(十)千鶴
「なに、これ」
これまでにあなたが取り戻した無駄な時間をポイント換算しています。
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還元時間:80年分(1秒=1ポイント)
葵子が煤けたリュックの中の振動に気づいて、とっくに電源が切れていたはずのスマホを取り出すと、黒い画面の真ん中に白字でそう表示されていた。
今までのメッセージと少しだけ違う。〝取り戻した〟という言葉の意味が葵子には全く分からなかったが、画面に浮かんだ『一括還元』のボタンをタップした。
ポイントが一括還元されました。ご利用ありがとうございました。
(あなたが取り戻した無駄な時間 80年分 を還元)
メッセージと共に二十五億という途方もないポイント残高の数字が、あっさりと『0』に変わった。その直後、電源が切れたかのようにフッと真っ黒に暗転した。
それを無表情で見つめた後、葵子はトタン板の隙間から外の様子を伺った。
新しい命が産声を上げてから、何日かが過ぎていた。配給は途絶えがちになっていた。配給所に並んでも、手に入るのはサツマイモの蔓や、出所の知れない濁った粉だけ。衛生状態は最悪を極め、あちこちで赤痢やチフスの噂が囁かれるようになっていた。
「……雨、なかなか止まないね」
「そうね。風邪ひかないようにしましょう」
小さな空間に、トタン板に雨が叩きつけるけたたましい音が響いている。葵子は、ただの冷たい板に戻ったスマホを再びリュックの中へ投げ入れた。
空襲の爪痕が深く刻まれた焼け野原には、雨風を凌ぐだけのバラックがひしめき合うように建ち始めている。だが、見渡す限りの焦土に希望の兆しはなかった。重く立ち込めた雨雲と煤の匂いがバラックを包み込み、部屋の隅では、先日産まれたばかりの赤ん坊が、寒さと空腹から弱々しい泣き声を上げている。そのか細い声は、激しい雨音にかき消されそうだった。
「……よしよし、どうしたんだい?」
泣いている赤ん坊をあやす今朝子を見て、思わず葵子は呟いた。
「あの……さ、今朝子さん……」
「ん、……なんだい?」
何より深刻だったのは、今朝子の衰弱である。度重なる喪失の悲しみと、絶対的な栄養不足。極限状態の中で出産という大仕事を乗り越えた代償は大きく、彼女の頬は恐ろしいほどにこけ、かつての凛とした面影は失われつつあった。当然、母乳の出は悪かった。
このままでは、今朝子も、この小さな赤ん坊も死んでしまう。直感的にそう分かったのに、現代というぬるま湯で生きてきた葵子には、彼らを救うための知識も手段も何一つ思い浮かばなかった。ただ底知れない恐怖だけが胸を支配し、喉まで出かかった言葉は形をなさずに消えた。
「いや……うん、なんでもない」
「……そう」
今朝子は弱々しく微笑むだけで、それ以上は何も言わなかった。だが、今朝子も葵子のいつもと違う様子を見逃してはいなかった。この絶望的な状況を何とかしなければならないという気持ちは今朝子の胸の中にも確かにあった。東京を離れることが一番いいことは分かっていたが、身寄りのない葵子を置いていくわけにはいかないという強い思いが、彼女をこの地にとどまらせていた。自分が倒れるわけにはいかないと、今朝子は自らの限界を隠し、気力を振り絞って踏みとどまろうとしていた。
どうにかしなければという焦燥感に背中を押されるようにして、葵子は泥水のような濁った水で焦げた配給の芋をすりつぶし、今朝子の分の器を用意した。今の自分にできるのは、この粗末な食事を用意することくらいだった。だが、受け取った今朝子は、それを喉に流し込む気力すら失いかけていた。二人の限界は近かった。このまま泥だらけの焦土にしがみついていれば、せっかく繋いだこの小さな命すら、すぐに手のひらからこぼれ落ちてしまう。
死の影が、すぐそこまで迫っていた。
「……親戚のところへ、行こうと思うの」
ある夜、虚ろな目で天井の板の隙間を見つめていた今朝子が、ひび割れた唇を開いた。かつてまだ家があった頃、食卓の片隅で、いつか秋田の親戚を頼って疎開するのも手かもしれないと今朝子がぽつりと言い残していた言葉だった。あの時は遠い未来の選択肢のように思えたそれが、今や生き延びるための唯一の命綱となっていた。
そして、問題がひとつあった。
「私も、親戚らにお願いする。ただね、それでも……」
今朝子はそこで言葉を濁し、きゅっと唇を噛み締めて視線を落とした。自分と赤ん坊だけでも厄介者扱いされるのは目に見えているのに、どこの誰とも知れない葵子の分まで、親戚たちが面倒を見てくれるとは到底思えない。その残酷な現実を、今朝子はひどく言いにくそうに絞り出していた。
「うん、分かってる」
葵子は努めて穏やかに、短く答えた。今朝子がこれまでずっと疎開を言い出せなかった理由が、まさにそこにあったのだと葵子は気づいていた。自分の存在が、彼女たちの足を引っ張っていたのだ。けれど葵子は、その今朝子の胸の内をあえて言葉にして責めるようなことはせず、ただ静かにその事実を受け止めた。
「分かってる、って……」
「今朝子さん」
「……え?」
「行こうよ。秋田」
自分の実家も秋田だから、着いたらどうにかなる、と葵子は明るく言ってのけたが、おそらく、この時代の秋田に自分の実家など存在しないだろうとわかっていた。
「あ……ありがとう、葵子さん」
迷いはなかった。東京の土には、ナルが眠っている。我が子を置いてこの地を離れることが、母親である今朝子にとってどれほどの身を裂かれる思いか、葵子には痛いほど分かっていた。それでも、生きることを選んだのだ。
「まあ……なんとか、ナルっしょ!」
今朝子の腕の中の、小さな命を繋ぐために。
数日後の朝方。二人はわずかな荷物を背負い、バラックを後にした。焼け焦げたトタン板と拾い集めた木材を継ぎ接ぎしただけの、雨風を凌ぐのがやっとの惨めな小屋。それでも、新しい命が産声を上げた場所だった。
「……本当に、いいのかい?」
「うん。ダメだったら……ま、その時考えるよ」
今朝子の背中には、ミチルの遺髪を収めた小さな白木の箱。そして葵子の腕の中には、ボロ布に包まれた赤ん坊が抱かれている。何も知らず、今はすやすやと眠っている。
ナルの眠る丘の方角へ向かって、二人は長く手を合わせた。今朝子が祈りを終えて顔を上げると、葵子はすでに手を合わせるのをやめ、焦土の先を遠い目で見つめていた。視線に気づいた葵子は、ふっといつもの調子で微笑んだ。
「じゃあ、行こっか!」
焦土に吹き抜ける生ぬるい風が、小さな赤ん坊の髪を揺らした。
上野駅までの道のりは、まさに地獄絵図だった。かつて葵子が知っていた、ネオンが輝き、ビルがそびえ立つ大都会の面影はどこにもない。どこまで歩いても、黒く焼け焦げた平野が続いているだけだ。瓦礫の山、ひしゃげた鉄骨、そして、まだ回収されずに筵を被せられたままの遺体。ひどい悪臭が鼻を突き、歩くたびに灰が舞い上がって喉を焼く。
「大丈夫? 今朝子さん」
「……ええ、大丈夫」
今朝子の足取りは重かった。何度も立ち止まり、激しく咳き込む。葵子は赤ん坊を抱いたまま、空いた片方の手で今朝子の腰を支え、一歩一歩、泥を這うようにして前へと進んだ。
やがて視界の先に、巨大な上野駅のシルエットが浮かび上がった。だが、そこに広がっていた光景に、葵子は絶句した。駅前広場からコンコースに至るまで、足の踏み場もないほどの人、人、人。そのほとんどが苦悶の表情を浮かべ、家族の安否を尋ねる張り紙を握りしめる者、地面に這いつくばって泣き叫ぶ子供。誰もが血走った目で、少しでも安全な場所へ、少しでも食べ物のある場所へ逃れようと必死に足掻いていた。
「これは、酷い……」
「ええ……」
怒号と悲鳴が渦巻き、人間の持つあらゆる絶望と生存本能が、この一帯に煮詰まっていた。葵子は今朝子の腕を強く引き寄せた。あの大空襲の夜、ナルの手を離してしまった悔恨が胸を締め付ける。今度こそ絶対に、今朝子の手と、この腕に抱かれた小さな命だけは離さない。
人の波に呑まれれば、一瞬で引き離されてしまう。小さな命を胸に強く抱き込み、葵子は群衆の海へと足を踏み入れた。
「おい、押すな!」
「誰か、うちの子供を見ませんでしたか⁉」
「頼む、何でもいいから乗せてくれ‼」
四方八方から人がぶつかってくる。容赦のない肘打ちが脇腹に入り、足を踏みつけられる。駅員の声などとうにかき消され、列という概念すら存在しない。
「ち、ちょっと……押さないで!」
葵子は叫んだ。
「赤ちゃんがいるの! マジで、押さないでって!」
だが、その悲痛な声も、巨大な群衆のうねりの中では無力だった。誰もが自分が生き残ることで精一杯なのだ。他人の命を気遣う余裕など、この狂気の空間のどこにも残っていなかった。
その時、足元から地響きのような震動が伝わってきた。
──プォオオオオオオ……
黒煙を上げ、耳を劈くような力強い汽笛とともに、ホームに蒸気機関車が入線してきた。その真っ黒な鉄の塊の姿が見えた瞬間、群衆の焦燥が限界に達した。雪崩のように、人々が列車めがけて殺到する。
「あれに乗るよ!」
「ええ、行きましょう……!」
葵子は今朝子を庇うように壁となり、必死に足を前に出した。だが、ドアの前はすでに地獄の様相を呈していた。我先にと乗り込もうとする男たちが殴り合い、突き飛ばされた女子供がホームに倒れ込んでいる。ドアから乗ることを諦めた人々は、全開になっていた窓へと群がり、よじ登って車内へ侵入していく。葵子もそれを見て、強引に窓から乗るしかないと判断した。
「今朝子さん、ここから入って!」
葵子は開いた窓の一つに目をつけ、今朝子の背中を押した。
「葵子さん、あなたも……」
「いいから! 早く乗って!」
見ず知らずの乗客の肩を踏み台にし、周囲から浴びせられる罵声も無視して、葵子は狂気じみた力で今朝子を窓枠へと押し上げた。見知らぬ男性が今朝子の腕を引き上げ、どうにか彼女が車内へと転がり込む。
「はあ……はあ……!」
続いて葵子は、抱きかかえていた赤ん坊を残された力を振り絞って窓枠の今朝子へ渡した。人波の圧迫と喧騒に驚き、赤ん坊は火がついたように激しく泣き叫んでいる。
「葵子さん!」
「あ……赤ちゃん、しっかり抱いてて!」
割れた窓の向こう側、息をするのも苦しいほどのすし詰めの車内で、今朝子は波のように押し寄せる人波に潰されそうになりながらも、必死に両腕で赤ん坊を胸に抱きかかえていた。
「……早く! 早く、葵子さん!」
ガ、クンッ。
不意に、巨大な生き物が目覚めたような衝撃が黒い車体を走った。シューッというけたたましい蒸気の音が響き渡り、重い鉄の車輪がレールを削る激しい振動が、ホームの足元から伝わってくる。この黒い鉄の塊が、間もなく動き出す合図だった。
怒号を上げていた群衆の中に、これ以上は無理だと諦めの空気が広がり始める。乗れなかった人々が力なく肩を落とし、次々とホームから去っていく姿が見えた。
「お願い、お願い……葵子さん!」
葵子は窓枠に手をかけることなく、ゆっくりと一歩、ホームへ後ずさった。
「今朝子さん!」
出発の喧騒の中、葵子は笑っているような――
「あたし……ここに残る!」
――それでいて、ひどく悲しいような表情を浮かべ、ありったけの大きな声で今朝子へ向かって叫んだ。
身寄りもないこの時代で、どこの誰とも知れない自分までが転がり込めば、親戚たちは間違いなく受け入れを渋る。これ以上、今朝子と赤ん坊の未来への足枷になるわけにはいかなかった。
「え……何、言って……」
「あたしが行ったら、絶対迷惑になっちゃうから。それに……ナルを一人で置いていけない!」
「違っ、ナルは落ち着いたら必ず迎えに行くって言ったでしょ⁉ だから……」
今朝子は必死に説得しようとするが、葵子は首を横に振った。
「葵子、さん……、駄目よ、早く乗って!」
車内の人波に揉まれながら、今朝子は泣き叫ぶように身を乗り出そうとする。だが、その両腕は小さな命を守ることしかできなかった。
「今朝子さん、行って! あたしのことは心配しないで!」
葵子は精一杯の笑顔を作って、窓越しの今朝子へ力強く叫んだ。今朝子の絶望を少しでも逸らすように、葵子は言葉を繋いだ。
「それよりさ、その子の名前、もう決めたの?」
「この子の、名前……?」
シューッ、と足元から蒸気が噴き出し、鉄の塊が重い産声を上げる。車体がガタリと震え、動き出した。
「そう! あたし、まだ聞けてない!」
「葵子……さん」
今朝子は一瞬だけ、何かに打たれたような顔をした。葵子の瞳に宿る、この時代の人間のそれとは違う、すべてを見通すような不思議な光に押されたのだろう。
「……もう、決めてるの。そう、」
今朝子は、はっきりとした声で答えた。
「ワコ。平和の子で『和子』よ」
葵子の心臓が、大きく鳴った。
ワコ、
和子。
そして、今朝子たちがこれから向かう、秋田という土地。
「いい名前……。あたしのお婆ちゃんと、同じじゃん……」
ガシャン、と重い金属音が響き、汽車が加速を始める。シュッシュッという重厚な音とともに、ゆっくりと汽車が進み始めた。あたりのホームでは、窓越しの家族に涙ながらに手を振って別れを惜しむ者や、乗り切れなかった現実に肩を落とし、ただ呆然と立ち尽くす者の姿が入り混じっていた。
遠ざかる窓を追いかけて、葵子も汽車と共に歩み出した。
「葵子さん……本当に、本当に……」
窓の向こう、遠ざかっていく今朝子の顔が、やるせない悲哀に染まる。
「さよなら……今朝子さん」
葵子は最後の一瞬、消えゆく力で笑ってみせ、思わず遠ざかる今朝子へ向かって右手を真っ直ぐに伸ばした。
今朝子は、胸の中で泣き疲れてまどろみ始めた和子へ、ふと愛おしそうに微笑みかけた。それから顔を上げ、もう何も詮索しなかった。すがることも、引き止めることもできなかった。ただ、すべてを理解したように、優しく、慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、遠ざかる窓から深く頷いた。
「……本当に、ありがとう──」
次第に速度を上げる汽車に追いつけなくなり、葵子はホームに立ち尽くした。
伸ばしたままの右手が、空を切る。指先からこぼれ落ちていく確かな温もりに、言い知れぬ喪失感と、一つの未来への安堵が入り混じる。遠ざかる列車の黒い煙と轟音を全身に浴びながら、葵子は力なく右手を下ろした。その余韻の中、葵子の目線は小さくなっていく列車を真っ直ぐに見つめたままだった。
ふっと、下ろした右手の小指に、いつの間にか小さな指がしっかりと絡みついていた。
『ゆびきった!』
あの聞き慣れた、無邪気な声がした。
「ナ……ル……?」
同時に、葵子の胸にスッと腑に落ちるものがあった。
自分のスマホにインストールされていた、あの謎のアプリ。そして、この時代への唐突なタイムスリップ。真実は分からない。けれど、もしかするとそれは──未来を生きたかもしれないナルからの「願い」を込めた純粋なお節介だったのかもしれない。それは、葵子をここまで導くために仕掛けた、魔法のような──
スッと、力が抜けた瞬間――辺りの風景から〝鱗〟がボロボロと剥がれ落ちていくような奇妙な錯覚に襲われた。
ナ、ル……今朝、子……さ……
周囲の怒号が、汽笛の音が、不自然なほど遠ざかっていく。あの時、あの奇妙な汽車に迷い込んだ時と同じ、意識が白く遠のく感じがした。
『ピーン、ポーン』
気の抜けた電子音が鳴り、自動ドアが開く。ひんやりと冷房の効いた、白い光に満ちた店内。そこには、お気に入りのワンピースを着た葵子と、フリルいっぱいの可愛らしい洋服に身を包んだナルの姿があった。慣れた手つきでプラスチックのカゴを腕に下げ、ナルは当たり前のように店内を歩き出す。
「アオちゃん、チョコバー!」
「また? 昨日も食べたじゃん」
「きょうは二個!」
「一個。おにぎりも買いなよ」
「えー」
「えー、じゃない。シャケ? ツナマヨ?」
「うーん……」
「どっち?」
「ツナマヨ!」
「じゃ、お金払いに行くよ」
「あ、ナルがやるの!」
「はいはい。すいませんPayPayでお願いします」
空想の遊びじゃない。本物のカゴに、本物の食べ物を放り込んで、ナルは得意げに笑い、レジの店員に葵子のスマホをかざす。
窓の外には、空を突くようなビル群と、平和な街並みがどこまでも続いていた。
「ほら、行くよナル」
「うん!」
葵子がナルの小さな頭を優しく撫でた。ナルが葵子に顔を向けると、全てが光の中に溶けていった――
****
ゆっくりと、目が開いた。
……なーんか、楽しそうだったな、ナル。
目の前には、真っ直ぐに伸びる銀色のレールがあった。葵子は、硬いベンチの上に座り込んでいた。
見慣れた秋田の土崎駅のホーム。むせ返るような、真夏のけだるい熱気。けたたましく鳴り響く蝉時雨。肌を焼くような強烈な日差しに、滑らかなアスファルトの上には陽炎が揺れている。
法事を済ませ、一日だけの実家暮らしを終えて、これから東京行きの電車に乗って、いつもの日常に戻る。
「……あ、れ……」
なんだ、夢だったのか。
そのはずだった。
「はっはっは。あんた、なんだぁそれぇ?」
不意に笑い声がして顔を上げた。そこには、小さな男の子を連れた年配の女性が立っている。葵子は、女性の目線の先にある自分の姿をゆっくりと見下ろした。絣模様のモンペはボロボロに裂け、むき出しになった両手足は激しくすりむけている。あの業火の夜に地面を這いつくばった煤が肌を黒く汚し、指の爪の間には、ナルを埋葬した日の泥が固まったまま残されていた。
「なぁんだか、アタシの子供の頃みてえな恰好だなぁ」
手をつないだ男の子は、きょとんとした顔で葵子を見ながらも、やがて女性に引かれて葵子の前を通り過ぎ、そのまま駅舎の中へと入っていった。
夢じゃなかった。
横には煤けたリュックが転がっている。あの時代も、あの温もりも。すべては、確かにそこにあった。葵子は力が抜けたように、パタンと上半身だけを仰向けにして硬いベンチに寝そべった。そして、日差しを遮るように片腕をそっとおでこに乗せた。
「……てかさぁ、今思ったけど……」
小さく肩を震わせた。
「一括還元なんてしないで、数日分だけ戻って宝くじとか買って現代に戻ってくれば……超お金持ちになれたんじゃね?」
葵子は、あははと笑うようにして涙を浮かべた。皮肉を込めた愚痴が口を突いて出て、そんな自分が今は心底愛おしかった。
涙を拭った手のひらには、最後に赤ん坊を託した時の、柔らかい温もりが残っていた。
『平和の和で、和子って言うんだよ』
法事で聞いたその言葉の本当の意味を、葵子は静かに噛み締める。
ナルがどうしても行きたかったコンビニ。着たかった洋服。生きたかった未来。
そして、今朝子が命懸けで繋いでくれた、強くて尊い命の系譜。その血縁が、命が、絶望を越えた八十年の時を経て、今の自分に確かに流れている。
「……ありがとう、ナル」
葵子は深く息を吸い込み、ベンチから立ち上がった。
「……あれ、スマホの音?」
リュックの中でバッテリー切れだったはずのスマホが震えている。
『お母さん』
取り出したスマホの画面を見て、葵子は着信ボタンをタップした。
「……あ、お母さん。……うん、今駅に着いた。朝ごはん、ありがと。……うん。今から新幹線乗って、東京に帰るよ。……え? ……うん、大丈夫。なんか、みんなに会えて良かった」
****
「もう駅? 気つけで帰れな。……ふふ、みんなに会えて良がったって? ……んだ、うん、うん。……んじゃまたね、葵子」
通話を終えた母親は、小さく息をついてスマホを居間のテーブルに置いた。朝から仕事に出ていたが、なぜか急に葵子のことが気になったのか、それともただ寂しく感じられたのか、昼に家へ戻ってきていた。
テーブルの上には、今朝自分が残しておいた朝食の書置きがあった。そこには葵子の字で『ごちそうさま!』と追記されている。母親はその文字を優しく見つめ、思わず頬を緩めた。
ふと、和室にある畳の上に一冊の古いアルバムが置かれたままになっていることに気がついた。昨日の法事の席へ持っていくために、押し入れの奥から引っ張り出してきたものだった。母親は畳の上におもむろに正座すると、表紙の布はすっかり色褪せ、角が擦り切れているそれを何気なく手に取り、パラパラとページをめくった。昭和、平成。セピア色から鮮やかなカラーへと移り変わる家族の記録。その一番最初、煤けたような古い紙のページで、彼女の指が止まった。
モノクロームの、小さな写真。凛とした表情の女性の横には、ひとりの少女が映っていた。
家の外では、けたたましい蝉時雨が降り注いでいる。八十年前の焦土から、今の平和なこの街まで。途切れることなく紡がれてきた命の繋がりが、今もこの家の中に、そして東京へ向かう葵子の体の中に、静かに、けれど確かに脈打っていた。
あとがき
スピリチュアル的に言えば、私は当時の誰かの生まれ変わりな気がします。
子供の頃から不思議と太平洋戦争のことに興味があり、戦争を体験した祖父母から当時の話をよく聞いていました。食糧難の時代に白米にジャガイモを混ぜて食べていたと聞いて真似をして食べてみたり、薙刀の訓練をしている祖母の古い写真を見ながら、その構えを詳しく教えてもらったりしたものです。祖父たちに威張り散らしていた上官を、終戦が分かった瞬間に皆でプールに投げ込んだという話を聞いて笑ったこともありました。
中でも特に記憶に刻まれているのが、本作にも登場した地元・秋田県の『土崎大空襲』の話です。終戦前夜に発生したこの空襲の後、当時まだ少女だった祖母は救護のために現場へ向かいました。そこで目にした凄惨な光景は、子供心に強烈な記憶として残ったそうです。「あと一日早く終戦していれば、皆あんな目に遭わずに済んだのに!」と、憤るような、悲しむような顔で語る祖母の表情が、今でも忘れられません。
いつか、私が子供の頃に受け取ったこの感情を誰かに伝えられたらと思っていましたが、今回、小説という形でその願いを叶えることができました。
「戦争のない世界を」と、あまり軽々しく言うつもりはありません。それでも、令和の時代、そしてさらにその次の世代へ「確かにこんな時代があったのだ」という思いを込めて、この作品を仕上げることが出来ました。
最後までこの物語にお付き合いくださった読者の皆様に、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。(味論)




