第6話:異世界に救急車はないけれど、ネットスーパーならある
「ハク、待って! 敵じゃない……と思う!」
ガチャリとドアを開けた瞬間、ハクが低い唸り声を上げて私の前に立ちはだかった。
いくらご飯をくれる飼い主(仮)の頼みでも、得体の知れない人間を近づけるわけにはいかない――そんな強い意思が、ハクの琥珀色の瞳からひしひしと伝わってくる。
「お願い。ちょっと見るだけ。あのままだと、本当に死んじゃう」
ハクの首元のふかふかな毛に顔を埋めるようにして頼み込むと、ハクは「フシュー……」と不満そうに鼻を鳴らし、しぶしぶといった様子で横に退いてくれた。
裸足のまま、恐る恐るマイルームの結界の境界線へと近づく。
部屋の外壁を覆うシャボン玉のような光の膜。そのわずか数十センチ先で、男の人は倒れていた。
間近で見ると、さらに惨状が酷いことがわかる。黒い髪は固まった血でバリバリだし、引き裂かれた鎧の隙間から覗く肌には、骨が見えそうなほど深い爪痕が刻まれていた。どくどくと流れる鮮血が、地面の乾いた落ち葉をどす黒く染めていく。
(うわ、待って。これ、私にどうにかできるレベルじゃなくない……!?)
一瞬、頭が真っ白になった。
私はただの女子高生だ。保健室で擦り傷に絆創膏を貼ったことはあっても、本格的な救命処置なんて習っていない。119番を押したって、異世界のこの森に救急車が来てくれるはずもなかった。
「……いや、落ち着け。スマホ。スマホがあるじゃん!」
震える手でスマホの画面をタップし、ネットスーパーのアプリを開く。
カテゴリーから『医薬品・衛生用品』を選択。いつもはお母さんがコンドロイチンとかサプリを買うのに使っていたページだ。
「えっと、消毒液、包帯、ガーゼ……。あと、傷口を洗うための精製水。それから、ええい、よく分かんないから『キズパワーパッド』の特大サイズも全部カートに入れる!」
さらに、失血死しそうな時の水分補給にと『ポカリスエット』の2リットルペットボトルと、片手で栄養が摂れるゼリー飲料も追加した。
合計金額、5,320円。今月のお小遣いがほぼ吹き飛ぶ計算だけど、背に腹は代えられない。
購入確定ボタンを連打する。
「頼むから早く来て……ッ!」
祈るような気持ちで待つこと数分。静かな森に、これ以上ないほど不釣り合いな『ピンポーン♪』という電子音が鳴り響いた。
私は飛びつくようにしてレジ袋を回収し、中身を床にぶちまけた。
「ハク! その人のこと、結界の中に引っ張り込める!?」
ハクに叫ぶと、彼はフンと鼻を鳴らし、男の人の襟元を大きな口で器用に咥えた。そして、ズズズ……と巨体を引きずるようにして、結界の内側――つまり、私のマイルームの敷地内へと運び込んでくれた。
結界を越えた瞬間、男の人の身体を包んでいた不穏な森の冷気が、ふっと消えて部屋のエアコンの暖かい空気に切り替わる。
「よし、まずは洗浄……!」
私は2リットルの精製水のキャップを捻り、男の人の傷口に容赦なくドボドボと注いだ。泥と血が混ざった液体が、私の部屋のドアマットを汚していくけれど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「痛っ……つ、あ……」
冷たい水で意識が刺激されたのか、男の人が掠れた声を上げてピクリと身体を震わせた。長い睫毛の隙間から、夜空を溶かしたような深い群青色の瞳が、うっすらと私を捉える。
「あ、意識ある? 喋らなくていいから、これ飲んで!」
私はポカリスエットのボトルを彼の唇に押し当てた。
男の人は、それが何かも分からないはずなのに、本能的に生きようとしているのか、ゴク、ゴクと必死に喉を鳴らして青い液体を飲み下していく。
水分が行き渡ったのを見計らい、私は大急ぎで『キズパワーパッド』の封を切った。
現代日本の医療技術の結晶。体液を吸収して傷を早く治すという、一般家庭における最強のチートアイテムだ。それを、彼の胸や腕にある大きな傷口へ、隙間なく次々と貼り付けていく。
「な……んだ、この、不思議な、布は……。痛みが、引いて……?」
男の人が、信じられないものを見るような目で自分の身体と私を見交互に見た。
当然だろう。異世界の治癒魔法がどんなものかは知らないけれど、日本の高級絆創膏の密閉力と湿潤療法の効果は抜群だ。貼った瞬間から、あんなに溢れていた出血がピタセリと止まり、傷口のズキズキとした痛みが和らいでいくのが素人目にも分かった。
「ふぅ……。とりあえず、これで死ぬことはないかな」
一仕事終えて、私はその場にへたり込んだ。
手のひらは泥だらけだし、パジャマの袖には彼の血がついてしまっている。
男の人は、まだ荒い呼吸を繰り返しながらも、じっと私を見つめていた。
近くで見ると、泥汚れの隙間から覗く顔立ちは、気味が悪いほど整っている。少女漫画のヒーローをさらに男らしくしたような、シャープで美しい輪郭。衣服の隙間から見える体躯も、あのひょろひょろの王太子とは比べ物にならないほど引き締まっていた。
「……お前、は……。いや、貴女は、何者だ……? この『還らずの森』の奥深くに、このような聖域を構え、見たこともない奇跡の薬を使うなど……」
男の人の声には、困惑と、それ以上の深い警戒が混じっていた。
「私? 私はただの引きこもり女子高生だけど」
「じょし……こうせい……? 聖女、ではなく……?」
「違う違う。私は国から『役立たず』って言われて捨てられた、ただの余り物。……あ、お腹空いてる? カロリーメイトあるけど、食べる?」
私がレジ袋から黄色い箱を取り出すと、男の人はさらに混乱したように目を白黒させた。
その様子を横で見ていたハクが、「お前ばっかりずるい」と言わんばかりに、私の背中を大きな頭でグイグイと押してくる。
理不尽に追放された最凶の森。
一人きりで静かに過ごすはずだった私のマイルームは、伝説の神獣に続き、謎の行き倒れイケメンが転がり込んできたことで、どうやら本格的に賑やかになってしまいそうだった。




