第4話:伝説の神獣、ネットスーパーの特売肉で忠犬になる
窓ガラス越しに見つめ合うこと、約五分。
鬱蒼とした異世界の森を背景に、伝説の神獣と、引きこもり女子高生による、前代未聞の根比べが続いていた。
『クゥーン……』
銀狼は、さっきまでの威厳に満ちた姿が嘘のように、ぺしゃんと耳を伏せている。ガラスに押し付けられた黒い鼻先からは、ツゥーッと一筋のよだれが垂れていた。
(……いやいやいや、騙されないぞ、橘栞奈)
私は心の中で自分にビンタを放つ。
相手は森の生態系の頂点にいそうなバケモノだ。今はポテチのコンソメ粉末でトリップしているだけかもしれないけれど、機嫌を損ねたら私の首なんて一噛みで飛んでいくに違いない。
無視だ、無視。どうせこの絶対防御バリアは破れないんだから、飽きるまで放っておけばいい。
そう思ってベッドに戻ろうと背を向けた、その瞬間。
『キュゥゥゥ……ッ、ヒンッ……』
背中越しに聞こえてきたのは、雨の日に段ボール箱に捨てられた子犬のような、あまりにも可哀想な鳴き声だった。
「…………っあー、もう!」
私は頭をガシガシと掻き毟り、ベッドに放り投げていたスマホを再び手に取った。
いくら引きこもりを誓ったとはいえ、一応これでも小動物を愛でる心くらいは持ち合わせているのだ。あんな声を出されて、平気で寝転がれるほど神経は図太くない。
「でも、犬にネギとかチョコはダメなんだよね。異世界の狼も同じかな……」
お母さんのアカウントが紐づいたネットスーパーのアプリを開き、『精肉』のカテゴリをスクロールする。
異世界の神獣に与える初めての供物。本来なら神殿の豪奢な祭壇で最高級の生贄を捧げるべきなのだろうが、私の財布事情(お小遣いの残高)はそこまで豊かではない。
選んだのは、特売の『アメリカ産牛肩ロース(ステーキ用)ブロック』と、添加物の少なそうな『国産鶏の胸肉(水煮)』。ついでに自分用のメロンパンもカートに入れた。
購入確定ボタンを押し、数分後。
『ピンポーン♪』
静かな部屋に鳴り響いたインターホンの音。私は素早くドアを開け、外の土臭い空気が入り込む前にレジ袋を回収した。
「……よし」
買ってきたブロック肉のラップを剥がし、プラスチックのトレイごと手に持って玄関の前に立つ。
ドアスコープから覗くと、銀狼はバリアの外ではなく、ちゃんと私の部屋のドアマットの前で、お座りをして待っていた。どうやらバリアは「私が許可した相手」なら通れる仕様らしい。
賢い。めちゃくちゃ賢いじゃないか。
私はドアチェーンをかけたまま、ドアをほんの数センチだけ開けた。
「ほら、お食べ」
隙間からトレイを差し出すと、銀狼の耳がピクッと立ち上がった。
次の瞬間、バクッ!! と凄まじい勢いで肉の塊が消滅した。
「ひっ……!」
思わずビクッと肩が跳ねたが、銀狼は私の手には一切牙を立てず、ただ器用に肉だけをかっ攫っていった。
そして、咀嚼すること数回。
ゴクリ、と喉を鳴らして肉を飲み込んだ銀狼の瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちたのだ。
『ワゥゥゥン……ッ!!(超美味い……ッ!!)』
言葉は通じないはずなのに、謎のテレパシー的な感情が私の脳内に直接ドバーッと流れ込んでくる。
野生の生肉しか食べたことのなかった彼にとって、血抜きされ、熟成され、完璧な温度で管理された現代日本の精肉は、まさに神々の食すアムリタに等しかったらしい。
あっという間に鶏胸肉も平らげた銀狼は、プラスチックのトレイをピカピカになるまで舐め上げると、今度はドアの隙間から鼻先を突っ込み、私の手の甲をペロリと舐めた。
ザラリとした、温かい舌の感触。
『ガウッ、ワフッ!(我、汝と契約せん! 生涯の忠誠を誓うゆえ、明日もあの肉を所望する!)』
「……えっと。つまり、毎日お肉をあげれば、私のボディーガードになってくれるってこと?」
『ワォォォン!(然り!!)』
力強く吠えた銀狼は、そのままクルリと背を向けると、私の部屋のドアマットの上にどっこいしょと丸くなった。
完全に「ここは俺の縄張りだ」と言わんばかりの態度である。
事実、その巨体が玄関前に鎮座した途端、森の奥でガサゴソと蠢いていた他の魔獣たちの気配が、蜘蛛の子を散らすようにスッと消え去っていった。
「……マジか」
私はポカンと口を開けたまま、ゆっくりとドアを閉め、鍵をかけた。
特売の牛肉(680円)で、異世界最強クラスの神獣をテイムしてしまったらしい。
「まあ……いっか。悪い子じゃなさそうだし」
一人きりの、静かすぎる部屋。
電気も通っていて、ネットも繋がる。快適で、安全で、誰の顔色を窺う必要もない完璧な城。
でも、ほんの少しだけ。心の片隅で、誰の息遣いも聞こえないことに、チクリとした寂しさを感じていた自分に気がついた。
強がってはみても、私は昨日まで普通の高校生だったのだ。家族も友達もいない異世界に一人きりで放り出されて、完全に平気なわけがない。
そっと壁に寄りかかり、ドアの向こう側に意識を向ける。
そこには今、私のために(正確には私のお肉のために)見張りをしてくれている、温かくてモフモフな存在がいる。
「明日からは、もうちょっと高いお肉買ってあげようかな」
買ってきたメロンパンの袋を開けながら、私は自然とこぼれた笑みを噛み締めた。
理不尽に捨てられたこの最凶の森で。私の極楽引きこもりライフは、思いがけず、最強の番犬の加入によって少しだけ賑やかに、そして盤石なものになりつつあった。




