(二)十九
「……終点、うえのー。うえのー」
くぐもった、それでいて腹の底から響いてくるような張りのある男の声が、鼓膜を直接揺さぶった。
「……んー……えっ……どこ?」
葵子は重いまぶたを、ひきつらせながらゆっくりと開けた。視界には白い靄がかかっており、ピントが合うまでに数秒を要した。
「ちょっと……なんで、上野?」
心臓が大きく跳ねた。本来なら土崎駅から電車に乗り、秋田駅で降り、そこから新幹線に乗り換えるはずだった。冷房もないあの異様な汽車で爆睡してしまったのは覚えている。だが、いくら寝過ごしたからといって、秋田のローカル線が東京の上野まで直通で来るわけがないのだ。
「あれ?……無意識のうちに新幹線に乗ってた……?」
いや、それは絶対ない。頭が覚醒するにつれて、猛烈な違和感に襲われる。百歩譲って、寝ぼけたまま秋田駅で新幹線に乗り換えていたとしてもおかしい。秋田から乗る新幹線の終点は、上野駅のもう一つ先、東京駅のはずだ。なぜ上野が終点のアナウンスになっているのか。
頭の芯がジンジンと痺れ、脈打つような痛みが走っている。どれくらい眠っていたのだろう。首から背中にかけて、硬い板に無理やり押し付けられていたような痛みが走り、思わず顔をしかめた。
ガタン、と最後に大きな衝撃があり、全身が前へと持っていかれそうになる。汽車が完全に停止したのだ。
「……一応、東京には着いたってこと……?」
寝ぼけ眼をこすり、乾燥して張り付いた唇を舐めながら、葵子は周囲を見渡した。車内はすでに、ガタガタと慌ただしい音に包まれていた。乗客たちは皆、誰一人として言葉を発することなく、無言のまま手際よく荷物をまとめ、そそくさと客車の両端にある降り口へと向かっている。その動きはどこか機械的で、異様なほどの切迫感を漂わせていた。
ふと斜め前の席を見ると、あの着物姿の親子──氷のように冷たい目をした母親とおかっぱ頭のナルの姿はもうなかった。いつの間にか降りてしまったらしい。
「なんだよ、起こしてくれたっていいのに……」
かすれた声で独り言を呟きながら、葵子は膝の上に抱え込んでいたリュックを背負い、よろよろと立ち上がった。
「いてて……腰、痛っ……」
足元が少しふらつく。車内には何日も洗っていないような汗と古い布の匂い、そして鼻の奥を突くような石炭の煙の匂いが充満していた。新幹線の無機質な匂いとは全く違う、生々しい人間の生活臭と鉄の匂いだ。
「ほんと、悪趣味なイベント列車だったな……」
自分の席の周りを見渡し、忘れ物がないか確認する。スマホはちゃんとワンピースのポケットに入っている。
葵子は前の人の背中に続くようにして、狭い車内の通路を歩き出した。前にいるのは、頭に手ぬぐいを巻き、背中よりも大きな唐草模様の風呂敷包みを背負った老婆だった。
「どっこいしょ」
その腰は直角に近いほど曲がっており、一歩踏み出すごとに、そんな消え入るような声を漏らしていた。
……本当に、なんなのこの人たち。どこかの劇団員? にしたって、入り込みすぎでしょ。
客車のステップは、現代の電車とは比べ物にならないほど段差が高かった。手すりをしっかりと掴み、慎重にホームへと降り立つ。
「……うそっ、さむっ!」
外の空気に触れた瞬間、葵子はむき出しの肩を抱きかかえるようにして、思わず身を縮めた。真夏のはずだ。秋田でさえ、息をするのも苦しいほどの酷暑だった。それなのに、吹き込んでくる風はまるで冬の初めのように冷たく、ひどく乾燥している。
「やばいやばい、マジで寒いんだけど!」
いや、数時間でここまで気温が変わるはずがない。異常気象か、あるいは強烈な寒冷前線でも通過しているのだろうか。ワンピースから出た肩や素足に、びっしりと鳥肌が立った。葵子はリュックの肩紐をきつく握りしめ、震える息を吐いて顔を上げた。
「……え?」
そして、その場でぴたりと足を止めた。視界に飛び込んできたのは、見覚えのある「上野駅」の光景ではなかった。
綺麗に舗装されたコンクリートのホームはない。足元は薄汚れ、ところどころ木材がむき出しになった粗末なプラットホームだ。靴底を通して、ゴツゴツとした木の感触が直接伝わってくる。
見上げれば、天井を覆う近代的なドーム型の屋根や、煌びやかな電光掲示板など、どこにも存在しない。むき出しの鉄骨と、そこからぶら下がる薄暗い電球が埃っぽい空気を照らしているだけだ。それすらも、なぜか意図的に光を遮るように黒い笠が深く被せられ、足元だけを不気味に丸く切り取っていた。
「なんか……上野ってこんなだったっけ……?」
確かに、上野駅にはほとんど降りたことはない。それよりも、温かいお茶でも買おうと思ったが、光り輝く自動販売機も、ガラス張りのコンビニの売店も、見渡す限りどこにもない。代わりに目に入ったのは、白地に黒い太い筆文字で書かれた、古びた木製の駅名標だった。
「……の、へ、う?」
葵子は思わず声に出して読んだ。
「あ、『うえの』か」
右から左へと書かれている。横には『鶯谷』『御徒町』と、見慣れた駅名がやはり古い書体で並んでいる。場所は上野で間違いないらしい。
しかし、周りを歩く人々の姿が、あまりにも異常だった。誰もが、厚手のカーキ色や深緑色の作業着のような服、あるいはくすんだ色のもんぺ姿だ。頭にはツバの短いカーキ色の古めかしい帽子を被った男たちや、歴史の教科書で見た「防災頭巾」のような分厚い布を肩にかけた女たち。足元は下駄や草履、あるいは編み上げの古いブーツだ。これだけ肌寒いのに、半袖の薄着をしている人間など、ただの一人もいない。スーツ姿のサラリーマンも、制服を着た女子高生も、ワイヤレスイヤホンをしてスマホを見つめる若者もいない。まるで、そう、戦争映画のセットの中にそっくりそのまま迷い込んだようだ。
「もしかして……映画の撮影?」
大規模なエキストラを使った撮影か、あるいは駅全体を使ったイベントなのだろう。そう自分に言い聞かせるが、ホームに漂う空気はあまりにもリアルだった。笑っている者は一人もおらず、誰もが寒さに背中を丸め、急ぎ足で歩き去っていく。行き交う人々の顔には、深い疲労と、何かに怯えているような暗い影が落ちていた。
何かが、おかしい。
得体の知れない違和感が、チリチリと肌を焦がすように胸の奥に広がり始めた。葵子はポケットからスマホを取り出し、画面をタップした。液晶の明るい光が、薄暗いホームの中で妙に浮き立って見えた。時刻は午後四時を回ったところだった。
しかし、葵子の視線は画面の左上に釘付けになった。そこに表示されているはずのアンテナのマークに、斜めの線が入っている。
「は? なんで、圏外?」
東京のど真ん中、しかもターミナル駅である上野駅で圏外になるはずがない。地下鉄の奥深くならいざ知らず、ここは地上だ。
「いやいや、嘘でしょ。そんなわけないじゃん……」
葵子はスマホを頭上に掲げたり、左右に振ってみたりした。しかし、無情にも『圏外』の文字は消えない。Googleを開いてみるが、『インターネットに接続されていません』という冷たいメッセージが表示されるだけだ。LINEを開いても、更新のマークがくるくると虚しく回り続けるだけだった。
「ま、いっか……とりあえず、外に出よ」
改札を抜ければスタバもあるし、いつもの見慣れた景色があるはずだ。そうすれば電波も戻る。葵子は身震いしながらスマホをポケットに突っ込み、人の流れに逆らわないように、改札口へと向かって歩き出した。
人の波に乗って歩く道すがら、葵子に対する周囲の視線は、汽車の中よりもさらに痛烈なものになっていた。すれ違う人々が、ギョッとしたように葵子を見ては、慌てて目を逸らす。ヒソヒソと囁き合う声が、あちこちから聞こえてくる。
「なんだ、あの女は……」
「あんな破廉恥な格好をして……」
「頭が赤いぞ、パーマネントじゃねえのか?」
聞こえよがしの悪意に満ちた言葉に、葵子は奥歯を噛み締めた。
はあ? アンタたちの方がよっぽど変な格好してるくせに!
言い返してやりたい衝動に駆られたが、圧倒的な多勢に無勢だ。それに、彼らが放つ空気感には、現代の東京の街角で感じるような「他者への無関心」が微塵もなかった。異物を排除しようとする、むき出しの敵意だ。
薄暗い階段を下りていく。ひんやりとした隙間風が吹き上がり、葵子はたまらず両手で自分の二の腕を擦った。壁には、これまた筆文字で書かれたポスターが何枚も貼られている。
『防空演習は真剣に』
『パーマネントはやめましょう』
『ぜいたくは敵だ』
どれもこれも、歴史の教科書か博物館でしか見たことのないような標語ばかりだ。
「本当、手が込みすぎじゃない? ってか、なんでこんなに寒いんだろ」
葵子は寒さと足の震えを必死に抑え込んでいた。これは現実ではない。何かのイベントだ。そう思わなければ、立っていられなくなりそうだった。
やがて、人の波の先に出口の明かりが見えてきた。見上げれば、幾重にも複雑に組まれた無骨な鉄骨の屋根が高くそびえ、広大なコンコースを覆っている。正面の改札上の広い壁面には、採光用の大きな窓ガラスが並んでいたが、その全面に防空用の黒幕が重々しく垂れ下がり、その下には太い筆文字で『中央改札』と書かれた吊り看板が下がっていた。
木製のラッチがずらりと並ぶ、広い改札口だ。そこには、当然のように自動改札機は一台もなかった。代わりに、黒い詰襟の制服に身を包んだ駅員たちが、ラッチのボックスに立ち、乗客から一枚一枚、小さな厚紙の切符を受け取ったり、ハサミを入れたりしている。
カチカチ、カチカチ、カチャッ……
「……ここ上野だよね? 改札、人がやってるんだけど」
リズミカルで、それでいてどこか人を急き立てるような金属音が、改札口一帯に響き渡っていた。
「秋田でも自動改札なのに? なんで?」
葵子はリュックを前に抱え直し、フロントポケットのジッパーを開けた。中から、事前に買っていた磁気切符を取り出す。裏面が黒く、表面には『秋田→東京都区内』と印字されている。自分の番が近づくにつれ、駅員の怒声のような案内がはっきりと聞こえてきた。
「はい、止まらないで! 切符はすぐに出して!」
葵子は一番端に立つ、恰幅の良い中年の駅員の前に立った。
「はい、切符」
少し俯いたまま、手にした磁気切符を駅員の目の前にスッと差し出した。カチカチとハサミを鳴らしていた駅員の手が、ピタリと止まった。
駅員は、葵子の顔と、差し出された切符を交互に見比べた。その眉間に、深いシワが刻まれ、目が険しく吊り上がる。
「……おい、なんだこれは」
駅員の声は、低く、ドスが効いていた。
「え? あの、切符ですけど」
葵子は事も無げに答えた。
「ふざけるな。こんな妙な紙切れが切符なわけがなかろう」
駅員は葵子の磁気切符を、汚いものでも見るかのように指先で弾いた。ペラペラの軽い磁気切符はひらひらと宙を舞い、埃っぽいコンクリートの床に落ちた。
「ち、ちょっと、何すんのよ!」
葵子はムッとして声を荒らげ、屈んで落ちた切符を拾い上げた。土埃がついて白く汚れている。
「前もってちゃんと買ってきたんですけど⁉ そっちの自動改札が壊れてるんでしょ⁉ ちゃんと調べてよ!」
「あ? 自動改札だと? 貴様、いったい何を訳のわからんことを喚いている。それに……」
駅員の鋭い視線が、葵子の全身を上下に動いた。栗色に染められたショートヘア、肩を大きく露出した薄着のワンピース、そして膝上まで露わになった素足。駅員の顔色が、みるみるうちに赤黒い顔色へと変わっていく。
「その奇抜な格好はなんだ! この非常時に、そんな破廉恥な真似をして恥ずかしくないのか!」
駅員はさらに葵子の首根っこを掴んだ。
「それに、その頭の色……貴様、敵国人か⁉」
「はあ⁉ 敵って……なにが? あたしが?」
聞き慣れない単語に、葵子は眉をひそめた。頭のおかしいクレーマーに絡まれたような気分だった。
「おい、誰か来い! 怪しい女がいるぞ!」
「ち……ちょっと!」
「切符も持たずに強行突破しようとした!」
駅員が大声を上げると、改札周辺の空気が一気に張り詰めた。
「いや、あるってここに……ありますって!」
行き交う乗客たちが足を止め、一斉に葵子を取り囲むように遠巻きな輪を作り始める。
「なんだなんだ」
「スパイじゃないのか」
「警察を呼べ」
ヒソヒソという囁きが、次第に大きなざわめきへと変わっていく。改札の奥から、別の制服を着た男たちが数人、慌ただしい足音を立てて駆け寄ってきた。腰には警棒のようなものを下げている。
「な、なによ! ちょっと文句言っただけじゃん⁉」
葵子は首元の手を払いのけて叫んだ。しかし、男たちの顔には、狂気じみた敵意と、獲物を見つけた狩人のような冷酷さが浮かんでいた。それは現代の警察官や駅員がトラブルに対処する時の目ではない。完全に、敵を制圧しようとする目だった。
「おい、捕まえろ!」
「特高に突き出せ! 憲兵隊を呼べ!」
特高……憲兵隊……?
歴史の授業でしか聞いたことのないような単語が、現実の暴力として葵子に迫ってくる。男たちの一人が、葵子の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。
やばい、捕まる……てか、殺される……⁉
本能が警鐘を鳴らした。理屈ではない。ここでこの異常な人たちに捕まれば、取り返しのつかないことになると強烈な直感が葵子を貫いた。
葵子は咄嗟に身を翻し、駅員の手をすり抜けた。
「待て、止まれ!」
背後から怒声が追いかけてくる。葵子はリュックを胸の前に抱え込むようにして、人ごみを掻き分けながら無我夢中で駆け出した。
「きゃっ!」
「痛えな、どこ見て歩いてんだ、このガキ!」
すれ違う人々に肩をぶつけ、怒鳴られ、舌打ちをされながらも、葵子は振り返ることなく走り続けた。コンクリートではなく、土埃の舞う駅構内。足を取られそうになりながらも、必死に足を前に出す。
薄暗い通路を抜け、刺すような冷たい外気が流れ込む出口を目指す。背後からは足音が複数、確実に葵子を追尾してきている。とにかく、外に出れば……外に出ればタクシー乗り場がある! 交番もある!
「はぁっ、はぁっ……やばいって、なんなの一体……」
息が上がり、喉の奥から血の味がした。ワンピースの裾が足にまとわりついて走りにくい。冷たい空気を一気に吸い込んだせいで肺が痛む。
出口の光が近づいてくる。葵子は最後の一歩を大きく踏み出し、上野駅の外へと飛び出した。
息を切らしながら、葵子は駅の外れにある高架下の薄暗い影に逃げ込んだ。黒ずんだレンガの壁に背中からずり落ちるようにしてしゃがみ込む。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
心臓が早鐘のように鳴っている。ドクン、ドクンという音が、耳元で直接響いているようだった。全力で走ったせいで、荒く吐き出す息は真っ白に染まっている。露出した肩や足から、容赦なく冷たい風が体温を奪っていく。
「まじで……あいつら、頭……おかしいんじゃないの……」
膝を抱え、震える手で何度も顔を拭う。追っ手の声は、すぐには聞こえてこない。どうやら人混みに紛れて撒くことができたらしい。葵子は荒い呼吸を落ち着かせながら、ふらふらと立ち上がった。
訳が分からない。改札も駅構内も異常だった。でも、外に出れば、見慣れた東京の景色が広がっていれば、電波も復活するし、きっと誰かが助けてくれる。
葵子は祈るような気持ちで、高架下の影からゆっくりと顔を出し、目の前に広がる街の景色を見渡した。
そして、絶句した。
「……あ、れ……?」
そこは、葵子の知っている上野ではなかった。巨大な駅ビルも、アメ横の入り口を飾る派手なネオンサインも、動物園の看板も、行き交う大量の自動車も、信号機すらも、すべてが消え失せていた。
恐る恐る振り返って見上げた駅舎は、横に長く伸びた、白く角張ったコンクリート造りのモダンな建築だった。中央部分だけが高くせり出し、縦長の窓が規則正しく並んでいる。見覚えのあるレトロな正面玄関の面影はあるが、周囲を取り囲んでいた巨大な駅ビルや看板が一切なく、まるで威圧的な官公庁のようにそびえ立っている。
「えっ、えっ……なにこれ、どーなってんの?」
道路はアスファルトではなく、土と砂利がむき出しになっている。見渡す限りの広々とした駅前広場には、現代のようなタクシーの列もペデストリアンデッキもなく、隅のほうに屋根がピラミッド型の奇妙な地下鉄らしき入り口が見えるだけだ。
そして広場の中央では大きく弧を描く軌道の上を、深緑色の古ぼけた路面電車がガタガタとけたたましい音を立てて走っている。窓ガラスには何本もの紙のテープがバツ印に貼られていた。
道路の端を走っているのは、木炭を積んだ不格好なトラックや、三輪自動車だ。排気ガスの代わりに、煙たいような異臭を放ちながらノロノロと走っている。
違う、ここじゃない。
出るところを間違えただけじゃん。
……あ、そうか。公園口の方に出ちゃったんだ。
葵子は混乱する頭で必死に言い訳を探した。
「誰か……誰か普通の人。スマホを持ってる人……スタバのカップを持ってる人!」
通りを歩く人々を、すがるような目で見つめる。しかし、歩いているのは皆、駅で見かけたのと同じように、地味で分厚い服を着た人々だけだった。コンビニのレジ袋を持っている人間はいない。プラスチックのペットボトルを持っている人間はいない。ダウンジャケットを着ている人間も、スニーカーを履いている人間もいない。現代の東京にあふれている〝極彩色〟と〝物質〟が、ここには何一つとして存在しない。全体がセピア色にくすんだような、圧倒的なモノクロームの世界だった。
葵子は空を見上げた。青空は広がっているが、どこか煤けたような、埃っぽい空だ。現代のような高いビルが一つもないため、空が異様に広く、そして恐ろしいほど遠く感じられた。街のあちこちに設置されたスピーカーから、割れんばかりの音楽が流れている。
『勝ってくるぞと勇ましくー、ちかって故郷をー出たからはー……』
決して耳に馴染まない、重苦しい軍歌のメロディが街全体の空気をさらに冷たく沈ませている。
ここには、自分と同じ世界を生きている人間は誰もいない?
自分の知っている常識は、何一つ通用しない……?
その圧倒的な事実が、じわじわと葵子の心を侵食し始めた。今まで感じたことのない、途方もない孤独感。まるで、宇宙の果てにたった一人で放り出されたかのような、深くて暗い恐怖だった。
「あたし……あたし、今どこにいるの……?」
震える足を引きずり、葵子はふらふらと歩き出した。吸い寄せられるように、一番近くにあった板張りの掲示板に歩み寄る。右から左へ読ませる、独特の太い筆文字のポスター。
『贅沢は敵だ』
『欲しがりません勝つまでは』
『米英撃滅』
映画のセットにしては、細部まで作り込まれすぎている。張り詰めた空気の匂い、人々の疲弊した生活感、そして何よりも、この圧倒的なまでの〝時代の重圧〟は、作り物で出せるものではなかった。そのポスターの横に、画鋲で留められた一枚の新聞が冷たい風でパタパタと揺れていた。活字がびっしりと並んだその新聞の、紙質は粗悪で、インクもかすれている。
「あ……」
葵子は思わず指を伸ばし、その新聞の右上の日付欄に目をやった。そこには、はっきりとこう印字されていた。
『昭和十九年 十一月二十一日』
「し、昭和……十九年……?」
自分の声ではないような、掠れた音だった。
「今が令和六年だから……」
八十年前の一九四四年。それは太平洋戦争の末期である。
ありえない。テレビのドッキリ番組でも、ここまでリアルな世界を作れるわけがない。
「えっ……え、どーなってんの……」
葵子は頭を抱えながらゆっくりと振り返り、テーピングだらけのすりガラスの隙間に映る自分の姿を見た。栗色に染めたショートヘア。肩を出した真夏の流行りのワンピース。ブランド物のリュック。手にはスマートフォン。この圧倒的な〝昭和〟の戦時下において、自分の存在がどれほど異質で、滑稽で、そして危険なものであるか。
駅員のあの敵意に満ちた目。母親が小さな娘を隠した時の、あの冷ややかな視線。
『特高に突き出せ』
思い出したくもない、怒声。
「まさか、時間が……戻った……の?」
誰に問いかけるでもなく、言葉が震える唇からこぼれ落ちる。
「嘘だよ……ねえ、こんなの、嘘だよね……?」
葵子は両手で顔を覆い、壁に沿ってその場にへたり込んだ。
「はは……夢、だよね?」
ペラペラの夏服のワンピース一枚で座り込むコンクリートは、まるで氷のように冷たかった。遮るもののない冷たい木枯らしが吹き抜け、葵子は肩を震わせた。
「寒い……」
歯の根が合わず、ガチガチと音を立てる。露出した肌は、すでに感覚がなくなるほど冷え切っていた。
「と……とにかく、何か着るものを買わなきゃ。凍え死んじゃうって」
身軽に帰ろうと、喪服や着替えの入った大きな荷物は、実家の母親に頼んで東京の自宅へ宅配で送ってしまった自分の判断を、葵子は心の底から呪った。今手元にあるのは、財布や最低限の化粧品が入ったこの小さなリュックだけだ。
恐怖と寒さから逃れるように、葵子はふらふらと立ち上がった。ユニクロだ。上野なら近くに大きなユニクロのビルがあったはずだ。あそこなら、安くて暖かいフリースやダウンジャケットが買える。スマホが使えなくても、財布には一万円くらいは入っている。一縷の望みにすがり、葵子は重い足を引きずって歩き出した。
──ない。どれだけ目を凝らしても、あの見慣れた赤と白の四角いマークの看板は、どこにも見当たらない。それどころか、いつもなら威勢のいい声が響き、人でごった返しているはずのアメ横の入り口すら存在しなかった。高架沿いに広がる、あの迷路のような商店街そのものが、影も形もないのだ。
「どこ、ここ……?」
代わりに並んでいるのは、黒ずんだ板張りの、薄暗く活気のない見知らぬ商店ばかりだった。ガラス戸には防空用のテープが貼られ、いくつかの店は火災の延焼を防ぐために強制的に取り壊されたのか、無残な瓦礫の積まれた空き地になっている。知っているカフェも、居酒屋チェーン店も、ドラッグストアも、ただの一つも存在しない。
「ねえ……ユニクロ……どこ……アメ横は……?」
ガタガタと震える顎を押さえながら、葵子は絶望的なモノクロームの街をさまよった。売り物として並べられているのは、地味な色のモンペや、ゴワゴワとした質素な服だけ。手元にある紙幣が使えるのかどうかもわからないし、何より、この格好のまま店員に声をかければ、また駅の改札のように騒ぎになってしまうのではないかと恐ろしかった。
葵子は再び高架下の影に逃げ込み、崩れ落ちるように座り込んだ。震える手でポケットからスマホを取り出し、もう一度強く握りしめる。画面は依然として『圏外』のままだが、葵子はすがるように電話アプリを開いた。
「お母さん……」
履歴のトップにある『お母さん』の文字を震える指でタップする。
耳に押し当てたスマホからは、発信音すら聞こえてこない。そもそも、電話を掛けることすら出来ていないのだ。
「……出て」
次は『お父さん』をタップする。
「……ねえ、出てよ!」
LINEを開いて妹の薫のアイコンをタップし、無料通話のボタンを連打した。緑色の画面には『ネットワークに接続していません』というポップアップが空しく表示されるばかりだ。
「お願い……出てよ。誰か……」
スマホの黒い画面に、ポタッと水滴が落ちた。それが自分の涙だと気づくまで、数秒かかった。一度堰を切った涙は、もう止まらなかった。何度画面を叩いても、葵子の助けを求める先は、このモノクロームの世界のどこにもない。ここは自分の味方が誰もいない、八十年も昔の過去なのだ。
十一月の凍てつくような寒風の中、体の芯から、さらなる冷たくて硬い絶望がじわじわと這い上がってくるのを感じていた。
『ピーン、ポーン』
葵子は、なぜかいつも行くコンビニの入店音を思い出した。




