第5話:銀色のハクと、森からの招かれざる客
翌朝、目が覚めると部屋の中は驚くほど静かだった。
窓の外からは相変わらず、時折キィキィと不気味な鳥の鳴き声が聞こえるけれど、室内に響くのはエアコンの微かな送風音だけ。
ベッドの中でスマホの画面をつけると、時刻は午前八時。通知欄にはニュースアプリの速報が並んでいる。もちろん、全部日本のニュースだ。「都内で真夏日予想」とか「新作アニメのキャスト発表」とか、そんな文字を眺めていると、自分が今どこにいるのか本気で分からなくなってくる。
「……あ、そうだ。外にワンコがいたんだっけ」
思い出した。ワンコというか、伝説の神獣。
私はパジャマのままベッドから抜け出し、足音を忍ばせて玄関(?)のドアへと向かった。ドアスコープに片目を押し当てて、外を覗き込む。
いた。
朝の木漏れ日を浴びて、銀色の毛並みをきらきらと輝かせた巨体が、相変わらずドアマットの上で綺麗に丸くなっている。私が起きた気配を察したのか、ピクンと大きな耳が跳ね上がり、それからゆっくりとこちらを振り返った。
ドア越しなのに、ガラスのような琥珀色の瞳とバッチリ視線が合う。
「おはよ。……起きてるなら、朝ごはんにしよっか」
ガチャリと鍵を開け、チェーンをかけたまま少しだけドアを開く。
すると、待ってましたと言わんばかりに、銀狼の大きな尻尾が左右にビターンビターンと激しく振られた。床の落ち葉が風圧で舞っている。昨日の今日で、すっかり懐きすぎじゃない?
「あ、そうだ。いつまでも『銀狼』って呼ぶのも変だし、名前つけなきゃ。……銀色だから、ハク。うん、ハクでいいよね?」
安易すぎるネーミングセンスだけど、本人は「ワフッ!」と嬉しそうに短く吠えたので採用決定だ。
ハクの朝ごはんは、昨日のうちにネットスーパーのカートに入れておいた『国産牛バラ切り落とし(大容量パック)』。ついでに私用のイチゴジャムとパン、それから淹れたてのコーヒーが飲みたくてポーションタイプの紙パックも注文した。
ポチってから十分後、インターホンが鳴る。届いたレジ袋から肉のパックを取り出すと、ハクはドアの隙間から鼻先を必死に突き出して、ふんふんと鼻を鳴らした。
「はい、ハク。今日の朝ごはんだよ。お皿はないから、パックのままでごめんね」
隙間から肉を差し出す。ハクは驚くほどの器用さで、プラスチックの容器を傷つけることなく、中身の牛肉だけを掃除機みたいに吸い込んでいった。
もきゅもきゅ、と幸せそうに顎を動かし、ごっくんと飲み込む。
その瞬間、私の脳内に直撃する『んまーーーーい!!』という大歓声のテレパシー。やっぱり日本の牛肉は、異世界の神獣の舌をも簡単に狂わせるらしい。
ハクが満足そうに前足で顔を洗っているのを確認して、私はドアを閉めた。
トースターはないからパンは生のままだ。それでも、たっぷりとイチゴジャムを塗って、冷たいミルクコーヒーと一緒に口に運ぶ。
実家の自分の部屋。大好きな味。
膝を抱えてパンをかじりながら、私は小さく息を吐いた。
「……これから、どうしようかな」
この部屋にいれば、死ぬことはない。食べ物も困らないし、ハクという最強のガードマンまでついてくれた。
だけど、一生この十畳の部屋だけで過ごすのだろうか。スマホの向こうには日本があるけれど、私はそこには帰れない。画面の向こうの友達にラインを送っても、送信エラーの矢印が出るだけ。私は、繋がっているけれど、世界から孤立している。
そんなことを考え始めると、胸の奥が急に冷たくなっていくのが分かった。
考えないようにしよう。今は、生き延びることだけを考えなきゃ。
――その時だった。
『ウゥゥゥゥ…………ッ』
突然、外から低く、地響きのような唸り声が聞こえてきた。
ハクの声だ。さっきまでの甘えたワンコのような雰囲気は一瞬で消え去り、そこにあるのは、明確な敵意と警戒。
「ハク……?」
私はパンを持ったまま、慌てて窓のカーテンを開けた。
窓のすぐ外では、ハクが四肢を踏ん張り、森の奥の暗闇を睨みつけている。銀色の毛が逆立ち、牙が剥き出しになっていた。
森の奥。鬱蒼と生い茂る木々の隙間から、ガサガサと何かが近づいてくる音がする。
新しい魔獣? それとも、私を捨てた国の追手だろうか。
心臓がドクンドクンと嫌な音を立てる。私は窓ガラスにペタリと手を張り付け、必死に暗闇の奥を見つめた。
木々を掻き分けて現れたのは、巨大な魔獣ではなかった。
「……ひと?」
それは、ボロボロの甲冑を身に纏った、一人の男だった。
黒い髪は泥と血で汚れ、顔の半分を覆うように深い傷が刻まれている。身につけている鎧には、何かに激しく引き裂かれたような爪痕があり、そこから赤黒い血が絶え間なく溢れていた。
男は、右手に折れた大剣を握りしめ、虚ろな目でふらふらと歩いている。
『グルルル……ッ』
ハクが容赦なく威嚇の声を上げるが、男はそれに気づいているのかいないのか、ただ力なく足を前に進め――。
そして、私の部屋のバリアのわずか数メートル手前で、糸が切れた人形のように、ドサリと地面に倒れ込んだ。
手放された大剣が、カランと虚しい音を立てて転がる。
男はピクリとも動かなくなった。彼が倒れた地面の落ち葉が、またたく間に赤い血で染まっていく。
「嘘、でしょ……」
私は息を呑んだ。
関わりたくない。巻き込まれたくない。私はこの部屋で、一人で静かに暮らしたいのだ。あの国の人間に裏切られた私には、この異世界の人間を助ける義理なんてどこにもない。
放っておけば、すぐに森の魔獣が嗅ぎつけて、彼を処理してくれるだろう。
(そうだよ。見なかったことにすればいい)
自分にそう言い聞かせて、カーテンを閉めようとした。
けれど、男の指先が、微かに、本当に微かにぴくりと動いた。生への執着か、それとも誰かを呼ぶ仕草だったのか。
その瞬間、私の頭の中に、あの王太子の冷酷な声が蘇った。
『我が国に、穀潰しを養う余裕はない。連れて行け』
理不尽に切り捨てられ、暗闇の森に放り出されたときの、あの絶望。世界のすべてに拒絶されたような、あの圧倒的な恐怖。
「……っ、あーもう! クソ王子と同レベルになんて、なってたまるか……っ!」
私はスマホを引っ掴むと、靴を履くのも忘れて、裸足のまま玄関のドアへと走り出していた。




