(四)秒針
カチッ、カチッ、カチッ……。
見知らぬ家の壁に掛けられた古びた柱時計の秒針が、容赦なく一秒ずつ時を刻んでいる。振り子が左右に揺れるたび、一定の重い金属音が鼓膜を打つ。一切の感情を持たないその無機質な響きは、ここが現代社会の時間の流れから完全に切り離された空間であることを、冷酷に告げているようだった。
「ボーン、ボーン……」
時刻は午後の四時。
──ほんの少し前まで、葵子は上野駅の喧騒から逃れ、母親の力強い手に引かれて煤けた街の路地を彷徨っていた。セピア色の冷たい風、軍歌のメロディ、人々の敵意に満ちた視線……。それらが遠ざかり、代わりに埃と古い木の匂いが漂う、入り組んだ路地裏へと迷い込んだ。隙間風が吹き抜けるたび、オフショルダーのワンピースから露出した肩が、寒さを通り越して痛みに変わった。
「ここよ」
「……えっ、ここ?」
路地の突き当たり、母親が立ち止まったのは、古びた二階建ての木造家屋の前だった。黒ずんだ木の板壁が、この時代の煤をたっぷりと吸い込んでいる。一階の窓には縦に細かい木格子がはめ込まれており、その奥から薄暗い明かりが心細げに漏れていた。見上げると、二階の窓には簡素な木のバルコニーが設えられ、一階の入り口を覆う瓦屋根と相まって、どっしりとした重苦しさを醸し出している。
(なんか、めっちゃボロいんだけど……)
今にも崩れ落ちそうなその家は、現代の東京の住宅街では考えられないほど古めかしく、しかし同時に、何十年もの時間を耐え抜いてきたような妙な威圧感を放っていた。
「我が家よ。さあ、入りなさい」
木枠のガラス戸の横には、煤けた木の板に墨で『佐伯』と記された表札が掛けられている。母親がガラス戸をガラガラと開け、葵子を土間へと促した。
「……お邪魔します」
土間で靴を脱ぎながら見渡すと、左手には水桶が置かれた流しと黒ずんだかまど、奥には勝手口へと続く土間が広がっている。右側の一段高い板間へ上がると、真正面には四畳半の茶の間、左手には襖で仕切られた六畳の座敷が連なる長屋風の造りだった。
「お姉ちゃん、こっち! ここがナルのおうちだよ!」
自分の家に客人が来たことが嬉しいのか、ナルが弾んだ声で板間から四畳半の茶の間へと案内するように先導する。
窓ガラスには爆風による飛散を防ぐための紙テープが「米」の字に何枚も貼られている。部屋の隅には黒光りする木製の茶箪笥が置かれ、その上には木箱のような古いラジオが鎮座していた。
「ここでごはんを食べるんだよ!」
ナルが指差した部屋の中央には、丸い卓袱台が置かれている。天井からぶら下がる裸電球には黒い布の笠が被せられており、足元だけを丸く切り取るように照らしていた。壁掛け時計の秒針音が、この薄暗い部屋の静寂をさらに強調している。
「こっちがお風呂場!」
ナルはとてとてと奥の縁側の方へ走り、便所の隣にある小さな戸を開けた。覗き込むと、そこには古い木桶と剥き出しの土間があるだけの薄暗く簡素な洗い場があった。
「ちょっと、こっちにいらっしゃい」
なおもはしゃぎ続けようとするナルを制するように、母親が葵子を呼び止め、卓袱台の前に座らせた。
母親は手桶の水で濡らした布切れを固く絞ると、葵子にスッと差し出した。
「さっきはすまなかったね。それで身体を拭きなさい」
「え……あ、どうも」
葵子がおずおずと受け取り、先ほど路地裏で浴びせられた冷水を拭うように、顔から首筋にかけてゴシゴシと擦った。ついでに特高に打たれて赤く腫れ上がった頬にそっと当てると、鋭い冷たさに顔をしかめたが、ジンジンとした熱が少しだけ引いていくのがわかった。
「それで……あなた、名前は?」
母親が、静かに、しかし有無を言わせぬ圧を持って問いかけた。
「……葵子、泉葵子です」
かすれた声で答える。自分の本名が、この煤けた昭和十九年の空気の中で、ひどく浮き立って聞こえた。
「私は今朝子。この子は長女のナル」
「あお……いこ……?」
今朝子の横に正座するナルが、言いづらそうに首を傾げた。
「ああ……アオでいいよ。みんなそう呼んでるし」
「うん! アオちゃん!」
大きな黒い瞳を輝かせながら身を乗り出すナルの純粋な笑顔を見て、葵子の心の中にあった張り詰めた糸が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
「まずはその頭。なんとかしないと」
「え……?」
今朝子が小皿の上で練っていたのは、黒ずんだ泥のような物体だった。姑が残していった古い粉末の白髪染めを水で溶いたものだという。
「い、痛っ! そんなに引っ張らないで……」
「我慢しなさい。こんな赤い頭で外を歩けば、また特高に目をつけられるよ」
今朝子の容赦ない手つきで、葵子の栗色の髪に黒い液体が塗り込まれていく。鼻を突く強烈なアンモニア臭に、葵子は思わず顔をしかめた。
「だいたい、なんで私がこんな目に……」
「動かない」
ピシャリと言い放たれ、下げた頭を戻された葵子は渋々口をつぐんだ。
髪を洗うのも一苦労だった。かまどで沸かした貴重なお湯を少しずつ手桶ですくいながら、土間の冷たい水で洗い流す。石鹸は泡立ちが悪く、髪はまたたく間にゴワゴワの束になった。手渡された手鏡を覗き込むと、そこには見慣れない黒髪の女が写っていた。
「うわ……変な色」
葵子はしかめっ面をした。
「なんかゴワゴワしてるし……」
「上等だよ。次はこれに着替えなさい」
今朝子が畳の上に放り投げたのは、色褪せたねずみ色のブラウスと、ゴワゴワした厚手の布で作られた不格好なもんぺだった。
「ええ……これ穿くの? まじ……?」
「文句があるなら出て行ってもいいんだよ」
冷たい視線で突き放され、葵子は慌てて首を横に振った。ここで追い出されれば、間違いなくあの特高に捕まるか、野垂れ死にするしかない。
しぶしぶワンピースを脱ぎ、冷たい布に袖を通す。
「うえ~……」
もんぺの腰紐をきつく結ぶと、鏡の中の自分は完全にこの煤けた世界の一部に溶け込んでいた。
「ぼうっとしてないで、あなたにも少しは働いてもらうよ」
着替え終わった葵子に、今朝子が容赦なく指示を飛ばす。
「え、あ、はい……何すればいいですか?」
「共同水道まで行って、この甕に水を満たしておくれ」
「共同、水道?」
「そう、それから、かまどに火を起こして」
渡されたのは、現代のポリバケツとは比較にならないほど重い、木製の水桶だった。
「……はい」
「ナル、葵子さんに場所を教えておやり。付いて行ってあげな」
「うん! アオちゃん、こっちだよ!」
ナルの小さな背中を追いかけ、葵子は桶を抱え、家の裏手にある共同水道へと向かった。蛇口を捻れば水が出る。そこまでは同じだった。だが、満タンになった二つの桶は、葵子の想像を絶する重さだった。
「……おんもっ! うそでしょ、これ何キロあるの⁉」
天秤棒などは使いこなせるはずもなく、両手に桶を持ってよろよろと歩く。冷たい水が跳ね、もんぺを濡らす。
「アオちゃん、てつだう?」
「い……いや、だい、じょうぶ……」
一歩歩くごとに、指先が凍え、腕の筋肉が悲鳴を上げた。やっとの思いで土間に戻り、甕に水を注ぐ。それを三往復した頃には、葵子は土間に膝をついて肩で息をしていた。
「次は、火だよ」
今朝子に促され、葵子は土間の左手にあるかまどの前へ移動した。
「火……えっと、ライターは?」
「何だい、それは。このマッチを使いな」
手渡された小さな木箱。葵子は震える手でマッチを擦った。シュッと音を立てて小さな火が灯るが、薪に近づける前に風で消えてしまう。
「ああ、もう! つかない!」
「あんた、本当に何もできないんだね」
背後で洗い物をしていた今朝子が、ため息交じりに呆れた声を出す。
「しょうがないでしょ、こんなの……キャンプとかでしかやったことないし……」
葵子が唇を尖らせて言い訳をしながら何度も何度もマッチを擦るが、火は薪に移るどころか、新聞紙を焦がすだけで終わってしまう。かまどからは目に染みる白い煙がモクモクと立ち上がり、葵子は激しく咳き込んだ。
「ゴホッ、ゴホッ! 煙い、死ぬ……! なんでつかないの⁉」
顔を真っ黒な煤で汚し、涙目になる葵子。これまで指先一つで手に入った火が、これほどまでに遠い。
「アオちゃん、ナルがやろうか?」
見かねたナルが、小さな手で葵子の脇に潜り込んできた。
「いや、子供にできるわけ……」
葵子が止める間もなく、ナルは手際よく細い枝を組み、マッチ一本で小さな種火を作ると、竹の筒を口に当てて優しく息を吹き込んだ。
パチッ、と乾いた音がして、薪が赤く爆ぜる。
「……あっ、ついた、ついてんじゃん!」
呆然と見つめる葵子の前で、小さな少女が当たり前のように火を操っている。
「あはは! アオちゃん、お顔、真っ黒だよ!」
突然、ナルが屈託のない笑顔で笑う。
葵子は先ほど渡された手鏡を手に取り、自分の顔を覗き込んだ。煤で頬から鼻にかけて真っ黒に汚れた無惨な顔が映っている。
「まじ、最悪……」
うなだれる葵子は、情けなさと、自分のあまりの無力さに、ただ唇を噛みしめるしかなかった。二十四年間生きてきて、自分は火の一つも起こせない。それが、この時代の「現実」だった。
ガラガラッ!
その時、土間の引き戸が激しく音を立てて開いた。
「佐伯さーん! 回覧板だよ!」
野太い男の声が響く。葵子の心臓がドクンと跳ねた。あの駅で見かけた、特高の男の冷酷な目が脳裏をよぎる。
「え……誰……?」
「組長さんだわ。葵子さん、奥の押し入れに隠れて。中で静かにしていなさい」
今朝子の鋭い小声に背中を押され、葵子は顔を黒くしたまま這うようにして板間の奥にある押し入れに転がり込み、襖を少しだけ開けて息を潜めた。
「アオちゃん、なんで押し入れに入ってるの?」
(いーから、あっち行ってて!)
ナルは不思議な表情で襖の中を覗いている。
「……あら、組長さん。ご苦労様です」
今朝子が平然とした声で土間へ出る。そこには隣組の組長がひとりで立っていた。
「これ、回覧板ね」
「どうも、ありがとうございます」
組長は回覧板を今朝子に手渡すと腕を組んだ。
「……それとね、佐伯さん。さっきあんたが見慣れない女を連れて歩いてるのを見たって人がいてね」
「見慣れない女……ですか」
「いやね……スパイでも匿ってるんじゃないかって、噂でね」
組長の言葉に、押し入れの中の葵子は息を止めた。心臓の音がうるさすぎて、外に漏れ出してしまうのではないかと思うほどだった。それでも今朝子は表情ひとつ変えずに答えた。
「ああ……駅前で道を尋ねてきた方のことですか。気の毒なので途中まで案内してあげただけですよ」
「本当かい? でも……」
「お母さん、みて! アオちゃんがかくれんぼ……」
突然、土間へ駆け出してきたナルの声に、葵子の心臓が凍りついた。
「あおちゃん?……誰のことだい、そりゃあ」
組長の怪訝そうな声が響く。
「……ウチによく来る、猫の『アオ』ですよ」
「猫?」
「ええ、ノラ猫ですよ。ほらナル、アオは外へ逃げたから、お前は奥で大人しく遊んでいなさい」
今朝子は一切の動揺を見せず、ナルの小さな背中をスッと奥へ追いやった。
「……猫、ねえ」
「ええ、猫です」
組長は少し首を傾けて、今朝子の背後を伺った。
「……まあいいか。怪しい人間を見かけたら、すぐに知らせるんだよ」
「承知しております」
ガラガラと引き戸が閉まり、組長の足音が遠ざかっていく。
「……もういいわよ、葵子さん」
襖がゆっくりと開いた。
「あー、マジ超あせった~」
押し入れから這い出た葵子は畳の上にへたり込んだ。ナルがどこかうれしそうに聞いた。
「アオちゃん、なにしてたの?」
「隠れてたんだよ! まじでヤバかったんだから」
ケタケタ笑うナルの横へ、今朝子はゆっくりと正座した。
「今はいいけど、こんなことずっとは続けられないだろうね」
「……」
葵子は気まずそうな表情でリュックの中からスマホを取り出した。画面の右上、バッテリー残量は赤字の『1%』を示している。
「……あの、けさこ……今朝子さん」
「なに?」
「今って、その……本当に、本当に昭和十九年なのかな?」
悪い夢でも見ているんじゃないか、あるいは映画の精巧な撮影セットにでも迷い込んだんじゃないかと、心の底でまだほんの少しだけ現実逃避をしていた。
今朝子は土間で受け取ったばかりの回覧板を膝に置いたまま、静かに葵子を見た。
「おかしなことを聞くね」
今朝子は、その粗悪なザラ半紙に印刷された回覧板を卓袱台の上にスッと差し出した。
「昭和十九年、十一月の二十一日だよ」
その淡々とした物理的な証拠を突きつけられても、葵子の頭はすぐには状況を呑み込めなかった。
「なんで、だって……でも、そんな昔に……」
昭和十九年といえば、たしか西暦一九四四年だ。自分がいたのは二〇二四年だから――。
葵子はぼんやりとした頭で引き算をした。
「アオちゃんは、どこからきたの?」
「ナルは少し静かにしていなさい」
ナルが不思議そうに身を乗り出してくるが、今朝子がピシャリとたしなめる。
「八十年前……あっ」
呟いた瞬間、葵子の脳裏に閃光のように蘇るものがあった。
これまであなたが無駄にしてきた時間をポイント換算しました。
ポイント残高:2,522,880,000ポイント
還元時間:80年分(1秒=1ポイント)
あの不気味なアプリで『一括還元』のボタンを押したこと。あれは、単なる誰かのイタズラではなかったのだ。自分の人生で無駄にした八十年分の時間を、この過去の世界に強制送還される形で〝還元〟させられたのだと。
「……あのアプリだ!」
元の世界に戻る手がかりがあるかもしれない。葵子は慌ててスマホの画面をタップした。しかし、右上にかろうじて表示されていた『1%』の赤い数字がふっと消え、液晶の中心でくるくると白い円が回り、
「うそでしょ、ここで切れる⁉」
プツン、と音を立てて真っ黒になった。
「ねえ、充電! ちょっと、コンセント借ります!」
パニックになった葵子は、部屋の壁に目を走らせた。しかし、そこにあるのは黒くて丸い、見たこともない形状の古いプラグ受けだけだった。
「なに、これ。ど、どうやって……」
現代の平らな二本のプラグなど、どうあがいても刺さるはずがない。今朝子が背後から訝し気に声をかける。
「なんだっていうんだい、一体」
「ちょっと、ほんとにお願い……」
何度電源ボタンを長押ししても、黒い画面は二度と明るくならなかった。ただの冷たいガラスの板になったスマホを握りしめ、葵子は呆然と宙を見つめた。
「……あっ! 電話ってあります!?」
「そんなもの、町内の地主か交番にしかないよ」
「じゃあパソコン! パソコンでメールすればきっと……」
藁にもすがる思いで尋ねた葵子に、今朝子は眉をひそめた。
「ぱそこん? 何だいそれは」
もはや疑う余地はない。自分が本当にタイムスリップしてしまったこと。そして、元の世界へ帰る手段は完全に絶たれたこと。
「……あ……ああ……」
「アオちゃん、どうしたの?」
きょとんとしたナルの瞳とは裏腹に、圧倒的な現実がのしかかり、葵子の胸の内に底知れぬ不安と重苦しい憂鬱がじわじわと広がっていった。
****
夜。窓ガラスには隙間なく黒い布が張られ、部屋の中は灯火管制による異様な暗さに包まれていた。黒い笠を被せられた裸電球が、卓袱台の上のささやかな食事だけをうつろに照らしている。
「アオちゃーん、ごはんだよ?」
小さな手が、葵子の膝をポンポンと叩いた。見ると、ナルが心配そうな顔で葵子を下から覗き込んでいる。
「……うん、ありがと」
葵子は無理に口角を上げてみせた。いつまでも落ち込んでいても仕方がない。お腹の虫は、悲しみや憂鬱とは無関係にグーグーと無遠慮な音を立てていた。
「さあ、お食べ」
今朝子がお椀をコトッと卓袱台に置いた。
「……こ、これって」
「大根の葉のお粥だよ。配給が減って、お米は少ししか入っていないけれどね」
お椀の中には、刻まれた緑色の葉っぱが申し訳程度に浮いた、水のように薄暗い汁が入っていた。
葵子はおずおずと箸を取り、ひと口すすった。
「……苦っ。味、全然しない……」
出汁の味もしなければ、塩気すらほとんどない。ただの青臭いお湯を飲んでいるようだった。
「贅沢言うんじゃないよ。それだって、ナルが拾ってきた大根の葉っぱなんだから」
「そう! ナルが拾ってきたんだよ!」
ナルは自分の分のお粥を、ふーふーと息を吹きかけながら、とても美味しそうに少しずつ、大切に飲んでいた。
こんなものが、この子のご馳走なのだ。葵子は現代の自分の部屋に転がっていた、食べかけのポテトチップスや、半分残して捨てたコンビニ弁当を思い出して、胸がひどく痛んだ。
「……いただきます」
葵子はお椀に口をつけ、目をつむって一気に喉に流し込んだ。青臭さが胃の底に落ちていく。
食後、葵子は自ら食器を洗う手伝いを申し出た。とはいえ、現代のように便利な水道などない。土間にある甕からひしゃくで水を汲み、かじかむ手で薄暗い中、木桶の中でお椀をすすぐ。油汚れがないことだけが唯一の救いだった。
「……こんな冷たい水で、毎日洗ってるんですか?」
指先の感覚がなくなりそうになりながら尋ねると、今朝子はかまど周りを片付けながら淡々と答えた。
「当たり前だよ。夏はまだいいけれど、冬はあかぎれが痛くてね」
「はあ……」
その言葉の重みに、葵子はただ黙って手を動かすしかなかった。
冷え切った手を拭いながら板間へ戻ってくると、葵子はどさりと畳の上にへたり込み、足を投げ出した。部屋の中には何もない。テレビもなければネットもない。暇を潰せる雑誌すらない、圧倒的な退屈。何もない空間でぼんやりしていると、余計に腹の虫が鳴り、どうしても甘いものが恋しくなった。
「はぁ……コンビニ行きたい……」
ぽつりと漏れた葵子の独り言に、ナルがピクッと反応した。
「アオちゃん、こんびに、ってなに?」
大きな黒い瞳が、不思議そうに瞬きをする。
「え? あー……えっとね」
葵子は少し考えてから、わざと明るい声を作った。
「コンビニっていうのはね、魔法の世界みたいなところだよ。夜に行ってもずーっと明るくて、いつでもおにぎりとか、甘ーいシュークリームとか、ジュースが買えるの」
「いつでも? 夜なのにあかるいの?」
「そう。パスタも、ふわふわのパンも、何でも売ってるんだよ」
ナルの瞳が、まるで本物の星を見たようにキラキラと輝き始めた。身を乗り出し、葵子の腕をぎゅっと掴む。
「しゅー?……って、あまい?」
「シュークリームね。うん、甘い」
「ふわふわの、おいしい?」
「そう、パンもふわふわで……おいしい……」
葵子は自分で言ってて、ひもじい気分になった。
「いいなぁ……ナルも、こんびに、行ってみたい」
「行ける行ける。まあ……ナルがだいぶ大人になってからだと思うけど」
純粋なナルの笑顔を見て、葵子は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ナル、はやく大人になる! 大人になったら、アオちゃんと一緒にこんびにに行く!」
ナルは元気いっぱいに宣言した。
葵子はフッと笑って、ナルの小さな顔の高さに合わせて顔を近づけた。
「そうね、約束。大人になったら、一緒にコンビニ行こ」
葵子が小指を差し出すと、ナルも嬉しそうに細い小指を絡めてきた。
「ゆびきりげんまん、うそついたら……」
「ハリセンボン、飲ーます!」
八十年後の未来でも変わらない同じ歌。小さな指と指が、薄暗い電球の下で固く結ばれる。
今朝子は声をかけることも咎めることもなく、繕い物の手を止めて、二人の結んだ小指を静かに見守っていた。
──今朝子の頭上にある時計の秒針が、カチッ、カチッと優しく時を刻んでいた。
すべてを失ってこの時代に放り出された葵子が、初めて誰かと結んだ、ささやかだけれど小さく温かい約束だった。




