(三)烙印
『ピーン、ポーン』
「いらっしゃいませー」
夜のコンビニ。自動ドアが開くたびに鳴る、気の抜けたような電子音。煌々と白い蛍光灯に照らされた陳列棚、レジ横から漂う独特なホットスナックの油の匂い。
おもむろに買い物カゴを持った。慣れたように店の奥へと進み、目に入ったのり弁と一番安い発泡酒をカゴに入れて数人いるレジ待ちに並んだ。
「こちらどうぞー」
スマホからイヤホンのボリュームを下げ、呼ばれたレジの前に立った。
「お弁当、温めますか?」
「え?」
「温めますか、お弁当」
「あ、はい」
さらにイヤホンのボリュームを下げる。店員が手早く背後の業務用レンジに弁当を入れた。
「レジ袋はどうされますか?」
「えーっと、いら……ないです」
「はい。画面のタッチをお願いします」
レジに表示された『バーコード決済』をタッチして、店員がバーコードリーダーをスマホにかざすと、ピピッという軽い決済音が鳴る。
ジーッ、という音と共にレジからレシートが出てくる。それを不要レシートのボックスにそのまま押し込んだ。
「お待たせしました」
「あっ、お箸ひとつください」
「かしこまりました」
ひんやりと冷房の効いた店内。温かい弁当のプラスチック容器に割り箸を添え、自動ドアから外へ出る。
「ありがとうございましたー」
『ピーン、ポーン』
コンビニを出れば、まとわりつくような夏の熱気と見慣れた東京の住宅街。遠くで、薄っすらと救急車のサイレンが聞こえる。小脇に発泡酒を抱え、もう片方の手には熱々の弁当。家までは一分もかからない。
退屈で、パッとしなくて、でも、絶対に命を脅かされることのない、あまりにも手軽で平和な日常。
幻聴のように脳裏を掠めたその呑気な記憶は、容赦なく吹き付ける乾いた木枯らしの音に──、あっけなく──、かき消された。
「さ……寒、い……」
葵子は高架下の黒ずんだレンガ壁に背中を預けたまま、ガタガタと震える膝をきつく抱え込んでいた。
スマホの画面をいくらタップしても、もう何の反応も示さない。バッテリーが切れたのか、それともこの時代の冷気に当てられて完全に壊れてしまったのか、確かめる気力すら湧かなかった。
ワンピースから露出した肩は、寒さを通り越して痛みに変わっている。指先は白っぽく変色し、感覚が鈍くなっている。
「……か、帰りたい。まじで、帰らせてよ……」
誰にともなく零した声は、空腹と寒さでひどく掠れていた。
その時だった。
コツ、コツ、コツ。
土と砂利が混ざった地面を踏みしめる、硬くて重い靴音が近づいてきた。通行人の下駄が鳴らす軽い音でも、地下足袋の擦れる音でもない。革靴の踵が、意図的に地面を打ち据えるような、威圧的な響きだった。
靴音は葵子の目の前でピタリと止まった。
「あ……」
うつむいていた葵子の視界に、埃にまみれた黒い革靴と、くすんだ灰色のスラックスが入ってきた。
「痛っ!」
次の瞬間、その革靴の汚れたつま先が、丸まっている葵子の膝を路傍のゴミでも確認するようにコツンと小突いた。
「おい、そこの女」
頭上から降ってきたのは、這うような低い男の声だった。
「……えっと、あたし?」
葵子はビクッと肩を跳ねらせ、恐る恐る顔を上げた。逆光を背負って立っていたのは、三十代半ばほどの男だった。ヨレヨレのくすんだ背広を着て、頭には中折れ帽を目深に被っている。その帽子の下から覗く目は、まるで蛇のように冷酷で、路傍の石でも見るような侮蔑の色が張り付いていた。
「こんな所で何をしている」
「え、と……あ、あの……」
「身分を証明できるものを、出せ」
男は顎をしゃくりながら、無造作に太い掌を突き出した。警官なのだろうか。職務質問のような口調に、葵子は混乱した頭で必死に言葉を探した。
「みぶん、しょうめい……? ああ、マイナカードなら財布に……」
凍える手でリュックの中を探ろうとした瞬間、男の太い手が葵子の腕を乱暴に掴み上げた。
「痛っ! ちょっと⁉」
「ふざけているのか。なんだその妙な言葉遣いは」
男の顔がぐいと近づく。油臭いポマードの匂いと、安煙草のヤニの臭いが鼻を突いた。男は葵子の栗色に染められた髪と、露出した肩、短いスカートの裾を、舐め回すように睨みつけた。
「その奇天烈な格好。お国が苦しいって時に、米英の娼婦気取りか? それに、その赤い髪……貴様、さては敵国人だな?」
てきこくじん……
駅での記憶が蘇る。
「ち、違います、あたし、ただの日本人です! 髪はただ染めてるだけで……!」
「嘘をつけ!」
怒声と共に、男の大きな手が振り上げられた。それが「暴力」の予備動作だと、平和な現代で生きてきた葵子の脳が理解するよりも早く──
バチィンッ‼
鼓膜を突き破るような破裂音が響き、葵子の視界が真っ白に弾けた。
「……いっ、つ……」
何が起きたのか分からなかった。頭が激しく横に揺さぶられ、気がつけば、葵子は硬い砂利の上に無様に叩きつけられていた。
口の中に、じわりと鉄の味が広がる。頬に熱した鉄板を押し当てられたような激痛が走り、そこからジンジンとした痺れが顔の半分を覆い尽くした。平手打ちされたのだ。見ず知らずの男に、全力で。
「あ……うぅ……」
「泣けば許されるとでも思ったか、小賢しい」
男──「特別高等警察」の刑事は、倒れ込んだ葵子の髪を鷲掴みにし、首が折れそうなほどの力で無理やり引きずり起こした。現代のイントネーションや横文字は、彼らの耳には英語を使う間諜か、不良外国人の戯言にしか聞こえないのだろう。
「来い! しっかり調べさせてもらうぞ」
「やめて……! 離して、痛い、痛いって!」
葵子は男の腕を引っ掻きながら泣き叫んだ。いつの間にか周囲には、騒ぎを聞きつけた野次馬たちが遠巻きに黒い輪を作っていた。だが、特高の威圧感を恐れて誰一人として声を上げようとはしない。他人のふりをして目を逸らす、冷たい群衆の隙間――その視界の隅に、小さく震える人影が見えた。
おかっぱ頭のナルだ。ナルは母親の着物の裾を白くなるほど強く握りしめ、大きな瞳をいっぱいに見開いて葵子を見つめて、小さな唇をぎゅっと噛みしめている。
「黙れ! 非国民め!」
「だ、から……なんなのよ、それ……ふざけんな……!」
男が再び大きく右手を振り上げた、まさにその時だった。
「お役人様! どうか、お待ちくださいませ!」
悲鳴のような鋭い声が響き、小柄な人影が男と葵子の間に滑り込んできた。
「……あぁ?」
「この子は……この子は、その……私の身内でございます」
母親は地面の砂利に額をこすりつけるような勢いで、深く土下座をした。ナルもまた、母親の動きに合わせるようにその場に膝をつき、小さな体を丸めて葵子を庇うようにして縮こまった。
……あっ、あの時の。
地元の駅のホームで見かけた、あの時代錯誤な格好をした変わった親子だ。身内……?
「なんだ、お前は? 邪魔立てすると公務執行妨害で……」
「どうか、お見逃しを!」
母親は顔を上げず、地面に額を擦り付けたまま懇願した。
「幼い頃の熱病で……少しばかり、頭が弱うございまして……」
「頭が弱い、だと?」
特高の男が、侮蔑を込めて葵子を振り返る。その言葉を聞いた瞬間、葵子が咄嗟に反応した。
「ち……ちょっと、頭が弱いって……」
「管理不行き届き、誠に申し訳ございません」
葵子の反論を母親が遮った。横たわる葵子の肩を、母親の細い指が折れんばかりの力で強く、深く、地面へと押し付ける。「黙れ」そう無言で命じられた気がして、葵子は息を呑んだ。
母親は畳み掛けるように「嘘」を重ねた。古着を切り刻んでおかしな服を作り、髪にも変な汁を塗ってしまったのだと。
「……少し目を離した隙に、迷子になってしまいました」
息もつかせぬ勢いで言い募るその声には、有無を言わせぬ必死さがあった。
「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございません」
「フン……」
特高の男は、掴んでいた葵子の髪から手を離し、チッと舌打ちをした。そして、土下座を続ける母親の顔を覗き込むようにして目を細めた。
「……ん? お前……」
男の口元に、下劣な笑みがねっとりと広がった。
「どこかで見た顔だと思えば……『アカ』の容疑で引っ張られた、俺の元同僚の佐伯の奥サンじゃないか」
アカ。その単語を聞いた瞬間、母親の細い肩がビクッと跳ねた。ナルは母親の背中に顔を押し当てるようにして、震えを堪えている。
男は土下座する母親の顔の真横にしゃがみ込み、ネチネチと這うような声で囁いた。
「どうだ? 裏切り者の亭主を待つ気分は。あいつは今頃、地下の冷たい豚箱でたっぷり油を絞られているだろうよ」
「……ご心配には及びません」
母親の声は一切の感情を排した、機械的な響きだった。
「夫……佐伯は国のため、粛々と調べを受けていることと存じます」
「……ほう、殊勝な心がけだな。だが、内心では我々を恨んでいるんじゃないのか?」
「いえ、そんな、」
「このふざけた格好の女も!……本当は裏で繋がっている活動家仲間なんじゃないか?」
特高の男は母親の言葉を遮り、激しい口調で葵子に指を指した。
「滅相もございません。この娘は、ただの出来の悪い身内でございます。私の不徳の致すところで、お役人様にご不快な思いをさせ、誠に申し訳ございません」
反論の色も、卑屈な笑みもない。ただ特高の男の言葉を、嵐が過ぎるのを待つように耐え忍んでいる。
「……へぇ……」
その完璧なまでの無表情さに、男はつまらなそうに鼻を鳴らして立ち上がった。
「国賊の身内の分際で、のこのこと上野をうろついているとはな。反逆者の家には、気狂いがよく似合う」
男は冷たく見下ろしながら、今度は母親の後ろで震えるナルへ、わざとらしく同情するような声色を向けた。
「フッ、可哀想になあ。こんな小せえ糞ガキも、国賊の血が流れてるんだ。……奥サンがちゃーんと躾けないと、いずれ俺たちが『教育』してやらなきゃならなくなるぜ?」
ビクッとナルの小さな背中が震え、母親の着物を握る手がさらに白くなった。
「いいか? お前らのような日陰者は、泥水をすすってでも国に尽くせ。少しでも妙な真似をすれば、」
黒い革靴がジャリっと音を立てた。
「お前も、亭主と同じ目に遭う。……わかっているな?」
「……承知、いたしました」
「ケッ……まあいい。かつての同僚のよしみだ、今日だけは特別に見逃してやる」
「ありがとうござ、」
「だが二度と、俺の前に顔を出すなよ、奥サン」
言葉と共に、男はそばにいた葵子の肩をポン、と軽く、だが明確な威圧を込めて叩いた。そして、母親の横にペッと唾を吐き捨て、雑踏の中へと消えていった。
重苦しい沈黙が降りた。遠巻きに群がっていた野次馬たちは、倒れ込んだ葵子に誰一人手を差し伸べることはない。冷ややかに目を逸らし、蜘蛛の子を散らすようにそそくさとその場を離れていく。冷たい風が吹き抜けると、葵子は我に返った。
「あ、あの……ごめんなさい、あたし……」
震える手で母親に触れようとした葵子を、母親は無言でそれを制した。母親はゆっくりと立ち上がると、しゃがみ込んでいる葵子を見下ろした。その目は、射抜くような鋭い光を湛えていた。
「えっ、と……」
母親は無言のまま、葵子の華奢な腕をガシッと掴んだ。
「えっ……」
「……立ちなさい」
母親の口から出たのは、冷徹な響きだった。葵子は抗うこともできず、引きずられるようにして立ち上がった。泥だらけになった葵子の姿を上から下まで一度見分すると、母親は低い声で尋ねた。
「あなた、行くあてはあるのかい」
「え……あ、あてって……」
「あるのか、ないのかって聞いてるんだよ」
静かで、それでいて有無を言わさない問いかけだった。
「ない……いや、わかんないです……」
頼れる場所どころか、自分が今どういう状況に置かれているのかすら分からないのだ。葵子が迷子になった子供みたいな表情でうつむくと、母親は葵子の腕を掴んだ手にさらにぐっと力を込め、短く言い放った。
「……行くわよ」
「い、行く? ってどこへ……?」
強引に歩き出した葵子のすぐ斜め後ろには、ナルの姿があった。彼女は葵子に触れてくることはなかったが、ただ、つかず離れずの距離感を保ったまま小走りでついてくる。怯えたように母親の背中を追いながらも、時折、腫れた頬を押さえる葵子を気遣うように見上げるその大きな瞳は、悲しげで健気な色を帯びていた。
母親は葵子の腕を掴んだまま、駅前広場から薄暗い路地裏へと向かって歩き出した。
「ち、ちょっと……」
「……」
あの恐ろしい特高の男から助けてもらった。間違いなく彼女が命の恩人だ。だが、見ず知らずの自分を「身内」だと偽ってまで庇った理由は全くわからない。
そもそも、この狂った時代だ。どこかへ売り飛ばされるのではないか、あるいはもっと恐ろしい場所へ連れ込まれるのではないか──。
「……待ってよ……」
足を進めるごとに、先の見えない恐怖が寒さとは別の震えとなって葵子の背筋を駆け上がっていく。
耐えきれなくなり、葵子は掴まれていた腕をバンッと勢いよく振り払った。
「待ってってば!」
母親が足を止め、静かに振り返る。ナルも驚いたように葵子を見上げた。
「……なんなのよ、もう……」
張り詰めていた糸が切れ、葵子の口から半狂乱の叫びが迸った。
「いきなり殴られるし、スマホも繋がらないし……どれが夢でどれが現実かも分かんないのに、見ず知らずの人に黙ってついて行けるわけないじゃん⁉」
ゼエゼエと肩で息をする葵子。路地裏に彼女の叫びが虚しく響き渡る。
「……そうかい」
母親は感情の読めない瞳で葵子を見つめたまま、ゆっくりと路地の隅へ歩み寄った。そこには、防火用水として置かれていたのか、なみなみと水の張られた古びたブリキのバケツがあった。
母親は無言のままそれを両手で持ち上げると──次の瞬間。
「え……ち、ちょっ……」
バシャッ‼ という鋭い水音。躊躇なく、その冷水を葵子に向けて思い切りぶちまけた。氷のように冷たい水が、葵子の頭からワンピース、素足までを容赦なく打ち据えた。
「……ひっ!?」
あまりの冷たさに呼吸が止まる。濡れた髪が頬に張り付き、全身の体温が一瞬にして奪い去られた。
「な、何すん……」
「これで、少しは目が覚めたかい」
怒りと寒さで歯の根を合わさずガチガチと震えながら睨みつける葵子を、母親は氷点下のような冷たい声で一喝した。
「……え」
「夢だの現実だの、寝言をほざいている暇はないんだよ」
「そんなこと、あたしだって……」
「ここで凍え死にたくなかったら、黙ってついてきな」
言うが早いか、母親は先ほどよりもずっと強い力で、水も滴る葵子の細い腕をグイッと力任せに引っ張った。
「痛ったたた! わかった……行きます、行きますって!」
強引に歩き出させられた葵子の横を、ナルがついてくる。ずぶ濡れで震える葵子を気遣うように見上げるその健気な瞳は、無言で何かを訴えかけているようでもあった。
路面電車がガタガタとけたたましい音を立てて走り去っていく。煤けたセピア色の街並みが、口を開けて葵子を飲み込もうとしていた。
顔の左半分を鈍く焼くような痛みと、全身を刺すような冷水の凍えが、この悪夢のような時代が紛れもない現実であることを、葵子に強く、深く刻み込んでいた。




