(一)還元
時間がひっくり還ったのは、決して偶然ではなかったのかもしれない。
「てかさ、全然話変わるんだけど」
「んー?」
「えっと……これ、このアプリって知ってる?」
会社の給湯室の隅に置かれた、少し黒ずんだ白い丸テーブル。泉葵子は、プラスチックの容器に入った幕の内弁当の隅にある赤いウインナーを割り箸でつつきながら、向かいに座る同僚の理奈にスマホの画面を見せた。
理奈は、コンビニのパッケージから出したばかりのツナマヨネーズのおにぎりを頬張りながら、怪訝そうな顔で画面を覗き込んだ。
「……どれ?」
「ほら……この、変な黒いアイコン」
「砂時計のやつ?……全然知らない。なにそれ」
「なんか、いつの間にか勝手に入っててさ。気味が悪いんだよね」
「開いた?」
「開いてない」
「間違えて変な広告でもクリックしたんじゃないの? 最近多いじゃん、そういうの。怪しい副業の勧誘とか、勝手に課金とかされないうちに、削除しちゃいなよ」
「だよねえ」
「アオってそういうの無頓着じゃん」
「おっしゃる通り」
「それより、クソ彼氏がさあ……」
理奈の愚痴を適当に聞き流しながら、葵子はスマホの画面をテーブルに裏返して置いた。少し冷めて衣がしんなりした白身魚のフライを口に運ぶ。パサパサとした食感と、薄いタルタルソースの味が舌に残る。それはまるで、今の自分のパッとしない日常そのものを象徴しているようで、葵子は無性に虚しい気持ちになった。
「西田さーん、またエクセルがバグったんですけどー」
「バグった? どこですか?」
「まじで意味わからん」
隣に座っている西田が葵子のパソコンの画面をのぞき込み、すぐに「またか」という表情をした。
「……だからね、泉さん。ここに文字入れちゃうと関数が崩れちゃうんだって」
「あれ、そうでしたっけ?」
「セルに色を付けたりして、入力しないように気を付けてください」
「あ、色を付けるね。なるほどー」
午後もひたすらパソコンの画面に向かい、エクセルのセルに数字を打ち込み続けるだけの単調な事務作業が続く。誰にでもできる仕事。葵子が休んでも、代わりはいくらでもいる仕事。時計の針が定時の夕方六時を指すのを、ただじっと待つだけの時間がひたすらに流れていった。
「泉さん。今日の出勤のWEB勤怠、打刻されてないです」
「え、あ。すいませーん。今申請します」
残業は一切ない。定時ピッタリに退勤打刻をして会社を出る。東京の夏は夕方になっても少しも涼しくならず、アスファルトから立ち上る熱気とビルの室外機が吐き出す生ぬるい風が全身にまとわりついてくる。
人でごった返す西武新宿駅に向かい、本川越行きの急行電車に乗り込む。冷房の効いた車内に逃げ込んだのも束の間、周囲はすぐに帰宅ラッシュの人波で埋め尽くされた。
すし詰めの満員電車に揺られ、上石神井駅で降りる。乗客たちの汗と疲労が入り混じったような湿気た空気を抜け出し、改札を抜けると少しだけ息がしやすくなった。
駅前の商店街を抜け、いつものスーパーに立ち寄る。冷房の効きすぎた店内で、弁当コーナーを物色する。三割引きのシールが貼られたトマトソースのパスタと、発泡酒を一本カゴに入れてレジへ向かう。
「ポイントカードはお持ちですか?」
「あ、ないです」
「お作りしましょうか?」
「あ、大丈夫です」
毎回聞かれて、うんざりしている。言葉を遮られたレジのアルバイトの店員は、機械的にバーコードを読み取っていく。支払いを済ませた葵子は、持参したくたびれたエコバッグを広げ、無造作に商品を詰め込むと足早に店を出た。
駅から歩いて十分ほどの場所にある、築年数の古いワンルームマンション。これが葵子の城だった。
「暑っつ!」
ドアを開けると、日中締め切られていた部屋特有の、むっとした空気が鼻をつく。葵子は靴を脱ぎ捨てるなり、エアコンのスイッチを入れて風量を強に設定し、テレビをつけた。
窮屈なオフィスカジュアルを脱ぎ捨て、ヨレヨレのTシャツとショートパンツという部屋着に着替える。洗面所に向かい、前髪を太いヘアバンドでぐしゃっとまとめると、洗顔フォームで念入りに顔を洗った。
「あーーーー」
さっぱりした顔で部屋に戻り、フル稼働しているエアコンの吹き出し口の前に立って、冷たい直風を全身で浴びる。
「えっ、フォーク貰うの忘れた。も~~」
舌打ちをしながらキッチンの引き出しから割り箸を取り出し、ローテーブルの前に置かれた座椅子に深く腰を下ろした。買ってきたパスタの蓋を開け、よく冷えた発泡酒のプルタブを小気味よい音を立てて開けた。
「いただきます」
ひと口飲んで、喉の奥に炭酸の刺激を流し込む。ゴールデンタイムのバラエティ番組のわざとらしい笑い声をBGMにしながら、箸でパスタを食べる。美味しいとも不味いとも感じない。ただ空腹を満たすための作業だ。
食事が終わると、座椅子のすぐ後ろにあるベッドへそのまま寝転がり、特に興味もない動画アプリを開く。短い動画を次から次へと親指で延々とスクロールし続ける。可愛い猫の動画、誰かが大食いをしている動画、見知らぬ他人の日常のVlog。どれも葵子の人生にはピンとこないものばかりだ。
インスタのタイムラインの一番上に、大学時代の友人である千秋の投稿が表示されていた。
「え、千秋ちゃん、タイに行ってるじゃん!」
画面の中では、水着姿の千秋がホテルのナイトプールで、日に焼けた彼氏とカクテルグラスを合わせて笑っていた。ハッシュタグには『#夏休み #プーケット #ご褒美』と並んでいる。
「……いーなー、プーケット。彼氏持ちはこれだから」
羨ましさと少しの嫉妬が入り交じり、葵子は〝いいね〟を押してスマホを枕元に置いた。
仕事にやりがいを感じているわけでもないし、情熱を注げる趣味もない。夢中になれるような恋人も、もう何年もいない。何かを成し遂げるほどの特別な才能がないことは、二十四歳になった自分が一番よくわかっていた。
「……ふう」
誰に聞かれることもなく吐き出したため息は、狭い部屋の虚無の空気に溶けて消えた。このまま、この狭い部屋と会社の往復だけで、年を取っていくのだろうか。不安な気持ち……とは認めたくない、そんな漠然とした感情が胸の奥をかすめるが、それに向き合う気力も湧いてこない。
濡れた髪を適当にタオルで拭きながら再びベッドに倒れ込んだ時、不意に枕元のスマホが震えた。画面を見ると、昼間に理奈に見せたあの見知らぬアプリからの通知だった。
「なんなん、ほんとに」
黒地の背景に、古びた砂時計のアイコン。アプリ名などはどこにも載っていない。削除しようと思っていたのに忘れていた。忌々しい気分でアイコンをタップして開くと、黒い画面の真ん中に、無機質な明朝体で白い文字が並んでいた。
これまであなたが無駄にしてきた時間をポイント換算しました。
ポイント残高:2,522,880,000ポイント
還元時間:80年分(1秒=1ポイント)
画面の下部では、赤字で『ポイント失効間近』という警告文が、まるで心臓の鼓動のように不気味に点滅している。
商品カタログへのリンクや、電子マネーへの換金メニューの類は、画面のどこを探しても見当たらない。ただ、人を小馬鹿にしたようなテキストと膨大な数字がそこにあるだけだ。
「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……え、二十五億?」
二十五億ポイント。一ポイントが一秒に相当するので八十年分という計算になる。八十年といえば、ほぼ一生涯に等しい時間だ。
『あなたが無駄にしてきた時間』
その一文が、葵子の胸にチクりと刺さった。確かに、自分でも薄々気づいてはいる。やりがいもなく惰性でこなす仕事、目的もなくスクロールし続けるだけのスマホ画面、誰かと心を通わせることもなく、ただ流れていくだけの空虚な日々。
図星だった。だからこそ、葵子は無性に腹が立ってきた。
それにしたって、
「無駄ってなによ。八十年って……人の人生そのものじゃん。あたし、まだ二十四年しか生きてないのに」
くだらない、くだらない、くだらない。
大きなお世話だ。バカ、バカ、バカ……
「ほんと、バカみたい」
どうせただの悪質なスパムアプリだ。失効するというなら、さっさと使ってやろう。葵子は苛立ちをぶつけるように、画面下にあった『一括還元』というボタンを強くタップした。
すると、二十五億という途方もないポイント残高の数字が、あっさりと『0』に変わった。
「……は?」
その直後、電源が切れたかのようにフッと真っ黒に暗転した。
「え、なに……ちょっと、やば。電源落ちたんだけど」
焦って画面をタップしたり振ってみると、真っ暗な画面の真ん中に、白い明朝体でぽつりと一つのメッセージが表示された。
ポイントが一括還元されました。ご利用ありがとうございました。
(あなたが無駄にしてきた時間 80年分 を還元)
メッセージは数秒でフッと消え、スマホは通常のホーム画面に戻った。
「……なんなの、これ」
気味が悪くなり、もう一度あの砂時計のアイコンをタップしてみる。しかし、うんともすんとも言わない。何度タップしても、あの黒い画面が開くことは二度となかった。
ただそれだけだった。部屋の空気も、葵子自身にも、念のため確認したネットバンクの口座の残高にも何の変化もない。
「マジ、ダルいんだけど」
呆れ果てた葵子は、スマホを枕元に乱暴に放り投げ、掛け布団を頭から被って目を閉じた。
****
……うるっさいなあ。
数日後、葵子はまとわりつくような重い暑さの中、地元の秋田へ向かうこまち号の車内にいた。数席後ろで子供が泣いている。なかなか、泣き止む気配がない。
車両選び、しくじったな。
葵子はイヤホンのボリュームを上げて、スマホに撮りためていたドラマに集中した。
それから仙台駅に着くと、隣にサラリーマンのオジサンが座ってきた。他に空いているところなんて沢山あるのに、なぜここに? 何か少し損した気分になる。
秋田まで、あと二時間くらい。ようやく、親が子供をデッキへ連れ出したのが薄っすらとイヤホン越しに伝わった。
秋田駅からさらに奥羽本線に乗り換える。騒がしかった新幹線から一転、ローカル線の車内は乗客もまばらでのんびりとした空気が漂っていた。二つ先の土崎駅で降りると、港町特有の、どこか湿り気を帯びた風が吹き抜け、ポートタワーが遠くにそびえるのが見えた。
駅前ロータリーとも呼べない小さな広場には、見慣れた薄紫色の軽自動車が停まっていた。
「お母さん」
助手席のドアを軽くノックすると、スマホをいじっていた母親が顔を上げ、少しだけ目を丸くした。
「もう、葵子か。びっくりした」
車に乗り込むと、エアコンの風が心地よかった。母親は車を発進させながら、どこか忙しそうな雰囲気で言う。
「葬式に来たばっかだし、来ねくてもよがったのに」
「まあ、年休が余ってたから」
「んで、あんた喪服持ってきたの?」
「持ってきたって」
「数珠は?」
「ある。たぶん」
「薫も仕事休んでくれたっけ」
「そう」
帰郷したのは、先日亡くなった祖母・和子の四十九日法要に参列するためだ。『平和な世の中になるように』──終戦の年に生まれた祖母のその名前の由来を、葵子は幼い頃から幾度となく聞かされて育った。
雲がまばらな青空の下、国道七号線を走る車。母親の話を半分だけ聞きながら、遠くにいくつも並んでいる風力発電のゆっくり回る巨大風車を窓越しで見つめていた。
お寺の広い座敷には、黒い喪服に身を包んだ親戚たちが集まっていた。見たことがある顔、まったく見たことがない顔で溢れている。祖母の子供の頃は戦後すぐで大変だったと聞くが、人望が厚く友人も多かった。遺影の表情が、喜んでいるように見えた。
読経が終わり、客殿で仕出し弁当が配られると、仏前だというのに男たちは昼間から酒をあおり、すっかり宴会の空気に変わっていた。年寄りたちへの気遣いなのか、エアコンが効いていない。扇風機が首を振っているが、開け放たれた窓からはセミのけたたましい鳴き声と、湿気を帯びた熱風が入り込んでくるだけで、一向に涼しくならない。
「アオちゃん、東京さ行ってから随分と派手になっだこと。髪なんか真っ茶色だねが」
親戚のおばさんが、葵子の栗色に染めたショートヘアと、膝上まである黒いワンピースをジロジロと見ながら眉をひそめた。
「仕事も大事だけどよ、おなごの幸せってのはやっぱり家庭を持つことだからな」
「うん」
「そろそろこっち帰ってきて結婚せばいい」
「うん」
「仕事だば見つけてやっがら。車も俺のプリウスやっが? ガッハッハ!!」
顔を真っ赤にした親戚のおじさんが、瓶ビールをグラスに注ぎながら、説教じみたトーンで絡んでくる。
「うん、考えておくよ」
古い価値観の押し付けに、葵子は引きつった表情で適当に頷く。線香のむせ返るような匂いと、アルコールの匂い、そして田舎特有の過干渉な空気が混ざり合い、ひどく息苦しい。たまらず台所の隅に避難し、スマホの画面に逃げ込んでいると、妹の薫が不機嫌そうな顔で近づいてきた。
「ねえ、ちょっと」
薫は地元の信用金庫で働いており、今日は地味な濃紺のワンピースを着て、親戚たちの間を甲斐甲斐しく立ち回っていた。
「アオ姉さ、ずっとスマホばっかりじゃん」
「別に」
「親戚のおばさんたち、アオ姉に気を使ってるよ」
「なんで?」
「なんでって……もうちょっと愛想よくして手伝ってあげたら……」
「は? なんでそんなことしなきゃなんないの!?」
「アオ姉」
「てかさ、お茶出しとかビールの追加ならさっき私が全部やったし!」
「……そうだけどさ。少しは周りの空気読んで振る舞ってよ」
「めんどくさ。だから田舎って嫌」
「アオ姉だって、高校までその田舎にいたんだよ」
「はいはい、ごめんなさいね。私なんかどうせ気が利かないし」
素直に謝れない自分の不器用さが嫌になるが、売り言葉に買い言葉でつい反発してしまう。多感な時期から親に反抗し、子供のころから〝よくできた妹〟にもキツく当たってきた癖が、大人になった今でも抜けないのだ。
「ちょっと、葵子と薫いる? こっち来て手伝ってけれ」
「はーい。行こ、アオ姉」
「……」
本当なら今すぐ東京へ逃げ帰りたかったが、今日ばかりはそうもいかない。葵子は居心地の悪さを抱えたまま、親戚たちが帰るまでじっと耐え忍んだ。
その夜。実家の食卓には久しぶりの家族四人の顔が揃っていた。テレビから流れるプロ野球中継の音に、網戸越しに聞こえる虫の音、居間には実家特有の家族の空気が停滞している。座椅子に深く腰掛けた父親は、無言のままビールの缶を傾けて画面を眺め、薫はソファの隅に身を預けてスマホをいじっていた。葵子もまた、食卓の椅子に座り、目的もなくSNSのタイムラインを親指でなぞる。同じ空間にいながら、それぞれが別の画面を見つめているという、どこか他人行儀で気怠い沈黙がそこにはあった。
「あんたたち、昼間にあんだけ食べたからお腹空いてねべ?」
誰からの反応もなく、エプロンを外しながら母親が葵子の隣の椅子にどっこいしょと腰を下ろした。
「お父さんは? ご飯、食べるが?」
「……ん、いらね」
父親は画面から目を離さずに、ぶっきらぼうに答える。
「あんたたちは?」
母親の視線が、それぞれスマホをいじっている葵子と薫に向けられた。
「いらない」
「あたしも。お母さん、もう休んでていいよ」
薫が気を遣うように言う。
「んだ、お腹すいたらなんか適当に食べな」
「……あ、法事で残ってた焼き魚けれ」
父親が思い出したように声をかける。
「んもう、んだがら先に言ってければいいのに……」
やれやれと、母親が立ち上がってキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けて焼き魚の用意をする。電子レンジが温まるブーンという音が、静かな居間に響いた。
「んだけどさぁ、法事に新屋さんいたべ?」
電子レンジの前に立つ母親が、世間話を振ってくる。薫がソファの背もたれに肩を掛けて反応した。
「あー、あの昔よく遊んでくれた叔母さん?」
「んだ。……老けたなあっと思って」
「確かに。どこのお婆ちゃんかと思ったよ」
「やっぱり、病気せば老けるんだべな……」
しんみりとした母親の言葉に誰も返す言葉が見つからず、奇妙な沈黙が居間を包んだ。
葵子は小さくため息をついてスマホの画面を閉じた。
「……あたし、疲れたからもう寝る」
立ち上がった葵子に、母親が焼き魚をレンジから取り出しながら言う。
「へば、薫の部屋さ布団敷いてるがら、そこで寝れな」
「え、奥の和室でいいよ」
昼間の出来事のせいで薫と二人きりになる気まずさを避けたかった葵子は、とっさに断った。
「あそこにエアコンないから暑ぃや?」
「うわ、エアコンなかったんだ」
「居間だばエアコンあるけど……ここさ布団敷いてやっが?」
「……いや、もういいや。薫の部屋で寝る」
これ以上やり取りをするのも面倒になり、葵子は短く折れた。
薫の部屋は、壁際にベッドが置かれ、床には葵子のための布団が敷かれていた。八畳ほどの無駄のない掃除の行き届いた部屋。明かりを消すと、暗闇の中にエアコンの「コーッ」という機械音だけが規則的に響いている。
しばらくスマホを見ながらゴロゴロしていると、少しだけ睡魔が襲って来た。タオルケットを肩まで引っ張ってきたところで、薫がゆっくりとドアを開けるのが分かった。廊下の明かりが部屋に入ってきて、すぐに暗闇に戻った。ベッドの軋む音と共に、薫はするりと布団に入った。
葵子は息を潜めている。どうにも、気まずい沈黙が流れていた。
「……アオ姉、起きてる?」
ふいに、ベッドの方から薫の小さな声が降ってきた。
「ん」
葵子は天井を向いたまま、短く答える。
「上京して何年だっけ?」
「……六年目、か?」
「東京って、楽しい?」
「まあ、そこそこ」
強がっているわけではないが、かといって不満をこぼす気にもなれず、無難な返事をした。ゴソゴソとシーツが擦れる音がして、思い出したように薫が上半身をこちらに乗り出す気配がした。
「あのさ、渋谷のめっちゃ流行ってるシュークリームのお店ってなんだっけ⁉」
突然上がったトーンに、葵子は思わず毒気を抜かれて吹き出しそうになる。
「SOLA!」
「そう、それ! 食べたことある?」
「食った。超おいしかった」
「えー、いーなー」
「忘れなかったら、今度買ってくる」
「ほんと? 鬼LINEするよ?」
薫は満足そうに笑うと、再び布団に潜り込んだ。
しばしの沈黙が降りる。そこに昼間の苛立ちを感じることはなかった。
「……薫」
「なに?」
「……法事の時、ごめん」
暗闇に紛れて、葵子はぽつりと零した。
「……うん、あたしも、ごめんね」
少しの間の後、薫は短く答えた。余計な言葉はないが、それだけで十分だった。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
目を閉じると、押し入れの奥から引っ張り出してきた枕は、古い防虫剤と実家の匂いがした。
翌日の昼前。葵子が目を覚ますと、父と母、そして薫はすでに仕事へ出かけており、家には誰もいなかった。
居間のテーブルには『冷蔵庫のごはん温めて食べて!』という母親の書き置きが残されていた。謎の「!」マーク。ラップされたハムエッグの皿を電子レンジで温め、炊飯器からご飯をよそう。誰もいない居間で遅い朝食をとる。煮物を口に運びながら、葵子はテーブルの端にあったボールペンを引き寄せ、母親の書き置きの余白に一言だけ書き足した。
食べ終えた食器を洗い、身支度を整え、リュックを背負うと、最後に仏壇の前に座って線香をあげた。
「じゃ、またね」
手を合わせたまま、遺影の祖母に挨拶をする。表情は、やはり嬉しそうだった。
田舎特有の不用心さで、鍵を閉めずに家を出る。毎回、実家に帰ってきて帰京するこの瞬間、葵子の胸にはなんとも言えない寂しさと空虚感が広がった。自分の帰る場所は、実はどこにもないのではないかという錯覚に陥るのだ。
「暑っ! なにこれ……」
駅までの道のりは、まさに灼熱の砂漠を歩いているようだった。照りつける太陽がアスファルトをじりじりと焼き、遠くの景色が陽炎でぐにゃりと揺れている。昨日、母親が車で迎えに来てくれたことが、どれだけありがたいことだったかを噛みしめる。
駅まであともう少しの時だった。
「……っ」
不意に足元がふらついた。立ち止まって額を押さえる。その瞬間、辺りの風景が、まるで古い絵の具の〝鱗〟がボロボロと剥がれ落ちていくような奇妙な錯覚に襲われた。
「あれ……?」
アスファルトが土に、遠くの真新しい看板が色褪せたものに一瞬だけすり替わったような気がする。
「やっば、熱中症かも……」
葵子は首を振り、しっかりと意識を保ちながら歩みを進めた。ワンピースの肩紐が汗で肌に張り付き、不快感でイライラが募る。
「あー、もう。最悪……暑すぎるって……」
十五分ほどかけて、ようやく辿り着いた最寄りの土崎駅のホームには、予想通り誰もいなかった。
だが、ホームに足を踏み入れた瞬間、道中のアスファルトの熱気が嘘のように、すっと冷たい風が吹き抜けた。
「……なんか、涼しいな……」
海からの風だろうか。火照った肌には心地よいものの、露出した肩には、少しばかり薄ら寒く感じるほどの空気だ。
「え、まだ全然じゃん……」
二両編成のローカル線が来るまで、まだ十分以上ある。時刻表をしっかり確かめておけばよかったと後悔した。古い木製のベンチに腰を下ろし、ふうっと深い溜息をついた。
喪服や着替えが詰まった大きな荷物は、後日宅配便で送ってもらうよう母親に頼んでおいて本当に正解だった。軽くなったリュックからポーチを取り出し、手鏡で顔をチェックする。汗でファンデーションが浮き、首筋に張り付いた栗色の短い髪が煩わしい。綺麗に直そうとしたが、急に引いた汗の冷たさもあってか、そんな気力も失せた。
手持ち無沙汰になった葵子はスマホを取り出し、夏服のネット通販サイトを開いた。今着ているようなワンピースや、胸元が広く開いたTシャツ、裾の短いデニムのショートパンツの新作をスクロールして眺める。
「あーん、やっぱこれ超かわいい。二万円かあ……。今月のカード、厳しいしなあ」
親指は惰性で画面を下へ下へと滑っていく。ただ時間を潰すためだけに、次々と現れる色鮮やかな新作の服を無心で眺め続けた。
「ちょっと、あなた……なんて格好をしてるんだい」
不意に聞こえた、低く冷たい女性の声。
葵子はビクッと肩を揺らして、スマホから顔を上げた。
目の前には、まったく見覚えのない親子が立っていた。いつの間にホームに来たのだろうか、足音すら聞こえなかった。
母親と思しき女性は、真夏だというのに、くすんだ藍色の地味な着物を着ていた。艶のある黒髪を後ろできっちりとひっつめに束ね、足元は使い古された地下足袋を履いている。服こそ古びて粗末だが、背筋はピンと伸び、その顔立ちは恐ろしいほど整っていて、感情を表に出さない聡明さを感じさせた。
その母親の着物の袖を強く握りしめているのは、おかっぱ頭の小さな女の子だ。年齢は五歳くらいだろうか。こちらもツギハギだらけの古い着物に、素足で下駄を履いている。
女性の厳しい視線は、葵子の剥き出しの肩と、膝上まで出ている足に向けられていた。明らかな嫌悪と、信じられないものを見るような色がその瞳には浮かんでいる。
「……はい? なんですか?」
葵子は怪訝そうに眉をひそめて聞き返した。
「そんなに手足をさらけ出して……恥ずかしくないのかい」
女性は、わなわなと震える声でそう言った。葵子は顎を下げて自分の服装を一瞥した。
「はあ……ただの、ワンピースですけど」
ムッとして言い返した葵子だったが、女性は表情ひとつ変えずに葵子を見下ろしている。
「お母さん、このお姉ちゃんはどうして髪が赤いの?」
その横の女の子が、無邪気な声で母親を見上げて言った。
「あめりかじん?」
アメリカ人、という突拍子もない単語に葵子は目を丸くした。
「ナル、見ちゃいけないよ」
「どうして?」
「特高に捕まるよ」
母親は女の子──「ナル」を短く叱責すると、ナルははっとした表情で頬を少し膨らました。
「とっこう……?」
染めているだけだと言いかけた葵子だったが、なんだか面倒になりそうと思い、口をつぐんだ。それは母親の方も同じだったようで、親子は少し離れたベンチに座った。
「秋田のツル叔母さんから、お芋を分けてもらえてよかったわね」
「うん! お芋、見せて」
「これで東京に戻っても、しばらくは……疎開のことも、もう少し考えないと……」
疎開がどうの、お芋がどうのという古臭い単語が微かに聞こえてきたが、葵子には何のことかさっぱり理解できなかった。ただの変な親子だ。
「なんなのよ……」
忌々しい気分でスマホに視線を戻そうとした時。
プォオオオオオオ──……‼
鼓膜を震わせるような、重々しく、そして暴力的なほど巨大な汽笛の音が鳴り響いた。
「あー……ほんとに、ちょっと寒いかも」
座りながら伸びをする。思っていたより電車が来るのが早い。立ち上がって線路の先を覗き込んだ葵子は、我が目を疑った。
「…………え?」
シュッシュッ、という激しい排気音と共に、油くさい匂いと真っ黒な煙を撒き散らしながらホームに滑り込んできたのは、いつもの二両編成のローカル線ではない。図太いボイラーを備えた、巨大な漆黒の蒸気機関車だったのだ。
「……うそ、なんかのイベント……?」
呆然と立ち尽くす葵子の顔に、機関車が発するムワッとした熱気と、石炭の燃える匂いが吹きつける。
隣のベンチにいた親子は、機関車の姿を見るなり立ち上がり、ためらうことなく客車の乗り口へと向かっていった。
「えっ、えっ……どうすんの、どうすればいいの⁉」
何かの観光イベント列車なのだろうか。それにしては、先ほどの親子の服装といい、この機関車が纏う生々しい鉄の質感といい、あまりにも本格的すぎる。
「お姉ちゃーん、はやくー! 汽車がでちゃうよー!」
客車のステップを上がったナルが、ひょっこりと顔を出して葵子に向かって手を振った。その後ろから、母親が冷ややかな目でこちらを急かしているように見えた。
「え、どうしよ……あ、うん……乗る、乗ります!」
よくわからないが、さらに次の電車を待つ気にはなれなかったし、「なんとかなるだろう」という妙な自信があった。葵子はリュックを背負い直し、慌ててステップを駆け上がった。
ガシャン、と重い金属音が腹の底まで響き、汽車が大きく揺れて動き出した。
「え……ここエアコンないの?」
開け放たれた窓から吹き込んでくるのは、爽快な風ではなく、むせ返るような石炭の煙と生ぬるい熱風だけだった。車内は木を基調とした古めかしい造りで、天井に並ぶ扇風機すら回っていない。まるで巨大な蒸し風呂だ。
「これって……コスプレのイベントとか……?」
葵子は戸惑いながらも、空いていたボックス席に腰を下ろした。背中とお尻に触れる青いモケット生地の座席は、クッション性がほとんどなく、板のように硬い。
「……まあ、秋田駅まで行ければいいし……」
ふと顔を上げると、周囲の乗客たちからじろじろと奇異の目で見られていることに気づいた。乗客の姿はまばらだが、誰もが先ほどの親子のような暗い色の服──ツギハギの入ったもんぺや、カーキ色の古ぼけた作業着のようなものを着ている。頭に手ぬぐいを巻いた老婆や、大きな風呂敷包みを抱えた疲れた顔の男。汗と泥、それに古い布の匂いが車内に充満していた。
彼らの視線は、葵子の染められた明るい髪、露出した肩、そしてワンピースから伸びる素足に釘付けになっていた。露骨に顔をしかめる者や、ヒソヒソと隣同士で囁き合う者もいる。
なんなのよ……このコスプレ野郎!
エキストラにしてはあまりにも薄汚れ、生活感が滲み出すぎている。葵子は露出した足を隠すように居心地の悪さに身を縮め、膝の上に置いたリュックをギュッと抱え込んだ。
すると、通路を挟んだ斜め前の席から、ナルが身を乗り出してきた。
「お姉ちゃん、それなあに?」
ナルの目は、葵子が抱えている黒いリュックの、キラキラと光る金属のファスナーに向けられていた。
「ん? リュックのこと?」
「りゅっく……?」
「そう。背負うやつ。かわいいでしょ?」
葵子がファスナーにつけた猫のキャラクターのキーホルダーを指で揺らすと、ナルは目を輝かせた。
「ねこ!」
「そう。『ねこじろう』っていうアニメのキャラ」
「ねこじろう?」
今まで見たこともないような滑らかな生地と光沢に惹かれたのか、ナルが興味津々でリュックに手を伸ばそうとした。
その瞬間、母親がサッとナルの細い腕を引き戻した。
「ナル、やめなさい。関わっては駄目です」
ピシャリと言い放つ母親の目は、葵子を〝得体の知れない危険なもの〟として完全に拒絶していた。
ちょっと、マジで何なの……。
冷たい態度に葵子もカチンとしてしかめっ面になった。背もたれに深く寄りかかり、腕を組む。斜め前の席では、母親の背中に隠れるようにして、ナルがうらめしそうにリュックのキーホルダーをじっと見つめていた。
シュッシュッ、という規則的な排気音と、ガタン、ゴトンという車輪がレールを刻む単調で力強い揺れが、葵子の身体を揺さぶり続ける。窓の外では、見慣れたはずの景色が、濃い灰色の煙に巻かれて飛んでいく。
「ふぁあ……あ…………ん、」
不意に、目の前が霞んだ。昨日の疲れが残ってたせいだろうか。それともこの息苦しい熱気と、一定のリズムを刻む振動のせいだろうか。抗いようのない強烈な睡魔が、足元から這い上がってくるように葵子を包み込んだ。
「秋田駅まで……何分くらいだっけ……」
まぶたが鉛のように重い。周囲の不快な視線も、汗のベタつきも、さっきまでの苛立ちすらも、すべてがどうでもよくなるような、妙に心地よい感覚だった。
葵子はカクンと首を揺らし、深く、暗い眠りの底へと落ちていった。
こんなに何も考えず、気持ちよく眠りにつくなんて何年ぶりだろうと、ぼんやり、頭の片隅に──




