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第9話:三分間の魔法と、涙のカップラーメン

グレーのスウェット(上下セット・3L)を真面目に着こなした元・竜騎士団長が、フローリングの上に正座し、両手で大切そうにカロリーメイトを齧っている。

うん。何度見てもシュールだ。


「レイさん、それはあくまで非常食だから。ちゃんとお昼ご飯にしよう。……とはいえ、私の財布もそろそろ限界なんだけど」


スマホの電子マネー残高を確認する。

怪我の治療セットとスウェット代が地味に響き、残高はいよいよ五千円を切っていた。来月のお小遣い日まで、あと二週間もあるのに。

ここは節約しつつ、温かくてカロリーの高いものを食べさせてあげたい。


私はネットスーパーのアプリを開き、『インスタント食品』のカテゴリをタップした。

選んだのは、定番の醤油味カップラーメンと、ツナマヨのおにぎり。もちろん、外で拗ねているハクの分の特売鶏肉も忘れない。


数分後。インターホンの音と共に届いた商品を回収し、私は電気ケトルでお湯を沸かした。

コポコポと沸騰する音が、静かな部屋に響く。


「栞奈様。あの、その不思議な器に入ったものは……?」


「ん、カップラーメン。レイさんの国に麺類ってある?」


「はい。小麦を練って細く伸ばしたものは、王宮の晩餐でも出ることがあります。しかし、このような紙の器に入っているのは見たことが……」


「まあ、見てて」


私はカップラーメンの薄いフィルムを剥がし、フタを半分まで開けた。

中から、乾燥した麺と粉末スープ、コロコロとした謎肉の香りがふわりと漂う。レイさんが「おお……」と目を丸くした。


熱湯を内側の線まで注ぎ、フタをしてシールで止める。

そして、スマホのタイマーを『三分』にセットした。


「ここから三分間待つ。それが美味しく食べるための絶対のルールだから」


「さ、三分……! この芳醇な香りを前にして、ただ待つという修行ですか。……分かりました。騎士の矜持にかけて、この場から一歩も動きません」


レイさんは姿勢を正し、カップラーメンを敵将でも見据えるかのような鋭い目つきで睨みつけた。

いや、大げさすぎでしょ。


ピピピッ、ピピピッ。


三分後、アラームが鳴った瞬間、レイさんの肩がビクッと跳ねた。


「よし、完成! 火傷しないように気をつけてね。おにぎりも一緒に食べていいよ」


私がフタを全部剥がすと、閉じ込められていた醤油と鶏ガラの濃厚な湯気が、一気に部屋いっぱいに広がった。

現代日本の生み出した、究極のジャンクフードの香り。

レイさんはゴクリと喉を鳴らし、私が渡した割り箸を不器用な手つきで割った。見よう見まねで麺をすくい上げ、恐る恐る口に運ぶ。


ズルッ、ズルズルッ。


「…………ッ!!?」


レイさんの動きが、ピタリと止まった。

群青色の瞳が、これ以上ないほど見開かれている。


「熱かった? 大丈夫?」


「あ、ぁ……っ。な、なんという……」


レイさんは震える手で箸を持ったまま、ワナワナと唇を震わせた。


「細い麺に、複雑な旨味が絡みついている……。肉や野菜の出汁、それに海を思わせる深い塩気。このスープは、一体どれほどの時間をかけて煮込まれたものなのですか!? 幾日もかけて大鍋で煮出したとしか思えません。しかも、この謎の肉の塊……噛むほどに旨味が弾ける……ッ!」


ただのお湯を入れて三分待っただけです、とは言えなかった。

レイさんは感動のあまり、ツナマヨおにぎりにも手を出した。海苔のパリッとした食感と、マヨネーズのコクに完全にノックアウトされたらしく、ついにその美しい瞳からボロボロと大粒の涙をこぼし始めたのだ。


「うっ……うぅっ……」


「えっ、ちょ、泣くほど!?」


「申し訳ありません……あまりにも、温かくて……」


レイさんは腕で乱暴に涙を拭いながら、それでも箸を止めることなく麺をすすり続けた。

スープを飲み干すその横顔には、国を追われ、命を狙われ、泥水にまみれて森を彷徨っていた時の凄絶な孤独が、まだうっすらと影を落としていた。


『不要な女』と捨てられた私と、『裏切り者』と貶められた竜騎士。

私たちは、元の居場所から弾き出されたはみ出し者同士だ。だからこそ、この温かいスープの味が、今の彼の心にどれだけ沁みているか、痛いほど分かった。


「……ゆっくり食べていいよ。誰も取らないから」


私が小さな声で言うと、レイさんは「はい」と短く答え、また大粒の涙をカップの中に落とした。


「ぷはぁーっ! 食った食った。ごちそうさまでした!」


見事にスープの一滴まで完食したレイさんは、満足げに息を吐いた。怪我の痛みも引いているのか、顔色もすっかり良くなっている。

外のハクにも鶏肉を差し入れ、無事に昼食の時間は終了した。


さて。ここからが現実的な問題だ。


私は部屋の隅に座る、身長180センチ超えのイケメン(スウェット姿)を見やった。

私の部屋は十畳。ベッドと机と本棚を置いたら、残りのスペースはそこまで広くない。そこに大人の男の人が常にいるのは、いくらなんでも落ち着かない。着替えだってしづらいし。


「レイさん。怪我が治るまではここにいていいって言ったけど、寝る場所、どうしようか」


「私は騎士です。栞奈様をお守りするため、玄関の扉の前で立ったまま休むことができます!」


「いや、休めてないじゃんそれ」


即答するレイさんにツッコミを入れつつ、私は窓の方を見た。

私の部屋には、ベランダに出るための大きなガラス窓がある。結界のバリアは、そのベランダ(幅一メートル、長さ四メートルくらい)のさらに外側、空中に張られているのだ。つまり、ベランダは『結界の内側』であり、安全地帯。


「……テント、買えるかな」


スマホでネットスーパーの『アウトドア・レジャー』の項目を開く。

あった。一〜二人用のポップアップテント(2,980円)と、厚手のアルミマット(980円)。寝袋は高いから、とりあえず私の予備の毛布を貸せばいい。

残高がほぼゼロになるけれど、これからの同居(?)生活のプライバシーを守るための必要経費だ。


「よし、レイさんの部屋、作るよ!」


数十分後。

私の部屋のベランダには、芝生色の小さなドーム型テントが設営されていた。


「ここが、私の……城……?」


レイさんは、ベランダに置かれたテントを前に、なぜか感極まったような顔をしている。


「城っていうか、仮設住宅? 夜は冷えるかもしれないけど、結界の中だから魔獣は絶対入ってこないし、風も防げると思う。トイレの時以外は、基本そこで過ごしてもらえると助かるんだけど」


「栞奈様……。命を救い、神の食事を与え、さらには私個人の領地テントまで授けてくださるとは。この御恩、生涯忘れません……!」


「領地って……」


大げさな表現に苦笑いしながらも、レイさんがそっとテントの中に入り、ふかふかのアルミマットの上で「おお……」と歓声を上げているのを見ると、少しだけ心が温かくなった。


結界の外側には、銀狼のハク。

結界の内側のベランダには、竜騎士のレイさん。

そして、部屋の中には私。


「なんか、変なパーティー組んじゃったな」


異世界の最凶の森にぽつんと浮かぶ、日本の女子高生の部屋。

私の孤独だった極楽引きこもりライフは、もうすっかり、賑やかで少しだけ騒がしい毎日に変わり始めていた。

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