めることしかできない。暗闇の中で、死がすぐそこまで来ている。
そんな時、耳元でいつもの声がした。
「……アオちゃん、こわい?」
暗闇の中、ナルの小さな手が葵子の腕に触れた。
「……こ、怖くないよ」
強がってみせたが、声が震えているのは隠しようもなかった。
「ナルは、こわいよ」
その素直な一言に、葵子の虚勢が崩れた。
「……あたしだって、本当は怖いよ……!」
「葵子さん、大きな声を出さないで」
「だって……」
言い返そうとした葵子の肩を、不意に温かいものがすっぽりと包み込んだ。暗闇で姿こそ見えないが、確かな温もりが葵子とナルの二人を両腕でしっかりと抱き寄せていた。
「大丈夫」
背中越しに伝わってくる、力強く、優しい鼓動。少しだけ。その温もりに触れた瞬間、死の恐怖がふっと和らいだ。隣で震えていたナルも、安心したようにすり寄って、ピタリと今朝子の腕の中に収まっている。
「大丈夫……大丈夫……」
爆音が轟く冷たい土の下で、三人は互いの体温だけを頼りに、ひたすら身を寄せ合って過ぎ去るのを待った。
ドッ──、ズゥゥゥン‼
ひときわ大きな爆発音が至近距離で響き、壕の壁が嫌な音を立てて軋んだ。バラバラと大量の土くれが頭上に降り注ぐ。
「きゃあああっ!」
「ひぃっ!」
壕内のあちこちから悲鳴が上がる。葵子は耳を塞いだまま、錯乱したように首を激しく振り始めた。
「嫌だ……嫌だ、嫌だあああっ!」
「葵子さん、しっかりしなさい! 落ち着いて、息を吐くんだ!」
今朝子が葵子の肩をガシッと掴み、耳元で必死に叫んだ。その力強い手が、葵子を現実に引き戻そうと揺さぶる。
「落ち着いて、ここは直撃さえしなければ耐えられる。だから目を閉じて……」
「だめ……もう、嫌っ!」
「葵子さん……」
「なんで、なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの⁉」
「葵子さん」
今朝子の必死の制止も、今の葵子には届かなかった。理不尽な死への恐怖が、葵子の中で完全に暴走した。
「どうせ無駄なのに! こんなことしたって、日本は負けるんだよ!」
『日本は負ける』
一瞬、壕内の空気が凍りついた。その直後、ざわざわと暗闇の奥から押し殺したような、それでいて確かな怒りを孕んだざわめきが一斉に湧き起こる。不穏な空気が壕内を満たした、その時だった。
バチィンッ‼
直後、 強烈な衝撃が葵子の頬を弾いた。
「……痛っ!」
今朝子が、葵子を見下ろしていた。その瞳は、暗闇の中でも鋭い光を放っている。
「……次、そのふざけた口を開いたら、舌を切ってやるよ」
地を這うような冷たい声だった。
「なんでよ! なんで叩かれなきゃいけないの⁉ 本当のことじゃない!」
葵子は今朝子を睨み返した。歴史を知っている自分からすれば、この戦争の結末は明白だ。
「それに、こんなもんじゃ済まない。これから核爆弾が──」
そこまで言いかけて、言葉は喉の奥でせき止められた。
暗闇の中、今朝子の目は絶望的なほど必死だった。国賊の妻として疎まれながらも、ナルだけは何としても守り抜こうとする、強い母の目だ。
爆発音が、遠くに聞こえる。間もなく広島と長崎に原爆が落ちて、日本は本当に滅茶苦茶にされる。信じてはもらえないだろうが、ここで未来の絶望をすべて告げることは、何よりも残酷なことの様に思えた。
「アオちゃん……」
横からナルの悲しい視線を感じる。それでも葵子は唇を血が滲むほど強く噛みしめ、湧き上がる言葉を必死に腹の底へと押し込んだ。
****
「解除」を告げる、間のびしたサイレンが鳴り響いた。
泥だらけになった人々が、咳き込みながら次々と壕から這い出していく。誰も口を開かない。無言のまま服の土を払い、足早に闇の中へ消えていく人々の波を横目に、今朝子は葵子とナルの手をきつく握り直した。
「……どこ行くの? 家はあっちじゃ……」
「いいから、付いてきなさい」
今朝子は家とは反対の方向にある、近くの小高い丘へと歩き出した。灯火管制が敷かれた街は本来、月明かりすら疎まれるほどの漆黒の闇に包まれている。しかし、丘へと続く細い坂道は、奇妙な薄明かりに照らされていた。足元には爆撃の衝撃で剥がれ落ちた土壁や割れた瓦、ひび割れたガラスの破片が散乱しており、一歩踏み出すごとにジャリ、と嫌な音が響く。生ぬるい不気味な風が吹き抜けるたび、細かな灰が季節外れの雪のように舞い落ちてきて、葵子の頬にまとわりついた。
丘を登るにつれて、鼻を突く焦げ臭さがどんどん強烈になっていく。ふと見上げると、夜空を覆う分厚い雲の底が、まるで内側から血が滲み出たように異様な赤黒さに染まっていた。
「はあ、はあ……」
息を切らして丘の頂上に立った葵子は、眼下に広がる光景に絶句した。
「……えっ、なに……これ」
真っ暗なはずの東京の街の向こう側が、どす黒く赤い炎に包まれていた。暗闇を切り裂くように、いくつもの巨大な火柱が生き物のようにうねりながら天を突いている。燃え盛る炎は、家々の輪郭を黒々と浮かび上がらせては次々と呑み込み、街の一角がまるで巨大な溶鉱炉の底に沈んでしまったかのようだった。
ゴォォォォ……
地鳴りのような炎の咆哮が、遠く離れたこの丘にまで低い振動となって伝わってくる。熱風に乗って押し寄せてくるのは、木材や土壁が爆ぜる匂いだけではない。生活のすべてが、そしておそらくは命そのものが焼かれている生々しい異臭だった。
「これが、私たちの現実よ」
炎の照り返しで赤く染まった横顔で、今朝子が静かに告げた。
今朝子の声には、先ほどの怒りはなかった。むしろ、これほどの憐みの表情を葵子は見たことがなかった。
「葵子さん。あなたって本当に不思議な子だよ」
生ぬるい熱風が今朝子の後れ髪を大きく揺らす。
「あなたがどんな恵まれた場所で生きてきたのか、私には分からない。その恵まれた場所から、どんなに『怖い』とか『負ける』とか叫ぼうが……」
今朝子は静かに葵子の一歩前へ出た。
「それでも私たちは、この燃える空の下で、地べたを這いつくばって生きていくしかないんだ」
今朝子はゆっくり振り返って、葵子を見つめた。
「……今朝子さん」
その瞳の奥にある、絶望的な状況でも決して手放さない「生きる」という凄まじい覚悟に圧倒され、葵子は何も言い返せなかった。
隣を見ると、ナルがその炎をじっと見つめていた。
「……ナル、何見てるの?」
葵子が声をかけると、ナルは炎を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「あの男の子、だいじょうぶかなあ?」
「え?」
「チョコ、たべた子」
「ああ、昼間の……」
「お外にいたから。火、熱くないかなあ?」
ナルの目線は炎を見つめたままだ。自分の命すら脅かされた直後だというのに、ナルはさっき出会ったばかりの、見ず知らずの少年の無事を案じていた。
あたし、最低じゃん。
自分の命惜しさに、未来の知識を振りかざして他人を傷つけようとした自分。それに比べて、この時代を懸命に生きるこの子の心は、こんなにも強く、気高い。
「ごめんなさい……」
葵子はナルの肩をそっと抱き寄せ、燃え盛る夜空に目を向けた。今朝子の腹部は、風に煽られてもんぺの布地が張り付き、不自然な膨らみを強調している。
「あ、今朝子さん……そのお腹……」
葵子の呟きに、今朝子は静かに自身のお腹に手を当てた。今はどこにいるかも分からない夫が遺した、新しい命。
「ええ。この子には、こんな景色なんか見せたくないからね」
そう言って小さく微笑んだ今朝子の顔は、これまで見たどんな顔よりも強く、美しかった。
葵子の胸の奥で重い音がした。自分の中の「時間」に対する価値観が、音を立てて崩れていくのを感じた。
退屈だと嘆きながらただ漫然と消費していた時間。あのアプリのメッセージ通りだった。
それがどれほど重く、尊いものだったのか。
昭和十九年、何度目かの夜火だった。




